蜘蛛の巣 -1-
ジェイコブが証拠品を奪ったのは、是が非でも自分がティアーズの犯人と戦いたかったからではないのだろうか。
そして、何も話せなくなってしまった恋人の名誉を守りたかったのではないか。
未来がそう考えるようになったのは12月4日午後、取り返した証拠品をクワンティコへ運び、一通り改めてからである。
証拠品袋に収まっていたのは、それぞれ別の人物の名前が入った4枚のポイントカードだった。カードはヴァージニア州の個人商店や小規模なチェーン店で作られている団体である「プライベート・マーケット・オブ・ヴァージニア(PMOV)」のものだ。ヴァージニア州の住民であれば持っていない者の方が少ない類で、CVCの隊員もほぼ全員が持ったことがある。
仕組みは日本に数多くあるポイントカードと同じく、このカードの加盟団体に加わっている店で買い物をすると、1ドルごとに2パーセントのポイントがつく。鮮やかなエメラルドグリーンに太字のブロック体で白いロゴが描かれたカードはプラスチックでできていて、裏側に顔写真と署名が入っていた。
署名はそれぞれ癖のある字体でスコット・ヤン、ケビン・ヤマダ、フィリップ・チャオ、ブライアン・リーの名前が、それぞれ記されている。
全てブラックヘア事件被害者のものであり、彼らが生前所持していたものだった。
ブラックヘアの被害者は皆全裸で死体を遺棄されていたため、これまで所持品は一切発見されていなかったはずだ。
犯人によって処分されている可能性が高いと思われていた被害者の私物を、エミリオは一体どうやって手に入れたのか。本人亡き今、その入手経路は全く不明のままとなってしまった。
彼はジェイコブの情報提供者だった。
恐らくあの黒人の青年は、ブラックヘアの犯人と接触した際にあのカードを目にし、被害者のものだと気づいてこっそりと手に入れたのだ。それを恋人に渡す前に運悪く犯人に勘づかれ、始末されたに違いない。たまたま入手した証拠品が皮肉にも愛する人の立場を危うくし、破滅させる手前にまで追いやる羽目になるとは、考えもしなかった筈だ。
多分FBIで唯一ジェイコブとエミリオの関係を把握している未来だが、そのことをCVCのミーティングの場で言うべきかどうかを、決めあぐねていた。
「驚いたな。この4枚のカード全部から、エミリオの指紋が検出されたよ」
特殊捜査チーム責任者のウォーリーが、ビニール袋に入れられたままのカードを他の出席者に回す前に指先でつまみ上げ、しげしげと眺めていた。
「エミリオの指紋だけしか見つからなかったの?」
ミーティング室のテーブルで正面に座っている未来が問うと、彼は潜在指紋部が寄越してきた報告書にちらりと目をやった。
「部分的に見つかってる指紋はあったけど、殆ど消えていて鑑定できるほどの跡が残ってなかったらしい」
「残念。決定的な証拠を掴んだと思ったのに」
ふっと息を漏らして椅子の背もたれに体重を乗せた未来は、言ってから恐ろしい想像に襲われた。
もしエミリオがブラックヘアの犯人だったなら、今現在行方不明の杉田は一体どこに消えたと言うのか。あの黒人青年が住んでいた家には誰も監禁などされていなかったし、快楽殺人に溺れる人物が好む類の過激なポルノを匂わせるものは何もなかったのだ。
杉田がとっくにもうこの世からいなくなっているのではないか。
そう考えたくはなかったが、彼女は血が凍りついたかと思うほど急激に身体中の温度が低くなった気がしていた。
「……まさか、エミリオがブラックヘアの犯人なわけないよね?」
未来が苦しげに胸を押さえ、一呼吸置いてから掠れた声で言った。
「少なくとも、彼のDNAプロファイルはブラックヘア事件の犯人のとは一致していない」
ウォーリーが首を横に振って、カードが入った4つのビニール袋を順に隣のジャクソンへと手渡していく。
このCVC緊急ミーティングは、未来によって新たに提出された証拠品が調べられたのち、ただちにクワンティコの本部で行われていた。時間は午後7時と若干遅かったが、戦闘チームの全員と特殊捜査チームのウォーリー、心理分析チームのポールらの主要なメンバーが雁首を揃えている。
世間を賑わしている凶悪事件の被害者宅から別の事件の被害者の所持品が発見されるというのは、滅多にないケースだ。このミーティングはこれからの捜査方針を決める重要なものでもあるため、各チームの関心も高かったと言える。
他のメンバーが戸惑いを隠し切れておらず、発言の様子がまだないことを見て取ったウォーリーが再び口を開いた。
「考えられるパターンは幾つかある。まずは、エミリオが本当にブラックヘアの犯人だったというケース。だがこれはさっきも言ったように、DNAプロファイルの不一致から、少なくとも彼単独の犯行だったという可能性は除外できる」
話をしながら、ウォーリーは手元の携帯端末にスタイラスペンで要点を書き出していた。
電子ホワイトボードに書かれた単語の群れは、会議室にいる者が持つ端末全てに同じ像を送っている。共有された画面に現れた箇条書きを読み、その場に集まっている誰からともなく、ほぼ全員が無言で頷いた。
「次に、ブラックヘアの共犯のケース。これだと、彼が被害者の所持品を持っていることも、DNAプロファイルが一致しないことも説明がつくな」
続けられたウォーリーの仮説に、思わず未来が顔を上げた。
ブラックヘアに共犯者がいるなど、今まで考えもしなかったことだった。
しかしブラックヘアは、単独犯の犯行にしては手際が良すぎるように思える面が確かにあった。例えば、被害者の死体を遺棄するときは肉付きが良く若い身体を持ち上げねばならず、かなりの筋力が必要となる。加えて死体は全て街中や比較的目につきやすい場所に捨ててある一方、遺棄時の目撃者は誰もいない。これも誰かが見張りに立っていれば、達成することは難しくなかった筈なのだ。
ウォーリーは電子ホワイトボードに書かれたメモの要点にアンダーラインを引き、残る可能性について言及し始めた。
「そして、彼はブラックヘアと全くの無関係だが、たまたま被害者の所持品を手に入れたということもあり得る。どこかに捨てられていたのを拾ったりして、その後運悪くティアーズの被害者になったケースと言えるな」
「運悪くってことなら、他のケースだって全部そうだろ。連続殺人事件の被害者になるなんざ、飛行機事故に遭う何分の一の確率なんだよ」
ジャクソンが顔をしかめつつ吐き捨て、端末の小さな文字を睨んでいる。
彼の隣に座すエマは、無意識のうちに眼鏡を直して小さく溜息をついた。
「いずれにしても、エミリオがどうして殺されたかと言うことが一番の問題よね」
「そう、そこが一番重要なんだ。ティアーズの犯人は何故、エミリオを殺さなければならなかったのか。あるいは殺したいと思ったか、だ。エミリオについては、他の被害者とは明らかに違う点がある」
大きく頷いて、性格分析担当のポールが声を少し大きくした。
「違う点って?」
死体をあれだけ傷つけているのだから同じではないかと言いたげに、未来がポールの方を見やる。彼は伸び放題で艶がない金色の前髪を指先で梳きながら、電子ホワイトボードの画面を見つめていた。
「まずは人種について。黒人の被害者は初めてだし、ゲイということもそうだ。それに、死体が遺棄されてから発見されるまでの時間についても、ここまで短いのはやっぱり初めてだ。現場の写真からも、今までより随分と雑な印象を受ける」
そこまでは顔を上げず独り言のように言っていたが、ポールは視線だけを上げてぐるりとメンバーの顔の上を一巡させた。
「恐らく犯人にとって、エミリオは本来の獲物ではなかったんだろう。何か突発的な事態が発生して、どうしても殺さなければならなくなったのかも知れない。だから死体を捨てる場所もあまり選択の余地がなくて、比較的見つかりやすい場所にせざるを得なかった」
「その突発的な事態に、ブラックヘアの被害者が持ってたカードが絡んでるということなの?」
エマが投げかけた疑問は、皆の胸の内にも至極当然な流れとして浮かんだことであるが、ポールの言葉は曖昧だった。
「それもありえなくはない。しかし、全くの無関係である可能性だってある」
「要するに、はっきりしないってことだ。今の段階でまだ、どうこう言える話じゃない。何せ、ティアーズの犯人とブラックヘアの犯人を結びつけるものは何もないんだからな」
不足している説明をウォーリーが補い、電子ホワイトボードに書き込んだブラックヘアとティアーズのコードネームの間に赤い線を引いて、二つの凶悪事件を隔てる。
別々の大きな事件が証拠品で接点をもたらされるなど、確率の話で言えばどれだけ低いかわからない。それでもFBIは推理に頼った捜査をするのは論外で、物理的、科学的にその証拠に関連があると断定できなければ、事件同士を結びつけて考えることは、単なる道筋の一つでしかなかった。
事実は恐らく、今ウォーリーが挙げた3つのケースのうちのいずれかだろう。とは言っても、取るべき道がどれなのかを示す確かな道しるべはまだ霧の中にあり、誰もそこまで辿り着けてはいない。
不確かな考えを表すことを嫌うチームメンバー全員が、電子ホワイトボードを睨んで口をつぐむ。
僅かな沈黙が声を発する空気を奪い、重い空白がたちまち会議室を支配した。
未来には一つ心に引っかかっていることがあったが、それはこの場にいる他のメンバーも同じく最も疑問に思っているであろうことだと思われた。それがあまりに単純な発想のため、皆口にするのを憚っているのだろう。
これ以上閉塞が続くのを嫌った未来は、確認を兼ね敢えてそれについて触れることにした。
「ブラックへアとティアーズの犯人が、同一人物だっていう可能性はないの?」
ぽつりと響いた彼女の声に、はっきりと反応を示すメンバーはいない。
誰も言葉を継がないことを読んでから、未来はもう少しはっきりとした口調で言った。
「ブラックヘアの犯人は、明らかなゲイなんでしょう。それならエミリオを騙して口説くのだって容易かっただろうし、彼が被害者のカードを持ってたことだって説明がつくよ」
「それは俺も考えた。エミリオは偶然、ブラックヘアの犯人に接触した。そこであのカードを手に入れて、運悪く気づかれた犯人にティアーズの被害者として始末されたって筋書きだな」
ジャクソンが顔を上げ、未来の方を向いて頷く。
「しかしそれだと、エミリオの体内に残っていたDNAの型が違うことの説明がつかないだろう」
「奴は男相手に売春してたんだぞ。他の客のが残ってたってだけかも知れねえじゃねえか」
そして意を唱えてきたウォーリーに、もっともな理屈で反論した。ジャクソンも、釈然としないもやもやとした気持ちを胸にずっとしまっていたのだろう。
「確かにこのケースでは、エミリオの体内に残っていた精液が誰のものかと言うのは、さして重要じゃない」
そこでポールが同意の意見を挟む。
が、次に彼の口から出たのは、やはり一同が想定していた考察だった。
「ティアーズとブラックヘアの犯人が同一人物だとすれば、一番しっくりくる。しかし残念ながら、それは恐らくありえない」
「どういうことなの?」
さして気を悪くした様子は見せず、未来はだらしない外見の同僚に話の続きを促した。
「ティアーズとブラックヘアは、犯行の個性が全く違うんだ。同じ思考を持った者の犯行である可能性は、極めて低いと言わざるをえないんだよ」
ポールが摘んだペンの先が、電子ホワイトボードに書かれた2つの事件名を何回も往復している。かと思うと、彼はティアーズの頭文字を集中的につつき始めた。
「何度も説明してるけど、ティアーズの犯人は恐ろしく慎重な人物で、全く証拠を残さない。今回のように一見雑に見える犯行でも、これといった手がかりはまだ発見できていないんだから」
次いで、つつく対象がブラックヘアの頭文字に移る。
「一方ブラックヘアの犯人は体液もあれば、被害者の肌から部分的な指紋すら検出されている。自分の正体を知られることに無頓着な、無秩序さがあるんだ。両方とも異常性欲に駆られた人物の犯行であることは間違いないけれど、この二つは他に共通するところがない。共通の物的証拠でも出ない限り、同じ人間が犯行をやってのけているとはとても言えないんだよ」
ポールのもっともな見解に、今度は未来が反論した。
「けど、被害者のカードにはエミリオの指紋しかなかったじゃない。そんなの、犯人がカードを手に入れてから丹念に拭いて保管してたとしか思えないよ。ブラックヘアの犯人だって、綺麗好きでまめな奴だって言えるんじゃないの?」
他人から奪ったカードの指紋を拭き取るなど、普通に考えれば常軌を逸した行動のはずだ。犯人はある種の潔癖性だと言ってもいい。
そう顔に書いてある未来だったが、ポールにまたもあっさりと返されてしまった。
「無秩序犯にも他人に理解できないルールを作って、戦利品に偏執的にこだわる奴だっている。恐らくブラックヘアの犯人はそういうタイプなんだろうと、僕は考えてるんだ」
「それに、エミリオがブラックヘアの共犯だったケースでも、うまく説明をつけることはできる。我々は常に、あらゆる可能性を考えなければならない」
ウォーリーが再び手元に戻ってきたカードを取り上げて、ポールに続く。
あらゆる可能性を考慮するというのはFBI捜査官全員の口癖だが、今日ばかりはそれを繰り返すウォーリーのことが未来にとって一層鬱陶しかった。
「俺はエミリオがブラックヘアの共犯だったという可能性が、一番濃いように思えるけどな。主犯の近い位置にいなけりゃ、少なくとも被害者の所持品は手に入らなかった筈なんだから」
片手でスタイラスペンを弄んでいたジャクソンが、頬杖をついたまま皆の顔に視線を巡らせる。
「エミリオは、PMOVカードをガレージの中に隠してたんだろ?ということは、モノの重要性はわかってて、そんなところにしまっておいたんだと思っていいわけだよな。普通、他人のポイントカードなんか役には立たないんだから。換金できるわけでもないし」
確かに彼が言う通り、カードは埃で覆われたガレージの隅に置かれた工具箱から発見された。他人に見つかることを恐れていないのなら、そんなところには入れておかないだろう。
ジャクソンの指摘に暫し考え込んだポールが、別の仮説を持ち出そうとした。
「もし彼がブラックヘアの共犯だったんなら、気が変わって主犯の奴をゆすろうとしていたのかも知れない。被害者のカードは、その取引のために隠した可能性もある。自分は脅されて協力させられていたとか、警察には何とでも説明できるしね」
ポールが頭を軽く振って呟くと、ぱさついた金髪同士が擦れ合う乾いた音が未来の耳についた。
彼女はやや論点がずれてきたことに、戸惑いを感じ始めていた。
エミリオはランチェスター捜査官の情報提供者であり、たまたま手に入れた貴重な証拠をランチェスターに高く売ろうとしていたであろうことは、多分間違いないはずだ。ここでますます外れた方向に話が向かう前に、軌道修正を図るべきだろう。
彼女が知っている事実は、隠しておくには重大すぎるものだったのだ。




