安息なき夜 -25-
その日は暗い朝だった。
12月に入ると、まだ温もりを残していた大地は霜に覆われ始め、陽光は日に日に密度を薄くして、空気に広がる寒気を御しえなくなってくる。そのため冬の早朝は、人をベッドから追い立てるのではなく、安らかなまどろみの中へもう一度引き込もうとする。
だが、フレデリックスバーグ駐在事務所の地下にある証拠保管室には、もう明かりが灯っていた。いくらFBI捜査官の朝が早いとは言っても、呼び出されたのでなければ6時に出勤してくる者などいない。
少しだけ黴臭さがある空気の中、一人の捜査官が奥の通路にしゃがみ込んでいた。開け放したキャビネットに詰まった証拠品袋を一心不乱に漁っているため、エアコンのフィルターを乾いた空気が通り抜ける音と、がさがさと紙袋が引っかきまわされる音が、しんと静まり返った部屋にこもっている。
証拠の劣化防止のため適温に保たれているはずの部屋であったが、大柄な白人男性捜査官の額には大粒の汗が吹き出していた。頬を上気させ、厚手のニットの下に着込んだワイシャツにも汗を滲ませている男は、決して長時間しゃがんでいるために暑くなったのではない。
彼の青い瞳は忙しなく袋のタグを飛んでいるが、注意力は散漫でしかなかった。不安を湛えた口許は歪んでおり、そこにも内面の苛立ちを感じさせる。
彼が焦っていることは、時折漏れる鋭い舌打ちにも窺うことができた。
「ランチェスター。いつからあんた、指示もなしに証拠品を漁るようになったわけ?」
だしぬけに、女の冷たい声が男の背後から上がった。
ぎくりと彼の筋肉が硬直し、一瞬手の動きも止まる。そこには、やっと探し当てたらしい証拠品袋が一つ、掴み上げられていた。
「やあ、おはようミキ。君こそ随分と仕事熱心じゃないか、こんな暗いうちから。これ、変なところに置いてあったから、元に戻しておこうと思ってさ。ティアーズの証拠品なんだろ、これ?」
顔を上げて振り向いたジェイコブ・ランチェスターは少しも慌てた素振りを見せず、右手の証拠品袋を未来に振って見せた。
彼にすぐには答えず、未来がゆっくりと歩み寄っていく。一箇所しかしかない出入口は、無言の彼女によって塞がれることになった。開いていたキャビネットを閉めて立ち上がったジェイコブが、無意識のうちに後ろへ半歩後退した。
「あんたが持ってるのは違うでしょ」
ジェイコブが大切そうに持っている証拠品袋に一瞥をくれた未来の口調には、刃のような鋭さが加わっている。その攻撃を何食わぬ顔ですり抜けたジェイコブが、視線を下に向けて小さな紙のタグを確認した。そこには乱暴な字で「teals」と書かれているが、事件のコードネームの正しい綴りは「tears」のはずだった。
「あれ、本当だ。スペルが違うね」
「どうしてそれが私の担当事件だってわかるの?」
未来が足を止め、20センチ以上上にあるジェイコブの顔を睨みつける。
彼は小さな同僚の視線など意に介さず、軽い笑いを浮かべていた。
「だって、現場でも言ってただろう?」
「私は部隊の人と話すとき以外、一度も事件のコードネームを言ったことがないよ。CVCはまだ本格稼動を始めたばっかりだし、運用も厳しくてね。それに、あんたは女嫌いでしょ。現場でも、私の側に寄ろうとしなかったじゃない」
対する未来は、ここで反撃の手を緩めようとはしない。
機密保持の観点から、CVCでが担当する事件のコードネームは、部隊内だけで通用する暗号の扱いとなっている。一般の駐在事務所や支局では、CVCのそれとは異なるコードネームが使われているのだ。ティアーズ事件の一般通称は「スクラップ」で、間違えようがなかった。
「そもそも、今日ここに新しく届く証拠品なんて存在しないんだよ」
「何だって?それはおかしいじゃないか。確か、郡警察からメールで……」
ジェイコブの顔が怪訝そうに曇るが、彼はまだ証拠品袋を手放そうとしない。
「今日朝一番に届く証拠品があるから確認してくれって連絡があった、ってこと?」
「君だって、そのメールを受け取ったからここにいるんだろう?」
未来が大げさにかぶりを振って見せると、ジェイコブはますます苛立ちを募らせたようだった。
「それ、一体どこの警察から来たの?そんなの、届いてないと思うけど」
「じゃあ、メールが僕だけに来たのかも知れない。まあ、大した問題じゃないけどね」
吐き捨てるなり、ジェイコブは未来を押し退けて出入口へ向かおうとする。
勿論、彼女にジェイコブを逃がすつもりはない。
小柄な女の腕に似合わない力で腹を押し返され、逆にジェイコブの大柄な身体がよろめいた。
「あんたがここにいることは、大した問題だと思うけど」
身体ごとジェイコブを弾き返す格好になった未来は、鉄の根を生やしているかのようにびくともしていない。彼の敵意に満ちた視線が、細い身体に突き刺さろうとする。
「僕をからかってるのか?君もここにいるってことは、警察から何かしらの連絡を受けたからなんだろう?」
「あり得ないって言ってるでしょう。昨日の夜、警察の担当者に全ての連絡はCVCを通すように指示しておいたんだから。あんたが私のデスクトップで見た予定は、私が勝手に書いただけで全くのでたらめなんだよ」
ジェイコブは黙っている。
彼の瞳は未来の顔の辺りをさまよっていたが、決して彼女の黒い瞳に掠めさせようとしない。あからさまに顔をそむけないのは、彼の負けん気の強さ故だろう。
「警察からのメールなんて、本当は来てない。それにあんたが今持ってるのは、私が昨日入れておいたダミーの証拠品だからね。でも、来てる筈がない警察からのメールを見て、あんたはここに来たって言う。どうして、そんなわけのわからないことが起こったの?」
対する未来は事実の一つ一つをわざわざ説明し、積み上げ、目に見えない檻で相手を囲い始めている。その様子は裁判で犯人を追い詰める検察官さながらだ。
事の真相はこうだ。
未来は個人仮想デスクトップにまだ貼ってあった電子付箋に、新しい証拠品が届いたので、今日の朝に仕分け作業をやり直す旨を追記した。
勿論そんなことは真っ赤な嘘で、それらしい証拠品袋は古新聞を詰めてでっち上げたものだ。彼女は、ジェイコブがまだ自分のパソコンを管理画面から覗き続けているのなら、この偽の情報に引っかかってくれる可能性が高いと踏んだのだ。
そうして罠を仕込み、監視カメラの映像を確認しながら待ち伏せていると、ジェイコブが思惑通りに現れたのである。
「あんたのことは色々と調べさせてもらったよ、ジェイコブ・ランチェスター捜査官。証拠品リストを改竄したはいいけど、変更の時間にまで気を配らなかったのは失敗だったね。捜査の足を引っ張るような真似はいい加減、止めてくれない?」
ジェイコブを詰問する未来は、厳しい表情を崩さないでいる。
昨日ブラウン捜査官が調べてくれて、新たにわかったことがあった。
リッチモンド支局のノートパソコンを、ジェイコブが数日間に渡って持ち出していた履歴があったのである。
恐らく彼は出先でそれを使って仮想端末管理画面に入り、そこから未来の個人仮想端末にローカル管理者IDを使ってログインしたのだ。そして証拠品リストのファイルを改竄した後、ファイルユーティリティソフトをインストールし、タイムスタンプを変更した。その上でソフトをアンインストールしてからOSのログを全て削除すれば、痕跡を残さなくて済む。
パスワードや管理者用IDはたやすく入手できるのだから、仮想環境についての知識さえあれば造作もなかった筈だ。今までも未来の裏をかくため、頻繁にデスクトップを覗いていたに違いない。
FBIが所有している貸出し用ノートPCは、返却後すぐにハードディスクをフォーマットし、OSを再インストールすることになっている。厳しいルールにのっとった運用では、何をしたかの履歴を追うのにも時間がかかってしまう。彼はこのことを悪用したのだ。
なくなった証拠品については、郡警察での作業時、未来が席を外した機会に一部を抜き取ったのだろう。通し番号が振られる前、誰かに見咎められることさえなければ万事がうまくいく寸法だ。
このように、セキュリティの穴を幾つもすり抜けるやり方をジェイコブ一人で考えついたのなら、見事なものである。未来の口許が皮肉そうに曲がった。
彼女と時を同じくし、ジェイコブも表情を歪めた。嘲笑に近い、憎悪が乗った笑いが漏れてくる。
「何のことを言ってるんだ?僕にはわけがわからないけど」
どうやら、この後に及んで彼はしらを切り通すつもりでいるようだった。
だが確かに、ジェイコブのやったことについては何の証拠もない。こうでなければ他に説明がつかない、という推測と理屈があるだけだ。
一方で彼は、自分が何故ここに来たのかという理由をまたも無視している。
ここまでいけしゃあしゃあと開き直られたら、未来としても攻撃を強める以外の方法がない。いつまでも往生際が悪い方が悪いのだと自分に言い聞かせ、もう一段階上に進むことを決めた。
「ホワイトクロウ」
未来が店の名前を呟くと、ジェイコブの顔色が途端に変わった。上半身の血管が一気に縮まって、やや赤かった頬が瞬時に蝋人形のように色を失ったのだ。
音を立てて血の気が引くとは、まさにこの様子を言うのだろう。
未来が思っていた以上に効果覿面だったようだ。
「悪いけど、裏は取ってあるの。被害者のエミリオとあんたが、しょっちゅうあの店で会ってたってこともね。パートナーが殺された悔しさや悲しさはわかるよ。でも……」
「やめろ!」
未来の言葉は、ジェイコブの低い叫び声に遮られた。
今や彼の広い肩は激情のため震えを抑えられなくなっており、先程まで蒼白だった顔が今度は朱に染まっている。
自分の最もプライベートな一面を、あろうことか心底から蔑んでいる女の新米に暴露されたのだ。その屈辱は、プライドの高い彼には耐え難いほどだろう。
昨日色々とホワイトクロウで調べてわかったことだった。
ジェイコブは、自分よりも劣っていると感じた有色人種の男性しか、恋愛対象にできないのだ。
エミリオと親密になるずっと以前から他の店にもよく出入りしており、ホワイトクロウではジェイコブのことを知っている常連客も多かった。何故彼がそのような性癖に至ったのかまではわからなかったが、エミリオ肩を寄せ合っている姿が監視カメラにとらえられ、モーテルに何度も姿を消していたことは、少なからず確認できている。
ジェイコブは怒りと憎しみを、目の前にいる未来に無言で叩きつけていた。
今にも飛びかかってきそうな同僚を警戒した彼女は、意識せずに膝を緩めていつでも動けるように身構えた。
「彼は僕の情報提供者だった。それだけだ。それ以上何か言ってみろ、侮辱罪で訴えるぞ。このジャップ……」
「あんたが証拠品のリストを改竄したり」
感情に任せて日本人の差別用語を口走ったジェイコブを、今度は未来が遮った。
「証拠品を盗んだのは、見つかると不利になるようなものがエミリオの家から出てきたから。でなきゃ、そんなことをする意味はないからね。単に私がしゃしゃり出てきたのが憎たらしくて手柄を横取りしようと企んでるだけだったら、もっと他にやりようがあるし」
激しい呼吸を押し隠そうとするジェイコブの様子を油断なく窺う未来の糾弾は続く。
しかし、ジェイコブはまだ抵抗を諦めようとしていなかった。血走った目が子どものような姿の同僚をぎろりと睨み、薄笑いで口調をコントロールしようとしているようだ。
「これは君たちCVCだけの担当事件じゃない。フレデリックスバーグ駐在事務所の仕事でもあるんだ。そして、こいつは僕の担当地区で起こった。警察から提出された証拠品をチェックしてクワンティコへ届けることに、何か問題でもあるのかい?」
必死に話をすり替えようとしているジェイコブは、正論で戦うのは勝ち目がないと既に悟っているのだろう。当然、そんなつまらない誤魔化しに引っかかるような未来ではない。
「郡警察の担当者にもう一つ、指示しておいたことがあるの。もし何か新たな証拠品が出てきても、地方局や駐在事務所は通さずにクワンティコへ直接回してくれって。だから、ここに何か来ることはもうないわけ」
つまり未来が言わんとしているのは、彼女のデスクトップに書かれた偽の情報を見てかつ、証拠品を不正に入手しようという意図がなければ、ここに姿を現す筈がないということだった。
今度こそ、ジェイコブはもう言い逃れができなかった。
未来が一歩、彼へにじり寄る。
「何をどこにやった?白状しないつもりなら……」
「白状するって、何をだい?僕がリストを改竄したり、証拠品を盗んだって証明できるとでも?」
視線が定まらないジェイコブは、事実関係の証明という最後の砦にすがろうとしている。
たじろいで後ろに下がったついでに発せられた苦し紛れの言い訳であったが、未来の足が止まった。
確かに仮想端末管理画面のログからでは、誰がどの端末から管理者IDを使ってログインしたかまでは特定できない。決定力に欠けると言われれば、それまでのことだ。
大きく息をついたジェイコブが、肩を揺らして笑った。
「おかしな言いがかりはよしてくれよ。僕だって、騒ぎを起こしたいわけじゃない。ここで僕に言ったことは全部取り消して、今後も捜査を一緒にやるなら、訴えはしな……」
「これ、何だかわかる?」
未来が革ジャケットのポケットに手を突っ込んで何かを取り出し、目の高さに掲げた。
透明なビニール袋が、ジェイコブの前に突きつけられる格好となる。
「まだ詳細な検査結果が上がってきてないから知らないと思うけど、死体の肛門部からは本人のものじゃない体液が検出されてるの」
未来が手にしている袋の中身は、ジェイコブが吸ったタバコの吸い殻だった。
再び、ジェイコブの顔色がみるみるうちに青くなっていく。
「これを、DNAの比較対象として提出してみようか?」
未来はわざと無表情に言ってから、更にもう一歩詰め寄った。
吸い殻に付着している唾液には口内の粘膜細胞が含まれており、DNAの検出が可能なのだ。
ジェイコブがエミリオと一緒にホワイトクロウにいたのは11月25日、つまりエミリオが最後に外出した当日である。2人が親密な関係にあるのなら、その後肌を重ねていたと考えるのが自然だ。
エミリオの体内に残されていたDNAはFBIのデータベースにも登録がないため、現在の時点では誰のものなのか判明していない。
が、比較対象があれば話は全く違ってくる。もし被害者の体内に残されたのと同じDNAを持つ人間が見つかったなら、その人物は極めて重要な参考人となることは間違いないのだ。
冷や汗にまみれ、既に自身の力で身体の均衡を保つことすら困難になっているジェイコブは、キャビネットに背を預けて呻いた。
「同意を事前に取らずに採取したDNAが、証拠として認められると思うのか?」
「さあ?FBI捜査官が同性の恋人に容疑がかかるような証拠を同僚から盗んでいて、捜査記録の一部を改竄。これだけでも、立派に犯罪だと思うけど」
未来はスニーカーを履いた片方の爪先で床を軽く叩きながら、指先に引っかけたビニール袋をくるくる回している。
「その上に問題の捜査官が、連続殺人の被害者でもある恋人の体内から検出された体液と一致するDNAの持ち主だった。そうなれば、世論は一体誰の味方になるんだろうね」
続いて彼女がとどめとしてジェイコブに突き刺した言葉には、同情や憐れみのかけらもない。
DNAがジェイコブのものと断定されれば、当然彼は重要参考人か、悪くすれば容疑者として扱われる。犯罪捜査におけるDNA採取については、本人の同意がなければ証拠とならないケースもあるが、最終的に有用性が認められ証拠として採用される可能性も少なからずある。
更に証拠品リストの改竄が証明された場合、ジェイコブは偽証罪で即、逮捕されることは確実だ。それにどの道、ジェイコブとエミリオの関係が明るみに出れば、任意でのDNAサンプル採取も拒否できる筈がない。
そして、同性愛者に対する差別はFBI内にないとされるが、実際はそうではなかった。同性愛者であることが露見すれば、最低でも彼の捜査官としてのキャリアが終わりを告げることを意味する。だからこそ今までジェイコブは自らの恋愛をひた隠しにし、今日までやってきた。
エミリオとの関係が明るみに出たなら、ジェイコブは一巻の終わりだった。
そうなったら、どうあがいても逃げ道はない。
暫し、重苦しい沈黙が証拠保管室にたゆたう。
苦しげに胸を押さえ、まるで生気を失ったジェイコブから、未来はいっときも視線を離さない。
彼の弱々しく乱れた呼吸と未来の静かな息遣いが交互に、僅かに空気を震わせている。
やがて、ジェイコブが蝋人形のような顔で口を開いた。
「僕に、どうしろと?」
「簡単だよ。盗んだ証拠品を今すぐ返して、今後の捜査から一切手を引くこと。それだけだよ」
未来は感情を差し挟まない、厳しい声で言い放った。
しかし、彼女とて本当はこんなえげつない脅しを望んでいたわけではない。
ジェイコブが素直に自らの過ちを認め、法を守る者としてそれなりに真摯な姿勢を見せてくれれば、デリケートな問題を土足で踏みにじる真似は決してしなかった。
これは何人もの犠牲者を出している連続殺人事件だ。解決を妨げる障害があるのなら、非情に徹して排除する以外に道はないのである。
捜査官という仕事の本質が、やはり他人を信じる純粋さとは対極の位置にあるのだということを、今更ながらに痛感させられる。
一方で、人や国を守るという強い信念に支えられなければ、辛い任務をやり遂げることなど勿論不可能だ。その意味でいけば、法執行官は非常に純粋な正義感のもとに立っていることになる。
自分たちは常に、そんなジレンマとも戦わなければならない。
今は完全に心を忘れた鬼だ。
そう自身のことを叱りつけ、未来は再び口を開いた。
「こんなことをして、エミリオが本当に喜ぶとでも思ってんの?あんたがやってることは捜査の妨害以外の何物でもない。事件解決を遅らせて、犯人を喜ばせてるだけだよ」
ジェイコブは放心したように立ち尽くしている。
青い瞳は虚ろで宙のどこかを睨んでおり、未来の言うことなど耳に届いていないのであろう。
彼のことを告発すれば簡単に片はついたが、今後の人生の全てを失わせなかったのは、せめてもの情けだった。
「安心して。証拠品さえ返してくれれば、私はもう何も言うつもりはないから」
少しだけ語調を緩めても、ジェイコブは目立った反応を見せない。
恐らくもう、このいけ好かなかった同僚に反撃してくるだけの気力が残されてはいるまい。
半ば夢遊病者と化しているジェイコブの様子に未来がそう判断を下すまで、時間はかからなかった。
ジェイコブがふらふらと足を前に出した。
未来が道を譲っても、歩調は遅く安定していない。
彼は上半身を左右に揺らしながら証拠保管室のドアをくぐり、オフィスへの階段を登っていく。無意識の所作なのか、未来がすぐ後ろについても一言も喋ろうとはしない。
まだ朝6時半の駐在事務所のオフィスは暗く、電気をつけなければパーティションやデスクが見えないほどだった。未来は瞳の暗視フィルターを作動させたが、歩き慣れたジェイコブは非常灯の小さな灯りで十分らしく、自分のスペースへと迷わずに足を進めていく。
やがてジェイコブは薄い壁に囲まれたパーソナルオフィスに入り、隅にしゃがみ込んだ。鍵を開ける小さな金属音が上がり、続いてスチールのキャビネットが開く摩擦音が聞こえてくる。
その音は淀みなく、彼のしぐさも同じように引っかかるところはない。
立ち上がったジェイコブは、手にしている大きな茶色の紙袋を未来の両腕に押しつけた。
彼女が中を覗いてみると、見覚えがある識別用のタグが取り付けられた証拠品袋が4つ、収まっているのがわかった。パーソナルオフィスの出口を小さな身体で塞いだまま、ジャケットのポケットから手袋を取り出して両手につけると、全ての証拠品袋を手早く確認する。
どれもビニールの中袋を開けた様子はない。奪ったものとは言え、中身に不用意に触ったり、処分しようとしなかったのは、ジェイコブに捜査官としての良心があったからなのだろう。
「……確かに本物みたいだね。後のことは、CVCが必ず始末をつけるよ。エミリオの仇も、絶対に討って見せるって約束するから」
未来が頷いてから顔を上げたが、声に明るさはない。
それでも彼女の顔に達成感が見えたのか、ジェイコブは顔をそむけて吐き捨てた。
「女のお前に何がわかる!」
まだパーティションの隙間を塞いでいた未来を突き飛ばさんばかりに押し退けて、ジェイコブは事務所から出ていった。耳を澄ますと、職員用の通用口らしい鉄扉が軋んだ音が続いたのがわかる。
灯りがなく夜のように暗い事務所に、未来は一人残された。
自分が大きく吐き出した息が、寒々とした空間に響く。
目的の証拠品はようやく戻ってきたものの、後味の悪さを感じずにはいられなかった。恐らくジェイコブは、余所の地方局へ異動を申し出るだろう。恋人が殺され、女の同僚が自らの性癖を知るところとなり、自分の犯した罪を見逃されたという事実は、プライドの高い彼には死にたくなるほどの屈辱になるはずだ。
勿論不正を犯した方が悪いのだが、結果的に一人の人間の居場所を奪ってしまったことは、未来の心にざらついたしこりを残していた。
もう一度、大きな溜息が漏れる。
同時に、オフィス全体の灯りがついた。暗闇に慣れた未来が、天井から不意に降ってきた白い光に思わず目を細める。
「やはり甘いな、ミキ」
狭くなった視界の中に入ってきたのは、オリヴァー・ブラウン捜査官だった。
「あ、見てたの?」
「たまたま、防犯カメラのモニターでな」
答えたブラウンの声は、やはり起伏に乏しかった。
今朝未来が動くことは、調査を手伝ってくれた彼も知っていた。手出し無用であることは伝えられていたものの、女である未来が危険な状況に陥った場合に備えて待機してくれていたのだ。
「もうあいつに反撃してこようって気力はないよ。今日はあのまま、帰ってこないかもね」
場都が悪そうに未来が肩をすくめる。ジェイコブとのやりとりは、防犯カメラを通して会話内容までもが筒抜けだった筈なのだ。
「彼が玉なしの腰抜け野郎で良かった。そうでなければ、君は撃たれていたかも知れないんだからな」
玉なしとはまた、生真面目を絵に描いたようなブラウンらしからぬ表現である。
確かに逆上し理性が消し飛んだ人間は何をするかわからないが、それでも常人では未来に毛ほどの傷もつけられないだろう。彼女は困ったように、手袋をつけた指先で頬を掻いた。
「あいつが武器持ちで何十人束になろうと、私を殺すことはできないよ」
「しかし、ミキは女だ。自分を過大評価しない方がいい」
これでも精一杯、過小評価しているつもりなのだが。
そう言いかけたところで踏みとどまり、未来はさりげなく話をすり替えようとする。
「私より、ランチェスターの心配をしてやった方がいいと思うけど」
「まあ、心配はしているが」
咳払いを一つしてから、ブラウンがジェイコブの消えた出口を見やった。
「私が気になるのは、やけになったジェイコブがDNAを手当たり次第、今度は女に撒き散らさないかということだよ」
「そうだね」
先からブラウンが品がない言い方を続けているのは、嫌な雰囲気に沈みそうな場の空気を変えようとした冗談だったのだ。
遅蒔きに気づいた未来だったが、それにしては今一つだったため素直に笑えない。ブラウンは知的犯罪に明るいだけあって切れ者だが、センスの良さは必ずしも比例しないらしい。彼自身に自覚があるのが救いだろう。
故にもう後悔したのか、ブラウンの普段から下がり気味の口角がますます下に引っ張られ、見事なへの字に曲がる。
未来は苦笑いと愛想笑いを混ぜた、微妙な笑顔を返す他にいい反応を思いつけなかった。
「でも彼はやけになるとしたら、『bi』(両性愛)じゃなくて多分『buy』(買春)じゃないのかな」




