安息なき夜 -19-
驚いて目を丸くしているニコラスの青い瞳に映ったのは、黒のデニムにベージュのコートをしっかり着込んだ未来だった。彼女が砂利をスニーカーで踏み鳴らしながらまっすぐにポーチへ歩み寄ってくると、普段は愛らしい顔が険しくなっているのがわかった。
「カーター刑事!」
そしてニコラスの前で立ち止まると、彼を恫喝するかの如き勢いで名前を呼んだ。
「これはどういうことなんです?私が着く前に捜索を始めるなんて」
「どういうことって、時間を早めてランチェスターが来るってことになってただろう」
その言い種にむっとして、ニコラスも負けじと言い返した。
最初に未来から聞いた話では、今日の夕方5時から被害者宅の捜索を開始するということだった。人員の手配や詳細な準備に関しては郡警察で決めて貰っていい、そちらの決定にFBI側が従うことにする、ということだった筈だ。彼女が話の締めくくりに、折角の休日の夜を潰してしまって申し訳ないと付け加えていたのも覚えている。
それを今朝になって、急に都合がつかなくなったので捜索は2時からに変更し、現場の捜査員配備についても郡警察の別担当にFBIが手配して決めると、彼女の代理人から一方的に告げられたのである。
予定を強引に変更されたのだから文句が言える立場なのはこちらであって、未来に怒りをぶつけられる謂れはない。そう続けようとしたが、未来の上気した顔がこわばり、ニコラスが言葉を繋ぐ暇もなく再び荒っぽい声が飛び出した。
「私からそんな話はしてないでしょう。誰がそんなことを?」
未来の言葉に、今度はニコラスが驚く番だった。
「フレデリックスバーグ駐在事務所の人間から、捜索開始時間の変更と人員配備についての連絡を確かに僕の部下が受けてるんだ」
「いつ?」
ニコラスは一瞬未来が思い違いをしているのかと考えたが、どうやら彼女は本当に何も知らなかったらしい。驚愕に彩られた顔に信じられない、と書いてあるかのようだった。
「今朝の8時頃に。ミキからの連絡じゃないからちょっと変だとは思ったけど、別件の捜査が入って夕方以降の予定が塞がったからってことだったんだ」
「一体誰がそんなことを言ったの?」
「ランチェスター捜査官だよ。ミキの代理で自分が立ち会うからって、彼が連絡してきたんだ。捜索に向かわせる人員については、個人的に親しい担当が別にいてそっちと相談するから僕は何もするなとも……」
半分愚痴になっていたニコラスからジェイコブのファーストネームが出た途端、未来が眉を吊り上げた。激情のためか顔も真っ赤になりかけるが、彼女は辛うじてそれを理性で抑え込んだようだった。
「すみません。ランチェスター捜査官と私とで、認識の行き違いがあったようです。ちょっと話をしてきます」
目を伏せ気味にして冷静さを装った彼女はしかし、押し殺された声が低くなっているのを隠せていない。予定を勝手に変えられた挙げ句、担当事件における証拠の捜索という重要な仕事を邪魔されたのだ。怒るなと言うのは無理な話である。
「ランチェスター捜査官なら、まだ中にいると思うよ」
ニコラスが半歩下がって未来を家の中へ入るよう無言で促すと、彼女は再び砂利を踏み鳴らしながらポーチへと上がっていく。
「……あん畜生!」
砂埃で汚れた玄関のドアを開けざま、まだ憤りを完全に殺ぐことができていない未来が小声で吐き捨てていた。
室内に入ってすぐはリビングになっており、壁の照明と電気スタンドがついていても薄暗い印象だった。型式が古いモニターが乗ったパソコンデスク、数世代前の空間投射型テレビの下にあるテレビ台など、インテリアはどれも手垢で汚れていて、当面生活ができさえすればいいというその日暮らしの生活スタイルが窺える。アイボリーの壁紙に薄いしみがあり、ところどころ浮いている箇所があるところを見ると、ろくに手入れされていない家を格安で購入したのだろう。
ワックスが剥げた床にはビールの空き缶や何冊もの雑誌が投げ出されており、表紙では逞しい半裸の白人男性が挑発的なポーズを取っているのが見える。今は亡き家主が脱ぎ捨てたらしい服も散らばっているくすんだフローリングを尻目に、未来は家の奥へ進んだ。
リビングルームの隣がダイニングルームになっているが、ステンレスのシンクは完全に乾いていて、キッチン台とテーブルにはウイスキーやバーボンの瓶、ピザとスナック菓子の空箱が並んでいるだけだ。ごみが溢れているダストボックスにも薄っすらと積もった埃は、ここが長い間使われていないことを示している。その中で捜査員たちが手を触れたらしい箇所だけ、汚れが拭われたせいで目立っていた。
ダイニングルームから短い廊下を経た先がマスターベッドルームになっているようで、未来が少しだけ耳の感度を上げると、誰かの乱れた息遣いと衣擦れの音が上がっているのがわかった。
廊下まで出て、マスターベッドルームの中をひょいと覗く。
彼女が部屋の中を見回した視線の先には、右奥の壁にあるクローゼットの扉を開け放った前にしゃがみこんでいるジェイコブの姿があった。
「ランチェスター捜査官?」
彼の背中に刺々しさを突き刺すべく未来が声をかけると、擦り切れた青い絨毯に膝をついていたジェイコブがびくっとして顔を上げた。
「やあミキ、随分と早かったじゃないか」
未来は、ジェイコブが嫌味な優越感にまみれた笑顔を返してくるものと思っていた。
しかし立ち上がった彼は疲れ切った顔で腫れぼったいまぶたをし、目を赤く充血させている。
これまで傲慢な態度を崩したことがなかった同僚の憔悴した様子に、未来は一瞬近寄ることを躊躇したが、悪びれない彼の言葉ですぐ勢いを取り戻した。
「どうしてあんたがここにいるの?」
つかつかと目の前に進んできた未来の強い感情を避けるように、ジェイコブは顔を逸らした。
「僕はこの被害者が殺された地区の担当なんだ。ここにいたっておかしくないだろう」
「私が聞きたいのは、そういうことじゃないよ」
あくまで言い方は静かなままでいる未来が壁に軽く拳を叩きつけると、薄い石膏ボードの仕切り壁から予想よりも大きな音が上がり、天井から細かい塵が落ちてきた。
未来はジェイコブにエミリオの自宅を捜索するという連絡は入れていないし、勿論開始時間を変更すると話したこともなかった。
もともと、この捜索は自分とカーター刑事指揮の下、もっと多くの捜査員を動員してもらってやるつもりでいたのだ。
それなのに、ジェイコブは一体どこから情報を嗅ぎつけたと言うのだろう?
捜索のことを知っているのは直接話をしたカーター刑事と、キングジョージ郡警察の関係者だけだ。当時フレデリックスバーグ駐在事務所には未来以外誰もおらず、電話が盗聴されている筈はない。加えて、警察関係者が普段見下した態度を取ってくるジェイコブにわざわざ情報を教えるわけがなかった。
鈍い音にちらりと視線を戻したジェイコブに、彼女は更に追及を続けた。
「この捜索のことを、どうしてあんたが知ってるかってことだよ。私は事務所内の誰にも予定は話してないし、あんたが知ってる筈が……」
鼻息も荒く続けようとした未来の言葉を遮ると、ジェイコブはいつものように薄笑いを浮かべた。
「おいおい、寝ぼけたことを言うなよ。今日のスケジュールを掲示板に出しておいたのは君だろう?捜索の時間に他の捜査が引っかかってたみたいだから、僕が代わりに時間を変更してわざわざ出てきたんじゃないか」
未来はすぐにはジェイコブが言っていることが理解できず、目を丸くするばかりだった。
晴天の霹靂とは、このことだ。
ジェイコブの言う掲示板とは、グループウェアの電子掲示板のことである。
グループウェアとは、情報を共有するためのコンピューターシステムのことだ。
そして、スケジュール把握のため、所属部署の電子掲示板を毎朝確認するという運用になっている。掲示板には各個人の予定を書き込むことになっており、同じ部署の所属であれば他のメンバーのスケジュールを自由に確認し、編集ができる仕様なのだ。
しかし未来は、ジェイコブが捜索に加わると不測の事態が起きかねないと考えて、敢えてスケジュールを公開しなかったのだ。通常、FBIの捜索現場立会は一人いればいい筈で、ジェイコブがいなくても捜査に支障は全くきたさない。
存在するわけがないスケジュールについて持ち出したジェイコブを見る未来の目は、疑いを通り越して呆れたものに変わりつつあった。
「はあ?そっちこそ、寝言は寝てから言いなよ。私は掲示板に予定を書いてなんかないよ」
「嘘だと思うなら、事務所に戻って更新日時を確かめてみるといい。とにかく、ここでの捜索はもう終わりなんだ。さっさと警察署に押収物を運ばないと」
「ちょっと、待ちなよ!」
クローゼットを静かに閉めたジェイコブは、未来を押し退けてさっさと玄関へと行ってしまった。慌てて未来が小走りに後を追うが、彼は振り向きもせず一度鼻をすすってから外に出た。
普段に増して自分を無視するジェイコブに憤慨しながら未来も外に出ると、ポーチで立ち尽くしていたニコラス刑事と鉢合わせる格好になった。未来の様子を心配し、様子を窺っていたのだろう。
「どうかしたのか、ミキ?」
「まあ、ちょっと気になることがあったので」
彼女の視線はまだ、数メートル先にある砂利道を歩いているジェイコブの背中を追跡していた。
先の掲示板についての発言が当然気にはなっていたが、それ以上に興味を引かれたのは、彼がマスターベッドルームにいた時に泣いていたのではないか、ということだった。その表情はモルグで死体と対面した遺族や恋人そのもので、死者を悼む悲痛さを感じさせたのだ。
検死結果から、エミリオは同性愛者であった可能性が高いとされている。
そしてジェイコブは女嫌いの気があり、エミリオの死体を確認してから明らかに動揺しているようで、行動に不審な点がしばしば見られることがある。
この街は海軍の施設に隣接しており、すぐ近くに屈強な独身の男たちが住んでいる。エミリオは、付き合う相手には事欠かなかったことであろう。
そしてここは、フレデリックスバーグからもそう遠いというわけではない。
もしかすると、ジェイコブとエミリオは単なる顔見知り程度という仲ではなかったのではないか?
未来はそこまで考えてから、それ以上の推測を止めた。
今大事なのは、目の前にあることなのだ。まず最初に、今日の捜索のことについてニコラス刑事に確認しなければならない。
「捜索はもう終わりなんですか?」
「ああ。狭い家みたいだからそんなに人数は必要ないって、ランチェスター捜査官からも聞いていたしね。実際は意外と広さがあったんだが、作業もそんなに大変じゃなかったから」
ニコラスは短くなったタバコを携帯灰皿に突っ込むと、もう一本くわえて火をつけた。非喫煙者の未来を気遣って風下に移動する間も、ひっきりなしに吸っては煙を吐き出している。
捜査時間とは関係なく、彼を相当に苛立たせることがあったようだ。
「ランチェスター捜査官ですけど……その、何か失礼なことをやったりとかしてませんか?」
「大丈夫だよ。僕らが彼の後始末をするのも、最近はもう当たり前になってきたから。ミキがいた頃はこういうことはなかったし、慣れるのには丁度いいさ」
「何か余計なことをしたんですね、彼は」
あくまではっきりとした言葉には出そうとしないニコラスの気持ちを汲み、未来はやれやれと溜息を漏らした。
「現場で警察にああしろ、こうしろ、っていちいちうるさいのはいつものことだよ。でも今日は率先して部屋に入っていって、他の捜査員と一緒に捜索をしてたからな。誰かが何かを見つける度にすっ飛んでいって、色々とケチをつけてたみたいだけど。あの様子じゃ、そのうち指紋の採取も自分でやるって言い出しかねない勢いだったな。そのくせ、とっとと捜索を終えて早く署に戻るって急かすんだ。奴の気分でこっちの仕事を引っ掻き回されたら、たまらないよ」
抑えていた愚痴の一端を吐き出したニコラスの苦々しげな顔を見て、未来の溜息が一層深くなる。
どうやらジェイコブは、未来が危惧していた状況をもうとっくに作り上げていたようだ。地元警察とフレデリックスバー駐在事務所の間にある深い溝は、今回の事件で更に深まってしまったのではないかと思わざるをえない。
それにしても気がかりなのは、ジェイコブの態度が今までと違っていたらしいことだ。
エミリオが所持していたものが証拠品として押収されることを恐れていたようだが、それが何なのかは今のところわからなかった。
そしてもしジェイコブが捜査員から証拠品を預かったりしていたら、こっそりと重要な証拠を隠滅していた可能性も否定できない。
やはり捜索に立会いができなかったのは、未来にとって大きな痛手だ。
しかし、FBI内部の揉め事を郡警察のニコラスに知られるわけにはいかない。あくまで同僚の浅慮を嘆くふりをして、彼女は申し訳なさそうにうなだれた。
「そうですか、申し訳ありません」
「ミキは関係ないんだから、僕に謝る必要はないだろ。ノートン上級主任にでも報告しといてもらえれば、僕としては十分だよ」
ありがたいことにニコラスはたばこにストレスをぶつけていて、目の前で意気消沈している未来に八つ当たりをする気はないようだ。
ジェイコブの様子をさり気なく見てみると、彼もたばこをふかしながらカーター刑事の捜査車両の横で寒そうに立っている。証拠品を積んだバンの後ろには見張りの捜査員が立っているため、この状況であれば証拠品にはもう触れない筈だ。
捜索に立ち会っていない未来は、少しでも被害者宅の情報を集めておく必要がある。気を取り直して頭の中で質問事項を整理し、ニコラスの顔を見上げた。
「捜索のことについて、お聞きしておきたいんですけど。この家の様子に、何か変わったところはありました?」
「家の窓やドアの鍵は全部かかっていて、派手に荒らされた様子はなかった。サイドボードの引き出しの奥に本人名義のカードと、裸の現金が100ドルほどあったことも確認してる。ただ、色々なものが最近動かされたような形跡があったな。指紋は複数見つかってるけど、照合がまだだから何とも言えないけど」
「家の鍵は、発見されてなかったですよね?」
「ああ。だから鍵業者を呼んで開けさせたんだ。彼がここを買ったときに、流石に玄関の鍵は交換したらしかったからな」
ニコラスがやや上を眺めて、室内の様子を思い浮かべつつ説明した。くわえっぱなしになっているたばこの薄い煙が、弱く冷たい風で後ろにゆっくりとたなびいていく。
未来とニコラスが話しているポーチでは、作業を終えた3人の捜査員たちが家の奥から出てきていた。もう捜索の目処がついたのか、手には細かい押収物を入れた証拠品袋を抱えている。
最後の一人がリビングの電気を消すのを見ながら、ニコラスは煙を吐き出した。
「捜索の合間に周辺の住民にも聞き込みをしたんだが、どうもエミリオは売春で生計を立てていたらしい。色んな男がしょっちゅう出入りしてたのが目撃されてるんだ」
「彼、自宅で商売してたんですね」
「そうらしい。この辺りは海軍の独身者も多く住んでるから、やりやすかったんだろう。でも、家の明かりが消えた日が何日も続いたこともよくあったそうだ。だから部屋に誰かを連れて来るだけじゃなくて、外でも仕事をしてたんじゃないかな」
「このご時勢で珍しいですね。私なんか、知らない人は怖くて家に上げられないですよ」
未来がカーターの話に眉を顰める。
「そう思うのが普通だろう。だから今に面倒なことが起きるんじゃないかと、この辺りの住民もあまりエミリオとはかかわりあいになりたくなかったらしい。外から様子は見るけど、積極的に話しかけるような仲じゃなかったみたいだ」
「ということは、もし客の中に犯人がいたとしても、住民は顔を見てない可能性が高いってことですね」
「残念ながらそうなるな」
ニコラスがポーチから周辺を見渡したのにつられ、未来も辺りに視線を巡らせた。雑草が伸び放題になっている庭を突っ切っている砂利道はベイン・ストリートにつながり、その反対側に建つこぢんまりとした平屋の玄関が木々の隙間から見えている。ポーチの手すりには金色のモールやサンタクロースの小さな人形が飾られ、玄関の周囲は可愛らしくデコレーションされていた。家には小さな子どもがおり、きっとクリスマスを心待ちにしているのだろう。
この辺りは基地の近くとは言え、完全な住宅街だ。日本と違って隣家との間はかなり離れているし、特にエミリオの家は手入れされていない常緑樹や雑草で囲まれている状態だった。
これでは住民からの目撃証言が期待できそうもない。




