安息なき夜 -18-
『それと、エミリオの体内から見つかった精液についてなんだが。DNAは一人分だけで、残念ながらそいつはCODISの登録がなかった』
「じゃあ、誰のかははっきりしないわけだね」
『そう。犯人のかも知れないし、違うかも知れない。交友関係を詳しく調べて、場合によってはDNAサンプルも集めなきゃならねえな』
先とは違い、ジャクソンは残念とは言いながらも口調はさらりとしていた。
そしてそれは未来にとっても意外なことではない。
今まで証拠らしい証拠を残してこなかった犯人が、究極の個人情報であるDNAをうっかり置いていってくれるとは、どうしても思えなかったのだ。それにもし犯人が過去に軽犯罪を犯して逮捕されたことがあるのなら、尚のことDNAと指紋については注意を払うだろう。
エミリオは同性愛者である可能性が高いが、直接的な性的暴行を受けて殺された可能性は低い。体内の精液は犯人のDNAが採取されない限り、証拠としての重要度はさして高くないと言ってもいいぐらいだった。
それに死体から発見された証拠物品は、被害者以外のDNAだけではない筈である。被害者は冬用のニットを着て、土の上に放置されていたのだ。ごみや繊維など、小さな証拠を山のようにくっつけていることは間違いない。
一連の事件で発見された証拠の明細を思い出しながら、未来は次の質問をジャクソンに投げた。
「他の微物はどうなの?今回も同じようなのが見つかった?」
『今分析中だ。素人目には同じような動物の糞なんかが検出されたように見えたけど、化学分析チームの連中が報告書を持ってきてくれるのを待つしかねえな』
確か今までの事件で発見された共通の証拠はクマネズミの糞にクッキーのかけら、キウィや玉ねぎの皮などだ。これらの共通する証拠のうちで幾つかでも同じものが検出されれば、同じ場所で死体処理がされたと見なすのに事が足りるだろう。
『死亡推定時刻は、筋肉の硬直具合と胃の内容物から推測して11月28日の20時から深夜にかけて。血中アルコール濃度は0.16パーセント。かなり酔っていたようだな』
「犯人が飲ませて、抵抗できない状態にしたのかな?」
未来がジャクソンが読み上げる項目と数字をメモに書き留めながら、疑問を口にする。血中アルコール濃度はかなり高い数値だと言えるだろう。酒に弱い体質の者は、まっすぐ歩くことさえできなくなるくらいだ。
『可能性はゼロじゃない、ってことぐらいしか言えねえな』
新たに判明した検査結果はそこで終わりのようで、ジャクソンは話題を移した。
『そう言えば、そっちの事務所にいるクソガキは何か吐いたか?』
彼がクソガキと表現した人物がジェイコブであることに、未来は一瞬気づくのが遅れた。
「クソガキって……彼はあんたと2歳しか違わないよ。まあ、締め上げてはいるけどね。もう少し、時間がかかるかも」
未来はつい癖で声色を少し低くし、周囲の気配を探ってしまった。
普段ならデイタイム中の事務所は受付係のマイケルと一般市民の話し声がしていたり、電話もひっきりなしにかかってきて喧騒に満ちているが、土曜日の午前中である今は静まり返っている。
自分の習慣に思わず苦笑した未来は、自然と抑え目になっていた声のトーンを元に戻した。
「ジャクソンはフレデリックスバーグに来ないの?2人で一緒にいた方が、まとまって行動しやすくていいんだけど。あんたがいれば、あいつに対してももっとうまくいくだろうし」
『いや、俺はこっちで今日までの検査結果をまとめた詳細な報告書を作れって言われてるんだ。DNA以外にも、結果待ちの分析がまだまだあるからな。被害者宅の捜索についても、モノをこっちに送ってもらったらすぐに調査を始めねえと』
提案してきた同僚女性に答えるジャクソンの声には、やはり忙しなくキーボードを打つ音が重なっている。彼の大きな手では、既製品のキーボードは小さすぎてかなり使いづらいのだろう。
タイピングのリズムは心なしか苛立っているようにも聞こえ、2メートル近い巨体のジャクソンが、長い手足を個人オフィスの窮屈なデスクで持て余している様が目に見えるようだった。
「デスクワークばっかりで、退屈なんじゃない?」
彼に対し、捜査車両であるダークグリーンのプリウスを駆って北部ヴァージニア一帯を奔走しているイメージしか持っていなかった未来が、からかいを込めて言った。
『ちぇ、それを言うなよな。折角わざと忙しくして、ぼんやりしないようにしてるってのに』
これまた仏頂面がストレートに結びつけられるような、ジャクソンの子どもっぽい憤慨が即座に返されてくる。
「隊長にお礼を言っといてよ。ミキ・ハザマは刺激的な場所に戻ったお陰で、今のところは退屈しないで済んでますって」
『あんまり嫌味なことを言ってやるなよ。ああ見えても、隊長はお前に対する処遇については最善の配置をしてくれたんだし、心配もしてるみたいなんだからな』
「まぁ、気遣いは嬉しいんだけど……」
皮肉と自嘲を込めて口に上らせた台詞にジャクソンが素直な感想を漏らしたことで、未来は口ごもることになった。
刺激的な場所、というのはジェイコブとの諍いを指し口を突いて出たことだ。
しかしこの言葉は、もう一人神経によろしくない刺激を与えてきそうな人物も近くにいることを彼女に思い出させた。
ここは自宅に近く、全米随一のセキュリティを誇るクワンティコのFBIアカデミーからは遠い。つまり監視の目がなく自由に動くことに関して都合が良く、こちらに危害を加えようとする人物にとっても丁度いい場所なのである。
未来の頭にふと、ソフィーに入れ知恵したことを知ったラルフが逆恨みし、襲撃をかけて来かねない危険な存在になってきていることが過ぎったのだ。
『おい、ミキ?』
不意に黙り込んだ未来を訝って、ジャクソンも探るような態度になる。
未来は話すのを一瞬躊躇った。
しかし、ジャクソンは未来が杉田のために独自に動いていることを黙認してくれている仲間の一人でもある。打ち明けるタイミングとしては、まだ可能性の段階である今をおいて他にないだろう。
「ちょっと気になることがあるんだよ。場合によっちゃ、ティアーズ絡みかも知れないの」
間を置いてから再び口を開いた未来の声は、明らかに重くなっていた。
そして彼女は今までに自分の身を通り過ぎた事実を全て、簡潔にジャクソンに話した。
恐らくジャクソンも知っているであろうソフィーとの関係から始まり、彼女のストーカーであるラルフとその人格のことについて、そして彼がティアーズ事件で使われたのと全く同じ人形をソフィーに贈ろうとしたこと。その現場には、杉田の行方を追ううちに遭遇したこと。
加えて、エミリオの死体が発見される直前からぱったりとつきまとい行為が止んだことを、なるべく主観を交えずに説明した。
未来が話していた数分の間、ジャクソンは最低限の質問のみを挟んでひたすら耳を傾けてくれていた。が、彼女が長い話を終えて小さな溜息をついてからもまだ、彼は沈黙を守ったままでいた。
一向に自分から言葉を発しようとしないジャクソンへ再び未来が言葉をかけようとしたところへ、彼はようやく一言だけ言った。
『どうしてそんな大事なこと、今まで黙ってたんだよ』
「確証がなかったんだよ。もっとも、今も状況は変わってないから、今もまだラルフがティアーズ事件にかかわってる可能性があるってだけなんだけど。最新の被害者が発見される直前くらいから鳴りを潜めたのが、どうも気に食わないんだよね」
同僚の黒人男性は未来を責めたり呆れたりするのではなく、逆に淡々とした口調になっただけで感情を殆ど込めていなかった。彼自身でも頭の中で話をまとめている最中なのだろう。
未来は怒りを露にされるより、このような反応の方に不安を覚える性質だ。つい、返事が弁解がましくなってしまうのは隠せず、無意識のうちに肩もすくめさせていた。
『このことは、誰か他の奴にも話してるのか?』
「あんたの他には、ポールにしか話してないよ。特殊捜査チームの誰かに情報が行って、突っ込まれると厄介なことになりそうだから」
続いた質問を乗せた声からも、やはりジャクソンの心の中は窺えない。
再び会話に隙間ができる。
未来の方でも、これ以上ジャクソンに与えられる情報はない。そして明確に法を犯したわけではないラルフを今すぐ逮捕できるわけでもなければ、警察機関への任意同行を求めるだけの理由もない。どんなにこの状況が歯がゆくとも、動向を見守る他はないのだ。
そうジャクソンも考えているだろうと思っていた未来の耳に、意外な言葉が響いた。
『そのラルフって奴は、証拠さえ揃えばしょっぴくことは可能だな。そうすりゃ、もっと堂々と調べることができる』
ジャクソンは殆ど独り言を漏らしたのと同じぐらいの小さな声だが、未来を慌てさせるのには十分な内容だった。
「待ってよ。ラルフを逮捕してみてもし事件とは無関係だったら、ただじゃ済まないでしょ。今はまだストーカーの容疑だけなんだから、地元警察にこっちから話を持ってって、迷惑行為の現行犯で逮捕するしかないんじゃない?被害者が証拠をきちんと押さえてるかどうかも、確認できてないんだし」
『お前に指摘されなくたって、それぐらいのことは俺にだってわかってるさ。ちょっと言ってみたくなっただけだよ。それにしても事務所にいるクソガキと言い、全くお前の周りにはいちいち面倒な奴が多いな』
本気にするなと言いたげなジャクソンの声は、よくよく聞いてみれば半分笑っている。
この仕事に就いてから生真面目な言動が嫌と言うほど染みついている未来からすれば、本気で狼狽するのには十分過ぎるほどの悪い冗談だった。
『俺の方でも一応、当ってみることにするか。ラルフに前科がないかどうか知り合いの警官に調べてもらうのと、情報提供者にも心当たりがないかどうか聞いてみよう。顔写真が手に入るといいんだけどな』
しかしそれでも、一瞬にしてオンタイムの態度に戻すのもまたジャクソンという男である。
ジャクソンに限らず、堅い仕事に就いているアメリカ人はえてしてこんな調子だ。ふざける時とそうでないときの落差に未来はまだ振り回されているが、これには慣れるしかない。
半ば呆れながらも礼を述べてから、彼女は電話を締めくくった。
「私の方でも何か新しいことがわかったら、すぐに知らせるようにするから」
最後にジャクソンが頷いたのを察してから受話器を置いた未来であったが、今まで胸の中を支配していた靄が晴れて気が軽くなっていることを改めて感じた。
ラルフのことについてはポールに話していたものの、性格分析官である彼は捜査官でないため、今後の捜査についてどうこう言えるわけでない。故に未来は一人で問題に対処しどう動くかも決めなければならなかったが、これからは自分よりも経験豊富で、異なった観点から物事を捉え、具体的なアドバイスができる者が側に来てくれたことになる。
それがたった一人の同僚であったとしても、一緒に動いてくれる味方ができたことはこの上なく心強い。そして何より、ジャクソンは未来が陰でブラックヘア事件を捜査していることを知っているのだ。
ひたすら助けを待っているだろう男と、自分を支えようとしてくれている男。
二人のためにも、暗澹たる気持ちに押し負けているわけにはいかない。
未来は心を暖かく照らし始めた大男の笑顔を思い浮かべ、デスクに向き合っている自らの背を伸ばした。続いて、担当地区の警察署で親しい刑事たちの職場と携帯電話の番号一覧のファイルを開く。
恐らく、皆今日は自宅で家族や恋人とくつろいでいることだろう。そこへ明日は捜索を行う旨を伝えるのは心苦しいが、警察機関に勤める人間の宿命と思って諦めてもらうしかない。
パソコンのデスクトップ画面を鮮やかに彩るレモンイエローの電子付箋には、彼らと相談して決まった具体的かつ短い内容だけを追加するつもりでいた。
冷たい骸となり果てた被害者の手足や腹を捻じ切るように引き裂き、血まみれの肉塊にする残虐極まりない殺人事件。
その6番目の被害者に当たるエミリオ・ハンソンの自宅は、死体発見現場から直線距離で11マイル程度離れたキングジョージ郡ダルグレン地区にあった。
小さなこの街は南と西が湾に面し、すぐ東は海軍陸戦センターの広い敷地に隣接している。縦に長い土地の中心をポトマック・ドライブ・ステート・ルートが走り、小学校やショッピングセンター、レストランも点在して街としての体裁は整っていたが、住人には海軍関係者が多い。それも士官や将校ではなく、主に下級兵士とその家族が住んでいるような場所だ。
エミリオが住んでいた家は街の中心からやや北にずれた辺りに位置し、古ぼけた平屋やペンキが剥げた粗末なメゾネットタイプのアパートが並び、舗装されていない私道には雑音が酷いエンジン音や、湿ったモーター音を上げる車があちこちに停められている。
海軍の施設は平日は訓練が行われて騒がしいのだろうが、日曜日である今日はひっそりとしている。この辺りの住民も、午前中に教会に行った後は自宅で静かに過ごしている者が多いのだろう。急激に気温が下がって寒くなったせいもあるのか、元気に遊んでいる子どもたちの姿は少なかった。
12月初日の曇った空の下、被害者宅の捜索に訪れたニコラス・カーターは、危うく目的の家を見過ごして通り過ぎてしまうところだった。エミリオの家は荒れ放題の庭と手入れがされていない木に隠され、全体が見えなかったのだ。
「周囲の様子くらい、事前に調べて来なかったのか?」
捜査車両の助手席に座っていたFBI捜査官、ジェイコブ・ランチェスターの嫌味な一言は、今日に限って余計に腹立たしかった。ニコラスが昨日受けた連絡では、この捜索に最近ジェイコブと同じ駐在事務所に戻ってきた捜査官のミキ・ハザマも立ち会うことを聞いていたからだ。
彼女は少なくともこんなことで憎たらしい口は利かなかったし、郡警察のような地方の組織を見下すような態度は取らなかった。地方担当の警察機関同士が反目し合うのが如何に愚かなことであるかを着任早々に理解し、一般の警官やハイウェイ・パトロールとも友好的な関係を築くことに心を砕いていた。
それをこの優男が担当になるなり、全てをぶち壊してくれたのだ。
ジェイコブは、現場を仕切りたがるくせに自分からは積極的に動こうとせず、FBI以外の人間を馬鹿にする。協調性と相手に対する礼儀を欠くこと甚だしく、捜査官としての人格を疑いたくなると言っても差し支えはない。
ニコラスは、ジェイコブの素行の悪さをいつDCにいる知り合いの調査官に告げ口しようかタイミングを窺っていたが、今日こそは堪忍袋の緒が切れた。この捜索が終わったら連絡しようと、作業の合間に携帯電話にメモリされた電話番号を確認してしまったほどだ。
今回の被害者宅の捜索にしても当初は夕方から開始する予定で、鑑識スタッフの数や実施時間など、主な段取りは地方警察が主体となって決めることになっていた筈だ。それを警察側の担当であるニコラスを通り越してジェイコブが勝手に決めた挙げ句、全ての準備を進めてしまったのである。
結局、予定を3時間早めて午後2時から始まった被害者宅の捜索は5時前頃に終了し、捜査員たちが片づけを始めた頃にはもう辺りがかなり暗くなっていた。小さな平屋の住宅を捜査員5人に刑事とFBI捜査官を加えた7人で調べたにしては、時間がかかってしまった方だろう。
住宅が思ったよりも広く、庭の外れにあるガレージに物が多かったことが原因だが、そもそもこの捜索のために割かれた人数が少なかったせいだった。そして捜査員が不審なものを見つける度にジェイコブが検分していたせいもある。
今は捜査員たちとジェイコブが最後の点検に回っているところだったが、流石にここまでくればあと10分程度で終わるだろう。
ニコラスがいるリビングは、動かした家具や日用品がすっかり戻されている。しかしろくに掃除もされていなかったらしいコーヒーテーブルには埃が積もり、床にビールの空き缶やゲイ向けの雑誌が散乱する状態になっただけだった。ここに住んでいた男の生活が荒んだものであることは、捜査が終わった今でも一目でわかる。
ニコラスは室内をぐるりと見回してから建てつけの悪い玄関ドアを開け、外に出た。彼が主を失った平屋のポーチから証拠品が満載されたバンの横まで出てくると、横合いから初冬の冷たい風が吹きつけてきた。家々の間を鋭く渡っていく寒風に、周囲に張り巡らされている立入禁止を示した黄色いテープが音を立てて震える。
夕暮れと共に訪れた寒さを紛らわすために一服しようと、ニコラスがコートのポケットに常備しているタバコとライターを掴んだ時である。
間近からエンジン音が響き、見覚えのあるダークブルーのフォードが私道に滑り込んできた。車はそのまま庭の隅に停まり、エンジンが切れると同時に小柄で細身の人物が降りてくる。
「ミキ?どうしたんだ」




