安息なき夜 -17-
荒く弾んでいた二つの息が、徐々に静かになっていく。
窓がなく狭いトレーラーハウスの一室は、暖房が行き渡っておらず室温は低かった。が、一糸纏わぬ二人の男が横たわるベッドは、夏の空気が切り取られて置き去りにされているかのような蒸し暑さだった。
その片割れである杉田の下半身には、無理やり押し入ってきた侵入者を受け入れた疼痛が波のように打ち寄せてきている。彼は何度も味わった傷みに慣れることはなく、唇を強く噛んで堪えるしかなかった。
横で息をついている体格がいい白人の男は、ちょっとしたことで激昂しやすいことがわかっており、その気になればいつでも杉田を始末することができる。
杉田は汗ばんだ背中に張り付くシーツを不快に思ったが、不用意に動いて彼を怒らせないようにすることを優先し、寝返りは打たなかった。
しかし眼鏡をかけ直して倦怠感が残る手足をそっと伸ばした時、それでも男のある場所に視線を走らせたのは、杉田の医師としての性とある策を巡らせるためであった。
「腕の傷はもう痛まないのか?」
遠慮がちな黒髪の青年の声に反応し、仰向けになっていた男が顔をこちらに向けてくる。
二の腕のタトゥーが目立つ右腕に巻かれた包帯は、杉田がきっちりと手当てしただけあって、今しがたの激しい行為にも緩むことはなかったようだった。
「こんなのはかすり傷だ」
全裸でいる杉田の左側で、同じように肌を晒している男の返事は短い。
杉田はこの男の名を知らず、男もまた教えるつもりがないようだった。
そして会話がいつも短く終わるのも、男が自分の情報をなるべく与えないようにするのと同時に、杉田の人となりを詳しく知らないようにするためなのだろう。
下手に相手を知れば自然と情が移ってしまい、簡単に殺せなくなるからだ。
彼が親しげに話をしてくれないうちは用心するべきだったが、長くその状態が続けば杉田のことに興味すら持たなくなってしまう危険性が高まる。
この男は、何人も若い男を殺してきた殺人鬼だ。
人間が蚊を叩いて潰すのと同じで、殺人を犯すことに対して何の躊躇もせず、罪悪感も持たない邪悪な人間なのだ。
自分が生き延びるためには、とにかく自分を犯したこの男に取り入るしかない。
杉田は包帯と男の顔を交互に見比べながら、低い声で続けた。
「でも、あれは古いビール瓶だったんだろう?ばい菌が入らないように、毎日消毒はした方がいい。僕にやらせてくれるなら、普通の人がやるよりも痛くはないと思うんだけど。あまり無茶もしない方がいい。折角塞がりかけた傷口が、また開いてしまう」
なるべく卑屈にならないよう注意して、杉田は男を気遣うことのみ考えようとした。
おおよそ2日ほど前のことだろうか。
杉田が監禁されている地下倉庫のほぼ真上で、古いビール瓶を片付けようとした男が誤って転倒し、飛び散った破片で右腕がざっくりと切り裂かれた。
彼の苦痛に満ちた呻き声を聞きつけた杉田により、4インチ(約10センチ)はあろうかと言う汚れた切り傷は完璧に手当てされ、炎症の兆候も幸いなことに見られていない。
普通なら病院に行かねばならない大きさの怪我であったが、男は犯罪者の身だ。迂闊に病院に出入りして身元が明らかになることは避けたかった筈で、杉田はそこに生き延びるチャンスを見いだしていた。
医師である自分の存在は間違いなく相手にとって貴重であり、決して手放したくはないだろう。何とか外部に連絡する隙を見つけるまで、男をとことん信用させなければならない。そのためには意地もプライドも捨てて従い、本当の意図を悟られないようにするしかなかった。
同時に、男の存在に自らが絡め取られて呑まれないよう、強い意志も要求される。
表面上は男を慕って彼が応えてくれるのを喜びつつ、腹の中ではしたたかに計算して欺き、自身が助かることを第一に考えるのだ。
包帯の交換や傷口は、最初はいちいち男が地下室まで降りてきてやっていた。しかし回数を重ねるうち、杉田が逃げ出す意思を持っていないと思った男は、今では監禁場所を地下室からトレーラーハウスのベッドがある部屋に変えていた。
そう、少なくとも今の杉田に逃亡するつもりはなかった。
男が気弱なアジア人青年を恐怖で完全に支配し、その行動を見えない枷でがんじがらめにしていると思い込むまでは。
「それに、傷口はあまり空気に触れさせないほうがいいんだ。つまり、全くの素人がやるよりは僕にやらせてもらえる方が早く治せるってわけで……」
いとおしむように、杉田は指先で男の包帯の上をなぞる。
その心配そうな--少なくとも見た目は--眼鏡の奥の瞳にある本心を読み取ろうとしているのか、男は枕に頭を預けたままで視線を動かさない。今まで身体を蹂躙される度に絶叫し、泣き喚くしかなかった杉田の反応が変わってきたことに、男は興味を持ち始めたのだろう。
が、彼はぷいと目を逸らして呟いた。
「自分の世話は自分でやる。余計なことはするな」
それでも、身体まではそっぽを向いていない。まだ相手の話を聞く気持ちを残しているサインだ。
杉田は地下室に監禁されていた時から考えていた言葉を、迷わず唇に上らせた。
「貴方の役に立ちたいんだ」
「俺の?」
男の馬鹿にしたような嘆息に、微かな笑いの色が見える。
頷いた杉田が、男の方へ僅かに身体を寄せた。
「僕を今この瞬間まで生かしておいてくれた、そのお礼がしたいんだ。それにこれからも、殺さないでいてくれるなら何だってする。逃がしてくれなくてもいい。お願いだ」
彼は頭の中で何度も繰り返して完璧に覚えた文句を、一言一句漏らさずに口にしていた。
自分を陵辱した相手に感謝し、礼がしたいなど、本心では反吐が出るくらい忌まわしい台詞だ。しかし、自分が役に立つということを印象づける機会はもう二度と来ないかも知れない。
今を逃してしまえば、自分は生きて未来に会うことができなくなる。
検死局にあるステンレスの冷たい解剖台の上で身体を切り刻まれ、自分さえ知らない全てを暴かれてしまう。
そうなれば、愛する女の心は凍てつき、粉々に砕け散ってしまうに違いなかった。
絶対にそんなことはさせない。
僕は、必ず生きてここから帰ってみせる!
杉田を支えている未来への強い想いは彼を千両役者へと変貌させ、自らの心を完璧に覆い隠すまでになっていた。
熱く、潤んだ黒い瞳を向けられているのを感じたのだろう。男の背けられていた視線がシーツの上を這い、杉田の顔に留まった。
「何でもか?」
男が黒髪の青年を見つめたまま、胸毛の濃い上半身をゆっくり起こした。
二人の視線が正面から重なり合ったまま、動かなくなる。
時間にすれば10秒とない間だっただろう。ただし、身じろぎ一つしない杉田にとってはその何十倍にも感じられるような間であった。
男が片手を杉田の顎に伸ばし、顔を上向かせた。
太い指の熱い感触に驚いた身体が跳ね上がりそうになるのを、杉田は必死になって抑えつけた。
心臓が胸で暴れ、四肢は逃亡を図るべく緊張するが、自分が抱いている嫌悪感をここで悟られるわけにはいかないのだ。
「お前は医者だと言ったな」
呟くような男の一言に、杉田は落ち着いた様子を装って頷いた。
「怪我を治したりする以外に、何ができるんだ?」
「料理と洗濯に掃除……それに、貴方を喜ばせること」
そしてすかさず、これもやはり予め考えていたことを英語に乗せる。
「お前が今、一番したいことは何だ?」
続いた男の問いに、杉田は緊張を隠した声で答えた。
「花を……」
単語が喉に絡む。
もう一度、はっきりと言い直した。
「花を飾らせて欲しい」
軟弱そうな青年が返した言葉に男は驚いたのか、僅かに目を見開いていた。
が、冗談だと思ったのか、表情の変化は一瞬だった。それが先と違うのは、口調に笑いが含まれていることであろう。
男が小動物でも弄ぶように、杉田の顔をゆっくりと左右に傾けさせる。
「男の俺に、花が似合うと思うのか?」
「いや」
動きには逆らわない杉田の、視線だけが男の顔に向けられた。
「彼女にプレゼントすればいいかと思って」
再び真正面から向き合う形になったところで、男の動きが止まる。
含み笑いさえして見せている杉田は、男がこの話に強い関心を寄せたことを確信した。
「まだ、必要なんだろう?たまには機嫌を取った方が扱い易いんじゃないかと思うんだけど」
不意に男は杉田の顎から手を外し、ベッドの上に裸身をごろりと投げ出した。
仰向けになった男がトレーラーハウスの飾り気がない天井を見つめ、呟くように漏らす。
「面白いな」
顔はもう杉田の方を向いていないが、男の話し方が今までと明らかに違っていた。
手の中の虫を死ぬまでつつきまわす子どものそれではなく、自分とは違う発想をする年下の仲間に話しかけるような、自分がこの場を支配している満足感が滲み出たものだ。
「そうかな」
「お前が面白いんだよ。俺にはそういうのが考えつかねえ」
杉田が小首を傾げたのがわかったのだろう。今度は、男ははっきりとわかる笑いを言葉の中に見せていた。
「花は僕に選ばせてくれるか?」
杉田も頭を男と同じ枕に落とし、怖気でざわつく胸を必死で鎮め、傍らの男の肩に頬を寄せた。
媚を帯びた黒髪の青年薄い胸板を撫で、男は黙って頷いた。
フレデリックスバーグ駐在事務所の未来のもとへジャクソンからの連絡があったのは、ティアーズ事件の新たな被害者が発見された翌日に当たる11月30日の朝のことである。
土曜日のため事務所に出勤している職員は未来一人しかいなかったが、ティアーズ事件のことを話すのには都合が良かった。
『被害者の名前はエミリオ・ハンソン、24歳だ。キングジョージに一人で住んでたことまでわかってる』
警察から送られてきた死体発見現場の証拠品リスト画面を、自席のモニターで睨んでいた未来が受話器を掴み上げるなり、ジャクソンはいきなりそう告げた。
最近はよく眠れないせいで午前中はけだるくなっている未来の瞳が、騒々しい同僚の声で一気にぱっちりと開く。肩と頬の間に受話器を挟んだ彼女は、電話に出ると同時に無意識でデスクトップ画面に新しい電子付箋を作成していた。
「キングジョージ郡のどこ?住所を詳しく教えてよ」
『キングジョージ郡ダルグレン、ステートルート614、5384-5246だ』
早口のジャクソンが伝えてきた住所を付箋に打ち込んだ未来の脳裏に、駐在事務所の管轄地図が浮かび上がる。キングジョージ郡は、死体が発見されたウエストモアランド郡の北西に位置する。この2つの郡は、偶然にも以前未来が担当していた地区だ。郡を跨いだ捜査は複数の警察組織がかかわってくるため面倒だが、幸い未来は双方の郡の警察と良好な関係を築くことができていた。
もっとも、後任のジェイコブがそれを維持しているかどうかは甚だ疑問ではあったが。
「彼に家族はいないの?」
『エミリオの出身はアイオワ州で、母親がそっちにいたらしい。ただ、彼が15歳の時に両親は離婚してるんだ。親権は母親にあったが、息子は離婚と同時に家を飛び出して、一度も帰ってなかったんだと。あっちの地元警察には連絡してもらうよう頼んでるんだが、母親は再婚してから引っ越してる。それ以後の足取りが、まだ掴めてねえみたいだな』
ジャクソンは電話口で溜息を交えていたが、未来も同じ気分だった。
家族の行方がわからないのでは、被害者の人となりを知るための重要な手がかりがないも同然なのだ。
が、二人揃って暗くなったところで事態が好転するわけではない。未来は話題を変えた。
「それにしても、随分早く身元がわかったんだね」
『エミリオのDNAが、CODISに登録されてたんだよ。鑑定が終わってすぐに照合してみたら、一致するレコードが10秒足らずで見つかったんだ』
「エミリオは逮捕歴があったの?」
『窃盗と麻薬売買で2度逮捕されて、1度服役したらしい。その時にDNAサンプルが登録されたんだな。逮捕当時の身体の傷なんかとも照合して確認したから、間違いないぜ』
CODISとはFBIにより作成され、全米各地の研究機関に提供されているDNAデータベースのことだ。システムの運用が始まったのは1990年代で、当時は重犯罪で有罪になった犯罪者のみが登録されていたが、近年では起訴された者全員のDNAサンプル登録が義務づけられている。加えて、凶悪事件で被害者以外のDNAが発見された場合も、漏れなく登録されるようになっていた。
各科学捜査研究所では必要な時にネットワークを通じてシステムにアクセスし、調査対象となったDNAプロファイルを過去の事件で提供されたDNAプロファイルと比較することができる。全く同一のDNAを持つ人物は一卵性双生児しかありえず、それ以外の人間で型が合致する可能性は4兆7千億分の1以下とも言われているのだ。
身元不明の死体が発見された場合、今日ではCODISでも検索をかけることが一般的となっている。今回は被害者に前科があったためこれに助けられることとなったが、こういったケースも珍しくなかった。
『エミリオの顔写真なんかも手に入ってるからな。必要なものは、この電話が終わったらすぐにメールでそっちに送るよ』
電話口のジャクソンが話すと、キーボードを叩くカタカタというも未来の耳に響いてくる。未来は念のためにエミリオが起こした過去の事件についても資料を添付するよう、黒人の同僚に依頼した。
「取り敢えず、彼の家を捜索しなきゃね。カーター刑事たちと一緒になるけど、ジャクソンも来るでしょ?」
『いや、FBIからの立会は一人でいいだろう。それに郡警察への連絡は、俺よりもミキにやってもらった方が角が立たなくていい。だからそっちは任せたいんだが』
確かに事件現場以外であまりFBIがしゃしゃり出ると、地元警察からの心象が悪くなることがある。ジャクソンの言うことはもっともだったため、未来は納得して頷いた。
「わかった。キングジョージとウエストモアランドは、私がこの駐在事務所にいた頃に担当してた地区だったから。多分スムーズに行くと思うよ」
とは言ってみたものの、未来の胸に一抹の不安は残った。
自分がこの駐在事務所にいた頃、親しくしてくれていた刑事や警官たちとの関係をジェイコブがぶち壊していないだろうか?
これから彼らに電話をして捜索の段取りを進めなければならないが、いささか気が重かった。




