安息なき夜 -16-
「今までに男性の被害者はいたけれど、同性愛者は誰もいなかった。となると、犯人の手口や行動の傾向を考え直す必要が出てくるじゃない」
一旦検死報告書を映し出しているモニターを見てから、未来は確認するようにジェイコブの目を下から仰ぎ見た。
「これまで全ての被害者に抵抗したあとは見られなかったし、今回もそう。どういうことかわかる?」
「それじゃ、何一つ今までと変わらないじゃないか。確か犯人は、頭が良くて慎重な人物だって……」
「被害者が一連の事件の犯人に殺されているのなら」
未来の回りくどい話し方に辟易としたジェイコブが投げやりな口調になるが、彼女はわざと諭すように片手を上げて乱暴な男の口を遮った。
「彼をうまく騙して、抵抗できない状態に持って行く必要があった。そのためには、セックスを餌にして釣り上げるのが一番簡単だからね。被害者は黒人の若い男性で、暴力でねじ伏せるのには手に余る相手だったんだから」
検死報告書によれば、今回の犯行でも被害者が犯人に抵抗したような形跡はどこにもない。
普通、自らの命が危険に晒されれば、死に物狂いで暴れる筈だ。
その場合は犯人を引っかいた際に抉った皮膚組織や血液が爪の間に残されていたり、犯人の攻撃から身を守ろうとして翳した腕に傷ができたりする。
そんなものが何一つないと言うことは、被害者が犯人の完全な支配下にあったことを意味している。刃物や銃で脅されて恐怖に縛られていたか、アルコールや麻薬で虚脱状態にあったのかはまだわかっていないが、そうでなければ死体の状況に説明がつかなかった。
「そうとは限らないじゃないか。ドラッグをやっていた可能性だってあるんだし」
と、捜査官らしくジェイコブも未来と同じことを指摘してくるが、未来は頷いてあっさりと肯定した。
「勿論。ドラッグやアルコールで前後不覚になってたかどうかは、毒物検査の結果を見ればはっきりするわけだけど。それに、死体からは精液も検出されてるの」
彼女がまた新しい事実をさらりと述べるが、今度は検死報告書の画面を振り返らない。
ジェイコブの上半身が大きく横に揺れる様が、今一度黒い瞳に映る。
しかし、ジェイコブは少なくとも肉眼に見える場所にそれ以上の動揺を出すことなく、ごく当たり前のことを訊ねるだけの一言を発するにとどまった。
「どこから?」
「口腔内と肛門。死体は着衣に乱れがない状態で発見されたからレイプされてるとも思えないし、もし同性愛者相手の売春をしてたなら、複数のDNAが見つかるかも知れないから。今、クワンティコで分析にかけてるところだよ」
答える未来の声も極めて抑えたものだが、彼女はジェイコブの動揺がこれまでで一番激しいものであることにいたく興味をそそられていた。
心臓は激しい鼓動を打ち鳴らし、顔は話し始めてから何度目かの紅潮を見せ、瞳孔がふくらんだ視線は未来のデスクの上を忙しなくさ迷っている。
未来がこっそりと瞳に熱反応センサーを重ねると、暖房がさほど効いていない室内であるにもかかわらず、体温が上がっていることを示す赤い色が彼の半身を覆っているのがわかった。この分だと、背中に大量の汗もかいているだろう。
しかし身体の生理的な変化を内に閉じこめる術は捜査官だけあって徹底しているようで、表情だけは完全に取り繕っている。未来以外の者の目には、ただ興奮しているだけとしか映らないかも知れない。
ジェイコブは鼻で笑って、未来が考えているであろうことを予測し否定にかかってきた。
「被害者は、犯人と合意の上でセックスしたって言うのか?その後にいきなり殺されるなんて、僕は筋が合わない気がするけどね。それに、過去の被害者には売春婦だっていたんだ。犯人がゲイかどうかはまだはっきりしないだろう」
「セシル・ジョーンズの死体からは、犯人の体液が検出されなかったんだよ。彼女が売春婦だって知らなかった可能性だってあるし、もしかしたらバイセクシャル(両性愛者)なのかも知れないしね。さっきも言ったけど、あらゆる可能性を考慮しなきゃならないから」
ああ言えばこう言う、という表現がここまでしっくりくるケースはないと断言できるほど、未来のジェイコブに対する切り返しは容赦がない。
確かに彼が指摘した通り、これまでの被害者には売春婦がいた。
一方で、彼女の身体からは犯人のものと思しき精液反応がどこからも検出されなかったことも事実だ。そして、男性の被害者からも精液反応はこれまでのところ見つかっていない。今度の被害者から精液が検出されたことは今までと異なったケースであり、その点において非常に重要な事柄だと言える。
もし犯人が被害者と合意の上でセックスに及び、その後やむなく殺さねばならないような状況に陥ったのだとしたら、犯人のDNAが残されていることになる。
それはそれで貴重な証拠が入手できることにはなるが、そんな単純なミスを果たして犯人が犯すのだろうか、という疑問も同時に未来の中でくすぶっていた。これまでの2年間に渡る犯行においては重大な証拠を何一つ掴ませなかったのに、決定的な証拠であるDNAをのことを失念していたとはどうも考えられないのだ。
とは言え、DNAが解析されていない今の段階ではまだ何とも言えない。
未来は内心の懸念を顔に出すことはせず、目の前に立つ当面の厄介者であるジェイコブのへの追及を優先することにした。
「それに、殺されるならそれなりの理由があった筈でしょう。例えば、犯人をうっかり怒らせたとか……何か、知ってはならないことを知ってしまったとかね。セシルは、怒り狂った犯人に何度も殴られて殺されたのかも知れないし」
未来が続けた話の中程で、ジェイコブの心臓が予想通り大きな音を立てた。
現在までに彼が示した反応を見れば、被害者が知人であることは間違いない。問題はどのような関係にあるのかというところだが、白人至上主義者であるジェイコブとあの黒人の青年が親しい友人であるとは、未来にはにわかに信じ難かった。
が、相手のことを好意的に思っていなければ示さないような激しい動揺が見られることから、ある程度以上の仲であろうことは容易に推測できる。ジェイコブが今までの人生でどんな人間関係を築いてきたのか、男女を問わず調べる必要があった。
未来が僅かな時間でそこまで思い至った時、ジェイコブがわざとらしく大きな溜息をついて首を振った。
「そんな当て推量で考えるなんて、馬鹿らしいと思わないのか?これだから、女って奴は気に入らないんだよ。もっと客観的に状況を分析する必要があると思うね」
「私は客観的だし、冷静にしてるつもりだよ」
彼の呆れたような口調は恐らく挑発のつもりなのだろうが、未来の獲物を追い詰める強固な態勢に露程も影響を及ぼさない。彼女を怒らせて早く会話を終わらせようとする目論見は、黒い瞳に宿された感情の見えない視線に一蹴された。
そして未来は目の前に立つ男を素早く一瞥し、冷めた唇に鋭い言葉を乗せ続けた。
「そうだね、被害者は何も殺される直前に犯人とセックスしたとは限らない。もし恋人がいたんなら、その相手のだってことも考えられるわけだしね。いずれにしても、もっと詳しく調べる必要があるわけだけど」
「どっちにしたって、DNAや毒物検査の結果が出るまでは何とも言えないわけじゃないか。こんな議論に意味はない」
「議論?私とあんたが?この話、いつからそうなったの?」
再びジェイコブが話を投げ出そうとした時、未来の声が低く響き、普段は決して見せない迫力が込められた視線がジェイコブの青い瞳を下から射抜いた。
今現在も全米から選り選られた猛者たちと戦闘訓練を受け、数度の実戦を生き残った女戦士が持つ威圧感は、その場の空気を数度は低く感じさせるのに十分な空間を瞬時に作り出していた。
「私はただ単に今の段階で判明してることと、考えられる可能性について話してるだけでしょ。何か一つのことについて論じてるわけじゃないし、この場で何か結論を出そうと思ってるわけじゃないんだから」
そしてその空気に、経験の浅い新米男性捜査官が持ちこたえられるわけがなかった。未来の言い方は穏やかで変わらずとも、完全に気圧されていたジェイコブがすぐにその場から動かなかったことは、むしろ見上げたものだ。
「もううんざりだ。早く検死報告書をよこせって言ってるだろ」
しかし顔の前で大きく手を振って目を逸らしたジェイコブは、とうとう捨て台詞とともに会話を打ち切って、未来に背を向けた。
「もう、メッセンジャーに添付して送ってあるよ。毒物検査とDNA鑑定結果は、わかり次第また私から伝えるようにするから」
大股で去りゆく広い背中から憤りが立ちのぼっているのが目に見えるようだったが、未来が投げかけた台詞は確かな追い打ちとして、ジェイコブの自尊心に確実な打撃を加えていた。即ち、重要な情報が彼の元へ直接届くことはなく、全て未来を通さねばならないのだと宣言したのである。
ジェイコブのもの言わぬ姿は、足早にオフィスの奥へと消えていった。
が、彼との舌戦にひとまずの勝利を収めた未来の口から漏れたのは、大きな溜息だった。
「……私ってば、嫌な奴」
椅子をくるりと回してデスクに向かった直後、思わず日本語の独り言がこぼれる。
いくら必要に迫られたとは言え、職務上の権限を振り翳して相手を追い詰めるのは、自身の精神にも予想以上のダメージがあるようだった。憎まれ役を演じることに慣れてはいても、やはりいい気分にはなれそうもない。
今やジェイコブは、未来のことは秘密を暴こうとする不倶戴天の敵と見なしているだろう。
それでも、彼が隠そうとしている事実を明らかにすることにより、誰かが必ず救われるのだ。そこから犯人逮捕につながれば犠牲者たちの無念を幾らかは晴らせるし、遺族の感情にもある程度の区切りはつけられる。
しかしそれは同時に、犯人と深い関わりを持つ人々を奈落の底へと突き落とすことも意味している。
凶悪犯の友人、凶悪犯の両親、凶悪犯の恋人。
犯人が捕まると、周囲の人々の立場も苦しいものに一変する。
世間から悪い意味で注目を集め、あいつは犯罪者とかかわっていたと後ろ指を指されることもあるため、警察やFBIを恨む者も現実には少なくない。
事実は決して変えようがない、たったひとつの厳然たるものを人々に突きつけるが、それを見る瞳の数だけ真実というものは存在する。
警察機関は犯罪における事実を明らかにする一方で、事実が全ての人々を救い、幸せにするわけではない。そのことを忘れては捜査官としての責任を全うすることはできないし、社会にある自分の存在の意味をどこにも見いだせなくなってしまう。
本来FBI捜査官には社会悪を憎む純粋さと、自己を律する強い理性とが要求される。
この相反する2つの精神を飼い慣らし、完全に操れるようになれば一人前と言えるが、そのどちらも持て余してしまう未来は、まだまだ自分が半人前だと言うことを痛感せざるをえなかった。
組んだ両手に顎を乗せ、デスクに頬杖をついていた未来が遠くを見つめるのをやめるまで、数分を要したであろうか。気を取り直した彼女が軽く手を振って電話を取り上げようとしたところで、マウスの近くに置いてある個人携帯電話が着信を告げて光った。
ソフィーからの電話だ。
『もしもし、ヨーコ?今電話は大丈夫かしら』
未来が本体を持ち上げて受話ボタンを押すなり、ソフィーの声が耳を打った。心なしか、先日大学で会った時よりも口調が明るくなっている気がする。
「うん。どうかしたの?」
『特に用はないんだけど……大丈夫かなと思って。この前会ったとき、全然元気がなかったじゃない。あんな貴女を見たのは初めてだったから、心配になっちゃって』
「そっか、ごめんね。何とか大丈夫だよ」
答えながらも、未来の声からは早くも精彩さが萎みがちになってきている。
職務に打ち込んでいれば辛いことを思い出さずにいられると思った矢先、彼女は神の悪意をひしひしと感じざるをえなかった。
『あれから、何かわかったことはあった?』
「兄さんの車が見つかったってことぐらいしか……警察からは、他に何も連絡がないの」
『元気出してね。大丈夫よ、きっとマサトは無事でいるわ。彼が帰ってきた時に貴女がやつれてたりしたら、心配させちゃうわよ』
「うん……そうだね」
ソフィーは心底から未来のことを気の毒に思い、友人として支えねばと考えているのだろう。そのような気遣いは却って当人を落ち込ませる羽目になることはしばしばあるが、ソフィー一般的な女性が持つ、いかにも同情的な態度がまさにそうだった。
周囲の誰かがトラブルに巻き込まれるとそれをあたかも自身のことであるかのように心配し、お節介なぐらいに世話を焼きたがる人物はどこにでもいる。
しかし彼らにはあくまで安全な立場から事態を操ろうとし、自分が重要人物になった気分を味わいたいだけという歪んだ優越感に根ざす心理が裏に働いている場合が多い。しかもそれは本人に無自覚なため質が悪く、身近にこういった人物がいる場合は距離を置くのが一番だとされる。
所謂共依存やサイコパスにも多いケースだと言えるが、ひょっとしたらソフィーもそうなのではないかという懸念が、未来の中に影を落としていた。
はっきりした根拠があるわけではない。
以前の未来であれば人を悪く思う度に自己嫌悪に陥っていたところだが、最近は心の内に息づく野生が警告する声をないがしろにしたことはない。故に、この電話でも自らの発言を意識せずに抑えていた。
加えて周囲の雑音にも気を配っている未来の耳には、ソフィーの言葉が流れ込み続けてくる。
『私も早くマサトが見つかるように、毎日祈ってるの。ねえ、マサトが戻ったら、私の家でパーティをしましょうよ。私が元気の出るハーブを入れたケーキや料理を作るから、マサトには好きなようにお花で部屋を飾ってもらうの。ヨーコは、彼が一番好きな花をプレゼントするといいわ。いい考えだと思わない?』
「兄さん、きっと喜ぶと思うよ。ありがとう」
未来の返事は当たり障りのないものだが、ソフィーに話す元気がないことを察してもらえればいいという態度は気のない口調に出してある。
更に、未来は話題をすり替えた。
「でも、ラルフのことは大丈夫なの?」
『ええ。無言電話とかはあるけど、不思議と回数は減ったのよ。ごみを漁られたり、変なものが置いてあったりもしないし』
「そう、良かった。でも、急にそっちの動きがなくなったってことは、盗聴器でも……」
『それは大丈夫よ。昨日、調査の業者に来て調べてもらったの。家のどこからもおかしな電波は出てないって言われたわ。マサトのアドバイスに従って、正解だったみたい。これでとりあえずは安心してここにいられそうよ』
結局話はすぐ杉田のことに戻されてしまう。しかし、彼がソフィーに盗聴器のことまで教えていたのは未来にとって意外だった。
そしてラルフがティアーズ事件の新たな犠牲者発見とほぼ同時に鳴りを潜めたというのは、引っかかる話でもある。未来の返事が滞ると、受話器の向こうからは気遣わしげな声色が今一度向けられてきた。
『ねえヨーコ。こんな時くらい、他人より自分の心配をした方がいいわよ。マサトの情報提供を呼びかけるポスターとか、作らないの?何だったら私の学校にもかけあって、掲示とかチラシ配りの許可ももらうけど』
「でも、パパやママは警察に任せておきたいみたいだから。相談してみて、いいって言われたらね」
如何にもそっとしておいて欲しいと言いたげな口調を作り、更に小さな溜息を混ぜて、未来はソフィーの提案を宙ぶらりんな状態に持って行く。さしものソフィーも自分が出しゃばり過ぎたことに勘づいたようで、声のトーンが幾分か落とされた。
『私、何でも協力するから。何かできることがあったら、いつでも言ってちょうだいね』
「うん、ありがと。何かあったら、私から連絡するから」
恐らく大学の構内から電話してきたのであろうソフィーが頷いた気配を感じ、未来は携帯電話を切った。
今度は本心からの嘆息が胸の奥から出たようで、静かな個人スペースのパーティションに思ったよりも響いた気がする。ソフィーとはさして長い時間話したわけでもないのに、ジェイコブと話した時よりも重い疲れが残っていた。
未来は奇妙な後味の悪さを、ソフィーの周辺で2つの事件に関わりがある人物がそれぞれ出現したせいだと思うことにした。
杉田は彼女を車で送った後に失踪し、ブラックヘア事件の犯人に拉致された可能性ありとして捜索中となっている。ラルフは彼女の元恋人で現在はストーカー、ティアーズ事件に使われたのと同じ人形を送りつけていて、このまま放置しておけば何をするかわからない。
杉田が行方不明になったことはどうしようもなかったことだと思えるが、ラルフについては急に目立つ行動がなくなっているというのがやはり引っかかる。
連続殺人犯は、殺人を犯した直後は刺激が満たされるために大人しくなることが多い。しかしその麻薬の如き強烈な刺激はじわじわと犯人の心を干上がらせ、やがてまた新たな犠牲者を求める禁断症状を引き起こさせる。そうなると犯人はいてもたってもいられなくなり、また誰かを毒牙にかけるのだ。
もしかするとラルフは、あの黒人の青年の頭と胸を撃って身体を引き裂いたことで、一時的に欲望が抑えられただけではないのか。そして今度こそ、自分が人形を送りつけた相手であるソフィーを殺すのではないか。
ラルフは肉体労働の従事者で、ロボットが操縦できることをほのめかしたことがある。
男っぽくごつい顔が被害者の返り血と肉片を浴びて不気味に笑う様子が、未来の瞳に内蔵されたレンズに本当に焼きつけられたのかと錯覚するようだった。あまりにもおぞましい自身の想像に、反射的に電話に右手が伸びる。
手遅れになる前に、これ以上の犠牲が出る前に食い止めねばならない。
血に飢えた獣がまた誰かを殺すまで待ってなどいられないのだ。
しかし、と未来は自らの理性に問いかけつつ、捜索令状を申請するために掴み上げた受話器をゆっくりと置いた。
ラルフはポールの導き出した犯人のプロファイルとあまりにもかけ離れている。
今まで何も証拠を残さなかったティアーズ事件の犯人は、恐ろしく頭が良くて慎重な人物だ。
そんな人物が、あからさまなストーキングの痕跡を気にせずにいられるのだろうか?
人目につく場所で派手な喧嘩をしたりするのか?
自分の肉体を他人に誇示するような真似をするのだろうか?
答えはいずれも否だ。
ティアーズ事件の現場から見えるのは、自分が絶対に逮捕されることはないという確固たる自信であり、神経質なほど自分の臭いを残すことに敏感な細やかさだ。ラルフが持つ粗野で粗暴な思考と行動とは、あらゆる点において合致しないのである。
そして何よりもラルフがゲイなのか、最後の被害者と接点があったかどうかについては全く証拠がない。
確かな情報がない段階で焦って動いては、犯人に気づかれてしまう危険がある。結果、逃亡されたり、最悪の場合は余計な犠牲者を出してしまうことになりかねない。今冷静さを欠いて失敗することは、決して許されることではなかった。
未来はFBI特別捜査官だ。
いつでも理性で感情をコントロールし、人間の闇を理解し、犯罪から善き人々を守り、法を守るプロフェッショナルなのだ。
勝手な思い込みや一時的な感情に任せて向こう見ずに駆け出すなど、言語道断だった。
頭を冷やして、もっとよく考えろ。
未来は懸命に自分に言い聞かせて、犠牲者たち一人一人の顔と凄惨な血だらけの死体、共に犯人を追い続けているCVCの仲間たちの顔を心に描いた。
ジャクソンやウォーリーなら現行犯でない限り、もっと確かな証拠を集めてから踏み出すだろう。彼らは自分たちが背負う被害者の無念を、遺族たちの悲しみをどんな時も置き去りにしない。
つい最近この事件の担当になったのは、未来一人だ。
そしてまともに現場に立ち会ったのも今回が最初で、身元が判明していないのもあの黒人男性だけで、性交渉の痕跡があることなども今までの被害者とも違う。
被害者について、もっとよく調べてから行動に移るべきだ。
彼が一体誰なのかが、全ての鍵を握っている。
とは言え、現状でできることは全てやっているのだ。今はDNA鑑定の結果を待ち、それを基に身元を調査するしかない。
未来は乱れた呼吸を整えてから伸ばしっぱなしでいた右手をそっと引き寄せ、サボテンの鉢の側に置いた個人用携帯電話を持ち上げさせた。
このオフィスで仕事をしていた数週間前まで頻繁に連絡を取り合っていた情報提供者たちに、頼れそうな者がいないか確認するためだった。




