安息なき夜 -15-
被害者の検死報告書はドクター・スミスの言葉通り、11月29日の夕方4時過ぎに仕上がったようだった。リッチモンドのダウンタウンにある検死局の婦人用トイレで、未来が電子ファイルのタイムスタンプを自らの身体を使い確認したのである。
「ふうん……」
電子データ閲覧用に別途の視界を持っている未来が、他人には決して見えない検死報告書を閲覧しながら軽く息をついた。彼女の目の前にはビューアでサイズを適切に調整されたファイルが広がり、解剖時のグロテスクとも言える画像が貼りつけられているのも鮮明に見ることができる。この報告書は、彼女の後頭部に開けられたメモリスロットに差し込んだメモリのファイル内容を視神経に直接映し出されたものだ。
ざっと見たところでは、被害者は頭と背中をほぼ同時に撃たれてほぼ即死状態であり、体内から検出された2発の弾丸は9ミリ口径のものということだった。着衣に乱れがなく争ったような形跡はなかったものの、身元を証明できるような所持品が何もなく、どこからも犯人のものらしい指紋は検出されていない。
それ以上の細かい内容は駐在事務所に戻ってから確認することにして、未来はビューアを閉じファイル閲覧を終了した。今までトイレの壁に重なって見えていた書類画面がふっと消え、奇妙な二重視野がいつもの見慣れたそれに戻る。閲覧機器がない場所でもデータ確認ができるこの機能は、未来やジャクソンに備えられた中で日常的に使用できる便利なものの一つだ。
出来立てほやほやの報告書のデータを腹に収めている小型メモリが、未来の後頭部に開いた小さな穴から引っ張り出された。彼女の細い指先に摘まれた機密書類の電子信号は内容が変更できないように加工されており、血液検査やDNA鑑定などのデータが他の書類フォーマットの別ファイルとして資料に追加されることとなる。そのために死体から採取されたサンプルはジャクソンとウォーリーが既にクワンティコへ運び、分析が始まっている筈だった。
未来は慎重にメモリを樹脂製の保護ケースにしまい、更にそれをハンドバッグの隠しポケットに差し入れてバッグそのものを携帯電話の認証コードでロックした。周りに人の気配がないことを確かめてから古い婦人用トイレを後にし、検死局の裏口を通って駐車場に入る。
リッチモンド検死局はダウンタウンの古い建物が密集した地域にあり、排気ガスで汚れた金網のフェンスに囲まれた狭い駐車場は、常に日陰で薄暗かった。もっともここでは死体を扱うのだし、霊柩車や救急車が頻繁に来る駐車場があまり明るくても差し支えるのだろう。
未来が冷たく傷んだアスファルトの上に停めた捜査車両に乗り込んだのは午後4時半過ぎのことで、太陽はもう傾きだしていた。帰宅ラッシュが始まりかけているメインストリートにプリウスをのろのろと進ませてインターステート95に入ると、こちらはまだ混雑する前らしく、比較的交通量は少ないように思える。
道幅が広い高速道路の視界は開けており、未来は先まで太陽が顔を出していた空に再び雲がひしめき合っているのに気づいた。端を指でつまめば冷たい滴が落ちてきそうな雲は、恐らく雪を抱えているそれだ。
せめてフレデリックスバーグ駐在事務所に着くまでは降らずにいて欲しいと思ったが、95号線から一般道に入ったところで、白い花びらのような雪が空中を舞い踊り始めているのが未来の黒い瞳にも映った。
彼女の小さな願いはすんでのところで叶わなかったが、この様子なら道が滑りやすくなる前に事務所まで戻れるだろう。実際雪はささやかなもので、フレデリックスバーグの公共機関が集まる施設の屋外公共駐車場に車を停めた時は、まだ景色のどこにも白い帳を下ろしているところはなかった。
気温が低かった朝に比べ、空気を含んだ雪はふわりと軽く柔らかい。
未来は新しいコートに覆われた肩で冷たい風を切り、雪を散らしながら、赤煉瓦とコンクリートを組み合わせたモダンな建物へと急いだ。
「只今戻りました」
「……ミキ?」
数週間ぶりに姿を見せた未来があまりに普通に職員用の自動ドアを抜けて挨拶したため、受付係のマイケルは驚くことさえ数秒間忘れていたようだった。
「どうしたんだ。クワンティコへ異動になったんじゃなかったのか?」
「うん、そっちの仕事の絡みがあってね。また暫く、ここにいることになったから」
職員ではあっても捜査官でないマイケルには話もそこそこにして、未来はそそくさと狭い事務所を仕切るパーティションの後ろに入った。
「随分遅かったじゃないか、ミキ。待ちくたびれたよ」
そして彼女が一息つく暇も与えずに立ち塞がったのは、ジェイコブであった。
つい最近まで毎朝嫌味を言ってきていた若い捜査官の顔色は見るからに悪く、目だけが異常に熱を帯びている気さえする。未来の鼻先へ無遠慮に差し出された手は汗ばんでいるようで、彼の焦りを表していた。
「検死報告書、持ってるんだろ?早く見せてくれないか」
「生憎、私もまだ全部目を通してないんだよ。こっちでバックアップを取ったら呼ぶから、それまで待っててくれない?」
その大きな手をぴしゃりと払いたい衝動を飲み込んだ未来は僅かに眉を動かしたのみで、冷ややかな視線と共にジェイコブの横をすり抜けた。
彼女にはジェイコブを呼ぶつもりはない。痺れを切らしてオフィスに来るのを待つつもりなのだ。主導権を握っているのはこちらであり、ジェイコブの思い通りには決して動かないのだと、未来は態度で示して見せたのである。
今回の件については、ジェイコブが何かしでかす前に彼が抱えている秘密を掴むため、徹底的にやる必要があった。その一方で追い詰め方に度が過ぎると、却って彼の暴走を煽ることになる。
未来は便利屋時代から相手の精神を攻撃する術を心得ており、効果的な使いどころも熟知はしていたが、個人的にこの手段が決して好ましいとは思っていなかった。
それでも、今度ばかりは仕方ないと割り切る他はない。
何も言い返せないジェイコブの視線が背中に突き刺さるのを感じるが、未来は歩調を乱さず悠然と嘗ての個人スペースに足を進めていく。
背が高い仕切板の向こう側が視界に入った途端、未来は奇妙な安堵感を覚えたが、その理由はすぐにわかった。
埃っぽい感じがする蛍光灯の光に照らされたデスクやパソコンのモニター、ブックエンドに挟まれた数冊の法令集、小さな鉢植えのサボテンがある位置まで、未来がいたときそのままの配置だったのだ。
一ヶ月近く人が入らなかったにしては綺麗だし、逆に誰かが席にいたような印象もない。この駐在事務所の責任者であるノートン上級主任が言っていた通り、未来がいつ戻って来てもいいようにしてくれていたのだろう。
ここは使いやすいよう未来が好みでカスタマイズした空間ではあるが、個人的な匂いがするものは何一つ置いていない。つまり、何かの拍子に杉田のことを思い出したりする確率も低いのだ。
自分の担当する事件で、また新たな犠牲者が出た。
正直、今の未来には自身に起こったことに気を回すだけの余裕がない。むしろその方が精神力が温存できありがたくはあるのだが、自分は愛する男の心配も満足にできないほど冷たい女なのかと愕然とすることがある。
いつどんな時でも自らを厳しく律し決して感情任せの無謀な行動に出ないことは、彼女が捜査官として成長した証であり、今の状況下において最も適切な振る舞いなのである。しかし、理屈で全てを心の内におさめられないのが人間というものだった。
先生は死んだわけじゃない。
だから私は諦めない。
それに心配のし過ぎで私が倒れたりしたら、逆に先生に心配かけちゃうじゃない。
未来は頭を軽く振り、胸にずっしり重くのしかかってきていた暗い気持ちを払い落とした。
コートをハンガーにかけてからフレデリックスバーグ駐在事務所の自席に久しぶりに座り、パソコンを起動させる。彼女はOSのログイン画面が開くまでの間にバッグの隠しポケットから検死報告書の入ったメモリを取り出しておいた。ログイン後、自分の仮想デスクトップを呼び出してからメモリをパソコン本体のスロットに差し込む。
メモリにあったドキュメントを仮想デスクトップの中、つまりは実体を持たないパソコンのデータを格納するサーバに移してから開いてみた。
専用のビューアが起動すると、先に彼女が確認した検死報告書がモニターいっぱいに映し出された。画像はあらかた目を通したため、まだ確認していなかった詳細な記述を優先し読んでいく。
検死報告書は死体の全体のサイズや重さは勿論のこと、頭髪や皮膚、主要臓器の状態と特徴などが様々な項目に渡って記されている。中には古い傷痕や先天的な疾患について記した箇所もあり、個人の肉体に関するあらゆる情報が暴かれていると言っても過言ではない。
モニターに映し出されている法医学の専門用語を丹念に読み込んで暫くしたとき、未来はふと背後に人の気配が留まったのを感じた。
耳の感度を上げて心音を探ると、不安に乱された鼓動が高い位置にあるのがわかる。今朝から聞き慣れた調子のそれは、わざわざ振り返らずとも主が誰なのかを教えてくれていた。
「報告書はまだもう少し待っててもらえない?後ろからこそこそ盗み見しなくたって、ちゃんと渡すようにするって言ったでしょ」
「盗み見てなんかないよ、様子を見ただけさ。それに、バックアップを取ってるだけにしちゃやけに遅いと思ってね。ミキ、バックアップの取り方は知ってるのかい?」
未来が視線を後ろにやったところで、パーティションの陰に立っていたジェイコブが半身を覗かせた。こそこそした行動を取っていたくせにぬけぬけと言えるのは、彼がまだ未来よりも自分の方が優位に立っていると固く信じているからだろう。
未来が背もたれのついた椅子をぐるりと回して身体ごと真後ろを向くと、座ったままでジェイコブと向かい合った。大柄なジェイコブは未来を見下ろす格好となり、彼の視線は相変わらず彼女を馬鹿にしたような色合いを含んでいる。
しかし未来は、ジェイコブの青い瞳から放たれるくだらない蔑みを避けようとしない。
折角このタイミングで、当面何とかしなければならない相手の方から来てくれたのだ。あちこちをつついて探りを入れると同時に、先制攻撃を仕掛けるべく、この機会を利用しない手はないだろう。
未来は腹を決めると、聴覚のレベルを下げずに答えた。
「生憎だけど、よく知ってるよ。つい最近まで雑用ばっかりやってたんだから」
「もうバックアップが取れてるんなら、早く僕のところへ送ってくれないか?メッセンジャーで、ファイルのアドレスを教えてくれてもいいけど」
「そんなに検死報告書が見たいの?妙にこの被害者にこだわるんだね」
くつろいだ姿勢で見上げてきて、かつ全く揺らぎのない女性捜査官の物言いは、自尊心が強いジェイコブの神経を確実に逆撫でした。
歳が若く体格で劣り、おまけに異人種である女を自分が見下ろしているのに、ちっとも優位に立っている気がしない。お前など私の前ではつまらない男だと全身で語らんばかりでいる彼女の態度が、何よりも気に食わなかった。
ジェイコブは片方の眉を僅かに吊り上げた。
「この被害者だけにこだわってるわけじゃない。でも、今回は初めてうちの管轄下で起きた事件なんだ。なるべく早く情報を確認しておきたいんだよ」
生理的な嫌悪感から沸き上がる怒りを薄ら笑いでごまかしたジェイコブが、無難な言い訳を口にする。
その直前にこの被害者に執着していることを指摘されたとき、彼の心臓が音高く踊ったのを、聴覚を予め研ぎ澄ませていた未来は聞き逃さなかった。
「確かに、この被害者は今までと多少違った側面を持ってるかも知れないけど」
やや声を落として椅子をデスクの方に半分戻し、未来がマウスに手をかける。そのまま、彼女は検死報告書のドキュメント画面を最初の方まで戻した。
「本当かい?だったら早く……」
「待ちなって。まずはこれを見てもらえる?」
ジェイコブが急かすが未来は彼の言葉を遮り、ゆっくりと報告書の頭からページを手繰っていく。プラズマモニターの表面が彼のむっとした顔を反射しているのを尻目に、未来は目的の画像を時間をかけて見つけ出してからようやくマウスを止めた。
「これは2つとも被害者から摘出された弾丸なんだけど、頭と胸をほぼ同時に撃たれて即死状態だったらしいの。他の撃たれた被害者は、みんな胸を1発だけ撃たれてるのに」
画面に映し出された黒っぽい弾丸の画像を指差しながら、未来がジェイコブの方を振り返る。
が、ジェイコブの目はその前後にある割れた頭や背中の射入口の画像に釘付けになっていて、未来の言葉に対する反応は鈍かった。
「ああ、そうだね」
遅れて頷きはしたものの、彼は心ここにあらずという虚ろな表情だ。
それとは反対に心臓が激しく、落ち着かないリズムを響かせているのが、未来の耳にはっきりと届いている。死体を見慣れている筈の捜査官らしからぬ心の乱れと言えるだろう。
次に未来は胸部レントゲン写真を探し、胸の内側にめり込んだ弾丸の影がくっきりと写っている部分を映し出した。
ジェイコブの顔に視線を据え、未来の唇は淀みなく分析を続けていく。
「しかも背中はほぼ水平に弾丸が入ってたのに、頭には上向きに入ってたってことがわかってる。頭部は損傷が酷くてレントゲンは無理だったけど、脳組織の損傷の具合いから弾道が判別できたみたいでね。あんたは、これをどう見る?」
「どうって?」
乾いた唇を舐めたジェイコブが、両手を後ろに回して息をついた。
衣擦れの音が上がり、彼が手のひらの汗をズボンでこっそりと拭ったことがわかる。未来が投げかける質問に、ジェイコブは声にも苛立ちの響きを隠せなくなってきているようだ。
そして検察に詰問される被告人の如く、落ち着きがまるでない。
「この弾丸が撃ち込まれた角度からすると、被害者はまず背中を撃たれて倒れたところを、更に頭も撃たれたんだってこと。犯人は、彼をよっぽど確実に殺したかったんじゃないかって気がするんだけどね。明らかに、過剰な殺傷力を被害者にぶつけてるんだから」
ジェイコブが恐らく知りたくはあっても目を背けたいであろう事実を、未来は突きつけた。
僅かにジェイコブの肩が揺れて、細く息を吸い込む音が彼女の耳に届く。
肋骨にぶつかりそうな勢いで、ジェイコブの心臓も跳ね上がったようだった。
「犯人は殺人鬼なんだ。その時の気分で、何をしたっておかしくはないだろう」
「そうだけど、あらゆる可能性を考慮に入れなきゃならないから」
未来はお決まりとも言える言葉を落ち着き払って返したが、先までのジェイコブの顔は紅潮したり、逆に青白くなったり変化が目まぐるしいことこの上ない。
未来は死体の様態に関する話はここまでにして、次の確認事項に移ることを決めた。
「それからもう一つ。この被害者は、同性愛者に特有の身体的特徴が認められるの」
再び未来がジェイコブの顔を見上げようとした時、彼の肩が目に見えてぐらりと傾いた。
更に一呼吸置いてからでないと言葉を発することもできなかったらしいが、その低い声には呻くように苦しげで、濁った呼吸が混ざっていた。
「……それが、特別なことなのか?」
「少なくとも、今回はね」
未来が頷いて見せても、ジェイコブは無表情を装っている。
今回の被害者は肛門の上皮が通常より厚くなっており、複数の裂傷が治癒した痕も認められている。アナルセックスの経験者の兆候が、はっきりと確認されていた。
合衆国では変死体が発見された場合、必ず性的習慣を調べなければならない。これには殺人が疑われる場合に犯人の性癖を割り出す手がかりになることや、身元を確認する情報源となることなど、幾つかの正当な理由がある。
とは言え、被害者の性的嗜好にかかわる事柄はもっともプライベートで且つ、繊細なものだ。
未来もつい最近聴取を受けた身であるし、口にしないで済むものなら、こんなことを積極的に話したくはない。が、ジェイコブが隠していることを暴くためには、まだ揺さぶりの手を緩めるわけにはいかなかった。




