安息なき夜 -13-
このウエストモアランド郡は未来が以前担当していた地区だったが、それをジェイコブが引き継いでいたとは知らなかった。杉田の車が発見された先日、女性及び人種偏見を持つ彼から喧嘩を売られたことを思い出し、未来の眉が僅かにつり上がる。
「ドクター・スミスをここまでお連れしたんだ。雪が降っていて、しかも深夜に運転するのは不安だとおっしゃるのでね」
ジェイコブのもっともらしい言い訳だったが、彼の隣に立つ初老の男性には、未来も見覚えがあった。
「リッチモンド検死局のスミスです」
スミスはまず、自分から近い位置にいたジャクソンに挨拶して手を差し出した。170センチに届かない彼の視界は、きっとこの黒人サイボーグだけでいっぱいになってしまっているに違いない。
ビリー・スミスはリッチモンド検死局長を務める検死官だった。歳は50代半ばの痩せた紳士といった印象で、昔気質で気難しい町医者と言うに相応しい雰囲気がある。てっぺんがかなり薄くなった金髪は身につけているグレーのコートと同じようにくたびれていて、いつもかけている老眼鏡を通した青い瞳は細められることが多く、目尻には深い皺が刻まれている。
未来が以前に検死局を訪れた時も、彼は女が物騒な仕事をするもんじゃないと言いたげな態度と口振りを隠そうとはせず、未来をうんざりさせることが度々あった。
そのスミスがジャクソンの後ろに控える未来の顔を見た時、特に顕著な反応を示さなかったのは当たり前だと言えるだろう。
「お久しぶりです、ドクター・スミス」
「こいつはまた縁起が悪い場所での再会になったもんだな、ミス・ハザマ」
未来が礼儀を守って差し出した手を胡散臭そうに握り返す辺りに、スミスが彼女との再会を歓迎していないことが現れている。握手もそこそこにして、ぷいとスミスは死体の方を向いた。
「雪が積もらないうちに、とっととモルグへ死体を運んでしまわなけりゃな」
「死体はあそこです。まだ誰も触ってはいませんから」
そこへ、救急隊の到着に気がついたニコラスが走って戻ってきた。軽く息を弾ませている彼の後につき、林の奥に横たわる死体の側へ一同が移動していく。
「確か、被害者は黒人の若い男だったね。この辺りは黒人人口は少ない上に、中産階級以上の住民が多いんだ。誰かがいなくなれば即座に騒ぎになるから、地元の奴じゃないだろう」
「被害者の身元を示す物は、まだ何も見つかってない。確認するまではわからないだろう」
ジェイコブの発言にニコラスが眉を顰め、辺りを見回した。彼の先には黒人の警察官がいたが、幸いジェイコブの言葉は届いていないらしい。
黒人は皆貧しくて中流以下の生活を送っていると決めつける発言は誰に向けたというものではないが、ジェイコブの前はジャクソンが歩いている。その状況でよくそんなことが言えるものだと、未来は怒りを通り越して呆れていた。
しかも今は死者が相手だというのに、無神経にも程がある。
今この場にジェイコブと2人しかいなかったなら、多分未来は怒りをぶちまけていただろう。彼女は、他の担当者もいる今感情を露わにするほど子どもではなかった。
当のジェイコブは自分の差別主義を改める気は全くないようで、ニコラスともうまく付き合えていないことが、今のやりとりからも窺える。未来は自分がCVCに転勤になったのが早すぎたのではないかと、必要のないことまで気にし始めていた。
しかし他人の気遣いなど毛ほども気にかけないジェイコブは、無意識の下に差別的な発言を続けていた。
「なら、DNA採取して犯罪者リストと突き合わせた方が早いかも知れないな」
「行方不明者のリストと突き合わせる方が先だよ」
今度は未来が鋭い睨みと突っ込みを放ったところで、皆は死体を隠すブルーシートの際に辿り着いた。
スミスが抱えていた医療鞄を地面に下ろして開け、ラテックスの手袋と外科用マスクをつける。その横でニコラスと未来がシートをめくり上げて、死体の全身が見えるようにした。
既に無惨な死体の有様を確認していたニコラスと未来は無表情を保っていたが、ジャクソンは顔をしかめ、スミスはすぐに仕事の顔となって死体を観察し始めた。
ひゅっ、と誰かが息を強く吸った音が鋭く上がる。
ブルーシートを重ねていた未来が、反射的に聴覚の感度を上げた。
間近から上がる3つの落ち着いた心音に、一つだけ調子の違うそれが混ざっている。ひどく苦しげで不安定な、落ち着かない鼓動だ。加えて、不自然に深い呼吸を繰り返す気管と空気の摩擦音も重なっている。この鼓動と呼吸の持ち主が千々に心を乱されており、必死に自分を律しようとしていることの証拠だ。
未来が顔を上げると、しゃがみ込んでいるスミスの後ろに立つジェイコブの様子が明らかにおかしいことがわかった。死体に釘付けになっている目は大きく見開かれ、血の気がまるで失せた青白い肌の色は、貧血で倒れる寸前のように見える。その上膝が震えているのか、上半身がふらついているようだった。
「どうかしたのか、ランチェスター。まさか、死体を見たのが初めてってわけじゃないんだろ?」
未来の怪訝そうな表情につられてジェイコブの顔を見たジャクソンが、我を失っているジェイコブにゆっくり言う。すると未来の元同僚は、夢から醒めたばかりのように目頭を指で揉んでから軽く頭を振った。
「僕は今日、殆ど寝てないんだ」
「それはここにいる全員がそうだ。邪魔になりたくなけりゃ、もっと後ろに下がっててくれねえか」
やはり、先程の差別的な物言いが引っかかっているのだろう。ジャクソンの言葉と態度には、刺々しさがそこかしこに窺える。自分よりずっと大柄で筋骨逞しい黒人捜査官から必要以上に凄まれたジェイコブは、無言でコートのポケットに手を突っ込みながら後ずさった。
「おっと、ちょっと失礼」
短い一言を残してジェイコブがそのまま一同に背を向け、警官たちが出入りを繰り返している林の入口へと走っていく。誰かからの電話を受けたようだったが、それにしては遠くまで行きすぎだった。
そして未来のまだ感度を下げていなかった耳には、いつまでたってもジェイコブが電話に出る声が聞こえてこない。彼の走り方も足を引きずるような重いもののようで、動かない身体を鞭打って無理に走っているような印象がある。
死体を見た時の動揺した態度と言い、ジェイコブの振る舞いは明らかに不自然だった。
「ふむ。こいつは酷いな」
そこで、死体の体温を計り終わったスミスが呟いた。彼はブルーシートを避けてから、周囲の動向を一切気にしていないようだ。手にしていたクリップボードの用紙に書き込みをしてから温度計を鞄にしまい、入れ替わりでピンセットと証拠品を入れるためのビニール袋、一眼デジタルカメラを取り出す。
スミスは皆が見守る中で、先程の未来と同じように様々な角度から写真を撮り出した。短い間隔でフラッシュが白く発光し、割れた頭や傷口を汚す血液を鈍く光らせる。彼は一通りの写真を撮り終えた後、今度は死体に顔を近づけて小さな証拠品を探し始めた。
「頭を撃たれていたかどうかはまだわからないが、恐らくこの銃創が致命傷の一つだろう。背中のは射入口だな。ここのところが、煤で汚れているだろう?至近距離から撃たれたと見ていいと思う」
途中で手が止まり、ラテックスに覆われた手で死体の背中が指さされる。そのしぐさは、大学の解剖実習で教授が学生に手本を示すようだった。
「弾丸は、体内に残ってるでしょうか?」
「死体をひっくり返して、射出口があるかどうか見ないとわからんね。それと、弾丸の種類にもよるが」
ニコラスにスミスはむっつりと答えたが、この頑固そうな検死官にはこの場で死体を仰向けにする意志はなさそうで、しゃがんだまま立ち上がろうとはしなかった。
しかしスミスに信頼を置いているらしいニコラスは特に気にした素振りも見せず、顔を上げたスミスと視線が合っても表情を変えなかった。
「薬夾は見つかってるのかね?」
「この付近には落ちていませんでした」
スミスの質問に、ニコラスが続けて答えて首を横に振った。
「まあ、そうだろうな。被害者は、死後にここへ運ばれているようだから」
「そう言い切れるんですか?」
「上半身の血のつき方を見てみるといい。ニットが腰の辺りまで染まって、それが右側に集中しているだろう?背中の左側を撃たれているのに」
今度は未来が疑問を口にすると、初老の検死官は頷きながら死体の上半身全体を確認しろと言わんばかりに手を大きく振って見せた。
「もしここで殺されて頭を潰されたんなら、こうはならない。死んでからずっとこの姿勢でいたんなら、左側に血が垂れる筈だからな。周りの土に血がしみこんでいる様子はないし、血溜まりも殆どできていない。もっと別の場所……たとえばコンクリートの床みたいに、水はけが悪い場所に倒れたか、放置されたかしたんだろう。そうなると、身体の下になっている部分から何か見つかる可能性もある。死体周辺の土も、証拠品として持ってきてくれ」
言いながら、スミスは被害者のジーンズの尻ポケットを探った。ラテックスの手袋をはめた手は体格の割に大きく、小さな手がかりも見過ごすまいと、細やかで慎重な動きを見せている。
「それに被害者はコートを着ていないし、脱がされた様子もない。この寒空の下で上着を羽織らない奴なんて、普通はいないからな。室内で殺されたんだろう」
下を向いたままスミスが補足すると、マスクから漏れた息が冷えた眼鏡を白く曇らせた。
彼が死体を調べる指先を見ながら、ニコラスが溜息をつく。
「被害者の身元特定につながるものが出てくればいいんですけど」
「ジーンズのポケットには、特に何も入っていないようだ」
尻ポケットを探し終えたスミスが顔を上げたところで、ジャクソンが首を傾げた。
「やっぱり、犯人が抜いたのかな」
「可能性としてはある」
答えつつ、スミスが今度は被害者の手に顔を近づける。指を見てからピンセットで爪の間を広げ、手際良く事件の痕跡の有無を確認する様子には無駄がなかった。
「手や腕に防御創はないし、爪の間にも格闘の跡はない。しかし微物は見つかるかも知れないから、手に袋は被せておこう」
眼鏡を直しながら、スミスは傍らの鞄から紙袋と輪ゴムを取り出した。
「頭がいつ割られたかは、傷の生活反応を見ないとはっきりせん。しかし、死んでここに放置されてからはまだあまり時間は経っていないだろう。この寒さの割には体温もあまり下がっていないし、硬直の度合いも思っていたより低い。腐敗も殆どしていないようだしな」
死体の手の保護を終えたスミスが鞄の口を閉めて立ち上がり、それでもまだ10インチは上にあるニコラスの顔を仰いだ。
「死体は今の姿勢でモルグに運ぼう。このまま検死をやっておきたい」
「すぐに解剖するんですか?」
確認しながらも、ニコラスは驚いていない。スミスの仕事熱心さはよく知っているのだ。
「ああ、なるべく早い方がいいからね」
「解剖には俺が立ち会うことにしましょう。CVCからはあと一人、クラーク捜査官も行くことになるかと」
検死に立ち会うかどうか未来が躊躇いを見せた時、すかさずジャクソンがスミスの前に進み出てきた。彼女が反射的に振り返ると、黒人の大男が目を合わせて頷く。
「僕も行きます」
そしてニコラスも力強く進言したが、スミスが返したのはむっつりした顔と、迷惑そうなぼやきだった。
「うちのモルグは狭いんだよ。でかい男に3人も入られたら、助手が一人締め出されてしまう」
「じゃあ、誰か一人は外で待機するようにします。証拠やサンプルを一通り渡してもらったら、クワンティコですぐに分析にかけたいので」
「それなら、うちの研究所で分析する手間が省けるな。ありがたいことに」
検死官は尚もしゃしゃり出てきたジャクソンから目を逸らし、更に低い声をこもらせる。口ではありがたいと言いながらも、検査の申し出をスミスが快く受けてはいないのが明らかだ。
検死で死体から血液や肝臓片等を採取した後は、特殊な検査を除き検死局付属の研究所で分析されるのが普通だ。いくら捜査の中心がFBIだとは言っても、専属の検死官がクワンティコの犯罪科学研究所にいるわけではない。言ってみれば事実上仕事の横取りになるわけで、縄張り意識の強い警察機関でのこうした行為は、誰もが嫌うのである。
その上、CVCはまだ発足して日が浅いため認知度も低い。協力機関に納得してもらい潤滑に運用するためには、まだまだ時間がかかりそうだった。
「検死報告書が出来上がるのはいつです?」
しかし、今の時点でそんなことを現場で気にしても仕方がないというのは、皆の共通した認識である。ジャクソンは態度を変えずスミスに訊いた。
「早くても、今日の夕方になる。毒物検査やDNA分析なんかを、そっちでやってくれるんならな」
「それで十分です。夕方には、ハザマが取りに行くので」
やはりむっつりと言葉を返した検死官に答えてから、ジャクソンはもう一度未来と目を合わせて頷いた。




