安息なき夜 -9-
「『今日も私は生きていられた。しかし私には、今日が一体何日で何曜日なのか、今何時なのかもよくわからない……どうすれば、他の犠牲者のようにむごたらしく殺されなくて済むのだろうか?……何とかして彼らに取り入って、私が役に立つ人間だということをわからせなければならないだろう。料理ができるとか、そういう特技を見せたり、話したりすることで。こんなときに他に誰かがいて、これからのことを相談できたらどんなにいいだろう』」
コンクリートで閉ざされ、冷え冷えとした空気の中に、ドイツ語の呟きが沈んでいく。
砂埃で灰色に汚れた毛布で身体をくるみ、硬い床に座り込んで、杉田は自分が書いたメモを読み返していた。これを書いている白紙のノートとボールペンは、隅に積んであったダンボールの中に突っ込んであったものだ。万一他の者に見つかってもいいようにドイツ語で記し、同じ場所に隠しているのだ。
この地下に設けられた倉庫のような小部屋には窓や時計がなく、日光による日中の気温変化も極めて少ない。杉田は疲れ果てた身体を横たえてうとうとしては目覚めることを繰り返し、男は好きなときにここへ来て、杉田を犯した。
そのため、既に何日か経過しているのか、それとも一晩にも満たない時間しか過ぎていないのか、皆目見当がつかなかった。
だが、命と精神をを保つために最低限のことは出来ているとは言っても、いつどんな目に遭わされるかわからない状況下であることは変わらない。現にここに連れて来られた時は、拳銃を突きつけられてきた。いつ殺されてもおかしくはないのだ。
それでも、自分は死ぬわけにはいかない。
生きることを諦めたら、そこで終わりだ。
もう二度と、未来と会えなくなってしまう。
今頃心配と不安で押しつぶされそうになっているであろう彼女を、裏切ることは許されない。
自分は何としても、生きてここから帰らねばならないのだ。
杉田はすっかりかじかんでうまく動かせない指先をこすり、ボールペンを握り直した。
その時である。
頭上で鈍い打撃音と何かが割れる甲高い音が上がり、淀んだ空気を震わせた。そこへ、男の低い叫びに呻きを混ぜた声が被せられる。
「何かあったのか!」
反射的に杉田が立ち上がり、天井に向かって声を張り上げると、身体を包んでいた毛布が埃を舞い上げながら床に落ちた。
返事はない。
代わりに、先よりもはっきりとした呻き声が聞こえてきた。
「どうしたんだ?」
もう一度、杉田は更に声を大きくして問う。
「……うるせえ」
返ってきたのは、そう一言言うのもやっとと窺えるほど苦しげな声だった。今までに杉田が幾度となく耳にしてきた、身体に苦痛を抱えた者の声である。声の主は、何かを壊してその破片で手足を切ったか、どこからか足を踏み外して落ちたかしたのかも知れない。
上で負傷したであろう人物は、凶悪犯の可能性が高いのだ。身分証明が必要となる病院のような場所には、極力出入りを避けたいと考えているはずだ。まさに、医師である杉田を生かしておくことのメリットを知らせる最大のチャンスが巡ってきたのだ。絶対にこれを逃すわけにはいかない。
うるさいと言われたことは無視し、はっきりと杉田は告げた。
「怪我をしたのか?僕は医者なんだ。すぐにでも手当てできる。上へ上げてくれ!」
「黙れ」
杉田の叫びに投げつけられたのは、拒絶だった。
だが、やはり短い単語の中にも苦しげな喘ぎが垣間見える。
あちらはかなりの深手を負っているようだ。
「刃物やガラスで切った切り傷なら、すぐに傷口を合わせてから強く押さえて止血するんだ。その時、砂とかガラスのかけらが残らないように注意しろ。傷が汚れていたら、まず丹念に洗った方がいい。間違っても、よく言われてるような止血帯はつけるな。余程どうしようもないとき以外は、悪くすると手足を腐らせる原因にもなる……」
杉田が応急手当について、見えない相手に向かいそこまで叫んだときである。
がたん、と板がずれる音が上へ続く階段の方から上がり、電灯の明かりに眩しく照らされた四角い空間が、薄暗い中にぽっかりと口を開けた。
無意識に眼鏡を指で押し上げながら、杉田は迷わず埃が積もった階段を駆け上がった。
「あら。いらっしゃい、お嬢ちゃん。今日は一人なの?」
「うん。たまには一人で呑むのもいいかなって、思ったから。先に食事するから、サンドイッチプレートをよろしくね」
「はいはい。カウンターが空いてるから、ゆっくりしてらっしゃいね」
店に入るなり、銀のトレイに指先を立てて空のグラスを軽々と運んでいるルイと鉢合わせた未来は、夕食を歩きながら注文することになった。
黒人のニューハーフであるルイが経営するバー「ホワイトクロウ」は、今宵も男たちが愛を語り合う静かな喧噪で満たされている。古くどっしりとした木製のボックス席やスツールの間をすり抜け、未来は奥にある小さなカウンターを目指した。
男性同士のカップル、あるいは女装した男性が客の九割以上を占める中で未来の姿は浮いており、好奇の目が集中する。しかしそれにももう慣れてしまった。
ここはジャクソンに連れて来られて以降、ちょこちょこ来るようにしている。それでも、彼女は今までに他の女性客を見たことがなかった。
オーナーのルイがジャクソンの情報提供者であるということもあるが、それを差し引いても、この店に来る価値はあると未来は思っている。ルイは一度来た客の好みをきちんと把握して、酒は何も言わなくても口に合うよう整えてくれるし、グリル料理は程良い味付けに抑えており、追加の味付けは客任せにしてあるのもありがたかった。
「お嬢ちゃん、ビールはいいの?」
スツールに座った未来へカウンター越しにルイが声をかけてきたが、彼女は首を振った。
「今日はもうちょっと、違うものが呑みたい気分だからね。少し考えてからお願いするよ」
「そう?じゃあ参考に、メニューを渡しとくわ。お勧めも見るといいわよ」
と、イタリック体の名前がびっしり印刷された厚紙のメニューを手渡してくれる。その際、彼はメニューで隠すようにしながら顔を近づけて囁いた。
「相棒から聞いたわよ。あたしも、お嬢ちゃんのことは陰ながら応援するからね」
「……ありがとう」
短いながらもルイの優しい言葉は未来の胸に暖かく響き、心に沁みた。低く呟き返す彼女から顔を離し、ルイがにっこりと笑う。
「相棒もお嬢ちゃんたちも、みんなあたしの大事なお客様だからね。そのためにひと肌脱ぐのは当たり前よ。最初の一杯は、奢らせてもらうわ」
「なんか、奢ってもらってばっかりで悪い気がするんだけど」
恐縮する未来に、ルイがもう一度笑いかける。
「じゃあ、何にするかはあたしに決めさせてくれるかしら?お客さんの気分を読むことも、仕事の練習になるから」
未来が頷くと、彼はいそいそとカウンターの奥に引っ込んでいった。サンドイッチプレートは比較的時間がかからない料理のため、酒と一緒に出そうとしてくれているのかも知れない。
ジャズとタバコの煙でいっぱいの店内を、未来はさりげなく見渡した。
ほとんどのテーブルやボックスは男性の二人連れで埋まっており、一人で来る者は付き合う相手を求めている者として見るのが、ここの暗黙の了解となっている。
稀に男性に連れられた女性客はいるものの、殆どは雑誌の取材をしているライターや、この店の雰囲気そのものを気に入っている変わり者だ。未来もそのうちの一人だが、食事や酒の味だけでなく、店の空気やオーナーのルイの人柄まで全てに好感が持てるのだ。
多分、日本に彼女が持っている会社の所在地である新宿にあるバーと、雰囲気が近いせいなのだろう。新宿も、様々な人々が生活する雑多な世界有数の活気溢れる街である。しかしここは日本から遠く離れた異国の地であり、耳をくすぐるのは馴染みのある母国語ではない。
聞き覚えがないスラングと思しき崩れた英語や、微妙に抑揚の異なる笑い声に気づく度に、未来は自分一人が地元のアメリカ人たちから離れた場所にいるのだと思い知らされた。
が、どこにいるのか見当もつかない杉田の孤独は、きっと自分など及ばないに違いなかった。
恐らくただ一人の味方すらいない場所で、自分だけを頼りに恐怖と戦い続けているのだろう。
今この瞬間も、愛する男は恐ろしい苦痛を精神と肉体に強いられているかも知れない。
弱音を吐いている暇などないのだ。
未来が自分に強く言い聞かせると、思わずカウンターの上で組んだ両手に力が込められ、手の甲に白い骨の筋が浮き上がってくる。
「はい、お待たせ。今日のサンドイッチは、ターキーのハムとスクランブルエッグよ」
そこへ、ルイの声が料理の香りとともに割り込んできた。
白い陶器の皿に生野菜のサラダと共に盛りつけられた二切れのサンドイッチが、未来の視界にぱっと鮮やかな色を咲かせる。
ホワイトクロウのサンドイッチは薄切りのバゲットに厚く具を挟んだボリュームがあるもので、それでいて胃が重くならないように工夫が効かせてある。例えば、アメリカのレストランではつきもののフレンチフライが添えられていないのも、大きな特徴だろう。
ターキーハムサンドはセロリと玉ねぎを、スクランブルエッグサンドはトマトとズッキーニを、軽く塩と胡椒で味付けして挟んである。アンディーブとチコリ、レタスを主としたサラダにはオリーブオイルを使った軽めのドレッシングがかかっており、食欲のあまりない未来の胃にも優しそうなものばかりだった。
「それと、お待ちかねのお酒はこれをどうぞ」
ルイが軽やかな手つきで、皿の隣に敷いたコルクのコースターの上にカクテルグラスを置いた。中では鮮やかな琥珀色に近い酒が、暗い照明を受けて静かに輝いている。
未来が細身で口の広いグラスの足を持って傾け、香りを確かめると、甘くてやや癖がある香りが鼻腔にふわりとかかってくる。
「ありがと、早いね。で、これは何のカクテル?」
「シェリー酒の傑作って言われてるカクテルでね、アドニスって言うのよ」
「アドニス?」
まだ香りを楽しんでいた未来が顔を上げると、頷いたルイと視線が合った。
「そう、花の名前なのよ。素敵でしょ?萎れたお花が、早く元気になるようにね」
アドニスは、確かアネモネの別名だ。
未来がそのことを知ったのは、つい最近だ。花言葉も、色によって意味が違うと聞いた記憶がある。
『代表的なものは『儚い恋』『恋の苦しみ』とか。色でいけば白は『真心』、赤は『君を愛す』、紫は『貴方を信じて待つ』って意味があるんだ』
そうだ。
杉田が姿を消す直前、ファーマーズ・マーケットへ買い物に行く途中の車中で教えてくれたのだ。そして、彼が好きな花だとも言っていた。
アネモネつまりアドニスは、清楚な少女がかすみ草との花束にして持つに相応しい、愛らしい印象の花だ。そんな可憐な印象をもたらす花を好む杉田もまた、繊細な心を持つ青年である。
今頃彼はどうしているのだろう?
自分は暖かな心遣いで味付けをプラスされた食事と酒を楽しんでいるが、彼にそんなことは許されていないはずだ。
いや。もしかしたらもう、息をすることさえ許されていないかも知れない。
あの気まずさが漂っていた車内での会話があったとき、自分たちは間違いなく幸せだった。
なのにどうしてその時を大切にせず、彼の心にもっと近寄ろうとしなかったのだろう。
自分のことを理解して欲しいと要求するばかりで、何故彼のことをわかろうとしなかったのだろう。
自分がもっと違った態度を示していたら、杉田が一人で出かけることなどなかったかも知れないのに。
こんな事態に陥ることを、食い止めることができたかも知れないのに。
「ど、どうしたの?お嬢ちゃん」
未来のアドニスを見つめる黒い瞳から大粒の涙が溢れたのに気づいたルイが、カウンターの引き出しから慌てて白い布ナフキンを取り上げた。
未来は瞬きする間にせり上がってきた涙を、止めることができなかったのだ。
「ううん、何でもないの。ごめん、驚かせて」
差し出された清潔なナフキンを受け取った未来が、両の頬を拭いながら声を詰まらせる。透明な滴は、バーカウンターの上にもこぼれていた。
「私なら大丈夫だから……仕事に戻ってて」
彼女が取り乱してはいないことを、低く落ち着き払った態度が示している。ルイもそれ以上の追及をせずに頷くと、カウンターから離れていった。
未来は涙が引いて息が戻ってから軽く息をつき、アドニスを一口含んだ。
芳醇なシェリー酒の香りが口の中に広がる一方で、スイート・ベルモットがほのかな甘みを添えており、少しもべたつくようなしつこさがない。個性が強い二種類の酒を見事にまとめ上げた風味は、寒風に晒されて冷えた心に優しく手を差し伸べ、そっと包んでくれるかのような心地がした。
身体の内側がほんのりと暖かくなり、力が入りすぎていた筋肉がみるみるうちにほぐれていくのが快い。さり気なく励まそうとしてくれたルイの気配りが、未来好みの味に見事に合わせた一杯に表れていた。
二口目を口にすると、今度はもっと純粋に味を楽しむ余裕が出てきているのもわかる。最後の一滴がなくなってしまうことを惜しむように時間をかけ、未来はアドニスを堪能した。
「何か、悪いことしちゃったわね。悲しいことを思い出させたみたいで、ごめんなさいね」
未来の様子を少し離れた場所から窺っていたのだろう、ルイはグラスが空いたタイミングでカウンターに戻ってきた。彼が「萎れた花」として見たこの女性客が、自慢のサンドイッチに手をつけ始めたのを回復の兆しと見たのである。
「そんなことないよ、私が勝手に泣いただけなんだし。今度はもうちょっと落ち着いてから来るようにするから」
手のひらほどの大きさもあるターキーハムサンドをかじる未来には、微笑みながらルイに返すだけの余力も出てきていた。
「今度と言わずに、今日はお詫びにもう一杯奢らせてもらうわよ。常連さんを泣かせるなんて、バーテンダーの恥だわ」
「気持ちは嬉しいけど、私、あんまり強くないからさ。今日これ以上呑んだら、運転できなくなっちゃうかも知れないもん」
ルイのこってりとルージュを塗った唇から出た力強い申し出を、未来は済まなさそうに断る。
彼女は普段運転するときは呑まないようにしているが、今日ばかりは誘惑に抗えなかった自分がいた。
「もう一杯の奢りは、事件が無事に解決した時まで取っておいてよ」
「相変わらず、堅いのねぇ。その代わり、またみんなを連れていらっしゃいな」
ルイは呆れた溜息をつきつつも、いつ誰を連れて来いと具体的に言わないのが未来にとってはありがたい。
彼女はこの後ルイに渡すチップを多めにしようと、財布の中身は確かめずに決めていた。




