安息なき夜 -7-
マンキンからリッチモンドまで直線距離だと20マイル程度のため、未来は午後3時前にヴァージニア・ユニオン大学に乗り入れる道路脇からソフィーに連絡することができた。
大学はリッチモンドのダウンタウンにあり、7デイズ・フィットネスからも1マイル半程度しか離れていない。日本の大学に比べて遥かに広大なキャンパスは、ショッピングモールや病院などの人が集まる施設に囲まれているが、東京と違って高層ビルが林立し見下ろされているわけではないので、街中にある割に閉塞感がなかった。
一面を芝生に覆われた敷地には常緑樹が景観を保てるよう考慮して植えてあり、その間に相当な築年数を経た古典建築様式のものからモダンなものまで、様々な教室棟が点在している。ソフィーからは、メインダイニングがあるヘンダーソン・ホールで待つようことづかっていた。
未来はコートを羽織ってプリウスから降りると、早々と陽が傾いてきている初冬の空気の中を歩き出した。目的のホールに向かう途中、講義が行われる教室を目指している学生らしい男女の姿がコートやジャケットに身を包み、せかせかと歩いている姿が目に入ってくる。
ヴァージニア州は白人人口が多いとされているが、このキャンパス内に限っては黒人の学生が多いことに驚かされた。
それもそのはずで、ヴァージニア・ユニオン大学には黒人大学基金の本部があり、ここも歴史的黒人大学、つまりブラックカレッジとして有名なのだ。人種偏見を隠そうとしていないジェイコブが捜査でここに来ることがあったら、色々な意味で見ものだろう。一度、教養の高い黒人たちの前で吊るし上げにでもしてみたいものだ。
ヘンダーソン・ホールはキャンパスのほぼ中央に位置しており、最寄の駐車場からは5分とかからない位置にあった。堂々たるゴシック建築の威厳を放つその姿は、薄闇の中にぼんやりと輪郭を浮かび上がらせている。冷え始めてきた空気に、ステンドグラスを通した窓から暖かな光を投げかけているのが印象的だった。
メインダイニングのディナータイムはまだ始まっておらず、フードカウンターにはシャッターが下りている。しかし、クリーム色のプラスチックでできた椅子とテーブルが所狭しと並ぶ席に陣取るのは自由だ。広いメインダイニングに広がるテーブルのあちこちでは、学生たちがレポートを広げたり、ノートパソコンのキーを叩いたり、友人と他愛のないお喋りをしたりと、思い思いに過ごしている。コート姿の未来も入口の自動ドアから近いところに腰を落ち着けると、その中にすっと溶け込めた。
「遅いな……」
愛用のダイバーズウォッチを確認した未来の唇から呟きが漏れた。先に連絡したとき、ソフィーは5分で来ると言っていたのだ。足音くらいここから確認できないだろうかと、ほとんど習慣で耳の感度を少し上げた時である。
「……ればいいんだよ!」
聞き覚えがある乱暴な、激昂した男の声が未来の鼓膜を打った。
反射的に、彼女の細い身体がプラスチックの椅子から立ち上がる。
「やめて、みんな見てるわ。お願いだから、もう帰ってちょうだい」
メインダイニングの入口を振り返った未来の耳へ次に届いたのは、震えながらそう懇願しているソフィーの声だった。
「お前に拒む権利があると思ってるのか。黙って言う通りにしろ」
高圧的に続ける男の声の主は、ソフィーにつきまとい行為を繰り返しているラルフだ。言っている内容と口調からしても、かなり切迫した状況であることは間違いなさそうだ。
未来は手足に緊張感を漲らせると、出入口の自動ドアへ向かった。
そのまま廊下を走り抜けて一歩屋外へ出た彼女の頬を、きりりと冷えた空気が刺激してくる。更に耳の感度レベルを上げていくと、すぐ右手の方から複数の靴底が芝生を擦る音と激しい息遣いがあるのがわかった。
弾みをつけた未来の足が、音が上がっている建物の影の部分に走り込む。弱々しい陽光に囲まれた暗い空間で、ソフィーの両手に紙袋を押し付けているラルフの姿があるのがわかった。
「てめえ、何やってんだ!」
未来が子どもっぽさの残る外見に似合わない、ドスを効かせた低い声を放つと、素早くラルフが振り返った。
「ヨーコ!」
同時に、今にも泣きそうな顔のソフィーも声を上げる。よほど怖かったのか、ラルフに押し付けられていた紙袋の持ち手を手首に引っ掛けたまま、固まっていた。
ラルフは片手でソフィーの肩を掴み、もう片方の手で彼女の手首を掴んでいる。
「手を離しなよ。今すぐ離さないと、警察に通報するよ!」
低い声ではっきりと言い、未来はゆっくりと2人に近寄った。
突然現れた未来の姿に驚いているらしいラルフの動きを注意深く探りながら、金属センサーをオンにする。ジーンズにも汚れたジャケットにも、刃物や拳銃らしい形の金属反応はない。注意するべきは、彼が後ろに手を回したときだろう。
が、彼は意外にも舌打ちしただけであっさりとソフィーを開放し、こちらに背を向けて走り出した。捨て台詞も何もなく、大きな身体が濃さを増していく夕闇の中へと消える。
以前と同じしつこさを予想して身構えていた未来にとっては、あまりにもあっけなかった。ソフィーに何かを渡して目的を達成したからなのだろうか?
「ヨーコ……」
ふらふらと近寄ってきたソフィーの足取りはおぼつかない。
色褪せたデニムに包まれた足は見てわかるほどがくがく震え、幼い子どものようにべそをかいている。酷く怯えているようで、とにかく早くどこかに座らせねばならないようだった。
未来は倒れかかるようにすがりついてきたソフィーの肩を抱き、しっかりと身体を支えてやる。
「ホールの中に行こう。もう大丈夫だから」
青い顔でまだ震えているソフィーを未来が優しく諭すと、横顔を覆う赤毛を揺らして彼女は何度も頷いた。そのまま二人で寄り添ってホールに入り、先に未来が座っていたテーブルにつく。上着を脱いで椅子に座ると、不安定な呼吸をしていたソフィーもようやく落ち着いたようだった。
「殴られたりとかしなかった?」
「ええ、大丈夫よ」
きちんと話せるようではあるが、ソフィーの視線はおどおどと辺りを彷徨っている。無理もないだろう。
「あいつ、とうとう学校にまで押しかけてくるようになったんだね」
いまいましげに、未来が吐き捨てる。
数日前にソフィーから相談を受けた時点より、明らかにラルフのストーキング行為はエスカレートしていた。このまま放っておけば、彼女の命が危険に晒されかねない。
未来はソフィーの肩に手を置くと、緊張を隠さない面持ちで警告した。
「一刻も早く警察に言った方がいいよ。まだ証拠が揃ってないかも知れないけど、何かあってからじゃ遅いんだから。せめて、一人暮らしを止めるとかしないと」
「でも……家族に心配かけたくないのよ」
しかし、ソフィーは相変わらず首を横に振るばかりである。この期に及んで、当の本人の意識は相変わらず低い気がした。
彼女がそこまで家族に知られることを拒否するのは何故なのだろう、と疑問に思わざるを得ない。それに、警察に保護を求めることに対する姿勢も、曖昧さが残っているような気がする。ここまで恐怖を味わわされているのに、まだ最悪の結果にはならないと思っているのだろうか。
しかし、家族との仲に問題を抱えた自分がもし彼女と同じ立場になったら、同じように対応するだろう。人それぞれ事情があるのだから、今はまだ踏み込むべきではないのかも知れない。
「この大学の寮に住んでる友達のところにいるとか、できないの?」
目についた不審な点には敢えて触れず、未来は別の提案を試みたが、ソフィーはそれにも頷こうとはしなかった。
「駄目よ。それじゃ、友達に迷惑がかかるかも知れないもの」
「そう言えば、寮生活してない学生の方が珍しいと思うんだけど。ソフィーはどうして寮に入らなかったの?」
また別のことを思いついた未来の声に、僅かな苛立ちの響きが混ざる。
「私、知らない人と一緒に生活するなんて耐えられない。そういうところは直さなきゃ、って思ってるんだけど……寮に入るならせめて個室でって言うのが譲れない条件で。でも、この大学では個室って少ないのよ。すぐいっぱいになっちゃって、それなら一人暮らしさせて欲しいって両親を説得したの」
ぼそぼそと小さな声で言い、ソフィーは薄く浮いた涙を拭って鼻をすすった。
それならば、何故それなりの防犯対策をきちんとしないのか。
あらゆることに消極的で、結局は周囲の人々に頼り切って依存している人間というのはよくいる。ひょっとすると、ソフィーもそういった者たちの仲間に入るのではないか。
本人は意識していないかもしれないが、ストーカー対策は全て未来に任せようとしているのではと、したくはない推測も拭い切れなくなってくる。
今までしてきたアドバイスが全て暖簾に腕押しの状態になっていることを疑い始めた未来に、ふとソフィーも疑問を投げかけてきた。
「けど確か、ヨーコもホストファミリーのところにいるのよね。留学生なのに、貴女も珍しいと思うけど」
「私は、日本のママがファミリーのみんなと友達同士だからね。殆どタダみたいなお金で、居候させてもらってるの。うちはそんなにお金持ちじゃないから、ありがたく甘えさせてもらってるってわけ」
未来が用意してあった回答をそのまま述べると、ソフィーはそれだけで納得したようだ。
アメリカの大学では、寮住まいの学生が実に8割以上を占める。それだけに学外から通っている者同士が知り合いになるのは珍しいかも知れなかった。
「私のことを心配してくれるのは本当にありがたいし、嬉しいけど……ヨーコ、貴女も大変な目に遭ってるじゃないの」
話の矛先を自分から未来に変えたソフィーは、おずおずと顔を上げた。
「昨日、警察が私のアパートに来たのよ。マサトのことで話が聞きたいって。彼、私と別れたっきり、行方がわからなくなってるんですって?」
未来の大きな目を見つめてくるカラーコンタクトの人工的な緑の瞳が、心なしか熱を帯びた気がする。この様子にやや驚いた未来が頷き、次いでふっと視線を外した。
「……うん。誘拐かもしれないって。私も、マサト兄さんを探したいんだ」
「私に話したいことがあるって言ってたのは、そのことなんでしょ?」
ソフィーは問い詰めるような口調になっている。
先まで怯えて泣いていたのが強い調子で発言できるようになったのは、恐怖を忘れるために備わった人間の能力なのだろうか。違和感を覚えながらも、未来はもう一度頷いてソフィーに話を促すことにした。
「そう。兄さんと最後に会ったときの様子とか、聞いときたいんだけど。なるべく詳しく話してもらってもいい?」
未来の方では杉田のことを「兄さん」と呼ぶことの他人行儀さと、ソフィーの顔が迫ってくるような圧力で、控え目な姿勢となった。
「そうね。マサトとは7デイズのロビーで、一昨日の11時に待ち合わせたの。ラルフのことで相談に乗ってもらいたかったことがあって……彼、ヨーコからもそのことは聞いてるからって、嫌な顔もせずに話をずっと聞いてくれてたわ。電話とかを録音するのにはどんなボイスレコーダーがいいのかとか、具体的にどういう対応をすればいいのかとか、そんなことを話してたの。男の人の方が機械とかに詳しいだろうって思ったから」
そこでソフィーは肉付きのいい顎に指先を当てながら、細かいことまでを思い出そうと宙を睨んだ。
「話をしてたのは、確か12時半くらいまでだったかしら。その後にカフェテリアで一緒にランチを食べて、家まで送ってもらったの」
「ソフィーは、7デイズまで自分の車で来なかったの?」
昨日の聴取でウィリアムに指摘された点を、未来はさり気なく確認した。
「ええ。前の日に弟に私のアパートに来てもらって、実家まで送ってもらったから。帰りはまた弟にアパートまで車を出してくれるように頼んでたんだけど、急な用事が入っちゃって来られなくなったって、連絡があったの。アパートには、友達から借りたノートをどうしても取りに行く必要があって。困ってたら、マサトが送るって言ってくれて」
まるで弟を便利な足として使っているような印象だが、アメリカでは家族に運転を頼むのはさして珍しいことではない。
未来が頷いたのを見て、ソフィーは先を続けた。
「あそこのメインエントランスを出てすぐのところに、コンビニエンスストアがあるでしょう?私、そこでスナックと飲み物が買いたかったから、先に外に出たの。その後にマサトに拾ってもらったのよ」
「マサト兄さん、どこか変わったところはなかった?」
「何だか元気がないのは、すぐにわかったわ。ヨーコと喧嘩したって言ってたわよ。美味しいお菓子をお土産に買って帰りたいとも話してたから、リッチモンドにオーガニック素材を使ったチーズケーキの専門店があるって教えてあげたの。すごく喜んでたみたいだったけど」
ソフィーが発した最後の言葉は、氷の鏃となって未来の胸を冷たく貫いた。
凍てつくほどの痛みが胸の奥に走り、そこから血が染み出していくようにじわじわと広がっていく。
ソフィーを送る道すがら、杉田は未来のために買うケーキのことで頭がいっぱいになっていたのだろう。どんな味のものを買えば未来が喜ぶのか、仲直りのきっかけになる会話を作るのには可愛らしいデコレーションのものがいいとか、あれこれ考えていたに違いない。
未来は悲しみに口許を歪めることも、声を震わせることもせず、ソフィーへ静かに問いを投げ返しただけだった。
「ソフィーの家はどの辺りなの?」
「アイレットよ。何もない小さな街だけど、平和ないいところなの」
アイレットは、杉田の車の遺棄場所から6マイル程北上したところにある街だ。
彼の車は、リッチモンド方面に向かうハイウェイの雑貨屋駐車場で発見されている。ソフィーを自宅まで送り届けた直後に犯人と接触したと見ていいだろう。
平静を装った未来の質問は続いた。
「車に乗ってるときに、変な車がつけてきたりとかしなかった?」
「さあ、私は気がつかなかったけど……」
「どこかに寄り道とかしたの?」
「いいえ。まっすぐ、私の家に向かったわ。着いたのは3時半くらいだったと思うの。近所で下ろしてもらったら、すぐにまたリッチモンドに向かって走ったように見えたわ」
これは、昨日も電話でソフィーが言っていたことを確認する形となった。
「どうして家の前まで行かなかったの?」
「それは……その、そういうことをすると怒る人がいるから。いつ私の家の前にいるかもわからないし……」
何気ない未来の質問に、ソフィーは口ごもった。
今まで調子づいていた唇が急に大人しくなり、そわそわと膝に置いたバッグの持ち手を指でいじり始めている。
「ラルフだね」
ソフィーが他の男と接触することを咎める。そんなことをするのは、彼女につきまとっているラルフをおいて他にいない。未来の敵意を剥き出しにした口調に、ソフィーはびくつきながら頷いた。
忘れるところだったが、彼はソフィーに何かを無理やり渡していたではないか。中身を改める必要がある。
「その袋、何が入ってるの?」
未来がテーブルの脇にある紙製の小さな手提げを指すと、ソフィーが持ち手の部分を持ってテーブルの上に置いた。紙袋はショッピングモールのロゴが印刷されている、何の変哲もないものだ。
「わからないわ。まだ中を見てないの」
「私が見てもいい?」
ソフィーが無言で頷くと、未来はまず紙袋を両手で持ち上げて重さを確かめてから、慎重に中を覗いた。ラルフとソフィーがもみ合いの最中でやりとりしていたところを見ると、とりあえず危険物ではないはずだ。本当なら手袋をつけて取り出したいところだが、人目があるこの場所ではやはりはばかられる。
紙袋の開いた口から見えたのは、パステルイエローの地にピンクのロゴが筆記体で印刷された厚手の紙箱だった。つるつるした表面になるべく指紋をつけないよう、8インチ(約20センチ)程度ある箱の角に指先を当て、紙袋から引っ張り出す。
厚紙と透明プラスチックを組み合わせた箱の中に見えたのは、ピンクのドレスが着せられた女の子の着せかえ人形「ジューン」の姿だった。
まっすぐに正面を見つめて微笑む10代の白人少女に似せた人形に描かれた瞳と、未来の視線が重なり合う。
ティアーズの遺体発見現場で、手足をもがれて転がされていたのと同じ人形だ。
かすかに開いたまぶたの隙間から、虚ろに宙を睨んでいる白く濁った死人の瞳。
死後に発生したガスで無残に膨れた顔と、変色した皮膚。
赤黒く、固まった大量の血液。
裂けた皮膚から雪崩のようにこぼれている蛆の群れ。
様々なイメージが、意識の中にあるもう一つの視界に次々と映し出されてくる。
未来の周囲に一瞬、人間の身体が腐った独特の悪臭が立ち込めたような錯覚さえもたらされた。反射的に胃がぎゅっと縮まり、喉に吐き気がこみ上げてくる。
息を止め、苦い唾を何度も飲み込んで何とか堪えると、彼女は呻くように言葉を吐き出した。
「……何これ、気持ち悪い。あいつは何でこんなもの、ソフィーに渡したの?」
「私、人形の服を作るのが趣味だったから……色々な人形の空箱を、ついこの前まとめて捨てたの。ラルフがごみを漁ったとき、中にあったからかもしれないわ」
「ラルフはこれを渡すときに何か言ってたの?」
「いいえ。とにかくお前はこれが好きだろうから受け取れって、それだけだったわ」
ソフィーも、驚きと恐怖に顔をこわばらせている。
ストーカーをはたらく異性が対象者に贈り物をすることは珍しくない。
が、つきまといがエスカレートしつつある中でプレゼントされる物品が、純粋な好意から贈られることは稀だ。それは彼らの歪んだ愛情を具現化し、呪いだと言った方が早いくらいに一方的な思いが込められた、おぞましいものであることが多い。
例えば体液や体毛を混ぜ込んだ飲み物や食べ物、相手の全てを知る目的でカメラや盗聴器を仕掛けた人形やぬいぐるみなどが、その典型である。
このジューン人形もそういったものの一つに間違いない。が、ソフィーの趣味が人形の服を作ることであるのを差し引いても、これがティアーズ事件で使われているものと同じなのは、単なる偶然で片付けるには出来すぎのような気がする。
未来の頭の中で鳴る警告音は、けたたましさを増す一方で止もうとはしなかった。
「この人形、開けないで袋ごと取っておいたほうがいいね。多分これも警察に渡すことになるだろうし。それに……これ、盗聴器かカメラが仕掛けられてるかも知れないから。自分の家以外のところに置いたほうがいいかも知れないよ。家に置くにしても、生活音が一切聞こえないような物置に入れるとか。そこに、ビニールの袋に入れて取っておくんだよ。いい?」
すぐにでも人形を箱ごと押収したい気持ちを抑え、未来はソフィーに警告した。身を乗り出し低い声で囁いてきた黒い瞳の友人に、ソフィーは気圧されたように頷いて見せる。
「……ええ、そうするわ」
誰にも迷惑をかけず、静かな日常を送っている女の平凡な日常を狂気で蹂躙する。
そんなことを平然とやってのける男が持つ狂気の権化でもあるジューン人形は、愛らしい少女の外見が却って不気味さを煽るだけとなっていた。
もしかすると、このまま放置しておいたらソフィーがティアーズ事件の次なる被害者となり、無残な骸で発見される羽目になるのではないか。
自身の推測はあまりにも単純だと未来の持つ理性は冷静に突き放していたが、可能性としては捨て切れない面もある。とは言え、確たる証拠はまだ何もない。やはり当面はFBI捜査官の身分を隠したまま、事態を注意深く見守っていくしかないだろう。このような曖昧な状況下において、法執行官は可能性のために先回りして行動することはできないのだ。
未来が人形の箱が入った紙袋を隣のテーブルの上に移し、二人の席からなるべく離れるよう細いスチールの脚をゆっくりと右足で押した。
「でもヨーコ、私のことを心配する前に、自分のことを心配しなきゃ駄目よ」
その様子を尻目に、ソフィーが未来の耳元へ顔を寄せてきた。盗聴器、と聞いて大声を出すのを躊躇っているのだ。
「マサトがあんなことになって、ヨーコは大丈夫かなって思ってたの。私も相談させてもらってるんだから、お返しに私が相談相手になるわ。話を聞くことくらいしかできないけど、誰にも話せないと辛いでしょう?」
未来は肉親ではないにしても、愛する家族と同等の人物が行方不明になったのだ。その辛さに比べれば、自分自身に降りかかってくる災難など軽いものだ。
とでも、ソフィーは思っているのだろうか。
それとも、「悲しみを分かち合うことで互いを理解し合い、信頼を深め合うのが女」という世間の典型的な女性像に合致するのが彼女という存在なのであろうか。
いずれにしても、ソフィーの表情には純粋に未来を心配する気持ちが溢れているようだった。引っ込み思案なせいで友達がなかなかできない自分と、留学生でやはり他人と打ち解けるのが難しいように見える未来とでは、同調できるところもあるのだろう。
「……うん、ありがとう」
正直未来は、あまり杉田の失踪事件について情報を外に漏らすことはしたくない。
しかし彼女はソフィーの厚意を無下にできるほど冷めた人間でもないため、複雑な笑顔を浮かべて頷くしかなかった。
「ヨーコ、ちゃんと寝られてないんでしょ?目の下、隈ができてるわ」
やや照明が暗いダイニングでも、間近で見ると未来の顔の不健康さがはっきりとわかったのだろう。ソフィーが肌の状態を確かめるように、もう一度未来の顔を覗き込んできた。
「今度会うとき、カモミールとジャスミンのハーブティを持ってくるわね。両方ともリラックス効果があるから、気分が落ち着くと思うの」
「楽しみにしてるよ。今日は、私もこれから見て回りたいところがあるから、ここまでにしとくね。ソフィーも、もう授業はないの?」
「ええ。帰ろうかと思ってたところだから」
申し出に当たり障りなく礼を言った未来が立ち上がると、ソフィーも椅子の背にかけてあったコートを取り上げて席を立った。そして隣の席に置いてある紙袋を掴もうとした彼女の腕をそっと押さえてから、未来が耳打ちする。
「車まで送るよ。また、ラルフがいると厄介だからね」
あまり距離が近過ぎるとレズビアンだという誤解を受けそうな気もしたが、背に腹は替えられない今は仕方がない。ソフィーが頷いて紙袋を取ると、二人は連れ立ってメインダイニングの出口である自動ドアへと向かった。
自動ドアをくぐると、古風な装飾を施した額の掲示板にディナーメニューが張られた狭いホールになっており、そこから伸びた廊下が外に出る玄関ホールへとまっすぐに繋がっている。玄関の扉には凝ったつくりのステンドグラスがはまっており、これを保存するのには自動ドアにすることができないため、今の時間は閉まっているどっしりとした木製の扉を手で開ける必要があった。
「ソフィー!」
その扉が二人の背後で閉まろうとしたとき、大分暗くなってきた表の暗がりから怒声に近い声が響いてきた。