安息なき夜 -4-
動かせなかった。
指先から爪先に至るまで、全てを。
薄汚れたコンクリートの床と壁の境目を見つめる、曇った視線さえも。
身体の全てが感じることを拒否しているかのようで、長い長い時間、冷たいコンクリートの床にうつ伏したまま身動きができなかった。
もう何時間、そうやっているのかわからない。
この体勢になる直前、自分の身に何が起きたのか。
覚えているのは、銃を突きつけられてここまで運転させられてきたこと。
この建物の中に連れ込まれるなり後ろから突き飛ばされ、全裸になるよう強要されたこと。
ベッドの上に追いやられた後に大柄な白人の男が裸でのしかかってきて、されるがままに体中を何度も陵辱されたこと。
「俺の言うことを聞かなかったらぶっ殺して、死んだ後も辱めてやるからな」
犯されている間もそう耳元で凄まれると、恐怖で身体が竦み、動くことができなくなった。
生けるぬいぐるみか人形さながらだっただろう。
「また遊んでやる」
どのぐらいの時間が過ぎた後にこう言われ、ここに放り込まれたのかも思い出せなかった。一緒に投げ込まれた服と眼鏡をいつ身につけて倒れこんだのかも、覚えていない。
ひょっとしてあれは夢ではなかったのか?
最近面白くないことが立て続けに起こっているせいで、自分の脳が勝手に作り上げた荒唐無稽なシナリオを、イメージの中で感じているだけではないのか?
このまま眠りに落ちて再び目が覚めたら、寝室のベッドに洗剤の香りがするパジャマを着て横たわり、隣では未来が眠っているのではないだろうか?
だって今の自分の状況は、あまりにむごいではないか。
男が男に犯されるなど、ひどすぎて現実だと思えないではないか!
しかし、埃が積もった床から流れ込んでくる空気のざらついた味や、凍てつくほどに寒々としたこの部屋の温度は、この空間が実際に存在するものであることを、嫌でも感じさせる。
「僕は……」
青ざめた唇から漏れた呟きは、弱々しい吐息とともに床の砂埃を吹き散らした。
発した声が、耳の奥で脈打つ鼓動の音が、自らの内に響く。
杉田は黴臭い空気の中に身体を起こした。床に顔をつけていたために頬についた砂の塊が、その拍子にぱらぱらと落ちていく。
何故動く気になったのかはっきりとはわからないが、このまま倒れていれば体温が床に奪われて凍えるという、ごくありふれた防衛本能のせいなのだろう、とぼんやり理解できた。
上を見ると、パイプが剥き出しになっている天井から裸電球がぶら下がり、弱々しく室内を照らしていた。少し動く度に煙のような砂埃が淀むこの空間は、天井の一角に上げ蓋式の出入口がある。その下に粗末な木製の階段があるところを見ると、地下室のようだ。
窓が作られておらずコンクリートで塗り固められたこの部屋の広さは、15畳程度だろうか。家具はなく、奥の方にダンボールが乱雑に積み上げられているのと、砂で汚れた毛布が丸めて放り出してあるぐらいしか、目につくものはない。
多分自分は、この上に位置する部屋で屈辱的な行為を強いられた後、ここへ閉じ込められたのだ。押さえつけられた腕や肩には指の形をした赤い痣がつき、他者が力づくで侵入してきた下肢はずきずきと熱い痛みを訴えるが、身体を蹂躙した行為そのものについては、不思議なことにぼんやりとしか記憶にない。
精神に深刻な、気が狂いかねないほどの傷を与える出来事については、自己防衛本能が働いて記憶をロックしてしまうと聞いたことがある。確か、心理分析官のポールが言っていたことだっただろうか。
そして脳が思い返すなと警告していることなら、今細かく思い出すべきではないのだろう。
とりあえず、自分は殺されずに済んだのだ。
とにかく生き永らえることを第一に考えなければならない。
この上の部屋にいる男は「また遊んでやる」と言っていた。気が向いたときにここに足を運んで自分をベッドに上げ、犯すつもりでいるのだろう。言うことを聞かなければ殺す、と脅したぐらいなのだ。大人しく相手の言うことを聞き、もしくは喜ばせるくらいのことをしなければ、あっさりと命が奪われる羽目になるのかも知れない。
しかし、とそこで杉田は立ち止まった。
先の陵辱は身体が引き裂かれるような激痛を伴い、口から内臓を吐き出してしまうと錯覚するほどの苦悶を味わった。
あんな思いをまたせねばならないとしたら、いっそ自ら命を絶ってしまったほうが楽だし、ましなのではないだろうか。自分がいなくなってしまえば、少なくともこれ以上尊厳を踏みにじられることは防げる。そうすれば、あの男も存分に悔しがるだろう--
「先生が側にいてくれるもん。だから私はいつでも元気でいられるの」
唐突に、未来の声が聞こえた気がした。
彼女の無邪気な笑顔のイメージが一瞬弾けた後、雨と涙に濡れたくしゃくしゃの泣き顔が鮮明に浮かび上がってくる。
思えば未来のあんなに悲しそうな泣き顔を見たのは、昨年彼女に撃たれて昏倒し、暗くなっていく視界に留めたのが最後だった。あの時彼女は、杉田の命が消えてしまったと思って泣いていたのだ。
杉田は失いつつあった意識の中でも、未来に暗闇のどん底に突き落とされたように悲痛な泣き顔などもう二度とさせたくないと、心から感じた。
もし自分が舌を噛みちぎったり、首を吊ったりしたら、彼女はそれどころでは済まないはずだ。FBI捜査官でありサイボーグである自分が、何故パートナーを守れなかったのかと悔い、自責の念にさいなまれ、自らを攻撃し、自分だけがのうのうと生きていることに罪悪感さえ抱くだろう。
未来は一般女性と違い、自殺が決して見過ごされることはない。科学の力で何度でも生き返り、背負い切れない罪の意識を胸に生き続けなければならないのだ。
恐らく一度死んでしまった心を、無理やり墓から掘り起こして。
そんな生き方を、未来にさせていいのか?
自分が必ず守ると誓った女性に。
未来が人間の身体を失うことで心に受けた大きな傷は、自分が与えたものなのに。
望んでいなかった機械の身体を受け入れ、大きな苦痛を伴うメンテナンスに耐え、犯罪現場で戦うことを強いられ、それでも彼女は笑顔を失わないでいるというのに!
その未来を置いたまま死を選ぶなど、ありえない裏切りではないのか。
そして、杉田の意識にまた一つ、浮かんできた記憶があった。
「死んだ後も辱めてやるからな」
と、男に脅されたことだ。
死んだ後も辱めるというのは何のことだろうと、普通ならぴんと来ないところだろう。
だが、杉田は犯罪科学研究所の検査官だ。被害者の身体を切断した鋸や、体液と血液でぐっしょりと濡れたジーンズなど、手にしなかった日はない。死してなお理不尽な暴力に晒された犠牲者たちが発する無言の叫びは、瞼の裏に焼きついて離れないほどだ。
その中でもとりわけ世間の関心を惹きつけていたのは、ブラックヘアと呼ばれる連続殺人事件だった。被害者は全員が若いアジア人男性で眼鏡をかけており、生前複数回に渡って性的暴行を受けた形跡がある、と検死報告書にあったのを覚えている。
黒髪。
眼鏡。
複数回に渡る性的暴行。
「また遊んでやるからな」
「最後の被害者であるハンク・ナカノの体内から、犯人のものらしき体液が検出されましたからね……」
「検出の部位は?」
「肛門と口腔内ですね。検死報告書によると、肛門には裂傷を伴ってました」
「やはり同一人物によるレイプ確定ってことか」
裸で仰向けにされ、大きく足を広げられた死体の写真。
全裸のままうつ伏せで膝を立てさせられ、尻を突き出した死体の写真。
ぼんやりと開いた目でどんより淀む、生命のない瞳。
赤黒い穴が開き、火薬の残留物で汚れた胸の傷の写真。
犯罪科学研究所で目にした単語、しゃべったり聞いたりした話、ラテックスの手袋をした指先で触れたもののイメージが、一気に頭のスクリーンへめちゃくちゃに映し出された気がした。
まとまりがなく、高熱の時に見る悪夢にも似た極色彩の映像の氾濫。
杉田がいる薄暗い室内に、そんなものが本当に見えた気がした。
その濁流に飲み込まれる感覚に、理性をさらわれかけた。湧き上がる恐怖が喉にこみ上げ、胃までもが圧迫される。口から溢れそうになった絶叫と嘔吐感を飲み込むのに、全身全霊を傾けねばならなかった。
自分を犯した男が、あの犠牲者たちを作り出したのだ!
想像することだに恐ろしい、一つの結論。
悲鳴を上げるな。
下手に騒げば奴の気に障り、今すぐここで殺されかねない。
堪えろ。
堪えろ。
未来を悲しませないために。
何よりも、自分の命を守るために。
口を固く両手で塞ぎ息を止め、埃の舞う中にうずくまる。
冷え冷えとした寒気が包む中、杉田の全身はべとついた汗にまみれ、両の頬には涙の筋が浮かび上がっていた。
未来の自宅待機命令が撤回されたのは、11月27日の午後9時頃だった。連絡は戦闘チームの責任者であるマックス・レイヤードから直接携帯電話で、素っ気なく伝えられた。
「明日から捜査に復帰だ。詳しいことは直接話すから、NOTSには行かんでいい。出勤したら、私のオフィスまで来るように」
必要事項のみを平坦な調子で告げたマックスはすぐに電話を切り、それっきりだった。
無論それだけでは、すっきりと彼女の心が晴れたわけではない。容疑者リストからは外されたと言うことだけで、実質的な問題は何も解決していないからだ。
この一日は自宅で仕事をしても何かケチがつきそうな気がしたため、仮想端末にログインもしていなかったが、とにかく明日からは何かしなければ気が済まない。
とは言え、ブラックヘア事件の捜査担当に戦闘チームは入っていないのだ。未来が捜査に加わることが許可されるとも思えないが、マックスに進言だけはするつもりでいた。
栄養さえ取れればいいと、クッキータイプの栄養補給食品に野菜ジュースだけの夕食を済ませた彼女は、床についても予想通り眠りを貪ることはできなかった。ベッドから起きて下らないジョークやアダルト情報が満載された深夜番組を観たり、日本から持ってきたレシピの本をめくっていたりしたが、一向に情報は頭に入ってこなかった。
結局、彼女はほとんど眠らずにダークブルーのフォードに乗り込んで、インターステート95を翌朝6時には北上し始めてしていた。
もう12月まで数日しかないため、ここヴァージニア北部では日に日に冬の色が濃くなってきている。乾いた寒風は灰色っぽく色あせた大地を鋭い音とともに吹き抜け、空を鈍色に染めることがある雲は、雨雲でなく雪雲になる可能性の方が高くなってきていた。そしてまだ街全体が眠りから醒め始める今の時刻は薄暗く、生活の匂いがしてこない。
ラジオから聞こえてくる天気予報によると、気温は摂氏10度程度で寒くなるが、その分天気は良いとのことだった。早朝の州間道路に車は少なく、未来はスピードを上げてクワンティコに急いだ。
彼女がアカデミーの職員用駐車場に車を置いて時間外通用口から施設に入り、直接マックスのオフィスのドアをノックしたのは6時半のことである。マックスはもう中におり、仕事を始めていたようだった。昨日は帰宅しなかったのだろう。
「大分疲れているようだな」
オフィスに入ってきた未来を一目見るなり、デスクの向こう側に座っているマックスは低い声で感想を口にした。
彼も白いワイシャツののりが取れかけて、袖口が汚れている。昨日一日、杉田が失踪した件で対応に追われていたのだろう。しかしマックス本人はさしてくたびれている様子も見せず、いかつさに包まれた身体にはやはり、隙がない。
「……はい。身体を休めておこうと、努力はしたんですが」
未来の口調が言い訳がましく聞こえるのも仕方がないこととは言え、マックスに比べれば自分はまだまだだ、と思う。
肉体能力は彼を遥かに彼を凌駕しているのに、精神的なダメージが顔に出ているのを隠し通すこともできていないのだ。普段より時間をかけてメイクしてきたのに、情けない。
彼女がオフィスの中ほどで足を止めると、マックスとはデスクを挟んで向かい合う格好となる。彼はチェックしていたらしい書類と、飾り気はないがどっしりとしたつくりのボールペンを置くと、両手を組んで顔を上げた。
「ドクター・スギタのことについてだが」
「はい」
未来は緊張した肩から力を抜き、意識して背中を伸ばしておいた。
「ジャクソンから聞いた通り、彼の捜索についてはブラックヘア事件捜査の一環として扱うことになる。何かあればお前にも連絡は行くだろうが、我々戦闘チームで直接は関わらない。お前はこれまでと同じように、ティアーズの捜査と訓練を中心に当たれ」
そこで彼は、敢えて表情を動かさないでいる未来の顔に視線を合わせる。
「ドクター・スギタはお前と同じく、連邦政府が日本から身柄を預かっている人物だ。死体が発見されようがされまいが、マスコミにこの失踪と捜査の件を知られるわけにはいかん。これもわかっていることだとは思うが、関係者以外に情報が漏れないよう、細心の注意を払うように」
「警察にも、ですか?」
未来の疑問に、マックスは頷いた。
「捜査は我々FBIと、一部の信頼できる警察関係者のみが独自に行う。彼が連続殺人事件の被害者になったとあっては、国際問題に発展しかねない。安易に情報を開示して徒に犯人を刺激するような真似は、断じてできん」
未来と同じように表情を動かさないマックスの声は重い。
通常であれば速やかに失踪者の詳細を公開して、情報を幅広く募るべきなのだろう。だが、連続殺人事件被害者の可能性ありとされた場合はそうはいかない。
犯人は主にマスコミの情報を通して自分が世間をどれだけ騒がせているかを知り、邪悪な空想をより凶悪に膨らませる。
更に悪いことに、マスコミというのは憶測で囁かれたことや誤った情報を誇張し、あたかもそれが真実であるかのように騒ぎたてる。今回の事件で言えば、犯人がアジア系の男性ばかり狙うのは歪んだ少年性愛を持っているからだとか、死体発見現場はいずれもウェストポイントから半径40マイル以内の場所だが、犯人はまたこの範囲で犯行に及ぶのではないか、といったことだ。
猟奇的な殺人を犯す者の一部は強い自己顕示欲を持つが、ブラックヘアの犯人もまたその傾向があると推測されている。彼がマスコミの情報をどう捉えて反応するか予測がつかない以上、迂闊なことを報道させるわけにはいかない。
しかし、いくら極秘捜査にするとしても、杉田の家族に連絡しないわけにはいかないはずである。日本にいる彼の家族のことが、未来には気がかりだった。
「日本には連絡が行ったんですか?」
「政府を通して、家族とAWPの一部関係者には伝えている。日本のマスコミは、この件についてはどこも報道していない」
一部AWP関係者とは、生沢とリューのことだろう。
マックスの返答に未来は半分安心、半分不安という相反する感情を同時に味わうことになった。杉田の失踪を知って、家族はどれほど心配しているだろう。
「ドクターの姉と母親が、アメリカに発つ準備をしているという連絡も入っている。彼女たちは、ワシントンの本部に近いホテルに滞在してもらう予定だ」
「滞在期間は?」
「2週間程度の予定だが、本人たちの都合次第で前後はあるだろう」
「私が会う必要はありますか?」
「彼女たちが望めばな」
未来の肩がずんと重くなる。
一体、どの面を下げて杉田の家族に会えと言うのか。彼を産んだ母親や血を分けた姉妹の苦しみは、未来の比ではないはずだ。今まで幾度も目にしてきた、被害者の肉親が悲嘆にくれる姿が、渡米前最後に会った彼女らと重なる。胸が冷たく重い塊に締めつけられ、未来は息苦しさを感じた。
いっそ、機密保持のため面会するなと命令される方が気が楽だった。
「……ドクターの家族になんて、私は会わせる顔がありませんよ」
吐き出すような未来の言葉を耳にし、マックスは眉を僅かに動かした。
「お前は、自分のせいでドクターが失踪したとでも思っているのか?」
「私は彼と一緒に住んでたんです。私がずっと彼の側についていれば、こんなことには……」
「お前はドクターの保護者でも、ボディガードでもない。彼がお前の目の前で何者かに連れ去られたなら別だが、それで責任を感じるのはお門違いだ」
マックスが彼女を遮って静かに言ったのは、立場を思いやったり、庇ったりするような内容ではない。単に事実としてそこにあることを示し、客観的に責任が追及されるものではないことを説明しているだけだ。
そうとはわかっていても、若い娘でもある未来の心でさざ波のように揺らぐ感情は、現実をそのまま受け入れようとはしなかった。瞬間的に目の前の相手が誰であるかを忘れ、苛立ちがつい口を突いて出ることとなる。
「しかし、私がドクターに対して日常の安全管理を徹底し切れていなかったことは事実です」
ぴしゃりと言ってのける羽目となってしまった未来は、もう引っ込みをつけられなかった。
「ですから、私をブラックヘアの担当に加えてください」
どんな形であっても一度言わねばならないと思っていたことではあったが、マックスは未来が感情の勢いに乗せて口走った、という印象しか持たないだろう。同じことを願い出るにしても、もっとタイミングを計るべきだったはずだ。
未来が無理な頼みを不用意に口にしたことに後悔するまで、ほんの一瞬だった。
「お前はそれで責任を取ろうと思っているのか?」
「責任が取れるとは思っていません。彼を無事に保護するために、何かしたいだけです」
とりあえず内容を受け取ったマックスの声は、平坦なものだ。
怒鳴られなかっただけましと思えるが、ここまでくると下手な言い訳をするよりかは率直に自分の考えを伝えたほうがいい、と未来は判断した。人質救出チームに長らく在籍していた彼の前では、下手な小細工を利かせた言い回しは却って逆効果だ。
無言で、マックスは正面から未来の大きな黒い瞳を見つめた。
深くゆっくりしたリズムの呼吸を保つよう心がけた未来は、彼の視線から目を逸らさなかった。
10秒程度の沈黙が、10分ほどにも感じられた時である。
「正直なのはいいことだな」
一つ一つの単語を噛みしめたマックスは、憤った様子は見せていない。それでも相変わらず彼の態度からは、何を考えているのかが全く読めなかった。
もしかしたら、と未来の心が高揚しかける。
「だが、それは無理な相談だ。ドクターの家族に限りなく近いお前を、捜査チームに加えることはできない」
「しかし……!」
それを挫かれた未来はつい荒っぽく言い返しかけたが、マックスは平静なままだ。方や時化に揺られる小船、方や凪で動かぬ水面に佇む停泊船の如き趣である。
「仮に、ドクターが死体で発見されたとする。その後犯人を前にして、お前は自分を完璧に抑えられる自信があるのか」
どっしりと構えたマックスが発する言葉はやや和らいでおり、説得の色を含み始めてもいるようだ。これ以上ないほど具体的な例え話に、未来は口をつぐまざるを得なかった。
もし杉田を助けることができなかったら。
もし彼が死んでいたら。
そんな結果は恐ろしくて、考えたことすらないというのが正直なところだ。
最愛の人を奪った犯人を目の前にし、むごたらしく殺してやりたいと思うほど憎んだとしても、自分は捜査官なのだ。法の下に権利を保証して、裁きの場で断罪するのが義務である。理性で感情を圧倒し、如何なるときもプロであることを忘れてはならないのだ。
ただ同時に、捜査官も人間だ。
恐怖心から想像もできない状況に陥った場合、自分の行動について断言することは極めて難しかった。未熟だと言ってしまえばそれまでだが、自分の精神を奈落の底に突き落とされてまで法を遵守せねばならないのかと、きっと自問してしまうだろう。
自分たちはそんな理不尽さに歯を食いしばらねばならないことを承知の上で、この仕事を選んでいるはずなのだ。
「捜査に加わるということは、事件に対して責任を担うということでもある。ドクターの死亡が確認された場合でも、まともな捜査活動を続けることができるか?」
続いたマックスの問いは、更に未来の胸を突いてくる。
杉田が死んでいる場合でも、犯人を逮捕し裁判を終えるまで、捜査官たちは動く。
犯罪被害者の家族や恋人、親友たちは、事件のショックから精神に深い傷を負い、日常生活をまともに送れなくなる場合もあるほどだ。酷い事件の詳細に積極的に関わらねばならない捜査官のストレスは、ただでさえ肉体にも影響を及ぼすくらい深刻なものになる。
それが近親者であった場合のダメージは、それこそ計り知れない。
捜査官の関係者が巻き込まれた事件に当人が関われない理由も、そこにあるのだ。
「もとより、近し過ぎる関係の者を捜査チームには加えられない。わかったら、もう自分のオフィスに戻れ。ジャクソンも待ってるだろう」
そしてその結論は、未来にも前もってわかっているはずだった。
が、彼女はマックスの人となりをまだよく知らないし、どれぐらい自分を買ってくれているかも図りかねている。その分だけ特例として認めてくれるかも知れないと僅かな希望も持っていただけに、失望は大きかった。
戦力外通告を受けて2軍落ちしたメジャーリーグの選手の気持ちが、今の自分ならわかる気がする。ある程度は考えうる結果ではあっても、それぐらいのダメージは軽く受けていた。




