安息なき夜 -3-
「お前たち2人のことだが、借金とかのトラブルはなかったか?」
「一切。FBIからの給料はちゃんと出てるし、日本からの援助金もあるから。生活に困ってるとか、そういうのはない。カードの買い物も、殆どが日用品ばっかりだし。必要なら、財政記録を提出してもいいよ」
経済状況については誘拐に限らず、ほぼ全ての事件において質問される項目である。これに関してはやましいことがないため、堂々と答えることができた。
「ドクターが何か趣味を持っていて、金に困ってたりとかはしなかったか?」
「彼の趣味は園芸だし、最近まで忙しくてそんなことをしてる暇もなかったから。第一、この庭全部を掘り起こして花壇に変えようと思わない限り、卒倒するような金額にはならないよ。私は休みの日は、家でゆっくりしてるだけで過ぎちゃうしね」
「酒やドラッグはどうなんだ?」
「お酒はたまに飲むけど、ドクターはほとんど下戸だから……ドラッグなんか、手をつけたこともないと思う。遺伝子分析なんて頭や手先を使う仕事、禁断症状が出たらできないわけだし、何より彼は医者だもん。ドラッグがどんなに怖いかって、知ってるはずだから。もしやってたら、CVCの誰かが気づいてたはずだよ」
無論未来とて、ドラッグを一度もやったことはない。
職業上、ドラッグが身の破滅しか招かないことは2人ともよくわかっている。犯罪現場から押収したドラッグを使用したり、横流ししたりする法執行官のことも話題には上がるが、個人的な欲望のために大きすぎるリスクを抱え込む気にも当然ならなかった。
ウィリアムが今まで取っていたメモを見直して、率直な感想を漏らす。
「ふむ。今までの話をまとめるとドクター・スギタは極めて真面目で、犯罪に巻き込まれるリスクはかなり低い人物のようだな」
「そりゃあ、犯罪科学研究所で物騒な証拠物品を扱ってるんだから。犯罪の被害者が何をされたか、手に取るように知ってるはずだよ。でも……」
「でも、何だ?」
ここから先は未来が個人的にいつも感じていたことだが、話しておいたほうがいいだろう。ウィリアムの視線からすっと目を逸らした彼女は、幾分か控え目な口調になっていた。
「ドクターは、その割に認識が甘いところがあって。根っからの悪人なんて滅多にいるもんじゃない、人間は誰だっていい面と悪い面があるんだから、何でも疑ってかかるのは良くないって考えてるところがあったと思う。だから私、心配だったんだけど」
ウィリアムが頷いて見せる。
「性善説って奴か。医者らしい考えだな」
医は仁術というように、医師は普通善意で以て患者の治療に携わる。
その中でもとりわけ、杉田はお人好しな方だろう。経済的に恵まれた家に生まれ育ったお坊ちゃんだった彼は、人を疑うのは悪いことだと未だに心の奥では思っているのだ。
今日何度目かの溜息とともに、未来は続けた。
「だから、私がうちで仕事するのにもいい顔はしてなかったの。家は身も心も休めるための場所なんだから、殺人事件現場の画像を見たりするのはもってのほかだって」
「そのことで、お前たち2人が揉めたりはしてなかったのか?」
鋭く指摘されて、未来は息が喉に詰まったかのような苦しさを覚えた。
が、客観的な事実を隠していたら事態は好転しない。
「……実は、私がCVCに移ってからはたまにそのことで喧嘩することがあって。私は戦闘訓練があるから、その分捜査にかけられる時間が短いの。だから仕方なく、家でも仕事することがあったんだけど……ドクターはストレスになるから、余計な仕事は家に持ち込むなってうるさかったんだ」
「お前たち2人は、うまくいってなかったってことなのか?」
追及でも糾弾でもないウィリアムの静かな調子の言葉だが、未来は胸を突かれたことを隠せず、視線をうろうろとテーブルの上に彷徨わせた。
「そんなことはない、ないって思いたいけど……だって、サイボーグの私の身体を一番知ってるのはドクターなんだから。彼が私の人工パーツを作ったんだもの。彼がいないと、きちんとしたメンテナンスができない可能性があるんだよ。CVCにいるもう一人のドクターは、まだ私の体の全パーツを把握できてるわけじゃないし。彼がいなくなって一番困るのは、私なんだから」
一気に言った未来は、つい語調が強くなってしまうのを抑え切れない。
ウィリアムは捜査官だ。
当然あらゆる可能性を考慮しており、その中には未来が犯行に関係している可能性も含まれる。そして、彼もそれを全面否定しているわけではないだろう。未来も彼と立場が同じだったなら、全く同一の推測を辿った筈だ。
が、そうとわかってはいても、不安に胸の鼓動はかき乱され、背中と額に嫌な汗が滲んでくるのが感じられる。
未来の場合は単なる色恋沙汰絡みの事件とは事情が違う。被害者である杉田の支えなくして、彼女は文字通り生きていくことができない。そんなことは言わなくてもわかるはずと思いたくても、客観的な情報が全てとされる犯罪捜査では、形に残らないものは無視される。
普段決して言葉にしない心の内側を他人に表してみせるという行為には、精神力がじりじりと削られていく実感さえあった。
「それはそうだ。日本でも、ミキの身体をずっと診ていたのはドクター・スギタなんだろ?」
その意図を汲んでか、ウィリアムの態度はあくまで柔らかい。感情的にならざるを得ない元同僚の女性捜査官を、気の毒に思ってすらいる様子だった。
ウィリアムもベテラン捜査官にしては、この辺りの詰めが甘いと言えるだろう。
しかし人情派を自負する彼は、今回ばかりは自らの感情にある程度までしか逆らわないと決めているようだった。
「さっきお前が言ってたソフィーって女だが、彼女のせいで2人の仲がうまくいかなくなったってことはないのか?」
話の切り口が変わる。未来は躊躇った後に、弱く頷いた。
「多少はある、かな」
主な仲違いの原因は未来にある。ソフィーに対する嫉妬心を、認めないわけにはいかなかった。
「ソフィーは、私たちに仕事以外で初めてできた友達なの。だから、ドクターも頼まれたことは嫌だって言えないだろうし……」
「それは、昨日の話のことだな?」
確認してきたウィリアムの方を見て、未来は再び頷いた。
「多分、ストーカーのことについてだったと思う。男手だって借りたいときもあるだろうから。ドクターは、彼女を純粋な親切心から心配してて……でも私、他人のトラブルに首を突っ込むことは反対だった。よく知りもしない人の味方をするのは、特に危ないから。私がそう思ってることは、ドクターだって知ってたのに」
どうしても口調が弁解がましいと思えるのは、自分が持つ女としての醜い一面を曝け出さざるを得ないからだったが、男女間で起こる事件にこういった感情はつきものだ。その中の一つとして数えられてしまうことが、未来にとっては腹立たしくあり、悲しくもある。
「ソフィーとドクターが、2人でどこかへ行ったって可能性はないのか?」
「え?」
「日本語ではカケオチ、と言うんだっけ?2人が逃げ出すってことだ」
その質問に、未来は少々面食らった。そんなことは今の今まで、頭の隅にさえ引っかからなかったのだ。
「それはないと思いたいよ……多分。私、昨日ソフィーに連絡したんだもの。2人で逃げたんなら、彼女が電話に出たのは不自然だし」
杉田の性格を知っている未来は、普段なら笑いの種にできるぐらいのことである。が、今は悲しげな笑みを浮かべることぐらいしかできない。
「ドクターと定期的なセックスはあったのか?」
一番プライベートな情報について、出し抜けにウィリアムは聞いた。
普通ならそんなことまで聞くなと、怒鳴るところだろう。人によっては心が深く傷ついて侮辱されたと感じるだろうし、そうでなくてもこんな質問は尊厳を踏みにじられたと思って当たり前だ。
しかしブラックヘアのように性的要素が絡む殺人において、被害者と疑われる人物のセックスについての嗜好や傾向という情報は、極めて重要なのだ。それによって、被害者が犯人と接触した場所の情報や、人物像に結びつけることができるからだ。
膝の上に置いた未来の両手は、反射的にきつく握りしめられていた。
彼女は力んでいた手と肩、口許から意識して力を抜いた。
「週に1回か、2回は」
淡々と低い声で、彼女は事実のみを短く答える。声は震えていない。
「最後は?」
「11月23日の土曜日」
ウィリアムの質問は短く、未来の返答もまた、短い。
「……そっちでの彼の趣味は?」
「特に変わったことはしたがらない。全くのノーマルだよ。私もね。彼、仕事のせいもあってか暴力的なものは大嫌いだったみたい」
未来はさり気なく、杉田が過激で暴力的なポルノの趣味がなかったこと、そういった内容のメディアに嫌悪を感じていたこともつけ加えていた。
「ドクターの方で満足できないとか、そんな風に言ったことはあるか?」
「特にないよ」
これも本当である。
彼は2人でいちゃついたり、共同で何かすることは好きだったが、セックスそのものに執着するようなことはなかったのだ。
「他に、ドクターが男から言い寄られるようなことは?そういう場所に、一人で行ってたような節があったとか」
「たまに冗談で、バーの店長にからかわれることはあったけど……でも、そこはチームメイトの情報提供者がやってるお店だから。いくらドクターでも、一人でそんなところに行くわけがないよ。危なそうな場所を避けるくらいの危機感はあったんだし」
杉田はジャクソンの情報提供者、ルイが経営するバーで話の種にされることはあったが、実際の誘いがあったとしても決して乗らないだろう。杉田は多様なセクシャリティを認めて嫌ってはいなくとも、興味は全くなかったのだ。
「そもそも、彼にそういう趣味はないよ。よく知らない女の子と話すのだって、緊張するくらいなんだから」
知らず知らずのうち、未来の口調に力が込められていく。
「じゃあドクターは誰かから誘われても、うかうかと車に乗るような真似はしないってことだな。それが男でも女でも、反応は変わらないってことか」
「そう。誰とでも仲良くなれるってタイプじゃないから。日本人の中でもシャイな方に入ると思うし、まず警戒すると思う。声をかけてきたのが警官とかなら、わからないけど」
「自分から声をかけるようなことは?」
「困ってる人を積極的に助けることは、多分あるって言えるくらい。もし好みの女の子がいても、不純な目的で声をかけることはまずないんじゃないかな」
これも、未来が日頃から懸念していることだった。
杉田は相手がどんなに凄味がある外見をしていようが、困っている人には手を貸さずにいられない性分だった。もう随分前から、車がパンクしたから電話を貸して欲しいと訴えて携帯電話を借り、その隙に仲間が財布を抜き取る類の詐欺が横行しているにも関わらず、である。どんなに未来が言い聞かせても、根本的な人柄は変えることができなかったのだ。
「それだけ、ドクターはお前に首っ丈ってことだな」
和ませるつもりで言ったに違いない、ウィリアムの一言である。
しかし、未来は胸の傷を深く抉られたかのような痛みを覚え、反射的に俯いた。
「それから、昨日のお前の行動を漏らさずに話してくれ」
「……昨日は、非番だったから昼まで寝てたよ。それからすぐに机の上のメモを見て、ドクターがいないことがわかって。一人で家にいてもしょうがないから、クワンティコのCVCのオフィスに行って、仕事してた。家を出たのは、午後1時くらいだったと思う。で、結局クワンティコにいたのは3時半くらいまでかな。その後は街の食料品店で魚を買って、家に帰ったのが4時半くらい。それから後は、ずっと家にいたよ」
顔を僅かにしか上げられなかった未来の声は、くぐもっている。
「わかった。俺からの質問は、大体これぐらいだ。本当は女性の捜査官を寄越すべきだったんだろうが、駐在所には新人が入ってこなかったもんでな」
自分の発言が不適切であったと気づかなかったらしいウィリアムが、手元の書類をテーブルに打ちつけて揃え始める。
気づかないうちに緊張していた全身から力を抜き、未来はゆっくりと息を吐いた。決して暖房が効きすぎているわけではない室内でかいていた汗も、新たに滲み出てくることはなくなったようだ。
ウィリアムができる限り気を使ってくれていたのは伝わってきたし、本当なら感謝してもいいぐらいだろう。しかし未来の頭は鉛の芯が打ち込まれたように重く、胸にはどんよりとした空気が淀み、身体の外に出て行ってくれない気がしていた。
ボディブローを何発も食らった後のように、疲れ切ってしまったのだ。
「いいよ、気にしないで。いやったらしい聞き方じゃなかったから、大丈夫だよ」
言いながらも、未来は事情聴取がここまで苦痛を与えるものだという事実に打ちのめされていた。自分も被害者の家族に、今までこんなことを強いていたのだろうか?
意識せずに、重苦しい吐息とともに視線までもが落ち込んだ。
「まあ、ロスにいた頃と同じやり方をしてちゃあな。娘にも嫌われちまうから」
ウィリアムの口許を苦い微笑が横切っていく。
無骨な男が発した何気ない一言に、未来は驚いてちらりと視線を上げた。
「結婚してたんだ、ビル」
「ああ、そう言えば言ってなかったかもな。娘のチェリーはまだ10歳だよ」
彼はボイスレコーダーを止め、未来が提出したクリアフォルダと自分の書類をブリーフケースにしまっていく。その間、未来は重い身体を引きずる思いで立ち上がり、バスルームに置いてあった杉田のヘアブラシと歯ブラシ、脱いだままになっていたアンダーシャツ、卓上に残されていたメモとソフィーの連絡先の走り書きを持ってきた。アンダーシャツは密封できるタイプのビニール袋に入れ、ブラシ類も同じように別のビニールに入れる。紙類は、持ちやすいよう大き目の封筒に入れた。
未来からそれらをまとめて受け取るウイリアムの手に、結婚指輪はない。捜査官にとって、家族とはアキレス腱だ。仕事の間は指輪をしないようにしているのだろう。
彼は全ての荷物をブリーフケースにしまうと、クラッカーとチーズをもう一つずつ口に放り込んでからコーヒーを一気に流し込み、ソファーから立ち上がった。
「ビル、私はまだ容疑者のリストに載ってると思う?」
ガレージまでウィリアムを見送るため、未来が後ろからついていく。
「今のところは載ってるだろうけど、早ければ今日中に外されるさ。お前も自分で言ってたが、ドクターがいなくなって一番困るのはお前自身だ。そんな奴が、わざわざ誘拐を企てる可能性はない。いくら妙な女の影があるとは言ってもな。自宅待機さえ解ければ、動きようはあるだろう」
未来が玄関のドアを開けたところで、ウィリアムはここでいいと彼女を制した。
「調書はすぐに作って、主任のところに回すようにするからな」
未来は、彼が捜査車両と自分の足で動き回ることを好む捜査官であることを知っている。なのに調書作成を最優先にしてくれると言うのだから、彼が何とか役に立とうとしてくれていることを感じた。
その暖かさが、今は一際身に沁みる。
「ここに来たのがビルで良かったよ」
「俺はこんなことで、お前の家に来たくはなかったがな」
ふっと表情を緩めた若い女性捜査官に、ウィリアムは複雑そうな顔を見せた。
「今度ここに来るときは、もっと旨いコーヒーかビールが飲めることを期待したいぜ」
「私のコーヒー、まずかった?」
いつもと同じ淹れ方をしているのに、コーヒーの香りが落ちていたのだろうか。ウィリアムの言い種を気にして当惑の色を浮かべた未来に、彼は目元に皺を寄せてもう一度笑った。
「そういう意味で言ったんじゃねえよ。ミキは少なくとも、女房よりは旨いコーヒーが淹れられるみたいだからな」
杉田が戻ってきて落ち着いたら、ウィリアムの家族もここに呼んでお茶を楽しもう。
ここ数ヶ月間、未来は誰かの家族とも積極的に付き合う機会に恵まれていなかったが、彼の妻や娘には是非会ってみたい気がした。
「無事解決したら、喜んで招待させてもらうよ」
「その時は、灰皿も用意しといてくれよ」
ウィリアムはデニムとニットというラフな格好にすっぴんの未来へ、挨拶代わりに軽く手を振ると、そっと白木の玄関ドアを後ろ手で閉めた。




