安息なき夜 -2-
未来の仕事用携帯電話に着信があったのは、冷えた秋の大地を太陽が弱々しく照らし出した、8時を回った頃だった。
浅い眠りをうろうろと彷徨った挙げ句に、結局6時には起きてしまった彼女が、3杯目のコーヒーを淹れようとしてキッチンにいたときである。
携帯電話につけた黒い革のストラップを引っ張り、受話ボタンを押して本体を耳に当てると、太い男性の声が響いてくる。それは確かに聞き覚えがある声だった。
『ミキか?久しぶりだな』
「……ビル?ビルなの?」
ディスプレイに通知されてきた番号を確認せずに電話に出てしまったが、聞こえてきたのはフレデリックスバーグ駐在事務所の先輩捜査官、ウィリアム・タイラーの声であった。駐在事務所からCVCへ異動になってから1ヶ月も経っていないのに、ひどく懐かしい気がする。
『ああ。ついさっき、主任から事情は聞いた。あと30分ほどでそっちに行きたいんだが、大丈夫か?』
ウィリアムが持つ、バリトンの豊かな声は相変わらずだ。
そしてその声は平静を保ちつつ、心配そうな様子を隠し切れていないのがわかる。まるで、何かに怯えて泣いている娘の身を案ずる父親のような口調だった。
未来の鼻がつんと痛くなり、思わず涙がこぼれそうになる。
「うん、大丈夫」
声の震えを押さえた未来は、鼻を軽くすすってから付け加えた。
「濃い目のコーヒーを用意しとくよ。車は、ガレージが1台分空いてるからそこに入れて」
『了解。コーヒーは楽しみにしてるぜ。事務所のポンコツコーヒーメーカーのは、薄くてクソ不味いからな』
ウィリアムは抑えた声で伝えると、すぐに電話を切った。
考えてみれば、ここはフレデリックスバーグ駐在事務所の担当地区だ。所轄の捜査官にCVC本部から連絡が行き、協力を要請するのは当たり前と言えば当たり前だろう。
それからぴったり25分後にえんじ色のプリウスが未来の自宅ガレージに吸い込まれ、そこから下りてきたウィリアムが玄関の呼び鈴を押した。
防犯ベルを解除した未来がドアを開け、顔を覗かせる。
「どうぞ、入って」
白木の玄関ドアの隙間から、素早くウィリアムが中に滑り込む。
意外にも、彼は一人で来ていたようだった。所轄の警官も、他の捜査官も伴っていない。この家には今まで他人を入れたことがなかったため、ウィリアム一人だけなのは却ってありがたかった。
彼をリビングのソファーに案内すると、未来はキッチンに準備していたコーヒーポットとティーセット、ブラックベリーのジャムを塗ったクラッカーとチーズの皿にペーパーナフキンを沿え、金属のトレイにのせた。それを持ってリビングへ戻ると、ウィリアムはブリーフケースから調書用の書類とリーガルパッド、ボールペン、ボイスレコーダーを取り出しているところだった。
「スナックがちょっと多かったかも知れないかな。警察も一緒に来ると思ってたから」
「いや、朝飯を食ってないからな。丁度いいさ」
未来が邪魔にならないように食器を一通り並べると、ウィリアムが頷く。
「お前、寝てねえだろ。本当に大丈夫なのか」
コーヒーを注ぐ未来の顔に疲労が濃く出て、やつれ気味になっていることをウィリアムが見咎める。どんなに過酷な捜査の後でも、彼は未来のここまでげっそりとした顔を見たことがなかったのだ。コーヒーを各々の前に置いてから、彼女はウィリアムが座るソファーの反対側に腰を下ろした。
「少しは寝たよ。まあ、睡眠不足なのは確かだけど。私のコーヒーも濃いし、大丈夫」
何が大丈夫なのか、自分でもよくわからない。
ウィリアムは黙々と調書作成の準備を進めながら、さり気なく室内の様子を観察している。未来も関係者の家へ聴取に行くと必ずやることだが、自分の家が他の捜査官から見てどんな生活をしている者に見えるかなど、今まで考えたこともなかった。
2LDKで地下に洗濯室があるこぢんまりとした平屋というのは、アメリカの若いカップルに典型的な住まいである。借家のため内装がいじれない分、インテリアは明るくしてくつろげるように気を配っているつもりだった。
しかしキャンバス地のソファーやオレンジ色の文字盤の壁時計、日本にいた時の写真を入れた額などを飾った棚などを、他人からまじまじと見られるのは気恥ずかしい。
「ドクターから連絡はあったのか?」
大きな音を立てて濃いブラックコーヒーを飲み、ウィリアムが未来に視線を向ける。小さく息をついた未来がゆっくり首を横に振ると、彼はコーヒーカップをテーブルに置いた。
「さて、面倒なことは、さっさと終わらせちまおう。ミキは今日、その後にゆっくり休んでろよ。いいな」
調書用の質問事項のプリントアウトを手にしたウィリアムは、チーズをクラッカーの上にひょいとのせて口に放り込んでから、ボイスレコーダーのスイッチを入れようとして手を伸ばした。
「待って。ビルはどこまで知ってるの、私たちのこと?」
「お前たちのこと?同居人やお前が、日本でやってたこととかか」
ためらいがちに質問した未来に、スイッチに指をかけた彼の動きが止まる。
「そう。私が捜査官になった理由と、どうしてドクター・スギタと同居してるかってことも」
「主任が知ってることは全部聞いた。お前が今CVCの戦闘チームにいることも、俺たちとはちょっと違った身体をしてるってこともな」
ウィリアムが一度手を引っ込めて溜息混じりに言うと、用紙の束を所在なげに片手で弾いた。彼は憔悴した未来を見るのは初めてだったが、未来もウィリアムの当惑した様子を見るのは初めてだった。
彼はFBIに来る前、ロサンゼルス市警の警官だったと聞く。そこで痴話喧嘩から発展した殺人から児童虐待に起因する傷害事件、麻薬密売組織との銃撃戦まで、ありとあらゆるトラブルや事故を経験したのだ。だからFBIでどんな事件を担当しようとも驚きはしない、という話をよくビールのつまみにしていた。
が、流石にアジア人の同僚が軍事用サイボーグだったというのには、仰天したに違いない。それも彼が熱心に世話を焼いた、親子ほどに歳が違う女性捜査官ともなれば尚更だ。
「そっか……それなら、気兼ねなく話せるよ」
未来は、ここに来たのがウィリアムで良かったと安心していた。
最初の配属先であったフレデリックスバーグ駐在事務所で未来の教育担当はアーロンだったが、何と言っても現場で鍛え、叩き上げてきたのはウィリアムだ。捜査車両の中で昼夜を問わず張り込み、一緒にドアを蹴破り、犯人を逮捕し、一番多くの時間を一緒に過ごしてきた先輩捜査官なのである。
未来はこの小柄で無骨な男を尊敬し、信頼してもいた。
勿論彼女はCVCの仲間も信頼はしているが、まだ異動になって日が浅い。
未来の元上司であるノートン上級主任はそんな点も考慮して、ウィリアムに事情を説明した上で聴取するようにしたのであろう。
ウィリアムは伸び放題の無精髭に覆われた顎を軽く掻くと、コーヒーに口をつけている未来の顔をまっすぐに見つめた。
「心配するな。今回の調書は極秘扱いだから、機密に触れるようなことは一切書かないし、特定の人間にしか閲覧を許可しない。お前たちの関係も、内縁関係ってことにしておくさ。とにかく、捜査に必要な情報はそういうことに関係ないところにあるし、FBIから警察に回す情報も限定する。そこは約束されてるからな」
そしてウィリアムの視線からは、何よりも誠意が溢れ出しているのが感じられた。
一見すると粗野、下衆で乱暴かもしれないが、その裏では細かい気配りを忘れずに、本当に何が必要なのかを鋭く嗅ぎ取るのに長けた捜査官。それがウィリアムという男だ。だから派手な立ち回りをしていても同僚から煙たがられることはないし、腕利きとして一目置かれる。
ウィリアムを嫌っていたのは、ジェイコブくらいのものであろう。
「警官が一緒に来なかったのも、同じ理由なの?」
「ああ。マスコミにべらべらと余計なことを喋る警官もいるからな。パトカーなんかを引き連れてきて、この近所で噂になっても困るし。逆に、FBIの内部では大騒ぎになってるみたいだが」
通常、FBIの捜査官は地元警察と密に連携して事件の捜査に当たる。一方で、静かな住宅街にパトカーの群れが来たりすれば、必ずどこかで捜査の情報はマスコミに伝わってしまう。それも警察回りの記者は、外で見張りをしている警官の他愛のない雑談などを鋭く聞きつけ、間違った情報を間違った形で世に出してしまうのだ。
それを防ぐためには、限られた情報のみを与えることで回避するのが一番だ。地元警察官の心象を悪くしてしまうとしても、今回ばかりはやむを得ない。
ブラックヘアのことは、ただでさえセンセーショナルにインターネットや新聞、テレビで既に報道されているのだ。行き過ぎたマスコミの情報は例外なく犯人を刺激し、犯行をより大胆に、エスカレートさせてしまう。
まだ杉田がその被害者と決まったわけではない。
そう。まだ彼は行方不明になっただけで、生きている可能性があるのだから。死体が発見されない限り、情報を絶対に漏らしてはならないのだ。助かる命を、むざむざ失わせるわけにはいかない。
未来は自嘲気味に呟き、手にしたマグカップの中で揺れるコーヒーへ目を落とした。
「……驚いたでしょ、私やドクターのこと」
「最初はな。けど、聞いたところで何も変わりゃしねえよ。ミキはミキだ」
対するウィリアムは素っ気ない。まだ湯気を立てているコーヒーを取って、口に含む。
「お前は今だって俺の後輩で、俺が育てつつあった捜査官なんだ。後輩を先輩が助けなくてどうするんだ?」
コーヒーカップをテーブルに置いてから、ウィリアムは未来の肩に手を置いた。少し袖を捲り上げたワイシャツから伸びた毛深い腕から、暖かさと力強さが伝わってくる。
「わかっているとは思うが、今回の調書では色々と突っ込んで聞かなきゃならんこともある。興味本位で聞いてるわけじゃないから、そこは理解してくれ」
「そんなの、十分すぎるくらいわかってるよ。私だって何度もやってるんだから」
未来の顔に次に上ったのは、悲しげな微笑だった。ウィリアムの青い瞳に、一瞬当惑の色が浮かぶ。彼は静かに手を引き、ボイスレコーダーのスイッチを押した。
「じゃあ、まず最初に。音声から起こすのが面倒な情報は、テキストでここにあるよ。ドクターの……マサト・スギタの名前と住所、性別に人種、顔写真、身長とか体型とかの基本データがまとまってるから。これを見ながら、調書を作るといいよ。プリントとデータの両方を準備してるの」
「ああ、こりゃありがたいな。喜んで預からせてもらおう」
未来がコーヒーテーブルの下に据えつけられた棚から取り上げたのは、一般的な調書を作成するのに必要な項目をテキストファイルにまとめた小型メモリとプリント、最近撮影した杉田のスナップ写真をクリアフォルダに入れたものだった。写真もデジタルデータを落とし込んである。
テキストデータは歯の治療記録や着用していた眼鏡の詳細、身体の傷跡や服装など、細部に渡っている。どれも、外見から判別できる特徴について記述したものだ。
「歯ブラシに髪の毛と、服なんかは後で渡すよ。それ以外で必要な情報は、直接話すから」
歯ブラシと髪の毛はDNA鑑定と毛髪鑑定、服は警察犬を使用した臭跡の追跡に必要なものになる。DNA鑑定は、主に身元不明の状態で発見された死体を鑑定するのに役に立つのだ。
こんなものを提出するのは、まるで杉田がもう死んでいるのが前提だと認めるようなもので、被害者の家族はここでも傷つけられる。いくら必要性があると頭ではわかっていても、感情的にはどうすることもできないものだった。
ウィリアムがプリントした紙を確認しているのを見ながら、未来は心が次第に鈍い反応しかしなくなってきているのを感じていた。
「それじゃあ、最後にドクターを見たのはいつだ?」
「11月26日、つまり昨日の午前0時くらい。寝る前に挨拶したのが最後。昨日の昼ぐらいに私が起きたら、もう家の中にいなかったの。代わりに出かけてくるってメモが残ってて、それが書かれたのが午前10時半。メモの後ろに、時刻が書いてあったから」
「そのときのメモは、まだあるのか?」
「うん。後でブラシとかと一緒に、渡すようにするから。それからドクターの携帯に何度電話しても、コール音が一度も鳴らずに留守番電話の応答になってて。おかしいとは思ったんだけど……チームメイトに連絡したのが、昨日の夜の9時くらい。その後にまだ頑張ってみたけど、結局ドクターの携帯は同じ状態だったよ」
昨日の夜、ジャクソンに連絡してからチーム責任者のマックスに話が行き、検討の後にフレデリックスバーグ駐在事務所に協力が求められ、ウィリアムが来たのだ。その流れは、いちいち説明しなくてもわかっているだろう。
ウィリアムが、達筆過ぎて読めない字でリーガルパッドにメモを取り始める。
「その出かける用事ってのは何だったんだ?」
「最近行くようになったフィットネスクラブでできた女の子の友達がいて、その子から相談したいことがある、って連絡があったらしいんだ。私は寝てたから、連絡があった時間はわからないけど」
「連絡は携帯にあったんだな。ドクターは仕事じゃなくて、休みだったのか?」
「昨日は、私たち2人とも非番だったから……」
未来が口ごもるのを、ウィリアムは見逃さない。しかし、追及はあくまで不快感を持たせない語調であった。
「ドクターとお前は恋人同士なんだろ。なのに、起きるタイミングは別々とは珍しいな。一緒に起きて食事をしたり、どこかに行ったりとかはしないのか」
「昨日はたまたまだよ。私が戦闘訓練と仕事で疲れてたってのもあるし。多分、起こしちゃ悪いと思ってそっと出かけたんだと思う」
彼女は嘘は言っていないが、全てを話したわけでもない。
ウィリアムは、またペンをリーガルパットに走らせながら続けた。
「その女友達とドクターは、どこで会うって言ってたんだ?」
「リッチモンドのダウンタウンにある、7デイズ・フィットネス。フロントに問い合わせたら、ドクターは2時に退出した記録があるって言われたよ。彼女にも直接確認したんだけど、ドクターと別れたのは26日の午後3時半くらいだって。自分の家に、車で送ってもらったって言ってた」
そこでふとウィリアムの手が止まる。
「彼女、自分の車で7デイズに来たんじゃなかったのか?わざわざドクターに送らせる必要はなかったんじゃないのか」
「さあ。彼女がどこに住んでるかは私、知らないから」
未来は質問に当惑した顔になっていた。
確かにソフィーは、杉田に送ってもらったと言っていた。自分の車はどうしたのだろう?昨日ソフィーに連絡したときは、気が動転していて気がつかなかったことだ。
「ドクターの姿を最後に見たのは、彼女というわけだな」
「そうなると思う。結局昨日、私はドクターの顔を見てないし、声も聞いてないから」
「彼女に詳しい話を聞く必要があるな。連絡先を後で教えてくれ」
メモを取り続けているウィリアムに、未来は黙って頷いた。
しんとした室内には、ウィリアムのボールペンが紙を滑る音と、時計の針が時刻を刻む音がやたらとはっきり聞こえてくる。
外からは、子どもたちが賑やかに騒ぐ声が響いてきていた。何気なく窓の外を見ると、隣家の私道までやってきたスクールバスに乗り込む子どもたちに、白人の母親が手を振っているのが見える。
「で、その女友達の特徴を教えて欲しいんだが」
「ソフィー・アイコ・フジミって名前。日系人の大学生だよ。背は私と同じくらいで、赤い髪と緑の目をしてる。でも髪は染めてて、目はカラーコンタクトみたい」
未来は説明しながら、ソフィーの顔を思い浮かべた。
カラーコンタクトをしていると瞳の大きさが変化しないため、まるで顔が作り物のような印象になる。初対面のときの違和感を、未来はよく覚えていた。女性が髪の色をいじるのはよくあることだが、彼女は何故、わざわざ瞳の色まで変えているのだろうか。
「外見的な特徴はよく見てるな。ミキも会ったことがあるのか?」
「私とドクターの共通の友達だから……知り合ったのも、2人でいたときだし」
「彼女の人となりはどうだ?」
やや訝るように、ウィリアムの口調が僅かに変わった。顎と視線を上げ、未来がつい最近会ったソフィーから受けた印象を英語にのせていく。あまり主観的なものにならないよう、できる範囲で言葉を選んだ。
「大人しそうな女の子って感じかな。話し方も控え目で、運動もあんまり得意じゃないみたい。スポーツをやってるような体格に見えなかったし、アロマテラピーが趣味だって言ってたからね。つい、手を貸してあげたくなるタイプって言えばいいのかな。最近は別れた彼氏につきまとわれて困ってるらしくて、私も相談されてたの」
「ソフィーは、お前が捜査官だってことを知ってるのか?」
ウィリアムがリーガルパットからちらりと視線を上げ、ソファーの端に座っている未来の顔を見る。未来は素直に、横に首を振った。
「ううん。それどころか、本名も知らないよ。外では私、ずっと偽名で通してるから。ドクターもFBIの職員だとは、教えてないみたい」
「その前の男とのトラブルについても、話を聞いておく必要があるな」
ウィリアムが頷いた。
恋人が浮気した場合、男は純粋に浮気した女を恨むが、女は恋人の男よりも浮気相手の女を目の敵にする傾向がある。男が恋人の浮気相手の男を恨むことは、あまりあるケースではない。
今回は恋人同士にソフィーとラルフ、浮気相手に杉田を当てはめられる。
厳密に言えば杉田は浮気相手ですらないが、怒り狂ったストーカーの思考は予想の斜め上を行くことがしばしばある。考慮しておくべきことだろう。
「男の名前はラルフ・バーンズ。白人で30歳前後かな。私も7デイズの駐車場で出くわしたの。腕を掴んできたから、公務執行妨害で逮捕でもしてやろうかと思ったくらいだよ」
「腕を掴まれただと?穏やかならざる話じゃねえか。何があった」
ウィリアムが眉を顰めた。
「一昨日、ソフィーからそのラルフの件で相談があるって言われて会ったんだ。ストーカー紛いのことをされてるから、どうすればいいかって。7デイズのカフェで話をしてたんだけど、そいつが駐車場で待ち構えてたみたいで。ソフィーが私に自分のことをどう言ってたのかとか、お前はソフィーに騙されてるとか。まあストーカーにお決まりの台詞のオンパレードだったけどね。私が話を止めさせて帰ろうとしたら、まだ話は終わっちゃいないって、腕を掴んできたんだよ」
当日のことを思い返した未来が無意識のうちに、左の二の腕を押さえている。
腕っ節については、素手の状態で未来に勝てる男などジャクソン以外にいない。が、掴まれたときの痛みはあるし、身体がずっと大きな男が迫ってきた生理的な嫌悪感はある。
丸腰のラルフなど怖くはなくても、顔をしかめたくなる不快感は残っていた。
「ラルフとソフィーの写真はあるか?」
ウィリアムの問いに、未来は首を横に振った。
「ソフィーとは、まだ知り合って日が浅いし。ラルフの画像なら、ソフィーが持ってるかも知れないけどさ」
そこで、ウィリアムの言葉が一旦途切れた。右手に持った黒の安っぽいボールペンの柄を、くるくる回している。これまでの話を整理しているのだろう。
更に二言三言書き留めてから、彼はリーガルパットを一枚めくった。
「話が逸れたな。ドクターの話に戻ろう。最近、誰か変な奴につけられたことがあるとか、家の周りに不審者がいるのを見たとか、話してなかったか?」
「特にそんな話は聞いてないよ。それにもし妙なのがうろついてたら、ドクターより私の方が先に気がつくはずだもの。クワンティコの本部はセキュリティが厳しくて部外者は入れないはずだから、言わずもがなだし。海兵隊基地関係者とかなら、別かも知れないけどね」
「変な電話があったりとかも、なかったか?」
「ない。留守電や携帯にも、おかしな電話はなかったよ」
再びウィリアムが無言になる。調書の質問項目を見ながら数秒間は沈黙していたが、一度息をついてから、彼は覚悟を決めたように顔を上げた。
「じゃあ……」
未来の顔に視線を定め、一旦言い淀む。
「今度は、もうちょっと個人的なことについてだ。済まんが、嫌なら話さなくてもいいというわけじゃないんでな」
「わかってるって。私だって、さっさと終わらせたいんだから」
ウィリアムが気遣ってくれているのは、未来にもわかっている。
それだけで十分だった。




