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溝 -10-

 彼女がクワンティコを後にしたのは、エマがオフィスから去ってすぐのことである。

 杉田が特に好きなのは魚料理だが、生憎とフレデリックスバーグでは和風に調理できるような魚はなかなか手に入らない。そのため未来は、クワンティコの市街にある大型の食料品店へまず車を走らせた。

 クワンティコは、住民の大半が海兵隊員とその家族だ。街には当然様々な店もあり、その中には海兵隊基地の食堂へ食材を卸している店もある。そして生鮮品を扱う店では一部、一般消費者に小売をしてくれるところもあるのだ。

 未来は大型のスーパーにも見える生鮮食料品点の混雑した駐車場に車を滑り込ませ、切り身にしてもらった鱈を買い、一路フレデリックスバーグへと返した。

 鱈は二人分としては多過ぎる量しか買えなかったが、冷凍にしておけば日持ちする。出汁の粉末、味噌や醤油、味りんのような和風調味料も、渡米してすぐに一通りリッチモンドで買い出しておいた。野菜も大根以外なら日本料理でも頻繁に使うものはそこそこにあるし、一食作るくらいなら問題ない。

 自宅まで帰り着いた未来が車をガレージに入れて玄関をくぐり、ドアにロックをかけたのは16時半過ぎだった。靴を室内履きに履き替え、急いで買ってきた食材をキッチンの調理台に広げる。献立はご飯と鱈の照り焼きに豆腐の味噌汁、ほうれん草のお浸しに南瓜の煮つけと決め、すぐに準備に取りかかろうとした。

 が、その前に杉田が何時頃に帰宅するのか確認しなくてはならない。

 可能ならできたてをダイニングテーブルに並べて彼を喜ばせたいし、その方が会話も弾むだろう。うきうきとして未来は自分の携帯電話をバッグから取り出し、杉田の番号を呼び出した。

 しかし期待に外れて呼び出し音が一度も鳴らず、留守番電話の機械音声を聞かされることになった。携帯をバッグの底に入れ、フィットネスクラブのロッカールームでも奥の方に置いているのだろうか。仕方なく、夕食は用意しておく旨を録音して準備を再開する。

 日本にいるときは外食が多かった未来であったが、昨年末の騒動の療養生活を終えた後は、リハビリも兼ねて料理を作ることもあった。そのおかげか、長年苦手だと思っていた料理が実はそんなに苦ではなかったことに、気づき始めてもいた。

 南瓜を洗って切り、鍋に湯を沸かしてほうれん草をゆがき、照り焼きのたれを作って切り身を漬け込む。たちまち、家の中に暖かい湿り気が満ちていくような気がした。

 こうした一連の流れも滞りがなく、もし杉田がいたらその上達ぶりに驚くだろうと断言できる。米もといで水に漬けてあったが、やはりこれは杉田が戻る時間がわかってから、炊き上がりの時間を炊飯器にタイマーでセットするのがいいだろう。

 短時間でできるお浸しや味噌汁があとは盛るだけとなり、南瓜の煮物が鍋の中で甘辛い香りとともにぐつぐつと煮えているのを確認すると、時間は17時半を回ったところだった。

 杉田が出かけた7デイズ・フィットネスのあるリッチモンドのダウンタウンからフレデリックスバーグの自宅まで、道が空いていても1時間半以上はかかる。休日の晩はいつも7時までに夕食を食べるようにしているから、遅くともリッチモンドを出発している頃だ。

 未来はもう一度、杉田の携帯電話番号を呼び出した。が、結果は先と同じく、受話器から無機質な留守番電話の応答音声が聞こえてくるだけだった。

 多分携帯電話の電源を入れ忘れているか、電池が切れたかしているのだろう。

 思わず、小さな溜息が漏れた。どうもうまくいかないようだ。

 これ以上の頻度で電話をかけるのも、夫の浮気を過剰に心配する妻のようで気が引ける。

 先に照り焼きを仕上げることにして、彼女はガスのグリルに鱈を並べて火をつけ、汁気が少なくなった煮物の鍋を下ろした。

 キッチンのカーテンがかかった小窓から外を見ると、外はもうすっかり日が暮れて暗くなっているのがわかる。近所の家々のポーチを飾るランプや、クリスマスツリーを彩る宝石のようにカラフルなライトが、曇った窓越しで闇に浮かび上がっているのが見えた。アメリカの住宅街ならではの光景と言えるだろう。

 そして、空っ風がびゅうびゅうと音を立てて吹いているのも聞こえてくる。

 フレデリックスバーグは、11月末の今も雨が降ればみぞれに変わることもある。こうしている今も、車をガレージに入れた杉田が寒さに背を丸め、「ただいま」と玄関から入ってくるのが待ち遠しかった。

 まるで初めて待ち合わせをした時のように、未来は落ち着かなかった。

 大して広くもない家を地下の洗濯室から書斎まで歩き回ってあちこちを片付け、グリルの様子を見にキッチンへ戻り、ベッドを整える。そして度々携帯電話の着信履歴を確認して落胆し、玄関の覗き窓から外の様子を窺って、変化のないことにまた、がっくりとくる。

 少しはのんびり構えていようとリビングに戻った未来は、もう19時を回っていることに気がついた。常時ニュースをやっているテレビのチャンネルを見ても、時刻は同じだ。

 いくら何でも、ここまで連絡がないのはおかしいのではないか?

 何度も電話をかけているのだから、心配していることぐらいはわかるはずだ。あと一回、どこにいるかを確かめてみよう。

 そう思った未来は再び携帯電話に手を伸ばしたが、途中で止めた。

 杉田は子どもではない。それに渋滞に巻き込まれれば、遅くもなるだろう。

「もう!夕食は寝る4時間前に済ませなきゃ、身体に悪いのに」

 腰を下ろしたリビングのソファーで一人ごちた未来であったが、待つ以外になかった。仕方なくニュースに集中しようとコーヒーも淹れて再度、ソファーに陣取る。

 しかし内容は全くと言っていいほど頭に入ってこず、壁時計が時を刻む音がやたらと耳につくばかりだった。結局ニュースを見ていても、10分に一度は時計を見る有様だ。19時半にはまた玄関ドアの覗き窓から外を確認し、20時にはガレージに車がないかどうかまで見に行ってしまった。

 20時半になって、未来はようやく7デイズ・フィットネスのフロントに確認の電話を入れることを思い至った。問題は未来のラストネームが違うのに家族だと告げて杉田の所在を確認しようとすることに思えたが、登録した住所が同じものであったことと、初回時にFBIの身分証を提示していたことが効力を発揮していた。

『確認いたしましたが、ミスター・スギタは14時にお帰りになったようですよ』

「えっ?」

 予想もしていなかったフロント女性の返答であった。

 頭の中が一瞬白くなり、言葉が出てこなくなる。

 杉田が午後の早い時間にフィットネスクラブから出たのなら、今彼がここにいない理由は一体何なのか。

『入退場時に記録された会員番号はご本人様個人の会員証のものですし、間違いないとは思いますが』

「そ、そうですか。わかりました」

 対応してくれた女性が丁寧に伝えてくれたことにどう反応していいのかまでもわからなくなり、未来は喉を詰まらせて電話を乱暴に切ってしまった。

 ならば、一体杉田はどこに行ってしまったと言うのか。

 呑気にまだリッチモンドのダウンタウンにいるのか?

 それとも事故に遭ったのか?

 もしかしたらソフィーと二人、モーテルにでもしけ込んだのか?

 一気にそこまで考えて、未来は慌てて頭を振った。

 例え杉田がソフィーに強引に迫られたとしても、隠すつもりならこんな時間まで外で過ごしたりしないだろう。それにあんなメモをダイニングに残しておいたのだから、彼の方からごまかしのために連絡を入れないというのは不自然極まりない。

 それならば、それ以外で連絡ができない状況であると考える方が理にかなっている。

 しかし、本当にソフィーは関係ないのだろうか?

 気づいたときには既に、未来はソフィーの携帯番号を呼び出して発信ボタンを押していた。最早躊躇している場合ではない、という本能的な判断に身体が従ったのだろう。

『もしもし、ヨーコ?こんばんわ』

 ソフィーは呼び出し音が鳴ってすぐに電話を取ったようだが、未来がすぐに声を出さなかったため、不審そうな響きを控え目な声に織り混ぜていた。

「あ……ソフィー?」

『ええ』

 確認するように、未来が電話口で名前を口に出す。間違いなく、最近聞き慣れたソフィー本人の声だ。雑音が聞こえてこないところから、自宅にいるのだろう。

 未来は立ち上がりながら、声の震えを抑えて尋ねた。

「あの、今日ドクターに会ったんだよね?」

『ええ。ちょっと話をして、その後家まで送ってもらったの。彼、ヨーコに頼まれてたお土産を買うから、もう一度リッチモンドまで戻るって言ってたけど』

 未来の心臓の鼓動が大きく、強く、そして激しく乱れた。

 携帯電話を持つ右手が震え、呼吸にも空気が漏れるような音が混ざる。きっと、顔色も真っ青になっているに違いなかった。

 力が抜けて落ちそうになった携帯電話を握り直し、逆の手を胸に押し当てて細く息を吸い、吐き出す。未来は平静を装うことに、全神経を集中させねばならなかった。

「それ、何時くらい?」

『そうね、3時半くらいかしら。でもどうして、そんなこと聞くの?』

「……わかった、ありがとう」

『どうしたの、何かあったの……』

 ソフィーがまだ何か言おうとしていたが、未来は終話ボタンを素早く押していた。

 杉田は、ソフィーと一緒にいるのでもなかった。

 もし一緒にいるのなら電話に出るわけがない。

 いや、ソフィーまで電話を取らなかったら、まだ多少は安心できたかも知れない。

 杉田は14時にフィットネスクラブを出て、15時半までソフィーと一緒にいた。その後にリッチモンドまで戻って買い物をしたとしても、まだ戻ってこないのはいくら何でも異常だ。それに何かあって予定よりも遅れる場合、杉田は必ず連絡をしてくれた。

 一体、彼はどこへ行ってしまったのだろうか?

 帰宅途中に事故に遭ったのだろうか?

 それとも、トラブルに巻き込まれたのか?

 昨晩最後に見た、心配と不安がない交ぜになった黒髪の青年の顔が未来の脳裏を横切る。

 同時に、最も思い出したくなかった単語が意識の中に弾けた。

 ブラックヘア。

 CVCの担当事件で杉田がDNA分析を担当している、ヴァージニア州内で発生中の連続殺人事件のコードネーム。

 被害者は全て眼鏡を着用した若いアジア人男性で、犯人はまだ捕まっていないはずだ。

 未来の視界が端から黒くなっていき、危うく全てが支配されそうなところで踏みとどまった。尻餅をつくようにソファーに腰を落とすと、震えが激しくなった手で、ソファーに置いてあった仕事用のハンドバッグを探る。

 焦りを露にした彼女がやっとの思いで仕事用の携帯電話を手にして呼び出したのは、ジャクソンの番号だった。

 コール1回で、ジャクソンは電話を取ってくれた。

「……ジャクソン?」

『ああ、ミキか。どうした?何か新しい証拠でも見つけたのか?』

 黒人青年の陽気な声は、普段と変わらない。まだ表を出歩いているらしく、後ろががやがやと騒がしいのがわかる。

「ドクターが……」

『何だよ、のろけたけりゃ俺よりも適任者がいると思うぜ』

 その騒音で未来の声が揺れていることに気づかないのか、未来の声を遮った彼は笑い声を上げた。多分、ホワイトクロウで酒と食事を楽しんでいるところなのだろう。

「ドクターと連絡、連絡が取れないの」

『……何だって。いつからだ?』

 未来のうまく出てこない言葉と息が喉につかえたような様子に、一瞬でジャクソンの陽気さが影を潜める。

 ただごとではないと気づいてすぐに店の外に出たらしく、落ち着こうとしていた未来が次に話し出したときには、先までの喧騒がもう聞こえてこなくなっていた。

「ドクターの顔を見たのは、昨日の夜中が最後だけど……今日昼に起きたら、もういなくて。ダイニングに私宛のメモがあって、それが書かれたのが朝の10時半」

 未来は混乱しあちこちに飛びがちな記憶を掘り起こし、なるべくわかりやすく順に説明していく。ジャクソンは余計な口を挟まず、彼女の話に集中して耳を傾けているようだった。

「ドクターの携帯に何度も連絡したけど、コール音もしなくて全く通じない状態なの。彼、今日は知り合いの女の子に会いに、午前中からリッチモンドまで行ったんだ。彼女と会ったフィットネスクラブは2時に出て、3時半くらいに別れてたらしいんだけど」

『ドクターは、女をたらしこんでどっかのモーテルに行くような奴じゃないよな』

 ジャクソンは、電話口の向こうで頷いたようだった。

 この黒人サイボーグ捜査官はアメリカで未来より長く、杉田と一緒に仕事をしているのだ。同僚である杉田の性格もよく知っているし、公私の区別は嫌になるぐらいはっきりつける男である。電話から再び聞こえてきた声は、未来がデイタイムにいつも耳にしている色へ完全に変わっていた。

『今は……もうすぐ9時か。とりあえず地元警察に連絡して、朝になったら捜索願と言いたいところだが、俺やミキは、あまりおおっぴらに情報を開示できない事情があるからな。隊長と相談して、今後の対応を決めることになるだろう。地元警察や駐在事務所にも、ある程度の根回しが必要になってくる』

 確かにジャクソンの言う通りだ。捜索願を出す際は、かなり個人的に立ち入ったことまで書類に記載し、警官の質問も受けねばならない。杉田と未来の関係や職業について突っ込まれたら、答えられないことが多々あるのだ。そして未来がサイボーグであることや渡米の目的など、国の機密条項に触れる情報も一切、明かすことができないのである。

 緊張したジャクソンの声はしかし、焦りや逸りを感じさせない。あくまでFBI捜査官であることを前面に押し出した、歯切れよく低いそれである。言っている内容は、未来も普段事件被害者の家族に伝えていることと殆ど同じだが、今は他人の口から聞く具体的な言葉がありがたかった。

「まさかドクター、あのアジア人……」

『落ち着け。あれこれ余計なことは考えないほうがいい』

 未来が口に上らせようとした最悪な想定を、ジャクソンが鋭く遮る。

『心配するな。多分明日の朝、警官と所轄の捜査官をそっちにやることになると思う。調書が必要になるからな。俺が今からすぐ隊長と連絡を取って、どうするか決まったらまた連絡するよ。とりあえず、ミキはそのまま待っててくれ。今夜中に必ず、また電話するからな』

 何かが起きても変わらないジャクソンの態度は、電話が切れるまでの僅かな間ではあったが、少しだけ未来を安心させてくれた。

 しかし彼が電話を切ると同時に訪れた初冬の静寂は、未来の心をどんよりとした不安で凍てつかせ、鋭い破片に砕くのに十分な恐ろしさを、静かに押し迫らせつつあった。

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