溝 -9-
暖かいベッドに冷えた心で横になった未来の意識が完全に暗転したのは、明け方近くだっただろうか。彼女が寝てからすぐに隣に杉田が来たのはわかったが、彼は一言も話そうともしなければ、手を伸ばして身体に触れてこようともしなかった。
そのことも未来の内側にどんよりとした暗雲を吹き込ませており、初冬であるのに寝苦しい夜をもたらしていたのである。
それでも徐々に訪れつつあったけだるいまどろみに心を委ね、疲れ切っていた心身の休息が終わったのは、時計の針がもう昼近くを差す頃だった。が、まだ表が暗いと寝ぼけ眼の未来が勘違いしたのは、窓のシャッターが下りっぱなしになっていて、陽光が寝室に全く入らなかったせいである。
未来は手探りでリモコンを見つけてシャッターを開け、寝返りを打ちながら穏やかな陽の光に眼を細めた。まだ夢の中に半分意識を残していた彼女が隣に杉田がいないのに気づくまでには、それから更に十数秒を要した。
今日は杉田も休みのはずだ。こういう時、彼は未来よりも寝起きが悪い。
なのに、どこへ行ったのだろう?
未来はまだうまく考えられない頭のままでマットレスから起き上がると、パジャマの上にブルーのガウンを羽織ってスリッパに足を突っ込み、ダイニングキッチンへ向かった。
ダイニングキッチンのカーテンは開け放たれ、暖かい日差しに満たされていたが、そこに杉田の姿はない。身体の目覚めよりも遅れてついてきた頭を働かせて気配を探ってみるが、家の中に人の気配はないようだった。
腫れぼったい目を片手でこすって肩先で乱れている髪を指先で梳き、未来が今一度辺りを見回す。すると、ダイニングテーブルの上に日本語で記されたメモがあるのがわかった。
普段はテレビ会議に使用しているプラズマモニターの横に据えつけてある薄いベージュのメモ用紙に、杉田の男性の割に整った字でしたためられていた。
未来へ
ソフィーから相談に乗って欲しいと連絡があったので、7デイズ・フィットネスに行って来ます。夕方には戻るから、夕食は一緒に食べよう。
昨日はごめんね。
リッチモンドでデザート用にケーキでも買ってくるつもりだから、楽しみにしてるといいよ。
P.S. 僕が作った朝食が、冷蔵庫の中にあります。
最後にはメモを記した時刻が10時半と書いてあるのが、几帳面な杉田らしい。
「先生ってば……これじゃ、夕食を私が作らなきゃならないのかわかんないじゃない」
黒いボールペン書きのメモ用紙を摘み上げた未来が呟くと、がらんとしたリビングに思ったよりも大きく声が響いたのがわかる。
喧嘩をした翌朝、杉田が折れて謝ってくるのはいつものパターンだ。
二人が穏やかならぬ空気に隔てられる原因を作るのは未来の方が多いが、その根本はと言えば、女心に対する杉田の有り余る疎さにある。それを彼本人も自覚しているらしく、原因をはっきりとは自覚できなくても、自分が何かまずいことをしたのではないかと振り返る癖があるのだ。
そして素直な詫びの言葉の後には、気遣いを見せてくれる。
単純と言えば単純な仲直り方法だが、そこに別の女性の影がちらついているのは今回が初めてだった。
故に、杉田が未来に心を込めて作ってくれたであろう好物のフレンチトーストも、よく味がわからなくなっている始末であった。一緒に白いプレートに添えてあったほうれん草のソテーや色鮮やかな生のフルーツ、ガラスの器にミントの葉と一緒に盛られたヨーグルトも、2人で食べているときと味が違う気がする。これらはアメリカ人の主食である冷凍食品でなく、全て食材から調達したものなのに味気ないのだ。
一通り朝食を平らげて一人分のドリップコーヒーを淹れた未来の口から、大げさな溜息が漏れた。
この借家に一人過ごす朝は、実に久しぶりだ。
故郷である日本から遥か遠く離れたアメリカでは、一番身近な男性がちょっといなくなっただけで、何とも家の空間が広く、涼しく感じられる。それだけ、未来の中では杉田と言う存在が大きいことを示しているのだ。
しかし同時に、そんなことで寂しさを感じてしまう自分が悔しい。
「……仕事行こ」
熱いブラックコーヒーを一気に飲み下すと、パジャマ姿の未来はダイニングテーブルの椅子から立ち上がった。気分が塞ぐときは、自宅以外の場所で思い切り仕事をして忘れるに限る。
NOTS訓練に参加しており、他の捜査官たちよりも仕事に費やせる時間が短い未来は、幸いクワンティコのCVC本部オフィスまで出向く理由に事欠かなかった。
今後を決めた後の未来は、行動が早い。キッチンで朝食の後片付けをしてから身支度を整え、愛車であるブルーグレーのフォードに飛び乗るまで、30分はかからなかった。
「あれ、ミキ?どうしたんだ。今日は非番のはずだろ」
そして約1時間後、本部に到着しルームに顔を覗かせた未来を真っ先に出迎えたのは、さぼり中と思しきジャクソンであった。いきなりうるさいのに会ってしまった、と感じたのだろう。未来は作り笑いをして取り繕った。
「うん、ちょっとね。ハヤテなしでホーネットの射撃訓練ももうちょっとやっときたいし、事務作業もたまっちゃってるから」
足を組んで座り、コーヒーを飲んでいたジャクソンに軽く手を振ると、彼女は急いでルームを後にした。小走りで自分のオフィスに入るとキャビネットの鍵を開け、中に納まっていたホーネットをナイロン製の黒いホルスター、ピストルベルトごと引っ掴む。弾倉が空になっていることを確かめてから、ラバー・ショック弾が入った紙箱もテーブルの上に出し、予備のマガジンとともにキャンバス地の素っ気ないトートバッグに放り込んだ。
未来は今度は誰とも会わないようにこっそりとエレベーターに駆け込み、なるべく急いで屋外射撃場へと向かった。屋外射撃場に近づくにつれて耳慣れた発砲音が大きくなってくると、幾らか落ち着いた気持ちになり、彼女は歩みを少しだけ緩める気になった。
普通なら争いの場でしか聞かない銃声は、本来であればひどく人を不安にさせるものだ。
しかし特徴ある発砲音は、今の未来にとっていつもと変わらない空間がそこにあることを教えてくれる薬のようなものだった。
屋外射撃場の古い屋根の下に入ると、屈強な男たちがずらりと並び、種類も口径も様々な銃でマンターゲットへ弾丸を叩き込んでいるのが目に入ってくる。中には白人の女性捜査官もいるようだったが、日本人である未来は、その中に混ざると子ども同然の貧相な体格に見えるのもいつものことであった。
未来は防護用眼鏡とイヤープロテクターをつけてから空いている射座に入り、装備一式が入ったトートバッグを台に置いてからいそいそと準備を始めた。
ホーネットは口径が大きい分大型で、小柄な未来はショルダーホルスターに入れて服の下に隠し持つことができない。そのためヒップホルスターをピストルベルトに通し、腰に下げる必要があったのだ。
そうしている間にも周囲の射座から続けざまに銃弾が放たれ、マンターゲットに描かれた的の中に吸い込まれていく。射撃音がイヤープロテクターをつけた耳に篭もるその度に、未来の全身は内側から滲む奇妙な落ち着きにじわりじわりと支配されていった。
彼女がホーネットを両手に構えたときには既に、個人的に抱えている人間関係の問題はあまり気にならなくなっていた。杉田が嫌う暴力の象徴たる銃が持つ火薬や手入れ溶剤の臭いが精神安定剤代わりになるなど、皮肉なことである。
と、再び湧き上がってきた邪念を弾丸に込め、未来はホーネットの引き金を続けざまに絞った。簡素な人型をしたターゲットの心臓部に5発、頭に2発、首に1発、直径10センチ程度の黒い波紋のような痕が叩きつけられる。
時間にしてみれば、ほんの数秒のことだった。
「やあ、その銃はゴム弾用なんだな。暴動鎮圧用の試作品なのかい?」
1弾倉分を撃ち切ってホーネットを下ろした未来に、隣の射座にいた白人の男性捜査官が声をかけてきた。中肉中背の若い捜査官で、しげしげとホーネットを見つめている。
「ええ、そんなとこですよ」
「でもこれだと、いざって時に車の窓も割れないよな。意外と使いどころは限られるんじゃないか?」
純粋な興味からか、彼は未来の射座へと身を乗り出してくる。
硬い果実が潰れた時を思わせる銃痕は、一発も木のマンターゲットを貫いていない。これが、非致死性兵器であるホーネットの特徴だった。
現場で働く捜査官らしい疑問を口にした男性に、未来は笑顔で答えた。
「そうですね、もう1丁は普通の銃が必要かも知れません」
「こんな重たそうなの、僕は持ちたくないけどな。銃はやっぱり、小型のが使いやすくていいと思うよ。まあ、そのでかい奴を持ち歩くつもりでいるんなら、肩や腰を痛めないように頑張れよ」
自分の拳銃であるシグP229をショルダーホルスターに収め、未来の肩を軽く叩いてから、彼は手を振ってその場をあとにした。
やはりこういうやり取りがあると多少、心がほぐれていく気がする。
だがこの類の会話は杉田を相手にはできないし、お互いが求めているのはもっと違うことなのだ、とも同時に思い知らされた。
未来は杉田に癒しを与えられる存在でありたいし、共に生きていく上で勇気を与えていきたいとも思う。そのためには仕事に理解を持って欲しかったが、そんなものは癒しの対極にあるものだと間違いなく断言できるだろう。
結局邪念をちっとも振り切れていない自分に気づいた未来は、10弾倉分は撃つつもりでいたラバー・ショック弾の8割をオフィスに持って帰る羽目になった。心がぐらついている時は、射撃も至って雑になる。サイボーグの自分が散々たる成績でマンターゲットに記録を刻んでしまっては、落ち込む度合いも倍になるというものだ。
面白くもない結果に不機嫌な色を混ぜ、未来はホーネットと射撃用具をトートバッグごとオフィス据付のキャビネットに放り込み、乱暴に鍵をかけた。ホーネットの手入れをしないとトリスに叱られるだろうが、今は手先を使う作業をして苛つきを倍増させたくはない。
代わりにたまっている仕事を少しでも減らそうと、未来が椅子にどすんと腰を落としてデスクに向かったときである。オフィスのドアから上がった軽いノック音が、来客を告げた。
「どうぞ」
座りっぱなしで身をかがめ、足元にあるパソコンの電源を投入しながら、未来はぶっきらぼうに応答する。スチール製デスクの間から見えたのは、タイトスカートから伸びた細く、白い脚であった。
「エマ?」
姿勢を戻した未来が思わず名前を口にするが、驚いたのは不在と思っていた未来のデスクに定期メンテナンス結果のコピーを置きに来たらしい、エマのほうだろう。
「あらミキ、来てたの?今日は休みだと思ったけど」
「うん、ちょっとね」
ジャクソンに応対したときと同じように、未来は作り笑いを浮かべてごまかした。が、エマは何気ない風を装って聞いてくる。
「ドクター・スギタも一緒?」
核心を突かれたような気がしたが、未来は素直に主観を交えない事実を述べた。
「ドクターは出かけてて、いないの。私一人だよ」
気をつけていても、元気がなさそうなのは隠せていないだろう。未来は自身に対して舌打ちしたい気分だったが、エマが寄越す視線は気遣わしげなものであった。
「貴方たち、昨日から様子がおかしいじゃない。何かあったのね?」
「別に何も……」
エマの鋭い問いに対して未来が再びごまかすが、答えるときに視線を逸らしてしまったことといい、相手を欺くのが得意な筈の捜査官のしぐさは不自然極まりないこと受けあいだ。
エマが濃いブルーの瞳を向けてくる。
再び、未来はもじもじと目をそむけた。
「話したくないならそれでいいけど、あまり溜め込んでると精神衛生上良くないわよ」
まるで日本にいる未来のもう一人の担当医、生沢のような物言いのエマである。
この二人が時折見せる、心配と保護者としての責任が働いている態度には、居心地の悪さを感じざるを得ない。隠し事をしていると、悪戯を言い出せないでいる子どものような、むずがゆい気分にさせられるのだ。
しかし生沢とエマの違いは、エマが女性であり、同性として人生の先輩であるということである。未来はデスクに両手で頬杖をつきながら、日頃思っていたことを自然に唇へと持ってきていた。
「ねえ、エマ。一つ聞きたいことがあるんだけど」
視線を外してそっぽを向いている未来の側に、エマが近寄ってくる。
「何?」
「エマの旦那さんのこと」
医療サンダル履きの足が、そこでぴたりと止まった。
「私の夫?」
別に怒ったり、不機嫌さが見える様子のないエマに、未来は視線を合わせて頷いた。
再び白衣姿の白人女性がデスクの側まで歩み寄ってきて、デスクに書類を置く。
「別れたのよ、ジリアンが2歳のときにね。私がシャーロッツビルで検死官をたまたまやっていて、激務に追われてた頃なんだけど。家のことが何もできないし、担当地区で不審死がある度に真夜中でも呼び出されるような生活だったから、愛想をつかされたのね」
度が弱い眼鏡の奥にある青い瞳は、天井にはめられた蛍光灯を見つめているような気がしたが、話しぶりは完全に昔の思い出を語るそれとなっていた。そこに懐かしさや温かみが滲み出ていない辺り、エマの結婚生活の終焉は穏やかならぬものであったことが垣間見える。
「旦那さんの仕事は?」
「医療関係の研究所で、研究員をやってたわ。多分今も続けてるんじゃないかしら」
未来の質問にも、エマの視線は動かない。
彼女にとって夫との生活はもう、たまに振り返ることがある過去のものにしか過ぎないのだろう。確か娘のジリアンは5歳のはずだから、離婚したのは3年前ということになる。
「幸い家事はできなくてもベビーシッターを雇って、なるべく娘と一緒に過ごす時間を作ってたからね。娘も私に懐いてたし、親権は手放さずに済んだのよ」
話を続けるエマはしかし、どことなく寂しげに見えることは否めない。3年という歳月がもたらす時間も、人の心を癒すにはまだまだ短いと言えた。だから彼女には別の男性の影も見えないし、とにかく今は娘のことを一番に考えるべきだと自分を納得させているのだろう。
この美しい同僚女性に比べて、未来は自分の人生など浅いものだと思い知らされているような気がした。
「でもミキ、どうして突然そんなことを聞いたの?」
今度はエマが訊ねる番だ。
不躾にも、彼女の私生活の最も内側に首を突っ込むような真似をしたのだ。未来は当然、答えねばならない立場である。
「……ドクターと喧嘩しちゃって。彼、昨日の夜から口をきかないうちに出かけちゃったの。何となく、私一人じゃ家に居辛くて」
先と同じように、未来は同性の家族に悪戯を告白するような心細さと気恥ずかしさを感じた。が、不思議なことに私生活を表ざたにする嫌悪感は感じない。むしろ、胸の奥から開放されたがっていた黒い棘の塊が、薄らいでいく気がする。軽くなった心からは、本当に感じていた痛みも消えていくようだった。
素直になれた自分に驚いた未来だが、口調だけはまだ沈みがちである。
「だから仕事しに、ここに来てたんだけど……射撃をやっても、事務仕事をしてもうまくいかないんだよね」
「そうだったの。よく話してくれたわ」
悩みをようやく打ち明けた未来に、エマは微笑んで見せた。
その穏やかさが意外だったのか、未来が思わず顔を上げる。
「まあ、それぐらいはよくあることよ。あまり気にしすぎちゃ、貴女もドクターも疲れちゃうでしょ?」
そして椅子に座る未来の肩にさり気なく置かれた手もまた、表情と同じように暖かい。
加えて、同性として重ねてきた人生に悔いはないと語る表情は頼もしかった。
「でも何か原因があるのなら、一度二人でちゃんと話し合ったほうがいいと思うけど。貴方たちはパートナー同士なのよ?何かあったときに二人の意思疎通ができてないと、結局は自分たちに跳ね返ってくるんだから」
二人の意思疎通ができていない。
他人から言われると今更のように身に沁みるが、今回の杉田と未来の行き違いはまさにそれが原因だった。
仕事のことも、ソフィーのことも、どちらかが怒り出してしまうとそこで会話が中断され、とことんまで話し合ってお互いが納得する、ということが最近はなかったのだ。
勿論、互いに納得がいくというのはあくまで理想であって、結論が落ち着かないことも多々あるだろう。
しかし大事なのは、相手のことを理解しようという姿勢を見せることなのだ。
相手が努力してくれている姿を見せられて怒る者など、いないに等しいのだから。
「ミキは、ドクターのことが好き?彼を愛してる?」
「え?」
これまた、意表を突かれたエマからの質問だ。
アメリカ人にとってはここまで直球な言葉でも、ごく当たり前のものなのだろう。が、もともと日本人である未来は「愛しているか?」といきなり問われて即答できるほど、まだ文化のギャップ補填が完全ではなかった。
かと言って、答えずにいたらあらぬ誤解を招くのもここ、アメリカである。
「嫌いな人とは、同居なんかできないと思うけど」
と、正しい解釈ができる程度の返答にとどめるのが、赤面を隠せない未来には精一杯である。未来は未だに「愛」という単語のために唇を動かすことを、杉田の前ですら躊躇してしまうほどなのだ。強く、ダイレクトに相手へ決めるアメリカ式の表現方法に慣れるには、もう少し時間が必要だった。
「そうね。それなら、もうちょっと素直になるべきだと思うわ。相手のことをどう思ってるのか、言葉にして伝えることも含めてね。思ってるだけじゃ伝わらないことだって、たくさんあるんだから」
日本人のシャイとも言える国民性を知っているのだろう、エマも控え目なアドバイスにとどめてくれるのがありがたい。
未来はこの時、ふっと表情を緩められたのが今日中で初めてのような気がした。
「考えてみるよ」
この時既に、未来の頭は杉田の好物を夕食で作ることを考え始めていた。




