溝 -8-
未来が捜査からフレデリックスバーグの自宅に戻ってきたのは、午後11時を回った頃だった。7デイズ・フィットネスの駐車場でソフィーのストーカー、ラルフに引っかかって足止めされたのが原因でインターステート95の事故渋滞に巻き込まれ、捜査の進捗がずれ込んでしまったのだ。あと数分早く出ていれば巻き込まれなかったことがわかると、余計に腹立たしくなってくる。
捜査予定の現場で待ち合わせをしていたジャクソンは怒らずに待っていてくれたが、それでも私的な理由で遅れたことは申し訳なかった。
「お帰り、未来」
それでも、寒さが厳しくなってきた屋外から暖房が効いた自宅に入ると、幾らかはほっとする。今日は先に帰っていた杉田がキッチンから出てきて、いつものように笑顔で迎えてくれた。昨日、未来のオフィスで気まずい別れ方をして以降は顔を合わせていなかっただけに、安心感もひとしおだ。
「ただいま」
杉田が買ってくれたコートを玄関脇のコート掛けに引っ掛けながら、未来も笑顔を返していた。
「先生は食事、もう済ませてるんだよね?」
「ああ。悪いとは思ったけど……」
最近デニムの私服姿で街中や林の中を捜査をしている未来は、臭いが気にならない限り帰宅しても着替えないことが多い。ウールのガウンを上に羽織ってからキッチンを覗くと、杉田が摂った夕食の皿が、きちんと食器棚に納まっていることがわかった。
「いいよ。先生だって、お腹が空くんだもん。冷凍しといた作り置きのシチューでも食べるからさ」
「じゃあ、僕が準備するから。座ってなよ」
未来がスープの深皿を取ろうとしたところを優しく止めて、杉田が冷凍庫を開けた。
何気ないが、彼のこういう日常的な気遣いが一番、犯罪捜査でささくれ立った神経を癒してくれる。有難く彼の厚意に甘え、未来はダイニングテーブルの自分の席についた。
電子レンジで解凍してから鍋で暖めた冬野菜のホワイトシチューは、ほんのり甘みが出ていて柔らかい味だ。愛しき同居人が準備をしてくれたと思うと、未来の心も一層温かくなる気さえする。
「今日、ソフィーに話を聞いてきたんだろ。彼女、どんな様子だったんだ?」
「やっぱりストーカーだったよ。ソフィーの元彼が犯人。心ならずも、私も会うことになっちゃったけどね」
未来がシチューをすくったスプーンを一旦置いて、皮肉っぽい笑いをこぼす。
「会ったのか、そんな奴に?」
「うん。外見は悪かないけど、どこかおかしいって感じの奴だったよ。何もかも、自分が都合がいいように頭の中で翻訳してさ。私が何か反論しても、『それはあんたがソフィーに騙されてるからだ』とか『俺は全部知ってるんだ』とか言ってきて。しまいにゃ、FBIにまでコネがあるなんて言い出すんだもん。正直、呆れたよ」
「そうか……やっぱり、そういう奴っているものなんだな。ぞっとするよ」
心なしか、杉田は身震いしたようだった。
未来ほどではないが、杉田も人格異常者についてある程度の知識はある。そしてそんな者たちが犯してきた罪の痕を、くまなく調べるのが仕事なのだ。被害者が暴行された時の苦痛も、自分が感じられるほどに知っているのである。
「まあね。便利屋の仕事でも、頭のおかしい奴……というか、考え方がおかしいって言うべきかな。そういうのにはよく当たることがあったから、私は慣れてるんだけど。何の予備知識もないと、ありゃキツいと思うよ」
「何か、対策方法とかは教えてあげた?」
未来の向かいに座っている杉田が尋ねると、未来は熱いシチューをクラッカーですくいながら頷いた。
「一通りは。送られてきたものとか電話の記録に、会話の録音。一人でいないこと。すぐに警察に連絡した方がいいとも、言っておいたよ。彼女、話しながら泣いてたんだけどね。その辺りはちゃんとやると思う」
逆に言うと、当事者であるソフィーがそれぐらい毅然として対処しなければ、根本的な解決には至らないだろう。最も効果的と言える法的手段に訴えるまでの間はひたすら証拠集めをし、安全を掴み取る最後まで決して気を抜かないことが肝心だ。
そしてそれは、周囲の者がいくら口うるさくアドバイスをしたとしても、本人の意思が弱い場合はどうしようもない。犯人が接してくるのが被害者だけであり、他の人間が知る由もないところで事実が積み上げられていくのだから、第三者が直接の手助けをするのが極めて難しい類の事件になるのだ。
「ソフィー、銃は持ってるのかな」
「うーん、持ってないんじゃないかな。確認したわけじゃないけど、なんとなくそんな気がする。それに持ってたとしても、練習なしにちゃんとは撃てないよ。例え、どんなに照準が安定した小型拳銃でもね。撃つときには、それ相応の覚悟だって必要なんだし」
杉田が首を傾げると、未来がソフィーの様子を思い返してから答えた。
ソフィーがもし銃を持っており扱いに慣れているのなら、この状況では肌身離さず持ち歩いていて射撃練習も欠かさないはずだ。
しかし彼女は銃を携帯している様子がなかったし、身を守るのには家に立てこもると同時に武器が必要だ、という発想自体がないように見受けられた。
銃を扱ったことがない者はまず、襲われそうなときは予め武装しておいて反撃する、というところまで思い至ることができないのである。
「今日は未来が泊まって、様子を見た方が良かったのかもな」
「やだよ、まだそんなに親しいわけでもないのに。ソフィーが本当に信用できる相手なのかどうか、まだわからないんだから」
最近の杉田は、どうもお節介になってきているような気がしてならない。
ぽつりとこぼれた彼の意見に賛成しかねる未来は、溜息交じりだった。
勿論ソフィーが親友なら、そこまで世話を焼いても罰は当らないだろう。が、わざわざ危険を冒してよく知りもしない人物のために、動く気にはなれなかった。便利屋時代のように相応の料金が支払われるなら話は別だが、杉田はこういった性悪説に基づく考え方を嫌っている節がある。
生沢から時々「お坊ちゃん」と揶揄されていたように、もともと杉田は上流の家庭に生まれ、何不自由なく成長してきた温室育ちだ。FBI犯罪科学研究所で、悲惨な事件の犠牲者に絡んだ証拠品を調べる仕事をしているのにもかかわらず、まだ人が抱える歪んだ闇というものに対する認識が甘い、と言わざるを得ない。
誰かを疑わずに済む環境にいて、相応の理由もなしに他人を信じられるところで一生を全うするのであれば、それが一番いいだろう。
しかし、世の中の秩序を保つために犯罪と戦う身であるからには、そうはいかない。
その気になればどんなに恐ろしく、おぞましいこともできるのが人間だ。
犯罪者と向き合う未来は日々それを痛感し、ある種諦観したところもある。
人間の敵は人間なのであり、心の底から全てがどす黒い闇に覆われた、邪悪な者は確かに存在する。
そして彼らは何が邪悪なのかも理解せず、どんなことをしても自らの心を正せない。
良心というものを、どこかに置き忘れてこの世に生まれ落ちたてきた存在なのである。
人を何人も殺し、周囲の人々をとことん痛めつけるだけの犯罪者は、間違いなく人間を喰らう『捕食者』なのだ。
未来は一歩引いた位置からそうやって醒めた眼で事件を、犯人を見つめなければ、本当に人間そのものを信じられなくなる気さえした。
しかし杉田は、FBI特別捜査官という職務に適応した彼女の精神が、犯罪の影響を受けて毒されてしまったようにでも感じているのだろうか。
次に彼が未来の顔を正面から見つめてきた時、その黒い瞳はどこか寂しげな光を湛えているように見えた。
「でも、怖がって人前で泣いたりしてたんだろ?そこまで怯えてたんなら、もうちょっとできることがあったんじゃないかって」
「私はできるのは、警察が動きやすいように適切にアドバイスするところまでだよ。彼女には、私が捜査官だって教えてないんだし。それに私がただの人間じゃないってことが、ソフィーにばれたらどうするの?」
もしそうなったら、ただごとでは済まないだろう。
人の口に戸は立てられないし、もしソフィーが信頼を置けない人物ならば、全米中に日本から来たサイボーグ捜査官のことが知れ渡ってしまうだろう。そうなれば当然二人は日本へ強制送還されるだろうし、帰国したところで一生監視つきの生活を強いられるのがおちだ。
もちろん、日本に警察の新機構を作るという目的も果たされないし、最悪国家プロジェクトの頓挫に繋がりかねない。
が、杉田の見通しは至って楽観的なものだった。
「未来は今までの生活で、ばれたことがないじゃないか。大丈夫だよ」
彼の軽過ぎると思える言葉に、未来は本心からむっとした。
「あのねえ、先生。私、今日はNOTSの訓練を朝5時からやって、午後からずっと捜査に行って、それでも時間作ってソフィーの話を聞いたんだよ。それで今晩、彼女のボディガードをやる余裕なんてあると思う?爆薬の臭いがまだ髪から取れてないし、膝から下は変な泥で汚れてるところだってあるんだよ」
湧き上がる怒りが態度と話しぶりに出るのを、未来は抑えられない。
昼は訓練が終わると、演習場にある古いシャワー室でCQB(近接戦闘)訓練時に髪に絡んだ爆弾の粉末や、アンブッシュ(待ち伏せ)訓練で顎まで泥に浸かった身体を急いで洗った。その後は昼食を急いで食べながらオフィスでメールと捜査資料をチェックし、それが終わったら一息つく間もなく急いで車へ飛び乗った。そしてソフィーと話をした後は、今の時間までジャクソンと捜査で外を回っていたのである。
訓練があるときは午後の捜査を休みたいのが本音だが、そうも言ってはいられない。
この頃の杉田は未来の身体がタフなのを当て込んで、ソフィーを支えてやりたいと考えているようにしか思えないところもある。
そこに思い至った未来は、胸の奥の痛みを覚えるとともに目が熱くなり、涙がこみ上げてくるのがわかった。
彼女は慌てて表情をごまかすために鼻をすすり、皿に残っていたシチューを熱さも気にせず一気にかきこんだ。
「ああ……そうか、そうだったんだよな。ごめん」
杉田がはっとしたように謝ってくる。ただ、彼が突然行動が乱暴になった未来の本心に気づいたかどうかはわからない。
「最近の先生、そういうことをよく忘れるじゃない。私、心までメカでできてるわけじゃないんだよ。仕事以外の厄介ごとは、なるべく関わりたくないんだから」
自分で言ってみてはっとしたが、杉田はどうもソフィーのことをやたらと心配しているような気がした。
が、女の勘に近いその感覚を、未来は慌てて頭から追い出した。
自分は疲れているせいで、何もかもがマイナス方向に動いていると勘違いしているだけだ。ソフィーは、自分たち二人が仕事以外で初めてできた、共通の友人なのである。杉田がやけに積極的なのも、生沢から「人の心をもう少し深いところまで見る癖をつけろ」と叱責されたことがあるせいだろう。
それに、杉田が一度友達だと思った相手に親切なのは、今に始まったことではないのだ。
「それは、ちょっと冷たいよ。ソフィーは仕事以外のところで、初めて僕らにできた友達じゃないか。なるべくなら、できる限りのことをしてあげたいんだよ」
「だからって、ごたごたに進んで首を突っ込むことはないでしょ。今できる限りのことは、全部してきたつもりなんだし」
冷静に自分に言い聞かせて落ち着こうとした未来も、あくまでソフィーのことにこだわる同居人に対し、段々と苛立ちを覚えてきていた。
ソフィーはただの友人に過ぎないはずだ。
どうして、そこまで気にかけなければならないのだろうか。
「そうかな。ソフィーは未来と同じで、誰かに頼ったりするのが苦手みたいだし。女の子同士、もう少し話してれば……」
「いい加減にしてよ。ソフィーと知り合って、まだ日が浅いんだよ。親友でもないのに、これ以上の深入りは嫌なんだってば」
未来は乱暴に、シチューを食べ終わったスプーンをテーブルへ叩きつけた。
思ったよりも大きな音がダイニングに響き、杉田の動きが一瞬固まる。
しかし、彼は怒りを募らせている未来の考えには賛同しかねると、不服がありありと伺える表情で見返してきた。
「聞いたところだと、放っておけば犯罪になる可能性が高いみたいじゃないか。予防線を張っておくのは、深入りとかそういう問題じゃないと僕は思うけど」
「そんなにソフィーのことが心配なら、自分で何とかしてよ。私に相談相手なんかさせないでさ。先生が一人で、ソフィーのところに行けばいいじゃない!」
売り言葉に買い言葉であった。
未来が思わず椅子を乱暴に蹴るように立ち上がってしまい、途端に杉田の傷ついたような表情が視界に入ってくる。
彼女が言い放ってから自分の言動を後悔するまで一瞬もかからなかったが、体が同居人に対して謝ることを拒んだ。視線を彼の顔からすっと逸らし、食事をした皿も片付けずに足を廊下に続くドアへと向ける。
床板をうるさく踏み鳴らすスリッパの足音は、そのまま寝室へと向かった。
杉田は追ってくる気配がない。
シャワーを浴びるため、クローゼットの引き出しからパジャマと下着を取り出す未来のしぐさは、まだ怒りっぽい熱を乱暴な音に変えて発散させている。二人揃って明日が休みのため、今夜はワインでも傾けながらゆっくりしようと思っていたが、こんなにかんかんに沸いた頭ではそれもできそうにない。
それでも、熱いシャワーを浴びれば少しは溜飲が下がるだろうと思っていたが、清潔なバスタブで暖かい湯に全身を打たれても、怒りは少しも洗われてくれない気がした。
頭から丁度いい温度の湯が流れ落ちていく未来の考えに上がってきたのは、自分の中に渦巻いている女としての感情のことだった。
自分はソフィーに嫉妬しているのだ。
彼女が現れるまでは杉田は自分のことを最優先に考えてくれ、大切にしてきてくれた。
それなのに今の彼は、悩むソフィーに手を差し伸べることで頭がいっぱいになっているように見えて仕方がない。
その事実は未来の心を灰色の風船でじわじわと押しつぶすように締め上げ、息苦しささえ覚えさせていた。が、彼女が顔をしかめたくなるほどの嫌悪感を感じているのは、そんな醜い思いにさいなまれている自分自身に対してである。
ソフィーは一つ間違えば、ストーカーに殺されかねない危険な状況にある。
それを助けたいと思うのはごく自然だし、人間として当たり前の感情だ。
なのに自分はソフィーを助けたいと思う一方で、杉田がこれ以上彼女に近づかないで欲しいと願っいるのだ。
未来はそんな自分を認めたくなかった。
私はそんな面倒な女じゃないはずだ。
未来の喉を塞ぐ心の叫びは、重たげな苦痛となって胸にのしかかり、黒い大きな瞳から涙となって溢れた。
心底から自分が情けなかった。
いつから、こんなに弱い人間になってしまったのだろう?
少し前までは誰にも頼らずに考え、自分の目指す場所に走って行けたのに。
未来は身体に残った火薬と泥の臭いを落としてからも、暫く湯が肌を伝うに任せてぼんやりと考えた。当然、答えなど出るわけがない。
暗さを表情に淀ませたままシャワーを止めて身体を拭き、パジャマを着てドライヤーで髪を乾かす。一連の作業は殆ど機械的に未来の身体を流れ、はっと気づいたのは歯を磨き終わった時だった。
「未来……」
そしていつの間にか、開け放ったバスルームの扉の側に立つ杉田の姿が、未来が立つ洗面台の鏡に映っていた。いつもの眼鏡の奥にある優しげな瞳に、不安と心配の色がありありと浮かんでいる。
「ごめん。君があんなに怒るなんて思わなくて……その……」
未来の激しい怒りの理由が、はっきりとはわからないのだろう。杉田は、かけるべき言葉を探しあぐねて視線を鏡の中へと彷徨わせていた。
「おやすみ」
敢えて杉田の揺れている声には触れず、視線も合わせない未来は彼の脇をすり抜ける。
寝室の電気は、杉田が彼女の背中を黙って見送ってからすぐに消えた。




