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溝 -7-

 7デイズ・フィットネスにはジムやプールだけでなく、カフェテリアも併設されている。そこで出されるのは白身だけのオムレツ、油を使わないチキンソテー、豆腐のサラダなど高タンパク質で低脂肪、低糖質なのが売りのメニューだ。ドリンク類を見てもコーヒーやお茶はカフェインレス、使用するミルクも無脂肪か低脂肪、もしくは豆乳という徹底ぶりだ。

 未来はNOTSの訓練後に捜査に出かけたが何とか空き時間を作り、ここで飲み物を取りながらソフィーと話をすることにしていた。

 正直、事件以外の厄介ごとに巻き込まれるのはごめんこうむりたかったが、未来が相談相手になることを渋れば、杉田に火の粉が降りかかりかねない。捜査官でもなく犯罪行為への対応方法も知らない彼を、そんな面倒の渦に流し込むわけにもいかなかった。

 ただ、相談相手になるにしても、こちらの身分がばれないように細心の注意を払う必要がある。ソフィーは早くも未来を信頼できる相手と見ているようだったが、未来はそうではないのだ。だからソフィーとフィットネスクラブのロビーで待ち合わせたときも、何となく肩に力が入っているふりをした。

 カフェテリアのシルバーに黒でアクセントがつけられたカウンターで、未来はダイエットジンジャーエールを、ソフィーは砂糖を使わないキウィジュースを注文した。白いテーブルと黒いスツールが並んでいるカフェテリアには暖かい照明が灯り、暗くなり始めたリッチモンド市街のビル裏に淡い光を投げかけている。

 二人はトレーニングを終えた健康そうな男女がくつろいでいるテーブルの脇を幾つもすり抜け、一番隅に位置する二人がけのテーブルのスツールに座った。

「来てくれて本当にありがとう、ヨーコ」

「いいよ。私も気分転換になるから」 

 ソフィーの笑顔は、どことなくぎこちない。緑色をした瞳の視線はそわそわとカフェの中を彷徨い、指先ではキウィジュースに突き立てられた赤いストローを弄んでいる。

「早速なんだけど、ストーカーにつきまとわれてるの?」

「ストーカーって言っていいのかわからないけど、もう怖くて」

 やや声のトーンを落とした未来につられ、ソフィーの声が小さくなった。犯罪に関係がありそうなことを話すときに抑えた調子になるのは、未来の職業からくる癖である。

 彼女はややもすれば事務的になりがちな態度に気持ちを乗せるようにしながら、慎重に探りを入れた。

「どれぐらい前から、何をされてるの?」

「昨日も電話で話したと思うんだけど……最初は、二週間くらい前だったかしら。私の携帯電話に非通知の無言電話がかかってきたの」

「どんな?」

 やや震えているように見える手をストローに沿え、ジュースをすするソフィーの方へ、未来が僅かに身を乗り出す。

「夜中近くだったと思うわ。私が出ると、すぐに切れちゃったんだけど。次の日も同じよ。寝る前の時間にかかってきて、出ると同時に切れるの。てっきり間違い電話かと思ってたんだけど……電話を取らないと、ずっと呼び出し音が鳴りっ放しなのよ。それが1週間くらいずっと続いて。おかしいでしょう?」

 口の中が緊張で乾いたのか、ソフィーはそこでもう一度、爽やかな香りのする生ジュースを口に含んだ。

「それで私が学校から帰ってきて、郵便物を見たら……アパートの私のポストが、ごみでいっぱいになってたの」

「ごみ?」

 頭の中にあるメモに細かいことも書き留めようとする未来は、つい返事も鸚鵡返しになる。

「ええ。台所で出るような生ごみだったと思うわ。気持ち悪かったから、すぐ捨てたんだけど。その代わり、郵便物がなくなってたみたいなの。電気とか水道の請求書、そろそろ来る頃だと思ってたのに」

 思い返すのにも恐怖が伴っているのだろう。やはりソフィーは視線があちこちを泳いでいて定まっていない。まるで、自分を攻撃している者が側にいないか警戒しているようだ。

 無言電話とごみの投入を行ったのが同一人物とは限らないが、これはもう嫌がらせの域を越えるところまで来ていると思わざるを得ない。立派なストーカー行為である。

 現在のアメリカでのストーキングは「特定の人物に向けられた、理性的な人間に恐怖を感じさせるに十分な一連の行動」と定義されている。こういったケースでは客観的な情報が何よりも重要なため、もう少し詳しく話を聞いておく必要があった。

 未来は更に、昨日の記憶から手がかりとなる言葉を紡ぎ出した。

「他には?ごみを漁られたって言ってなかったっけ」

「ああ、そうだわ。ヴァージニアではごみ収集って週に一度しかないけど、収集日までは私、自分のごみを袋に入れて、ポーチのごみ箱に置いてるの。でもそれを収集日にごみ捨て場まで持っていこうと思ったら、袋が開けられて誰かが引っ掻き回したみたいになってて」

「袋は破れてたの?」

「いいえ。結び目がほどいてあったわ」

 ということは、ソフィーの家庭ごみを荒らしたのは、野犬や野良猫の類ではない。誰かが汚物の中から彼女の個人情報という宝物を探し出すために、袋を開けて一心不乱にその中を漁っていったのだ。 

「そういうことが今まで続いてて。気持ち悪いし、怖いの。でも……警察には相談し辛くて」

 ソフィーは相変わらずおどおどとした喋り方だが、そこまで怯えているのに警察を頼れないのはおかしい。

 未来は疑問を直球でぶつけた。

「警察に言えば、巡回だってしてくれると思うけど?」

「それが……その、こういうことをしてくる人に、心当たりがあるのよ」

「ほんと?」

 ソフィーの意外に思えて実はそうではない返答を聞き、未来は素直に驚いたように目を丸くして見せた。

「先月、彼と別れたの。その時、彼が怒って暴れ出して。彼の家で話をしてたんだけど、あのままじゃ殺されるって思って、必死で逃げてきたわ」

「殺されるって……」

「お前が言うことを聞かないなら殺してやるって、ナイフを出してきたのよ!」

 ソフィーは強く未来の言葉を遮り、涙を必死に堪えているようだった。

 ストーカーの被害経験者はアメリカの成人人口で約1パーセントという統計があり、そのうちの40パーセント程度が顔見知りによる犯行とされている。元配偶者や恋人というのはとりわけ一番多い例なのだ。

「警察って、これぐらいじゃ動いてくれないんでしょう?前に別の人からも暴力を振るわれて、警察に行ったことがあるの。でも、相手にしてくれなかったわ。全く知らない他人から暴力を振るわれたんなら立件もしやすいけど、恋人同士の場合は難しいって」

「ひどい話だね。その警察の担当者、どれだけ仕事してないんだか」

 ハンカチを出して目頭を押さえたソフィーに、思わず未来の本音がこぼれた。

 現在殆どの州でも制定されているストーキング防止法は、裁判所の命令で一定距離以内に被害者に近寄らないことを明文化し、州知事宛に申請した個人での警察力執行を許可するものだ。が、これだけではストーカーの抑止力にならないというのが、正直なところだ。

 加えて裁判所命令はすぐに下りるものでもないし、手間もかかる。

 一般の警察でも通報すれば近所を巡回し、被害者に具体的な対応方法を指示する程度のことはしてくれるが、門前払いというのは腹の立つやり方だ。

「社会学部って、男の子の多い学部なのよ。ゼミも男子しかいないし、女の子で相談できる相手がいなくて。だからどうしよう、って思ってるの」

 だから自分を頼ってきたのだ、と未来は頷いた。

 ならば、放っておくわけにはいかないだろう。

「実家には相談したの?」

「ううん。心配かけたくないから、話してないわ。昨日は弟に来てもらったけど、話し相手が欲しいからって説明したの」

 今やソフィーはすすり泣いており、話すのがやっとという状態だ。それでも、心のひだに挟まっている不安を吐き出したいのだろう。涙を拭い、声を震わせながらも再び口を開く。

「学校にいるときはいいのよ、みんなが一緒だから。でも、家に帰ると怖くて。いつ電話が鳴るのか気が気じゃないし、そのうち家にも押しかけられるんじゃないかって。夜もちゃんと寝られないし、最近は食欲もなくなっちゃって。運動できるほど元気じゃないから、ここにも通えないのよ」

「そいつ、合鍵は持ってるの?」

「渡してないわ……そこまでの仲になる前に、別れたから」

 さめざめと泣き続けるソフィーがいるこちらのテーブルを、カフェテリアの他の客が不審そうに振り返り始めている。未来も、自由にしていられる時間がもうあまりない。そろそろ具体的なアドバイスをして、切り上げたほうが良さそうだった。

「そっか、よく話してくれたね」

 穏やかに未来が言うと、顔を上げたソフィーと目が合った。

 緑色の瞳をしたの女性が、涙で頬に張り付いた赤い髪を払い安心したように頷く。

「やっぱり、一人でいるのは良くないよ。できれば誰かに来てもらって、しばらく一緒に住んでもらうとかしたほうがいいと思う。で、その間に、つきまとわれてる証拠を全部残しておくんだよ」

 まだ涙を拭っていたソフィーが、やや驚いた様子を見せた。

「証拠って?」

「例えば、無言電話がかかってきた日付と時間の記録。もし相手が喋ったんなら、その録音もね。それからメールとか、ポストに入れられたごみとか、全部捨てずに取っておくの。時間が経つと腐るものとかは、日付入りの写真で残すとかして。証拠の量が多ければ多いほど、警察も動きやすくなるから」

「彼が何をしてきたのか、誰の目にもわかるものを集めろ、って言うこと?」

「そう。まずはそこからだよ」

 未来の最後の口調は、宥めるものから励ますそれに代わっていた。

 普通の神経の持ち主であれば尻込みしてしまうような出来事にも、毅然とした態度を崩さない未来の姿を見て、ソフィーはようやく口元をほころばせた。

「怖いけど、やってみるわ。でもヨーコ、随分詳しいのね」

「私も犯罪学に興味があるから。それに、日本の探偵事務所でアルバイトしたこともあるし」

 未来はしれっと答えつつも、突っ込みのかわし方もそろそろプロだな、と胸の内で呟いた。

 日本で便利屋をやっていた頃、実際にストーカー対策の依頼は何件もあった。

 勿論渡米してからは、FBIアカデミーの講義でその心理や対策も学んだ。だから自信はあるが、これ以上のお節介は避けたほうが賢明だろう。

 未来はソフィーの右手を両手で包み込むように握ってやり、低く、しかし力強く言った。

「困ったことがあったら、いつでも言ってくれていいから」

「ありがとう。少し元気になれたわ」

 先よりも明るさが増した声と笑顔でほのかに彩られたソフィーが手を離してから、未来が腕時計で時間を確認する。

「あ、ごめんなさい。私ったら、思ったよりも長く話しちゃったみたいで……ほんとにありがとう、ヨーコ」

 未来が時間を気にしていると思ったのだろう、ソフィーが慌ててスツールを降り、コートを羽織り始める。どちらからともなくその片手間に、二人はお互いの携帯電話番号を交換した。

 未来とソフィーは身支度を整え、飲み物のプラスチックカップをごみ箱に捨てると、連れ立ってカフェテリアを後にした。

 ロビーで出入り口の自動ドアに向かった未来が、ソフィーを制して振り返る。

「念のためにフロントに言って、裏口から出たほうがいいと思うよ」

「ええ、そうするわ」

 足を止めたソフィーは、素直に未来の提案に従ってフロントへ踵を返した。

 去り際に手を振り、ソフィーの典型的な若いアメリカ人女性を思わせる後姿を見送った未来から、小さな溜息が漏れる。

 とりあえず、緊急のストーカー対策はこれでいいだろう。あとは渋るソフィーを、証拠が溜まり次第警察へ行くように何とか説得するだけだ。これ以上の深入りはどうにか避けたい。

 しかしそんな未来のささやかな願いを邪魔をする、悪戯が過ぎる神様はいるものだ。

 真新しいコートのポケットに入れた車のキーを握りしめ、駐車場を急ぎ歩きで横切る彼女の前に、全く見知らぬ白人男性が飛び出してきて立ち塞がったのだ。

「おい、あんた!」

 未来が念のために後ろを振り返るが、ずらりと車が並ぶ駐車場には誰もいない。未来が黒いスニーカーの足をずらして、男から5歩ほど下がった位置にさり気なく後退する。密かな臨戦態勢を整えたのち、彼女は静かに返した。

「私ですか?」

「そう、そこのチビのあんただ」

 男は未来の頭のてっぺんを見下ろす位置から、威圧的に言い放った。

 その間に未来は素早く瞳のセンサーを切り替えて、金属探知をかけた。男の身体の要所から淡い紫色の光が浮かび上がるが、銃やナイフの形をした光は見えない。

 スキャン終了後に今度は彼の全身へ視線を巡らせて、特徴を頭に入れる。

 波打って油っぽい、暗い茶色の頭髪は生え際が後退しているが、皺が目立たない顔は30歳前後であろうことが窺える。ただし、濃い無精髭を生やしてはいても、顔の印象は決して悪くない。むしろ野生的で躍動感に溢れた美形男性と言ってもいいくらいだ。

 擦り切れた薄手のジャケットにくたびれたデニムという、身だしなみに気を使わない格好だが、大きな体躯は厚みがありかなりの筋肉質であることがわかる。恐らく、肉体労働の従事者だろう。

 生沢がツキノワグマなら、こちらはグリズリーとでも形容するべきだろうか。

 この男性の乱暴なもの言いから迫り来る嫌な予感に胸を刺され、未来は僅かに片方だけ眉を動かした。

 だが、こんな男から乱暴な調子で言葉を浴びせられても、未来の態度そのものは見た目に微塵も変わらない。却って冷静に、彼女は男の視線を受け止めた。

「私に何か?」

 片手でちょっと押しのければ飛んでいきそうに見える貧相なアジア人の女が、全く臆していないことに驚いたらしい。男は一瞬言葉に詰まったが、すぐさま自分のことを右手の親指で指した。

「あいつは俺のことをお前に何て言ったんだ?」

「……あいつって?」

「あの女だよ。ソフィーのことに決まってんだろ!さっき、あんたが話してるのをずっと見てたんだ」

 やはりと言うべきか、未来の予想は的中したことになる。

 この男こそが、ソフィーに付きまとい行為を繰り返している問題の男だったのだ。ソフィーと会っている時、こんな男がカフェテリアにいた覚えはない。おおかた、ロビーの隅から監視して、駐車場に先回りしてきたのだろう。

「へえ。あんたが、ソフィーにつきまとってるって言うストーカー?」

 相手の反応から人物像を探るため、未来はわざと男を小馬鹿にするような嘲笑で挑発した。

「ストーカーじゃねえ!知ってるだろうが、俺はラルフ・バーンズだ」

 当然自分のことは知っているだろう、と得意気な様子でラルフなる男は告げる。

 その名前は初めて聞いたが、有名人気取りで個人情報を考えなしに垂れ流してくれるのはありがたい。

 夕闇が迫る駐車場で大げさな声に大げさな身振りを交え、ラルフの話は続くようだった。

「あの女、俺をコケにしやがって。このまま終わると思ったら大間違いなんだよ」

 と、足元に転がっていた小石を勢いよく蹴り飛ばしてから地面に唾を吐く。

 それが強い男のしぐさだと思っているのだろうが、未来の反応は冷淡なままだ。

「ふーん。それで?」

「あいつは俺のことなんかこれっぽっちもわかってないんだ。どれだけ世の中を舐めてるのか、わからせてやるんだよ」

 世の中を舐めている、とはいきなり大きく出たものだ。

 確かに、ソフィーはまだ大学生である。だから多少世間知らずなのも仕方がないが、それを許せるのが大人の嗜みというものではないのだろうか。それに、振られたからと言って相手の女性に付きまとうことは、どう考えても相手からの理解を得る、という目的に結びつかない。

 未来は突っ込みたくなる気持ちを抑え、本来の目的に話を戻そうと試みた。

「ソフィーがあんたのことを何て言ってたかって、私に聞きたいんじゃなかったの?」

「あんたはあいつに騙されてるんだよ」

「はぁ?」

 また、いきなりな飛躍である。

 しかし、ラルフたる男の人となりを知るためには続きを喋らせるのがいいと判断し、未来は呆れるふりをして口をつぐんだ。

「あいつはヤクの売人だし、とんでもない売女だ。ソフィーの相談なんか聞いてたら、そのうちあんたまでおかしくなる」

 これもまた、妙な話の飛び方だ。

 ラルフがソフィーとどれぐらい親密だったのかは知らないが、少なくともソフィーには妄想や顔色の悪さといった症状や、注射痕のように薬物依存症でしばしば見られる特徴がどこにも見られないことは確かである。

 ソフィーが売春をやっていたかどうかはまた別の問題だが、薬物依存という発想に関しては、一体どこに根拠があるのか、聞いてみたいものだ。

「私には、あんたのほうがよっぽどおかしく見えるけど?」

 ソフィーの友人としてはもっともな反応を見せ、うんざりしたような色を浮かべた未来に、なおもラルフは食ってかかる。

「それはあんたがソフィーに毒されたせいだ。ソフィーのことなら、俺は何だって知ってる。だから職場連中はみんな俺の味方なんだぞ」

 一歩詰め寄ってきたラルフの語気の荒さに警戒心を掻き立てられ、未来は一歩下がった。

「……いえ、私はあんたの職場のことなんて興味ないんですけど」

 彼女は一応そう言ってはみたが、案の定ラルフは聞いていない。

「ソフィーは売春して、それで酒やヤクもやってる。バカな大学でも極めつけのバカで、アルコールとヤクの中毒者なんだよ。だから運動もできないし、家の中はゴミだらけで酷いもんなんだ。職場の連中はみんな知ってるんだよ。俺がどれだけあいつに尽くしたかってことも」

 と、ラルフの唇は見事なまでに踊り、次から次へと嘗て愛した女性に対する蔑みを撒き散らし続けている。よくもまあ、これだけ一人の人間を悪く言えるものだと妙な感心さえ覚えてしまうところだ。

「俺は何度もソフィーを立ち直らせようとしたし、家だって掃除してやったんだ。それなのに、あいつは俺を裏切った」

 彼の言う裏切りとは、ソフィーが自分を捨てたということだ。

 しかし、初対面の人間に対して自分を持ち上げ、他人を徹底的にこき下ろす者が信用できないことなど、世の常識である。未来が人を疑うプロであるということを差し引いても、普通はこれだけ元恋人のことを悪く言えば、間違いなく異常だと感じるだろう。

 もうこれ以上ラルフの話を聞くのは収穫がないと判断し、未来は低い温度の言葉で言った。

「私、仕事の途中なんですけど。どいてくれません?」

 大声で言ったのではないが、犯罪現場で幾人もの強盗犯や殺人犯を相手にしてきた者ならではの迫力を孕んだ口調だ。これには、さしものラルフも口の動きを一瞬止める。

 それにラルフのような虚言を呈するタイプの人間が、常に冷静さを失わず動じない者を一番苦手としていることを、未来はよく知っていた。

「ソフィーはあんたのことを怖がってるよ。それだけは伝えておくけど」

 せめて一言でもソフィーの意思を伝えたくて、未来はラルフの顔から目を逸らさずに言い放った。が、やはり次の瞬間にラルフの思考回路の違いを思い知らされた。

「俺が怖いって?あいつ、やっと俺のすごさを認めたんだな。やっぱりソフィーは俺がいないとダメなんだ」

「いや、迷惑がってるから」

 どうしてそうなる、とまたも喉まで出掛かった突っ込みの言葉を、未来は苦労して他のものに置き換えて吐き出した。

「何だ、あんたは俺のほうが悪いと言いたいのか?」

 怪訝そうなラルフにようやく言葉ではなく話が通じたのかと、未来が頷いて見せる。

「そりゃ百歩譲って考えても……」

「俺はFBI捜査官ともコネがある。その気になれば何だって調査できるぞ。俺が正しいってことだって、調べりゃすぐにわかるんだ」

 FBI捜査官という単語を耳にした未来は、呆れた気持ちが不快さに上書きされ、危うく本気で眉を吊り上げてしまうところだった。

 一体どこの組織に、こんな得体が知れず信用も置けない男に身元を明かすエージェントがいるというのだろう?勘違いも甚だしい。各種メディアを彩る様々な番組のお陰なのか、FBIも随分と軽く見られたものである。

 ラルフを一発殴りたい衝動を理性で抑え込み、未来は彼の話を断たせよう早足で歩き出した。そして、脇をすり抜けるべく大きな身体を左腕で押しやる。

「ほんとに時間がないんで、いい加減通してくださいって」

「おい!まだ話は終わっちゃいねえんだよ」

 その細い腕を、ラルフが掴み上げた。

 反射的に未来が手首を捻って、ラルフのごつい腕を関節とは逆方向に回転させる。

 彼が唸り声を上げて手を離したところで、未来は走り出した。

「危ない、危ない」

 広い駐車場を一気に走り抜けて自分の車を見つけ、運転席に滑り込んだ未来は、ドアをロックしてから呟いた。

 ラルフは未来の足についてこられなかったのだろう。後を追ってきている気配はない。

 よっぽど身分を明かして公務執行妨害の現行犯で逮捕しようかとも思ったが、捜査と無関係の場所で警察を介入させずに逮捕するのは、非常事態でもない限り控えるべきだという自制心が発した声に従ったのだ。

 それに話を聞いてみてわかったが、ラルフがソフィーについて言っていることにはかなりの割合で嘘が含まれているのが確実なようだ。ストーカーに最も多いとされる人格障害の一種、自己愛性人格障害者なのかも知れない。

 ソフィーが悪女であるとひたすら貶め、自分が悲劇の主人公であるかのように第三者である未来に言ってみたり、FBI捜査官とコネがあると豪語する辺り、かなり可能性は高いと見てもいいだろう。

 そうなるとますます厄介だし、余計に放ってはおけなかった。ストーカーは性犯罪や殺人事件にまで発展することが珍しくないことを、未来はよく知っている。

 それにあんな図体の大きな男が、全てを都合のいい解釈で固めた訳のわからない理論を振り翳し、挙げ句に刃物まで持ち出して殺すと脅迫したのだ。被害者であるソフィーは、どれだけ怖かったことだろう。もし自分が無力な一市民だったなら、彼女と同じように夜も眠れないほど怯えるに違いない。

 暴力で弱い者を脅すのは、未来が最も憎む行為の一つでもあった。このままあの男の暴挙を、許しておくわけにはいかないのだ。

 彼女は運転席で舌打ちを漏らしそうになる自分を律し、ドアがロックされていることを確認してからプライベート用の携帯を取り出した。交換したばかりのソフィーの番号を呼び出して、発信ボタンを押す。

 30秒ほど呼び出し音が鳴った後に通話がつながった。

「ああ、ソフィー?」

『ええ。ヨーコね。どうかしたの?』

 つながるまでに時間がかかったのは、ソフィーも帰宅途中で車を路肩にでも止めていたせいだろう。間髪入れず、未来は質問した。

「元彼の名前、ラルフ・バーンズって言うの?」

『え……そうだけど、どうしてヨーコが知ってるの?まさか……』

 未来が言わんとしていることを察したソフィーがそこで絶句しかけたが、未来はそれよりも早く言いたいことを割り込ませる。

「ああ、気にしないで。私ならうまく逃げられて、大丈夫だから」

 無事を伝える一方で、ラルフの傲慢な態度を思い出した未来の顔が不快そうに歪んだ。が、彼女が発する警告は低く、はっきりとしたものになっていた。

「やっぱ、警察にすぐ連絡しなね。あんな話が通じない野獣みたいなの、野放しにしてちゃ駄目だよ」

 未来の心なしか荒れた話しぶりには、ソフィーが顔色を失くすしているのが目に見えるような、沈黙が返ってくるばかりだった。


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