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溝 -6-

 定期メンテナンスは、ジャクソンと未来の二人が同時に違う設備を使って行う。アカデミーの地下一階に常設されたメンテナンスルームはだだっ広い印象で、各検査機器があちこちに設置されているスペースが仕切りカーテンや特殊なパーテーションで区切られたつくりとなっていた。

 ちょっと見たところでは医療研究所の検査室といった趣で、これとは別の部屋に最新型の医療機器を備えた手術用設備もある。

 日本ではレントゲンやCTスキャンを使用した検査が度々あったが、アメリカではこの二つを控えている傾向がある。あまり頻繁に放射線に身体を晒さないよう考慮しているのだろう。よって、内臓類の検査はMRIとエコーが主なものとなっており、身体に対して放射線の影響をもたらす機器を用いた検査については、必要最低限とされていた。

 それに加えて血液検査や通常の検診も加わるが、こういった一通りの検査項目で異常があれば適宜外科的な処置を行ったり、薬剤やサプリメントを処方したりする。大きな損傷や予測しなかったパーツの劣化があった場合は手術によってパーツ交換をすることもあったが、今回は特に大きな問題はなさそうだった。

「え、右膝にヒアルロン酸の注射?膝、別に痛くないよ?」

「まあ、今の段階ではそうでしょうけど。酷くなるとかなり激しい痛みが出るようになるから、そうならないうちにね」

 薄いブルーの袖なし検査着姿でベッドに身を起こしている未来の顔が、ひきつっている。その傍らで未来の右足の産毛を剃刀で剃り、施術準備を進めているエマは、有無を言わさぬ口調だ。

「でもあの注射、痛いんだもん。もうちょっと後にしてよ、ね?」

 サイボーグの関節は常人と造り自体が異なるため、手入れもこまめにしなければならない。ヒアルロン酸の注入もその一つだが、医療現場で使用されている針が細い注射器は、人工筋繊維に適合したものではなかった。

 そのため、針が太い一昔前の注射器が用いられるのである。無論、針の太さに比例して苦痛も増すのだ。

「駄目よ、膝の痛みが出てからでは遅いの。大丈夫、注射するところを今冷やしてるから。これで少しは痛みが和らぐわ」

 大きな瞳を潤ませて未来は懇願するが、エマは未来の右膝外側上部をビニールの冷却パックで冷やすばかりで、注射をしないという選択肢は頭にないらしい。

 白衣姿のエマの右手には針がやや太い注射器が握られており、その先から粘りがある薬剤を少しだけ噴水のように出して針の具合を試している。そんな作業を目の前でやられると、これから金属の鋭い先端を数センチも打たれる人間としては、余計に恐怖心を煽られるだけだった。

 以前にもこの処置を受けたことがある未来は、脂汗をかいて泣きたいぐらいの激痛があることを知っている。心臓の鼓動が激しくなり、顔から徐々に血が引いていくのがわかるほどだった。

「どうかしたのか?」

 未来の哀れな雰囲気を察したのか、杉田が仕切りカーテンの向こうから顔を覗かせた。ジャクソンは異常がなかったため、先にメンテナンスが完了していたのだ。

「ああ。ミキが注射を嫌がってるだけよ」

「だって、関節注射の時は麻酔もできないからさ。誰だってあれは嫌だよ」

 未来がすがるような目を杉田に向ける。

 確かに関節注射では感染防止のため、余計な注射をしないことになっている。未来は杉田が処置を中止してくれることに一縷の望みをかけているようだったが、彼も医師だ。異常が認められたのであれば、処置をしないわけにいかないという点ではエマに賛成なのだ。

「仕方ないわね。じゃあ、ドクターと何か話でもしてるといいわ。その方が気が紛れるでしょうから。お願いできる?」

「わかったよ。さあ未来、こっちを向いて。僕が手を握ってるからね。自分の足は見ないようにするんだぞ」

 杉田がエマの提案をあっさりと受け入れたことで、未来は流石に覚悟を決めたようだった。エマの横に椅子を引っ張ってきて座った愛しい男に右手を握ってもらい、起こしていた上半身を治療用のベッドにすとんと横たえる。

「あ、そうだ。さっき、私の専用拳銃の試射をしてきたんだよ。名前はホーネットって言ってさ……意味はスズメバチなんだよ」

「ふうん」

 未来が杉田に振った話は、実は彼もルームにいるときに聞いていた話だったが、怖さに混乱しているのだろう。

 その話の途中で未来が一瞬顔を強張らせ、言葉に詰まった時があった。

 エマが注射針を膝に刺したのだ。杉田は未来が話す内容には気のない返事しかできないが、それでも彼女は痛みを堪えて何とか先を繋いでいく。

「でもさ、スズメバチの毒は一撃必殺でしょ?銃のほうは非致死性兵器だから、ひ、人を殺せないってのに。名前が矛盾してるよね」

 杉田が手を握ってやっている未来の口元が明らかに歪んできて、力んでいる肩までがぶるぶる震え出した。エマの手元をふと見ると、ゆっくりと慎重に未来の膝関節に薬剤を注入しているのがわかる。針の先が関節の内側にまで達しているのだ。相当な苦痛を伴うことは、想像に難くない。

「そうだね」

 それでも必死に耐えている未来が気の毒になってしまい、杉田は頷くしかなかった。

「ホーネットで撃たれると、とても痛いどころじゃすま、済まないんだって……トリスが、言ってたんだ……大人だって、一発食らったら、即……即、気絶するらしいよ」

 未来の額にじっとりと汗が滲んで、どもり方も酷くなってきていた。

 その数秒後にやっと、力が入っていた彼女の肩が緩んでベッドに落ちる。エマが針を抜いて、処置を終えたのだ。未来は深く息をついたが、まだ痛みはあるのだろう。顔をしかめて仰向けになったまま、呻くようにこぼした。

「……これ、いっそホーネットを一発食らって気絶してる時にやる方が楽かも」

「子どもみたいなこと言わないの。来週と再来週のメンテナンスでも、注射する必要があるからね。そのうち、この痛さにも慣れると思うから」

 注射を終えた右膝に滅菌した脱脂綿とガーゼを当てて固定するエマの口調は、ほとんど母親のようだ。

「慣れないよ、泣きたいほど痛かったのに」

 ベッドから身を起こしながら額を腕で拭う未来の瞳には、本当にうっすらと涙が浮かんでいる。小さな怪我は日常茶飯事の未来が泣くほど痛いと言うのだから、やはり大人でも耐えかねるくらいの激痛なのだ。処置を終えた右膝には包帯が巻かれており、怪我をしたわけでもないのに痛々しい。

「でも、泣かなかったじゃない。その分、ミキは我慢強いわよ。後でチョコレートでもあげるから」

「もう!娘さんと一緒にしないでよ」

 右膝をさすっていた未来はエマからの完全な子ども扱いに、憮然として言い返す。

「はいはい。もう今日のメンテナンスは今ので終わりだから、今日は自分のオフィスで大人しくしてなさいね。それから、私の娘はジリアンって言うのよ」

 対するエマは微笑みを絶やさない。彼女は手早く注射用の器具を片付けながら、今度は杉田にも声をかけた。

「ドクターも知ってるだろうけど、まだ右膝は暫く痛むはずだから。ミキに手を貸してあげてね。メンテナンスの片付けは、私がやっておくわ」

「え……あ、すみません」

 普段よりも未来に気を使った様子を見せているエマに杉田が戸惑い、二人の顔を見比べた後に慌てて頭を下げる。杉田の肩を借りた普段着姿の未来がメンテナンスルームを出たのは、それから優に15分後のことだった。

「大丈夫か?」

「うん、まあね」

 エレベーターに向かう途中も気遣ってくれる杉田へ、右脚を引きずっている未来は笑って見せた。

 体重70キロ以上の自分を支えてもらうのは申し訳ないが、それでも心配してくれるのは嬉しい。未来は、つい必要以上に寄り添いたくなる気持ちを抑えるのが大変だった。

 しかし杉田は、不意に片方の手を離した。

「もしもし……ソフィーか?ごめん、後ですぐかけ直すから」

 彼は白衣のポケットから携帯電話を取り上げて耳に当て、何気なく知り合ったばかりの女性の名を口にした。未来の顔が途端に曇る。

 が、さしもの杉田もすぐに電話を切り、再び未来をしっかりと両手で支え直した。

「ソフィーから電話だったの?」

「ああ。何だか、慌ててるような感じだったけど」

「へえ、そう」

 先まではこころよかった杉田の手に感じていた温もりも、一瞬で白々しくなってしまった気がする。未来の見事なまでに棘を含んだ一言が、気まずい雰囲気を生んでいた。

 結局エレベーターに乗り込んだ後は、二人とも未来のオフィスに辿り着くまで会話を凍りつかせてしまった。未来をオフィスのデスクにある椅子に座らせて、杉田が一息つく。

「電話、するの?」

「ソフィーにか?するけど……どうかした?」

 いつの間に、携帯番号なんか交換してたの?

 すかさず彼にソフィーの電話のことを聞いた未来だったが、一番聞きたいと思ったことはぐっと喉の奥に押し込めた。この程度のことを見咎めるなど、自分が嫌う「鬱陶しい女」そのものの行動のように思えたのだ。

 それにソフィーとも仲良くするようにすると、つい先日宣言したばかりである。

「いや……何でもないよ。かけ直すなら、今もうかけ直しちゃえば」

 無理に笑顔を作ってそう提案したものの、未来は内容の不自然さに後悔した。これも、杉田がどんなことを話すのか監視するようなものではないか。

「うん。そうするか」

 しかし、白衣の乱れを直していた杉田は彼女の微妙な心の動きまで読めていないらしく、普段と全く変わらない口調で明るく返してきた。今ばかりは、彼の鈍感さに感謝するのみの未来であった。

 反面、デスクから少し離れた場所に立ち、何の躊躇もなく携帯をリダイヤルして見せている杉田のことが恨めしい。

 ところが、携帯を耳に当ててすぐ話し出した彼の行動は予想外のものだった。

「もしもし?さっきはごめん。どうかした?……え?……ヨーコに?ああ、わかったよ。今代わるから」

 ヨーコとは、未来が使っている偽名だ。杉田の口からその名が出たのは、未来の顔を驚きから上げさせるのに十分だった。

 更に杉田は未来のデスクに歩み寄ってくると、マイク部分を指で覆った携帯電話を差し出してきた。

「ソフィーが、君と話がしたいそうだよ」

「私?」

 未来は一瞬面食らったが、電話に出ないわけにもいかないだろう。彼女は杉田の携帯電話を受け取ると、遠慮がちに名乗った。

「もしもし。ヨーコですが」

『ヨーコ?ごめんなさい、突然。本当は貴女に直接連絡したかったんだけど……私、マサトの連絡先しか知らなかったから。今、少し話してもいいかしら?』

 ソフィーが狼狽して声が震えているのが、電話越しでもわかるほどだった。未来がフレデリックスバーグ駐在事務所に勤務していたときも、幾度となく聞いたことがある音声と同じ印象だ。事務所に通報や何か厄介事を持ち込んでくる時の市民のように、怯えているのだ。

「いいけど」

 先まで尖っていた未来の声のトーンが、若干落ちる。

『実は、貴女に相談したいことがあって。どうしよう……怖い』

「どうしたの?何かあった?」

『ううん、今はもう大丈夫。でも、とにかく怖くて。家の中って、一番安心できる場所だって思ってたのに。もしかしたら、そうじゃなくなるのかも知れないわ。どうしたらいいかわからないの』

 震えながら電話を握っているのが目に浮かぶような、ソフィーの口ぶりであった。未来は職業上の癖で、会話の相手が冷静でない時ほど度胸がすわってくるのが常だ。とにかくソフィーを落ち着かせようと、子どもに優しく語りかける話し方を意識する。

「落ち着いて。何があったのか、詳しく話してもらえる?」

 ゆっくりとした同性の声に、ソフィーは多少安心したのだろう。次に伝えてきた内容には具体性があった。

『今日大学から帰ってきたら、郵便受けに変な手紙が入ってて。消印がないの。直接誰かが入れたみたいなのよ。でも、表書きには私の名前が書いてあるの、男の人が書いたような字で。それより前は私が外に置いておいたごみが誰かに漁られてたりして、他にも電話とか……ああ、もう思い出すのも嫌だわ』

 ソフィーの話の最初は必死で自分を律しようとしている努力が表れていたが、最後はまた取り乱した様子になっていた。この手の相談は、未来が今までに扱ったことがある事件でも度々ある。彼女はボールペンを手に取ってくるりと椅子を回し、デスクに向かった。メモを一枚破り取りながら確認する声が、更に低くなる。

「誰かにつきまとわれてるってこと?」

『ええ、そうだと思うの。私、どうしたらいいの?ここを出て、家族がいる家に帰った方がいいのかしら?』

 未来は怯え切っているらしいソフィーに、具体的なアドバイスするかどうか迷った。最初からあまり的確なことを教えると相手を過度に刺激してしまい、却って彼女を危険に陥れる可能性が高まってしまうのだ。やはりここは一度、地元警察に対応を回した方がいいだろう。

 電話の内容の要点となる単語だけをメモに走り書きして、未来はもう一度ソフィーを落ち着かせようとした。

「まず落ち着いて。早く警察に連絡して一度来てもらったほうが……」

『駄目よ!ああいう奴らって、私が男の人と話そうとしただけでも怒り狂うのよ。それが警察だろうと、誰であろうと』

 ソフィーの哀れな訴えに、未来のメモを取っていた手が止まった。

 あの大人しそうな女性は以前にも、ストーカー被害を受けたことがあるのかも知れない。だからここまで竦み上がっているのだ。

 泣き出しそうになっているのを必死に堪えたのだろう。ソフィーは大きく息をつくと、くぐもった声で続けた。

『だから私、ヨーコに相談したくって。ごめんなさい。大学では、女の子の友達がほとんどいないの。ゼミのクラスは男の子ばっかりだから』

 ソフィーの言うことはある程度正しかった。

 歪んだ愛情を異性に向けるストーカーは、少しでもその対象が自分以外の異性と親しい素振りを見せようものなら、逆上して暴力的な手段に走る者が少なくないのだ。

 そして、あることが未来の頭に引っかかった。

「ちょっと待って、この電話はどこからかけてるの?」

『うちの電話からよ。携帯電話じゃないわ』

 固定電話からだと、盗聴されている危険も考えられる。

 一般常識でいくと大げさに考え過ぎかも知れなかったが、FBIの事件資料では対策が遅れたストーカー被害者が、最終的に殺人事件の被害者になったケースが幾つもあった。

 本当であれば今この時点から対応を警察に任せたいところではあるが、ソフィーが拒否するのだから仕方ないだろう。直接会って詳しい話を聞いてから、警察に相談することを説得した方がいいようだった。

「詳しいことは、明日別の場所で直接話したほうがいいかも知れないよ」

『わかったわ。それじゃあ明日また7デイズで、4時頃にどうかしら?』

 未来の提案に、ソフィーが頷いた気配がした。待ち合わせの時間と場所を素早く書き留めて、アドバイスと共に返事を返す。

「うん、わかった。今日は窓とドアの鍵をしっかり閉めて、家族の誰かに来てもらうほうがいいよ。一人でいちゃ危ないから」

『ええ、そうするわ。また明日ね。きっと来てね、お願いだから』

 明日は出勤の予定だったが、捜査の合間に時間を割くことはできる。

 未来は明日のスケジュールを考えながら終話ボタンを押すと、傍らに立つ杉田へ携帯電話を返した。

「ソフィーに何かあったのか?警察とか何とかって言ってたみたいだけど」

「ちょっと聞いたところでは、ストーカーみたい。詳しく聞いてみないとわからないけどね。電話は盗聴されてる可能性もあるから、明日また7デイズで会うことにしたよ」

「ストーカー?本当に大丈夫なのか、彼女」

 流石に驚いたようで、杉田の白衣のポケットに携帯電話をしまう手が思わず止まっていた。

「だから、詳しく聞かなきゃわからないんだよ。警察に連絡するのは嫌だって言うから、とりあえずは家族を呼んだほうがいいって言っておいたけど……」

 未来が言葉を濁すと、杉田が聞き咎めた。

「警察が嫌だって?」

「そう。そういう連中は、相手がどんな男でも、会ってるのがわかったら逆ギレするからって。前に被害に遭ったことがあるんじゃないかって気がするけど」

「警察に女性の警官をよこしてもらうとか、できないのか?」

「さあ。場所によっては応じてくれるところもあるだろうけど、とにかく本人がそう言ってるんだから。仕方ないんじゃない」

 メモをデスク横の壁に吊ったコルクボードに貼り付けた未来の説明に、杉田は一応納得したような表情を浮かべてはいたが、自分の顎を細い指で撫でてから再び彼女の方を見た。

「明日ソフィーに会うのかい?」

「うん、7デイズでね。今日は私も膝がこんなだから、運動は無理だし

 未来が右膝に手を当てる。ほっそりとした足には、ついさっきまでデニムを穿くのにも苦労するほどの痛みが残っていたのだ。

「何だったら、今日僕が連れて行ってあげても良かったけど」

「男が来ると、話がややこしくなるんだってば!」

 椅子から立ち上がれもしない未来は、思わず杉田を見上げて声を荒げた。

 彼はソフィーを純粋に心配しているのだろう。

 が、未来が膝の処置のせいでまともに歩くことすらできないのもまた、知っているはずだ。以前であれば未来のことを最優先に考えてくれていたのに、怪我をしているのと同じ状態になっていることを、気にもかけてくれなくなってしまったのだろうか。

「わかったよ。そんな風に怒鳴らなくたっていいだろ」

 謝りつつも、杉田の顔は不服そうだ。人の心配をしているだけなのに何が悪いのか、と言いたげである。

「大体私、今日は大人しくしてろってエマにも言われたから明日にしようって思ったんだよ。もし何かあっても、対処できないかも知れないし」

 自分に対してまるで気を使おうとしない杉田に、未来の口調がますます攻撃的になる。弁解するように態度を和らげて、彼は同居人を宥めようとした。

「でも、警察より未来が行った方があてになるだろ?君は足が一本動かなくても、ハンデにはならないような身体なんだし」

「私にソフィーの盾なれってわけ!」

 その言い種に、未来は今度こそ怒りに任せて怒鳴り、椅子から立ち上がりかけた。

 自分は身体を動かすこと自体が辛いのに、それでもソフィーを優先させろと言うのか。

 加えて、サイボーグであることを引き合いに出されて一般の女性と比較されるなど、未来にとっては杉田に一番やって欲しくないことだった。第一、未来が望みもせずサイボーグにされたことをいつも悔いていたのは、杉田だったではないか。

 いくら彼が人の心の動きに鈍感だからと言っても、やって許されることとそうでないことがある。

「いって……!」

 未来の顔が歪み、上げかけた腰がどすんと椅子に落ちた。思わず右足に体重をかけてしまい、負担のかかった膝に鈍い波のような苦痛が走ったのだ。

 流石に未来の逆鱗に触れてしまったことに気づいたのか、杉田は慌てて未来の肩に片手を置き、努めて優しい口調で怒りを静めさせようとしてくる。

「そうじゃないよ。僕はそんなつもりで言ったんじゃなくて、彼女が君を僕よりも頼りにしてるみたいだから……」

 しかし、未来は勢いよく彼の手を払いのけると、椅子ごと背を向けた。

「もういい、知らない。それに、相談されたのは私なんだから。杉田先生には関係ないことでしょ」

 貴方には関係ない、という台詞は女が聞く耳を持たないときに放つ絶対拒否のサインだ。

 杉田もそこまで言われるようなことではないと思っていたらしいが、すぐに返す言葉を見つけられずに口をつぐむ形となる。

「ミキ、いるかしら?」

 その時、エマの声と共にドアがノックされる音がオフィスに響いた。数秒おいてからドアがそっと開かれ、眼鏡をかけた白衣姿の女性が顔を覗かせる。

「あらドクター、まだ一緒にいたのね」

 彼女の言い方は呑気だったが、すぐに二人の間に漂っている、重苦しい空気を見て取ったようだった。杉田と未来の顔を交互に見比べ、お互いが目を合わせないようにしていることにも気づいたらしい。

「ええ。それじゃ」

 杉田が先に動いてエマの横をすり抜け、未来の方を振り返らずにオフィスから出て行った。対する未来も、彼の白衣に包まれた背中を目で追うことはせず、デスク横のコルクボードを所在なげに見つめている。

「どうかしたの、貴方たち?」

 後ろ手でオフィスのドアを静かに閉め、エマは怪訝そうな顔を未来に向けた。

「何でもないよ」

「そう?ならいいけど」

 未来はそっぽを向いたままでいたが、エマはそれ以上突っ込んでこようとはしなかった。彼女は多少お節介焼きなところがあるように思えたが、流石に大人の女性らしく、他人の仲にまで余計な口を挟んでこないところは有難い。

「あ、そうそう。ミキにチョコレートを渡そうと思って、持ってきたのよ」

 そして細い腕に抱えていたクリップボードから何か引っ張り出し、医療サンダル履きの足が未来のデスクに歩いてきたときには、もう普段の調子に戻っていたようだった。

 エマが言う「チョコレート」とは、二枚のチケットだった。

「これは?」

 差し出されたチケットを受け取った未来がしげしげと眺め回す。

 上質の紙にセピア色のイタリック体で印刷されているクリーム色の小さな紙は、ジャズライブのものだった。場所はリッチモンドの7デイズ・フィットネスクラブのすぐ側にある小劇場で、開催日は11月30日となっている。演目は、クリスマスソングが主のようだ。

「知り合いに、楽器をやってる人がいてね。ライブのあまったチケットをよくくれるの。今度二人一緒に非番の日に、行ってらっしゃいな」

「でも……」

「大丈夫よ、他のみんなのシフトをうまく調整しとくわ」

 乗り気ではなさそうな未来に、エマは軽くウインクをして見せた。そして未来が座る椅子の横まで来て、小さな肩に少し荒れた手を置く。

「たまには、二人だけで心の洗濯をしておかなきゃ。お互いに余裕がなくなると、色々なことがうまくいかなくなってくるものなのよ」

 エマは、本気で未来と杉田のことを心配してくれているのだ。

 確かに杉田との微妙な険悪さはよくある男女のちょっとしたすれ違いだが、何しろ二人は他に頼る者も身近にいない日本からの移住者だ。このまま放っておくと、どんどん良くない方向へ行くのが目に見えているのかも知れない。

「で、そういうときは二人共通の趣味か、逆に全然関係ないことで息抜きした方がいいのよ。私も経験があるけど、どっちかの趣味で何かやろうとすると、もう片方にとっては全然息抜きじゃなくなっちゃうから」

 彼女の未来を見る青い瞳が、やはり娘を見る母のそれであることは、この際気にしないことにしよう。このライブチケットは、ちょっと早いクリスマスプレゼントだと思えばいい。

「……うん。ありがとう。楽しんでくるから」

 エマを見上げた未来は、ようやく安心して微笑みを浮かべることができるようになっていた。



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