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溝 -3-

「マサトは、一緒に来てる女の子がいるんでしょう?迎えに行かなくて大丈夫なの?」

「あ、そうだった。多分、プールにいると思うから……」

 肩を並べてロビーへ向かう途中、ふとソフィーが問いかけてきた。指摘されて思い出したように、杉田は慌てて小走りになった。ロビーを横切り、直接プールサイドへ抜けられる自動ドアへと急ぐ。

 彼がガラスのドアをくぐると、温水プール特有の暖かい湿気と、消毒薬の臭いにむせ返った。

 目の前に広がっている25メートルプールのコースロープ内には、誰もいない。

 プール内に塗られた青いペンキのために澄んで見える水面を見渡すと、プールサイドにただ一人、競泳水着姿の女性が上がってきたところだった。

 未来だった。

「杉田先生?」

 近寄ってくる眼鏡の青年の姿を視界の隅に認め、未来は水泳用ゴーグルと白いシリコンのキャップを取った。

「今までずっと泳いでたのか?」

「うん。ほら私、身体が重くて浮かないでしょ。でも隊の訓練じゃ、水泳なんてやらないからね。どれぐらい泳げるのか、一度ちゃんと確認したかったんだよ」

 確かに、未来は身長160センチに対して体重は70キロ以上ある。主に内蔵された機械や人工筋肉、人工骨の重さが上乗せされているせいだ。それらは肥満のためについた脂肪とは違って比重が重いため、その分だけ水に浮かばなくなってしまうのである。

 プールサイドに並んだプラスチックの椅子からタオルを取り上げた未来の素肌では、滴り落ちる水滴が幾つもの透明な筋を作っている。鍛えられた腕や足は細く、筋肉が程良い丸みを型造り、プロのアスリートのように全身が素晴らしく均整が取れていた。

 彼女の息はまだ弾んでいたが、さほど疲れている様子はなさそうだ。

「どれぐらい泳いだんだ?」

「数えてないからわかんないけど。5、6000メートルってとこじゃない?」

 杉田の問いに、未来はこともなげに答える。

 90分かそこらでそれだけ泳げて疲労しないのだから、本当に未来はサイボーグなのだと実感する。一方、濡れた肌にこぼれた長い髪をタオルで拭う姿には意識しない女らしい艶が溢れており、美しい肢体と相まって蠱惑的ですらあった。

「すごいですね。私なんか、25メートルも泳ぎ切れる自信がないのに」

 杉田がつい黒い水着の未来に見入ってしまいそうになったところへ、後ろにいたソフィーが割り込んできた。

「……先生、こちらは?」

 赤毛の女性を一瞬まじまじと見た未来の眉が、片方だけ僅かに上がる。

「ああ。一緒のインストラクターにトレーニングしてもらった……」

「ソフィー・アイコ・フジミです。ソフィーって呼んで。貴女は、マサトの彼女?」

 ソフィーが先に名乗り、未来の胸から上に視線を巡らせてきた。

「いえ。ドクター・スギタは、私のホストファミリーの兄なんです。私はヨーコ・イシダ、日本からの留学生です」

 対する未来は満面の笑みを浮かべてソフィーの瞳を受け止め、タオルで水気を拭った手を差し出して握手を求めた。

「新しい友達が増えて、嬉しいです」

「こちらこそ、ヨーコ。私、貴女みたいにスポーツができる子ってすごく羨ましいわ」

 ソフィーが笑顔を見せて握手に応えた際に、未来はもう一度笑いかけていた。

 ヨーコ・イシダと言うのは、未来が仕事以外の時に使う偽名だ。

 実在する大学の偽の学生証に、でたらめな住所を記載した偽の国際免許証まで、精巧に作られたものがFBIから支給されている。これらは常時手元に置いてあり、彼女は必要に応じて使い分けることに慣れていた。

 どの捜査官も例外なく、非常時を除き自分の管轄外の場所で身分を明かすことをタブーとしている。

 杉田は捜査官ではないため本名をそのまま使うが、未来が偽名を名乗っている場面にはよく出くわしていた。が、兄だと紹介されたのはいささか不本意だ。

「じゃあ、そろそろ行かないと。ママたちが夕食に遅れるとうるさいの。じゃあね、ソフィー」

「ええ。また今度、ゆっくりお話しできるのを、楽しみにしてるわ」

 と、二言三言交わした2人の女性は、互いに手を振ってさっさと別れた。未来が杉田の手を取り、いささか強引に出口の自動ドアに向かって行く。

「ちょっと未来、そんなに急がなくてもいいだろ」

「今日、うちで日本とのテレビ会議があるじゃない。早く帰らなきゃだめだよ」

 抗議してくる杉田に返す未来の口調は、どこか刺々しい。素足でプールサイドを歩いているのに、歩調もかなり早くなっていた。おかげで、手を取られている杉田は小走りにならなければ引きずられそうだ。

「先生、まさか自分がFBIの関係者だって言ってないよね?」

「言ってないよ。さっきから、何をそんなに苛ついてるんだよ」

 杉田もつい、未来の荒っぽい質問に語調がつっけんどんになる。未来はそこで口をつぐんだが、プールから出てロビーを横切り、ロッカールームの前まで来たところで足を止めて振り返った。

「先生があの子と随分親しそうにしてたから、余計なことまで喋ってないかって心配になったんだよ。それに先生、女の子は苦手じゃなかったの?」

「初対面の相手に、そんなこと話すわけないだろ。それに、未だに女性は苦手だよ。ソフィーとは花とか園芸のことについて話してただけだって」

 未来は唇の両端を下げて杉田の顔をじっと見上げ、片手に下げたゴーグルとキャップを軽く振り回していた。やがて、頷いてから抑え目の声で言った。

「……そっか、ならいいや。私、着替えてくるから。先生は先に車に戻っててよ」 

 無理矢理自分を納得させたようで、未来の笑顔には無理があることがわかる。

 それでも杉田は敢えて彼女を呼び止めるようなことはせず、自身もすぐに男性用ロッカールームへ向かった。

 彼がコートを着込み、だだっ広い屋外駐車場に出てくると、もう夕方近くになっていることに気がついた。増え始めてきた車の並びから自分のシボレーを探し出し、コートを後部座席に放り込んでから運転席に座ってドアをロックする。使い古されたシートに身を沈めてシートベルトを締め、未来を待つことにした。

 ふと窓の外に目をやると、雲が覆っている西の空が赤くなりかけているのがわかる。7デイズ・フィットネスはダウンタウンにあるため周囲を建物に囲まれているが、それでも空は東京より遙かに広く見える。

 高校時代にロスにいた頃も、同じことをよく感じていた。

 やはりここは日本から遠く離れた異国の地なのだと、心細さと不安がない混ぜになった気持ちに襲われることもよくあった。

 そんなとき、デボラの優しい笑顔にどれだけ慰められただろう。彼女は純粋な白人ではなく、祖先の血筋はもうわけがわからないぐらい混ぜこぜになっていると、茶化してよく言っていた。赤毛に緑の瞳だった割に東洋人的な印象もどことなくあって、親しみが持てたのもそのせいかも知れない。

 ソフィーはデボラとよく似た雰囲気を持っていたが、ソフィーはフジミというラストネームからして、日系人なのだろう。それであの髪と瞳の色は珍しかった。一般的に赤毛の女性は気が強いと言うが、杉田の印象はむしろ逆だ。デボラもソフィーも、一歩下がって誰かの後をついていくような気がする。

 そこで、新しいジャケットを着た未来が運転席側の窓をコンコンと叩く音に気づいた。ドアのロックを解除する間に彼女は助手席側に回り、寒そうに身を縮めて乗り込んでくる。

 ジャケットを着たままでシートベルトを締める未来の濡れた髪からは、まだ水滴が滴ってきそうな気さえした。

「髪、乾かしてこなかったのか?風邪ひくぞ」

「車に早く来たかったんだもん。それより、早く帰ろ」

 未来が有無を言わさない、しかし明るさが戻った口調で、杉田の気遣いを流す。それでもやはりまだ気になるのか、彼女は大きめのバッグを漁ってタオルを出すと、肩にかかる黒っぽい毛先の水気を拭い始めた。

「いくら君がサイボーグだからって、感染症への耐性が高いわけじゃないんだぞ。あんまり心配させるようなことはしないでくれよ」

「あれ、心配してくれるの?」

「当たり前だろ。僕は君のパートナーなんだから」

 茶化すような未来の一言に杉田はつい、呆れて応えてしまった。

 彼の操るシボレーが、フィットネスクラブの駐車場から帰宅ラッシュの始まったイースト・マーシャル・ストリートに急カーブを切って潜り込む。車体の傾きに合わせ、未来の小さな肩も揺れた。

「……そうだよね。仕事上じゃ大切な身だよね」

 一呼吸置いてからこぼした未来の横顔に、ふと寂しさが横切ったような気がした。

 小さく寄せていた期待を裏切られた少女のように、切なげな面影だ。

 最強のサイボーグ戦士であり、FBI特別捜査官であるその身から垣間見える、ガラス細工を思わせる一面であった。

 こんな時の未来は、ひどく繊細で危うげな印象を見る者に刻みつけていく。

 だからこそ杉田は彼女を全力で守り、支えてやりたいと感じる。

 透明で儚い未来の脆さはデボラやソフィーの女性らしさとはまた違う魅力であり、他人を惹きつける要素でもあった。

「ソフィーだっけ?今日、先生と一緒にトレーニングしてた女の子」

「ああ。フルネームはソフィー・フジミだったかな」

 口元をきゅっと結んで前を走る車を見つめていた未来が、視線を動かさずに訊いてくる。杉田は頷きながら、ソフィーのフルネームを思い出した。

「日系人ぽいのに、わざわざ髪と目の色を変えてるみたいだね。黒い髪と目が嫌いなのかな」

「どうしてわかるるんだ?」

 ダウンタウンの道路は、インターステート95に近づくにつれて交通量が増していく。運悪く、2人の乗るシボレーの前を走っているのはドーナツチェーンの冷蔵トラックだった。高さがあるコンテナに視界を遮られ、信号が見えなくなる。

 車間距離に注意を払いつつ、杉田が未来の感想に突っ込んだ。

「髪は根元がちょっと黒かったし、毛先が傷んでたみたいだからね。ブリーチして色入れたのかなって思ったの。それに、どこを見ても瞳の大きさが全然変わらなかったんだ。カラーコンタクトをつけてると瞳孔の大きさが変わらないから、不自然な印象になるんだよ」

 さすがは人を疑うのが仕事の捜査官と言うべきか、それともパートナーに近づく敵を値踏みする女の洞察力が成せる技と言うべきか。2人が話していたのはほんの数分もなかったのに、未来は杉田が気づかなかったことまでよく観察していた。

 しかしそこまで微に入り細な分析は、一つ間違えば相手の気分をすこぶる害する。

「あんまり、初対面の人について分析しないほうがいいと思うけど」

「捜査の練習になるからね。無意識のうちについ癖で、やっちゃうんだよ」

 杉田は一言未来を窘めたが、当の本人はあっけらかんと悪びれない。

「僕はプライベートに仕事を持ち込まないで欲しいってあれほど言ってるのに、すぐ忘れるんだな」

 杉田の疲れが濃く出た口調だったが、内容は未来にとって嫌味だと感じられても仕方がないものだった。しまった、と言い終わってから気づいた杉田であったが、助手席の未来はすぐには言い返してこなかった。

 ちらりと様子を横目で窺うと、いつもなら口を尖らせて声高に反論してくる未来が、押し黙って目を伏せたのがわかった。彼女は無言で顔を上げて横を向き、渋滞のためゆっくりと流れていく車窓の景色に視線を滑らせたようだった。

「……ごめんなさい」

 続いて、消えに入りそうな一言が低いエンジン音に紛れた。

「君が謝ることはないよ」

 慌てて杉田が空気を変えようと試みたが、未来は乗ってこない。

 彼女は癪に触ったり、怒りを堪えているわけではないようだった。ただ肩を落として、こうなってしまった状況にただ、心を痛めて沈んでいるのだ。

 重たい沈黙が車内を支配しかけ、息をすることさえ遠慮したくなってくる。

 本来なら謝ってきた未来に何も非はないし、杉田が慌てることもないはずだ。が、このまま黙っていては、お互いに気まずさが増すばかりだ。

「僕が言い過ぎたよ、ごめん。折角仕事以外でできた知り合いだから、未来もソフィーと仲良くできればいいと思って……」

 焦った杉田は、信号待ちから走り出したおんぼろシボレーのエンジン音に負けないよう、大きめの声で続けようとする。未来は一度だけ杉田に視線を向け、再び窓の外に広がる初冬のリッチモンド市街の様子をぼんやりと眺め直した。

 暗くなり始めた今はレストランやバーに明かりが灯り始めており、店先に飾られたクリスマスツリーに絡みついた色とりどりの豆電球が、ちかちかと点滅を繰り返している。

「いいよ、別に。今日はこれから会議なんだし、お互いに機嫌直さなきゃ」

 納得した口振りで言いながらも、未来の表情からは暗さが拭い切れていない。

 この時期ならではの暖かな風景も、未来の心を照らすのに足りていないようだった。

 時差の関係から、どうしても自宅で日本のスタッフとテレビ会議をしなくてはならない以上、仕事とプライベートを完全に分かつことは不可能だ。

 杉田はふと、未来との関係が現実という悪魔に皮肉っぽく笑われているような気がした。


 日本に残っているスタッフとのテレビ会議は、毎週水曜日に行われる。ヴァージニアでは20時だが、日本では翌朝の10時という時間だ。元AWP中核メンバーの会議のため、日本からの参加者は未来の担当医である生沢と、装備メンテナンス担当のリューだけである。

 会議の内容は主に定期報告で、杉田たちからFBIでの状況と未来の定期メンテナンス結果を、生沢たちからは日本での引き継ぎの状態と機器や人員移動のスケジュールを伝え合うのが主なものだ。

 FBIアカデミーにある未来のメンテナンス設備は日本から部分的に移設されたもので、足りない機器についてはジャクソンの設備を共同で使用している。未来とジャクソンは性別も違えば体格も大きく違うため、専用設備の速やかな移設が望まれてはいるが、人員についても機器についてもなかなか融通が利かなかった。

「日本の現場は、先週と大して変わらないみたいだね」

『まぁ、良くも悪くもそんなところだな。俺たちも早くお前らのところに行きたいのはやまやまなんだが。CVCじゃ、連続殺人事件の担当2件か?相変わらず、アメリカは物騒だな』

 未来が報告に使った書類をまとめているところへ、白衣姿の生沢が率直な感想を漏らした。

 未来のもう一人の担当医である生沢慎吾が、熊を思わせるのっそりとした雰囲気で無精髭だらけなのは、彼女が日本にいた頃と少しも変わっていない。おおよその医師というイメージから遠い彼の風貌が近しい者に安心感を与えてくれるのも、今までと同じだった。

 その横に座すリューこと田原隆三も、黙っていれば美青年にしか見えないのは相変わらずだ。茶色の巻き毛に彫りが深い西欧的な顔立ちは、彼が白人系アメリカ人とのハーフであるためだった。が、口を開けばアニメとホビーのオタクトークが止まらないのには、未だにしっくりこない。

 プラズマモニターの中にいる生沢とリューの背景は、東京湾沿岸部にある複合研究施設の中にあるAWP棟の会議室のようだった。白っぽいつや消しの壁を疲れ目の状態で見ると、たまに生沢の白衣と同化して見えることがある。

 対する杉田と未来は、自宅リビングルームの壁際に設置してあるパソコンのモニターにカメラを据えていた。ダイニングセットの椅子を引っ張っていき、その前に座っているのだ。生沢とリューが見ている画面には、背後にある食器棚やポット、麻織りのタペストリーといった、生活感がある日用品がごちゃごちゃと映っているのだろう。自宅にいる杉田と未来は、揃ってニットの上着にデニムという普段着だった。

「戦闘チームが担当してるのは、ティアーズだけだけどね。杉田先生は、えーと……コードネームがブラックヘアだっけ。アジア人男性連続殺人事件の方も担当してるよ」

 CVCは専門性が高い各チームが、それぞれで事件を担当している部署だ。故に同じCVCのメンバーであっても、抱えている事件の数はチームによって違う。

 杉田がDNA分析を担当しているブラックヘアは、特殊捜査チームや化学・毒物検査チーム、DNA分析チームなど、戦闘チーム以外が共同で捜査を担当している事件だった。

「ただ、証拠品の分析依頼は全米の各地から来ますから。それ以外にも、受け持ってる事件は結構あるんですよ」

 杉田と同じように検査官として所属するFBIの職員は、皆同じような状況だ。

 各州の警察や研究機関から依頼を受けて送られてくる証拠品についても、DNAや毒物などの分析は行われる。そのため、一人で複数の事件を扱うことも珍しいことではなかったし、杉田も同時進行で作業を進めている証拠品があった。

 それでも、干からびた人間の右手がフライドチキンの容器に入れられて送られてきたのを最初に開けたときには、流石にぎょっとした。

『俺たちもそっちに行ったら、似たようなことになるってか?ぞっとしねえな』

『犯罪捜査は、私たちにとって未知の分野ですからね。非常に興味深いところではありますよ。まぁ、装備のメンテナンス担当の私としては、実際の事件にかかわるようなことはあまりないんでしょうが……』

 苦笑している生沢に続き、リューも頷いた。リューは日本に帰化しているが、元は海兵隊の特殊部隊に在籍していたアメリカ人だ。軍属の頃とは仕事内容が全く異なるとは言え、再度の移住については複雑な思いがあるのかも知れない。

 こうしてテレビ会議で近況を報告し合うようになってから、半年以上が経つ。最初は画面の中にいる相手とリアルタイムで話すことに違和感を覚えていたものだが、皆それにも慣れた。

 今はWebカメラの映像でも通信速度は安定しているし、画質も悪くない。

 そのせいなのか生沢が、杉田と未来の間に漂う空気が違うことを見咎めた。

『お前ら、今日は2人であんまり話さないな。いちゃつき方が足りねえじゃねえか。何か変な感じがするが』

「別に変じゃないよ、いつもと変わらないもん」

 画面の生沢から目を逸らして未来が応えた。

『相変わらず隠すのが下手ですね、未来は。喧嘩でもしたんですか?』

「だから、喧嘩とかじゃないってば。先生もほら、何とか言ってよ」

 未来が後半は小声になって、隣に座っている杉田の脇腹を肘でつつく。しかし、

「え?あー、いや……別に、僕たちの間に何かあったわけじゃないですよ」

 と、眼鏡の青年医師の反応は鈍い。

『じゃあ、それ以外のところなんだな』

『浮気ですね、わかります』

 生沢とリューの鋭い突っ込みに、杉田は思わず口に含んでいたコーヒーを短い息と一緒に吸い込みかけた。噎せて咳き込む杉田の隣で、未来が思わず腰を浮かせかける。

「ちょっと、変なこと言わないでよ!第一結婚してもないのに浮気とか、あるわけないでしょ」

『……突っ込みどころはそこなんですか。未来のツンデレ具合も、理屈っぽさと絡むと複雑ですね』

 リューとしては未来の違った反応を期待していたらしいが、彼女のやや上気した頬に、含み笑いを隠せないようだった。

『何だよ、ヤキモチかなんかか?大方杉田が他の女とちょっと仲良くしたからって、お前がふくれてるとかそんなとこなんだろう』

「違うよ」

 生沢から意地の悪い笑顔で更に追及され、未来は却って落ち着きを取り戻していた。木の椅子に敷かれたクッションから離れていた腰をくっつけて、身体に入りすぎていた力と共に語調もゆるめている。

『ふうん……』

 生沢は、まだ咳き込みながらも何食わぬ顔をしている杉田と座り直した未来を見比べ、一呼吸置いてから再び口を開いた。

『お前たちがお互いに気を遣うのはいいんだがな。たまには言いたいことを言っとかないと、精神衛生上良くないぞ』

「大きなお世話だよ。それに、親しき仲にも礼儀ありって言うじゃない」

 未来の台詞は強気だが、視線はそわそわとあちこちを泳いでいる。

『それは、生沢先生の経験上から言えることなんですか?』

『うるせえよ。お前も大きなお世話だ』

 リューからの不意打ちに、今度は生沢の場都が悪そうな声がスピーカーから響いた。

 生沢は離婚した妻と、10歳の息子がいる身なのだ。

 やや緊張感が漂っていた空気が和むと、杉田が困ったような笑いを交えながら口を開いた。

「早くこんなモニター越しじゃなくて、顔を合わせて話ができるようになるといいですね」

「そうだよ。私たち、もう随分待ってるんだからさ。こっちの日本人スタッフが、早く生沢先生やリューと飲んで語りたいってよく言ってるよ」

 未来が同調して頷く。

 杉田と未来は今年の4月にアメリカに渡っていたが、それよりも早く移動している元AWPスタッフもいた。彼らは未来たちの住居の準備や渡米に必要な手続きをやってくれていて、その後は基本的に犯罪化学研究所の検査官として働いており、住まいも近い場所に構えている。

 それぞれ勤務時間がまちまちなため、なかなか顔を合わせる機会に恵まれない。それでもたまにホームパーティを開いて、親交を持っていた。

『それは全くだ。まだ具体的な渡航の時期は見えてないが、必ず行くから首を洗って待っとけと伝えといてくれ』

「首を長くして、でしょう?」

 杉田が生沢の表現を訂正すると、リューが補足した。

『首を洗って、でいいんですよ。生沢先生は焼酎を事前に大量に送りつけて、みんなを潰す気満々でいるんですから。まあ、私も日本酒を一緒に送っておこうと思ってますが』

「2人とも、こっちに何しに来るわけ?」

 吹き出したくなるのを堪えて未来がモニターの中の男たちに問いかけると、生沢からは大真面目な答えが返ってきた。

『決まってんだろ、足りないものを補いに行くんだよ』

 横でリューがチョコレート菓子をつまみ上げて口に放り込んでいなければ、きっとその台詞も数段決まって見えたのだろう。

『それまでは辛抱して下さい。文句やお土産の注文は、まとめて引き受けておきますから』

「じゃあ、日本のお菓子もたくさん持ってきてよ。こっちのやたら脂っこくて濃いスナックにはもう飽きちゃったからさ」

 ぽりぽりと音を立てて口を動かすリューの様子を見て羨ましくなったらしい未来が、画面の端に映っているお菓子の箱を凝視している。にっこりと笑って、元アメリカ軍人の青年は言った。

『良ければ、ダース単位で色々送りますよ』

 じゃあお願いするから、と未来が応えたところで定例テレビ会議は終わりだった。いつも雑談で締めくくられるのも恒例だったが、今日は少し長く話しすぎたかも知れない。リビングの壁にかかったオレンジ色の時計は、午後9時半を回ろうとしている。

 会議中は賑やかだったリビングも、家人以外の声が途絶えた途端にしんと静まり返ったような気がする。冬の冷たい夜気がひしひしと忍び寄るヴァージニアの晩秋は、澄んだ静寂を2人の間にももたらそうとしていた。

「未来」

 テレビ会議用のパソコンの前からダイニングセットに椅子を戻してから、杉田は未来に声をかけた。

「何?」

 対する未来の声はぎこちないが、これまで端々に見えていた棘は感じられなかった。

「さっき生沢先生が言ってたことって、本当なのか?」

 杉田の妙な言い回しをしない単刀直入な問いは、未来が「ヤキモチ」を指摘されたことについてだ。細かい内容が何なのかを追加せずとも、杉田の言葉は未来の核心を突いたらしい。

 ためらいがちに視線を泳がせてから、彼女は杉田の顔を見上げた。

「だったら、ダメ?」

 主語を抜かして呟いた未来の黒い瞳は、本音を漏らすのが不本意だと言いたげだ。嫉妬などという女に特有の醜い感情など見せるべきではない、と思っているのだろう。

 しかし男からしてみれば、適度なヤキモチにはむしろ可愛らしさを感じてしまうものだ。そしてこの場合の杉田とて、例外ではない。

 彼は軽く息を吐いて肩から力を抜き、穏やかな笑顔で未来の頭に手を置いた。

「……そうか。気づけなくてごめんな」

「ううん、こっちこそごめん。先生だって、私がそういう気持ちでいるのは嫌でしょ。私もソフィーと仲良くできるように頑張るよ」

 同居人がようやく見せてくれた普段と同じ表情と仕草に、未来の表情からもおかしな力みが

消えたようだった。今まで漂わせていた尖り気味の空気も和らいでいて、杉田の前でだけ見せている無垢な娘の姿に戻ったのがわかる。

「別に、無理しなくもいいんだぞ?違うフィットネスクラブに行ったって、僕は構わないんだから」

「無理じゃないって、大丈夫だよ。それに、初めて仕事以外でできた友達なんだからさ。そういう関係は大事にしなきゃ」

 杉田と同じように椅子をダイニングテーブルに戻すと、未来は彼に背を向けた。

「まだ調べ物か?」

「うん」

 咎める調子でない杉田の言葉に、未来は廊下に出るドアの手前で足を止めて振り向いた。

「正直に言うとさ。勤務時間だけじゃ、私には足りないんだよ。私は正規の審査に受かった捜査官じゃないから、才能が足りなくて要領が悪いだけなのかも知れないけど」

 やや自嘲気味に言った未来は、杉田の顔から視線を外して続ける。

「私だって、自分の家にまで仕事は持ち込みたくないよ。でも、そうでもしないとわからないことも多いし、捜査をちゃんと進めていく筋道も立てられないから。ただ、なるべく先生の前で事件の話はしないようにするから……」

「そんな調子でいて、この仕事が嫌にならないか?」

「え?」

 未来が目をを丸く見開き、声のトーンを高くする。思いもよらない杉田の割り込みに、彼女は驚きを隠せないようだった。

「未来は自分が望んでサイボーグになったわけでも、FBIに来たわけでもないだろ。言ってみれば捜査官の仕事だって、押しつけられたみたいなものなんだから。君がそこまでして仕事に打ち込まなきゃならない理由なんか、ないんじゃないかって……」

 彼の眼鏡の奥にある瞳は、仕事のことを片時も忘れられない未来に対して怒りを湛えているのでも、呆れた色を浮かべているのでもない。純粋に彼女のことを心配しているのだ。きっと、今の慌ただしい状況を作る一因を自分が持ってしまったことに、負い目を感じているのだろう。

 未来は杉田たちの手によって誕生した、元軍事用サイボーグだ。

 そもそもサイボーグにならなければ、捜査用車両で張り込みを続けて夜を明かしたり、こんな陰惨極まりない事件の捜査をすることなどなかったはずなのだ。

 しかし、未来は静かに杉田を見つめ返した。

「私、この仕事に就く機会に恵まれて良かったと思ってるんだ。今の私の生き甲斐になってるし、便利屋でやってたことも結構、役に立ってるもの。そりゃ、確かに大変なことは多いけどね。人や国のためになるって実感があるし、私はFBIに来たことを後悔してないよ」

 そこで杉田に一歩近寄ってから、未来は笑って見せた。

「それに、先生が側にいてくれるもん。だから私はいつでも元気でいられるの。嫌になるなんてことはないよ。大丈夫」

 諭すような口調から一転すると、彼女は足取りも軽やかにフローリングの床を跳ねるように歩き、廊下へと続くドアを開けた。

「1時間くらいで終わらせるつもりだから、寝る前にワインでも飲もうよ。先生はゆっくりしててね」

 そしてそのままくるりと身を翻し、暗い廊下に姿を消していく。

 彼女の小さな後ろ姿を見送った青年医師は小さく息をついてリビングに戻ると、キャンバス地のソファーに深く腰を下ろした。

 未来が辛さに耐えて仕事をしているのではないかという心配は徒労に終わりそうだったが、それでも彼女が本来望んでいたものとは違う人生を自分たちが押しつけたのは確かだ。

 それに、それは杉田自身にも同じことが言える。

 自分が思い描いていた夢は、身体が不自由な人のために新しい身体の一部を作り、健常者と同じ人生を与えることだったはずだ。

 今の自分は技術を持っているのに、夢からあまりにもかけ離れた場所にいる。そこに違和感を覚えずにはいられないのだ。

 しかし未来は自身の身に起こった変化を受け入れて順応し、今の自分が叶えられる範囲での目標を見つけ出して歩み続けている。加えて、結果として無理をしなくてはならないとしても、甘んじて今の自分自身を否定するようなことはしない。

 そんな素直さと純粋さこそが、彼女の強さの源だ。それが杉田とは決定的に違うところでもあり、見習わねばならない長所であった。

 それとも、過去の自分にこだわるか否かは男女の違いに拠るところなのだろうか。

 考えてみれば、未来に対して自宅に仕事を持ち込むな、というのはやはり杉田の単なる我儘にしか見えなかった。そんなことを言える資格は自分にないのだ。

 とは言え、鬱屈した感情を抱えたままではいずれ自分がパンクしてしまう。

 CVCの体勢が軌道に乗りつつある今、杉田にもやらねばならないことが山積みになっていた。

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