溝 -2-
マーケットの屋内売場に続く広い自動ドアをくぐるなり杉田の姿を見つけた未来は、思っていたより大きな声を出していた。
「先生!それ、私が持つよ」
杉田の返事を待たず、彼が重そうに抱えた腐葉土の大袋を掠め取る。20キロ分くらいは入っていそうだったが、未来はまるでポテトチップの袋でも持つように、片手でひょいと肩に担ぎ上げた。
「いや、いいよ。重いだろ?それに、僕が好きで買ってるものなんだし」
「私の馬力がどれぐらいあるか、先生は知ってるでしょ?戦うばっかりが能じゃないんだから」
土を包む厚手のビニール袋を破かないよう丁寧に傍らのカートへ移し、未来はまだテンションの低い杉田に向かって笑いかけた。
「こういうことの何が楽しいのかってことは、正直あんまりよくわかんないけど……とにかく、手伝わせてよ。一緒に暮らしてるんだから、二人で色々やるのは悪いことじゃないでしょ」
「まあそうだけど……」
未来は顔を逸らそうとした杉田の前に回り、上目遣いで眼鏡の奥にある黒い瞳を覗き込んだ。
「だったらさ、楽しく買い物しようよ。暗い顔のままじゃ、面白くも何ともないじゃない。ね?」
元はと言えば、未来がティアーズ事件にかかりっきりになっているために気まずくなったのだが、いつ状況が変わるかわからない。休日に事件のことは考えない、そのための行動を起こさないなどと約束することもできなかった。
だからこうやって笑顔と言葉でお茶を濁すしかなかったのだが、それでも雰囲気を変えるだけの効果は多少なりとも期待できる。
「まあ、それもそうか。折角気晴らしに、買い物に出てきたんだしな」
「でしょ?重いものは、私に任せていいから。先生は種とか球根を選んで、私が何を持ってくればいいのか教えてよ」
「じゃあ……中くらいのプランターと、丸い植木鉢をそれぞれ5つくらい。植木鉢はチューリップを一輪ずつ植えようと思ってるから、少し小さめのがいいかな。それから、この腐葉土と同じくらいの赤土と如雨露。カートはあそこにあるから」
未来にあれこれ指示を出す杉田の声には、もう明るさが戻りかけている。未来は頷いて、カートを取りに行く前に言った。
「必要なものが集まったら、確認してもらいに行くから。好きな花の種とか、ゆっくり選んでてね」
多少強引に明るさを見せられた気はしたものの、重い空気を和らげようとした未来の態度は、杉田にとって悪い気はしなかった。むしろ、彼女に気を遣わせて申し訳ないような気持ちになって、落ち着かなくなってくる。
未来がタフな精神を持つ一方で繊細で危うげな一面があることを、彼はよく知っている。いざというときに支えとなれるのが担当医たる自分であることもまた、経験からよくわかっていた。
未来が折角、笑顔で暗さを紛らわせようとしてくれているのだ。ちょっとしたことでいつまでも機嫌を悪くしているのは、大人げない。
杉田が自分の好みに合った花の種や球根、花の種類に合わせてある化学肥料を選び終えた頃には、すっかり心がほぐれていた。久しぶりに大好きなものに触れたおかげで、ささくれ立った気持ちも穏やかになったのだ。
花を未来と一緒に育てていき、春には殺風景なポーチを優しいパステルカラーで彩ろう。
植物は人を癒すのだから、彼女の精神も潤してくれる筈だ。
頼まれた物をカートいっぱいに積み上げた未来とレジの前で合流し、言葉を交わすうちに、杉田は早くも数ヶ月先の美しい玄関を想像していた。
「こっちに来てから家の周りに手を入れるようなことなんて初めてだけど、いい物は見つかった?」
「ああ、お陰で楽しい買い物ができたよ。次の休みに植えてから頑張って手入れして、春にはうんと綺麗な花を咲かせなきゃな」
未来の質問に答える杉田の声は快活だ。30ドル程度の代金をレジに立つ恰幅がいい中年白人男性に支払い、二人でサッカー台へ向かう。
「あとはリッチモンドまで行って食事したら、今度は未来の買い物だな。他にも行きたい場所があれば、付き合うけど」
「ほんと?実はね、リッチモンドで前から行きたかった場所があるんだけど」
未来がサッカー台で花の種をビニール袋にまとめる手を止め、杉田の顔を見上げてきた。
「いいよ、どこでも一緒に行くよ。どんなところに行きたいんだ?」
「フィットネスクラブ」
未来が一緒に運動しようと言っているのが、杉田には彼女の嬉しそうな調子からわかった。
リッチモンドのイースト・リー・ストリート近くにあるフィットネスクラブ「7デイズ・フィットネス」は、各種設備の充実ぶりにおいて市内で1、2を争うほどの施設だった。基礎的な体力作りが効率的にできる最新式のエクササイズマシンからダンススタジオ、屋内テニスコートに温水プール、地下射撃場までが揃っている。ここの有料会員になれば、自分の能力に合わせた運動を的確に指導してくれるインストラクターがついてくれるのもまた、売りの一つだった。
FBI職員である杉田と未来は、ここを格安の料金で使うことができるのだ。
2人はダウンタウンのカフェで軽い食事を澄ませ、未来の冬物ジャケットを買った後にここへ来ていた。
「ジャクソンから、ちょっと前にここの話を聞いててさ。一度来てみたいと思ってたんだよ」
レンタルウェアの黒いシャツとハーフパンツ、白いソックスにスニーカーといういでたちの未来が、満面の笑顔で肩のストレッチをしている。
「あのさ、未来」
「何?」
ロッカールームの前に広がる明るいロビーで、杉田が長椅子の一つに浅く腰掛けている。彼も未来と同じ服装だが、表情は冴えない。
「休みの日なんだから、身体をきちんと休めた方がいいと思うんだけど?」
「でも今日は、本当ならNOTSの訓練日なんだもん。何もしなかったら、身体がなまっちゃうから。軽い運動しかしないつもりだし、射撃もそんなに長くはやらないつもりだから大丈夫だよ」
サイボーグの未来が言うところの軽い運動とは、30キロのジョギングや80キロのベンチプレス、10キロの水泳のことを指す。
「頼むからトレーニングマシンを壊したり、人間離れしたことをしでかさないでくれよ」
「わかってるよ。それに、今日は先生と一緒に運動するのが主な目的だから」
「僕と?」
察してはいたが、やはりそうかと言う確認の意味を込めて杉田は小首を傾げた。
「うん。アメリカに来てからは車で移動することが多いし、先生も運動不足でしょ。私も自分の好きなように運動できなくて、ストレスが溜まってたから。じゃ、まずは準備運動からね」
そこで嬉々としていた未来がストレッチを止め、杉田の片手を引いて立ち上がらせる。
杉田はまだトレーニングをすると自分から一言も言っていないのだが、仕方なく未来に引っ張られるままにトレーニングルームへと連れだって行った。様々なマシンが置いてある部屋の片隅にあるフリースペースで、彼女の指導のもとにストレッチを行っていく。
「いてて、もっと優しく!」
ベージュの絨毯が敷かれた床に開脚状態で座って背中を軽く押された途端、眼鏡の青年医師は悲鳴を上げた。
「先生、身体が固いよ。まだ若いのに」
「プロアスリート以上の未来に言われたくないよ。君から見れば誰だって……ぎゃあ!」
力加減を間違えて上半身に当てられた未来の手に耐えかね、両足の筋が切れそうなくらいの痛みを訴えてくる。堪え切れず、杉田はみっともない大声を上げた。
「あ、ごめん!でも、もうちょっと我慢しててよ。きちんとほぐさないと、怪我するから」
申し訳なさそうにしながらも、未来は楽しそうである。一方彼女に身体の節々を伸ばされる杉田は、それだけでもうへとへとだ。
医師である杉田が運動は苦手な上に最近運動不足に陥っているため、未来は心配してここへ連れてきたのだ。
彼自身、確かに運動量が全く足りていないのは認めるところだ。が、あまり好きではなくしかも自ら進んでやるわけではないトレーニングは、ストレスになりそうだった。
「じゃあ、最初は軽く行こうか。私も隣でやるからさ」
大騒ぎのストレッチ終了後に未来が勧めてきたのは、エアロバイクだった。
固定式の自転車であるこのマシンはペダルの負荷も調整がきき、膝に負担をかけることもない。故に体力に自信がない者や、肥満傾向の者にも向いているとされている。ウィークデーの昼間である今の時間帯だとトレーニングルームはがらんとしており、二人は並んでエアロバイクをやることにした。
「心拍数120くらいになるのが、丁度いい負荷なんだってさ。先生は辛くない?」
「大丈夫だよ」
壁際に10台並んだエアロバイクを漕ぎ始めて3分程度経過した頃に未来が話しかけると、杉田は穏やかに頷いた。個々のエアロバイクのハンドルには小型のプラズマテレビがついていて、付属のイヤホンで音声を聞くことができる。画面は司会の白人男性が大袈裟な身振りで白々しく盛り上げているトークショーや、バージニアの天気予報を流していた。
「僕に合わせてくれるのはいいけど、未来は退屈じゃないのか?」
「ううん。私は、先生と一緒に運動できるだけで楽しいから」
杉田は答えた未来のマシン設定をさり気なく確認したが、負荷の強さは彼の10倍以上にしてあるのがわかった。恐らく、それでも彼女には物足りない筈だ。こんな状態で運動していても、お互いに気を遣いすぎて疲れるだけなのではないだろうか。
杉田がそう考えた時だった。
「貴方たちは、無理に一緒にトレーニングしない方がいいと思うけど。こなせる運動量に差がありすぎるように見えるから」
不意に、後ろから若い感じの女性の声がした。驚いて二人が振り返ると、赤のポロシャツに黒のトレーニングパンツを身につけた、体格がいい白人女性が片手を腰に当てて立っていた。
「ここのインストラクターの方ですか?」
「ええ。ナタリア・マーティンよ。気に障ったらごめんなさいね。今日はお客様も少なくて、ちょっと気になっちゃったから」
齢は未来より少し上だろうか。ナタリアと名乗った女性インストラクターは、不揃いなショートカットの金髪を揺らして気さくに笑った。
「貴女はその負荷の強さでも全然堪えないみたいだから、相当心肺と足の筋肉が頑丈なのね。運動、かなりできるんでしょう?最初の体力テストも普通の男性以上だし、彼が一緒にやるのはなかなか大変だと思うけど」
更にナタリアは未来と杉田を見比べて、的確に身体能力の差を言い当てた。
「え……そりゃ、まあ」
図星を突かれ、未来が思わず認めてしまう。未来もただ杉田と一緒に好きなことをしたい一心で誘っただけで、運動をきちんと指導できる自信はなかったのだ。
「そのまま一緒に続けようとしたら彼がへばっちゃうか、怪我をするかのどっちかになっちゃうんじゃないかって心配なのよ。的確に身体を鍛えたいなら、それぞれに別の担当者がつくほうがいいと思うんだけど。どうかしら?」
未来は女性インストラクターの提案にすぐには答えず、エアロバイクの設定をリセットしてペダルから足を外し、サドルから下りた。
「わかりました。そうしようと思います」
そして振り返って言った表情は、やや硬かった。本音ではなかったが、トレーナーやインストラクターではない自分が感情的に反論しても、見苦しいだけなのはわかっている。
勿論インストラクターも商売なのだから、断ればこれ以上何か言ってくることもないだろう。が、本当に杉田の身体のことを考えるなら、提案を受け入れるのがベストだった。
「じゃあ先生、また後でね。私、残りの時間はプールにでも行ってくるから」
そう判断した未来に意外そうな顔を見せた杉田は、ナタリアに軽く頭を下げて去っていく彼女に声をかけられず、黙って見送ることしかできなかった。
「じゃ、始めましょうか。彼女も私の担当だから、一緒に指導させてもらうわね。ソフィーも、最初はエアロバイクにするから。ええと……」
「マサト・スギタです」
青年医師は名乗って、ナタリアの後ろに視線を向けた。
今まで気がつかなかったが、彼女の後ろにはもう一人、別の女性がいたのだ。ナタリアが未来の使っていたエアロバイクの設定を直し、その女性に20分間のトレーニングになることを軽く説明してから立ち去っていく。
「ソフィー・アイコ・フジミです」
はにかむような控えめな笑顔で頭を下げてきたのは、やや緑がかった瞳に赤っぽい髪をひっつめた、小柄な若い女性だった。活発そうな外見に反して声は小さく、サドルに跨る様子もあまり機敏ではなかった。
「あ……」
彼女の顔を改めて認めるなり驚愕して息を飲み、次いで吐き出した杉田から掠れた声が漏れた。
「どうかしましたか?」
隣のエアロバイクで足を止めたまま固まりかけた眼鏡の男性の様子に、ソフィーと名乗った女性は不思議そうに辺りを見回してから、杉田の表情を見返した。
「い、いえ。失礼しました。僕はマサト・スギタです。よろしく」
杉田はペダルに足を置いたままでソフィーと軽く握手を交わすと、正面に向き直った。我ながら素っ気ない挨拶だと、少し反省する。意識して深呼吸を繰り返すと、激しく乱れた鼓動を刻んでいた心臓も、次第に落ち着きを取り戻してきたようだった。
「あの……ここにいらっしゃるのは初めてなんですか?」
ソフィーと並んでエアロバイクを始めてから一分もしないうちに、おずおずと彼女から声がかけられてくる。
「ええ。運動不足なものですから」
杉田の返す調子はまだぎこちなく、顔が赤らんでいるのも隠せていないが、それでも努めて平静な態度を保つ。
ソフィーは、嘗て杉田が淡い恋心を抱いた相手によく似た面影を持っていた。
彼がまだ10代の少年だった頃、10年は昔のことだ。
ロサンゼルスの郊外に1年間語学留学していた時、同じハイスクールのクラスメイトでデボラという少女がいた。
赤毛で緑の瞳を持った彼女は控えめな感じではあったが、異国の留学生である杉田のことを何かと心配し、気にかけてくれていたのだ。いつも暖かい微笑みと優しい言葉を絶やさず、杉田のたどたどしい会話も熱心に聞いてくれた。
しかし女性が苦手だった当時の杉田は必要最低限のことしか話せず、帰国の途に着く時まで自己嫌悪と恋心のジレンマに悩み続けていた。
ソフィーはそのデボラが成長すればこんな女性になっただろうと思えるほど、物腰や雰囲気が似ていた。
が、2人はあくまで別人なのだ。
表に顔を出してきた懐かしい思い出をもう一度心の底に沈めようと、彼はエアロバイクの下に広がるベージュの絨毯を意味もなく見つめた。
「私は今年の夏からここに来てるんですけど、そう何回も通ってるわけではなくて……友達もいないから、今日は一緒にやってくれる方がいて、ちょっと安心してるんです」
その杉田に気づいていないらしいソフィーは、再び遠慮がちな笑顔で言った。
未来よりも僅かに背が高いくらいの彼女は色白で、胸も腰も豊かだし、確かにあまり運動が得意そうには見えない。丸い瞳に小造りな童顔も手伝って、子犬を連想するころっとした第一印象だった。話し方も穏やかで大人しそうな外見は、みる者に対して彼女が見るからに「女の子」というイメージを残そうとする。
しかしそれでいて、不思議と男に媚びている様子は全く感じさせない。
「貴女は、学生さんですか?」
「バージニア・ユニオン大学で、社会学をやってます。犯罪心理学のゼミに入ってるんです。最近は大学の書庫に籠もってばっかりですから、ちょっとは身体を動かさなきゃって思って。さぼりがちだったこのジムにも、真面目に通おうと思ったんです」
そこで一息ついて、今度はソフィーが杉田に向かって小首を傾げた。
「すみません、自分のことばかり話してしまって。ミスター・スギタは働いてるんですか?それとも、私みたいな学生?」
「僕は医療分野の研究機関で働いてます。なかなか休みが取れないから、こんな変な日にここに来ることになっちゃって」
流石に、初対面の人物にFBIの職員だと自己紹介するのは憚られた。
「え、お医者さんなんですか?すごいですね!どうりで、何だか雰囲気が違うと思いましたよ」
ソフィーが仕事についてそれ以上突っ込んでこなかったため杉田はほっとしたが、引っかかることがあった。
「それは、ここにいるのがそぐわないって言うことですか?」
「いえ、そんな。ごめんなさい、失礼なこと言っちゃって!その、物静かで優しそうな方だって思ったんです。本当にすみません」
「いえ、気にしてませんよ。本当にその通りですし」
今度は、ソフィーが顔を真っ赤にして慌てていた。その様子を見て、思わず杉田が笑いをこぼす。
「僕は運動がからっきし駄目で。本当は庭で花をいじってる方が好きなんですよ。男のくせに、趣味は園芸ですしね」
「あら。じゃあ、お花のことにもお詳しいんですか?」
「植物マニアだって、よく仕事場でも言われてます」
まだ笑顔でいる杉田の言葉を聞いて、ソフィーが緑色の瞳を輝かせた。
「本当ですか?実は私、今アロマテラピーに凝ってるんです。是非、色んなお花のことをお聞きしたいわ」
「うーん、実は香りの効能についてはあまり僕も知らなくて。それについては、貴女のほうが詳しいんじゃないかな」
嬉しそうなソフィーに答える杉田の声に、親しみが込められ始めてきた。
知り合ったばかりの女性とここまで盛り上がれたことなど、初めてではないだろうか。初恋の相手に面影が似ていることもあってか、緊張は殆ど感じない。
それに、花や園芸のことについて遠慮なく話ができるのもまた、新鮮だった。ある程度の予備知識があるソフィーは、こちらが言うことに興味を持ってくれ、更に突っ込んだ質問もしてきてくれる。他の身近な友人たちにこんなことはできないだけに、楽しさもひとしおだ。
2人があまり話に熱中していたので、トレーニングの続きを指導しに戻ってきたナタリアが呆れたほどだった。
「ここに来てこんなに楽しかったことなんて、初めてよ。マサト、またここに来るんでしょう?」
「ああ。担当のインストラクターも同じだし、そしたらまた話ができるよ」
そして90分ののトレーニングが終了する頃、杉田とソフィーはすっかり打ち解けていた。