溝 -1-
翌日から参加することとなったNOTSの訓練は、間違いなく未来の心身をすり減らした。
訓練自体は開始から5週を過ぎた辺りで、教官から短く素っ気ない紹介をくっつけられただけで、彼女は猛者たちの中へと放り込まれたのだ。当然のことながら、人質救出チームの新人たちがそんなちびのアジア人女とまともに付き合おうとするわけがない。
NOTSはHRTの新人訓練課程と言っても、先輩隊員からの評価が低ければ振るい落とされる過酷なものだ。
迷彩服を纏い、実戦時の装備と同じ重量の砂袋を背負って、仲間と行うマラソン。
2階建てのコンクリートの建物に敷き詰めた濡れ藁に火をつけ、黒煙が立ちこめる中に強行突入し人質を救出する火災訓練。
チームメンバー全員で、ヘリコプターから森林にロープ一本で次々と降下するラペリング。
ずっと単身で破壊工作や戦闘訓練を受けてきた彼女にとって、1日16時間の訓練は、いずれも生まれて初めての経験だった。まるで軍隊さながらの内容だが、HRTが軍と決定的に違うのは、「人命最優先。可能であれば一発の弾丸も撃たず、事態を収束させること」の一言に尽きるだろう。
テロリストや、女子どもを盾に取る犯罪者を殺すことが任務ではない。
状況を瞬時に判断し、発砲しないだけの冷静さを身につけろ。
常にプロフェッショナルであり続けろ。
自分たちが放つ一発一発の弾丸にどれほどの重さがあるのか、国家権力の下に武力を振るうことが、全米を始めとした世界にどれだけの影響をもたらすのか。
それを常に忘れるな。
訓練を受け出した未来が、初日に叩き込まれたことである。
先日ジャクソンと行った模擬戦闘で、軍隊式の戦い方は忘れろとバーニィが言った。
そのことを身体に、心に染み込ませるために、彼は未来をFBIで最も厳格なHRTへと蹴り入れたのだ。
HRTは個人の戦闘能力だけでなく、チームメンバー同士の結びつきが何よりも重要なファクターとなる。皆との協調と信頼を築くことを通して、隊員たちは組織の中で自分の確固たる地位を意識するのだ。
バーニィには、まだアメリカという国に完全に馴染んではいない彼女にそんな課程を辿らせて、更なる忠誠心を育ませようと言う魂胆もあったのかも知れない。
しかし、未来が思ったよりも苦心したのは、「仲間と共に戦う」ことそのものだった。
マラソンのときは、本気で走れば自分一人が突出してしまう。強行突破時にドアに鍵がかかっていれば、とっさに壁を素手で破壊しようとしてしまい、専用の装備を持った突破係を呼ぶのが遅れる。遠方の敵を狙撃するときも単身で始末し、仲間へのフォロー依頼を忘れる。
個人の勝手な行動があると、チーム全体の秩序が乱れて作戦も失敗しやすくなり、メンバー全員の点数に響く。そして、なし崩し的に信用がなくなり、ますます皆と足並みを揃えることが叶わなくなる、という悪循環だ。
HRTの新人隊員たちはFBI捜査官でもエリート中のエリートとは言え、生身の人間である。ジャクソンと組んで戦うときとは、まるで勝手が違っていた。周りの力に合わせ、チームに溶け込むことが如何に難しいかを、彼女は痛感させられる羽目になったのだ。
しかもNOTSにいる他の男たちは、既にHRTでの選抜試験を通して固い結束で結ばれている。途中編入などまずあり得ないそこへ、しかも女のくせに肉体能力だけは抜きん出ている未来が放り込まれれば、「いけ好かない女」「体力だけの役立たず」の烙印を押されるのは当然のことだった。
その上、NOTSメンバーと訓練を行うのは一日おきで、期間もたった一ヶ月しかない。
それまでに何とかチームの皆と目を合わせ、まともな会話をすることを目標に据えることぐらいしか、今の未来には思いつかなかった。
「……はぁ」
自宅のリビングにあるキャンバス地のソファーで浅い眠りを漂っていた未来は、まだぼんやりとした頭を軽く振って背もたれから身を起こした。意識せず、溜息が漏れてしまう。そんなに長く寝ていないと思ったが、背中に軽い痛みがあった。
「やあ。起きた?これから掃除でもしようと思ってたところだから、まだ眠いならベッドに行った方がいいよ」
「……先生」
そこへ、リビングのテーブルを拭いていた杉田が手を休めて笑いかけてきた。
白木の壁にかかったオレンジ色の丸い時計は、午前10時を差したばかりだ。今日は久しぶりに二人揃って非番だったが、8時まで寝坊して全粒粉のパンと目玉焼き、果物とサラダの簡単な朝食を済ませた後、うっかり寝入ってしまったようだった。未来には、キッチンを片づけた覚えもない。
「洗い物は?」
「もう済ませたよ。いいから、未来はゆっくりしておいで」
杉田がかけてくれた薄いブルーのストールをたたんで脇に置いた未来は、心底申し訳なさそうな顔になってうなだれた。
「そっか……ごめん」
「何だよ。君は普段の仕事にプラスして、NOTSの訓練だってやってるじゃないか。それがどんなに大変なことかなんて、僕もわかってるつもりなんだから。そんな顔しないでくれよ」
叱られた小動物がしゅんとしている様子にそっくりな未来を見て、杉田が慌てる。
「でも先生だって、仕事が大変なのは一緒じゃない。特に、精神的にはかなりきついのに」
「僕はもう慣れたよ。気にするなって」
多少語弊はあるが、杉田が言ったことは本当だ。彼の担当するDNA分析にはある程度決まった手順があり、特に検出が難しいケースを除いては、それほど神経を擦り減らさなければならない仕事、というわけでもない。
ただ、子どもの頭皮がこびりついた岩や、女性の性器を貫いた箒の柄、血まみれのステーキナイフといった証拠品そのものには、永遠に慣れることがないだろうと思うだけだった。
「でももう半分の期間は終わってるんだし、私も多少は慣れてきたからさ。その分、訓練がない日は頑張らなきゃって思うんだけどね」
「ティアーズはあれ以来、進展がないんだろ?NOTSの訓練課程が終わるまでは、ジャクソンが中心になって捜査を進めればいいじゃないか」
未来は訓練を1日おきに行っているが、その度に爆薬や、壁材が燃えたきな臭さを髪からぷんぷんさせ、くたくたになって帰ってくる。そして翌日は捜査官として朝から出歩くのだから、激務もいいところなのだ。ティアーズの事件について、これといった状況の変化がないことに、内心杉田はほっとしているぐらいだった。
「でも、今こうしてる間にも、犯人が誰かを殺してるかも知れないんだよ?あんまりぐだぐだしてらんないよ。調べたいことも色々あるし」
ゆっくりと立ち上がった未来がうーんと上半身を反らし、細身のジーンズに包まれた足も続けて爪先を伸ばし、軽くストレッチさせる。
「あれ、どこ行くんだ?」
「書斎。昨日やり残したこともあるし、過去の事件も調べてみたいから。端末、借りるね」
杉田が寝室とは逆の方向に消えようとした未来の黒いチュニック姿に問いかけると、まだ間延びしているように聞こえる返事が返ってきた。
書斎は寝室の隣にある7畳ほどの部屋で、日本から持ち込んだ杉田の医学書や、未来がアカデミーで使った連邦法等の専門書籍類と判例集、仕事専用の端末が置いてあった。木製の本棚やデスクは落ち着いた暖色でまとめ、カーテンとラグはそれに調和するクリーム色にしてある。リラックスして作業に集中できるよう、観葉植物の置き場所にも気を使った空間だ。
CVCから貸与された二人のパソコンは、OSに必要最低限のアプリケーションをインストールした安価なものだ。これを特殊形式の暗号化通信で本部のサーバーに接続し、巨大容量ハードディスクの集合体たるストレージ上にある、個人用仮想デスクトップにログインする運用になっている。
仮想デスクトップとは、ハードディスク上に作られた実体を持たないパソコンだ。ユーザーはそこに接続さえすれば、職場にいる時と同じように仕事ができ、FBIの各種データベースにも接続することができる仕様である。
その分セキュリティには厳格で、ユーザーは自宅端末のハードディスクやキャッシュにデータを落とすことも、FBIの事務所以外でプリンターを使うことも、決まった端末以外から外部デバイスを接続することも一切許されていない。
自宅用の個人端末をこのようなシンクライアント形式に切り替えているのは、FBIの中でもまだ一部の部署のみだ。それをあと数年で組織全体に普及させることが、システム部に籍を置く技術者たちの目標にもなっている。
広い木のデスクとお揃いの椅子を引き、未来はやや硬いクッションの上に腰を据えた。厚さが数センチしかないデスクトップ型端末の電源スイッチを入れ、本部サーバへの接続用プロンプトがプラズマディスプレイに表示されるのを待つ。
素っ気ないグリーンの壁紙の上に出てきたIDとパスワード、接続先サーバの指定を促すボックスに必要な情報をキーボードで打ち込むと、CVCの個人オフィスでは馴染みの画面が10秒程度で現れた。早速ブラウザでポータルサイトを開き、幾つかのアイコンを順にクリックして事件記録データベースの検索用画面に移動する。
「ええと、検索対象は……」
検索キーワードを指定する画面で、未来が意識せず呟いた。
このシステムは国立凶悪犯罪センター(NCAVC)のデータベースを検索するもので、FBIが関与した事件だけでなく、全米各州の警察や連邦裁判所が有するデータベースとも連携していることが最大の利点であった。
検索の仕組みはかなり昔からあったが、システムそのものとユーザーインターフェースがずっとUNIX系のシステムで運用されていたため、専門知識がある者しか扱えないのが泣き所だった。しかしそれも近年になってようやくてこ入れされ、グラフィカルなOSに徐々に切り替わっている。
そのおかげでシステム担当者たちはかなりの苦労をさせられる羽目になったが、それまで日に何百件とあったデータ検索依頼が激減したのだから、結果は良しと言うことだろう。
未来は技術者たちの汗と涙の結晶たる検索システムで、過去5年間にヴァージニア州で発生した身体欠損を伴う事件、事故を調べることにした。事件事故の解決状況は不問、当事者の生死も問わず、人種と年齢、性別も指定せず、損傷の度合いや原因、部位も、数ある種別の中から何も選択しないでおく。
一通りの条件を指定した後、画面の下の方にある「Go」ボタンをクリックすると、たちまち画面一杯に検索結果が表示されてきた。件数を確認すると、過去5年中で条件に該当したものは2000件以上あった。日数を気にしなければ全てに目を通せそうだが、途中で心が折れそうな件数でもある。
それでも背筋を伸ばして気合いを入れ、レコードを古い順に確認していく。すると、大半は車両や工業機器の事故で手や足の一部を失い、当事者も生存しているケースであることがわかった。目的のものとは明らかに違うレコードを除外しようと、慎重に言葉を絞っていく。
できればmachine、car、factory、industrial(工業の)と言った一般的な単語は除外したかったが、被害者が車で運ばれたり、工業用ロボットがindustrial machineと表記されている場合もあるため、迂闊に弾くべきではなかった。
胸が悪くなるような現場や遺体の画像はなるべく見ないように心がけつつ、未来は黙々と作業を続けた。気になったレコードについては検索ツールの個人ページ内にショートカットを作って、後でいつでも見られるようにすることも忘れない。
1時間は検索とショートカット作成を繰り返し、ようやくレコードを50件程度に絞った。
これらは原因がはっきりしていない死亡事件、事故で、いずれも遺体の一部が失われていたものである。ざっと内容を見たところでは、被害者の死体が野生動物に荒らされたものが多いようで、明らかに人の手で切断されたものは3割もないように見える。そしてその3割のうち大半は、鋭利な刃物を使って死体を切断されていると断定されていた。
過去の事件では、被害者の遺体が機械で故意に傷つけられた事件はないようだったが、俗に言うバラバラ殺人事件は、ヴァージニアのみでも高い頻度で起こっている。そのことに、彼女は慄然とした。日本も移民が流入するようになってから目立って治安が悪化しているが、アメリカに比べればまだかわいいものだろう。
彼女がわざわざ自宅で過去の事件や事故を調べようと思い立ったのは、それなりの理由があった。
ティアーズの犯人のように、計画的に殺人を犯して死体を引きちぎるという異常な行動は、ある日突然思い立つような類のものではない。それまでに何百回、何千回と空想を繰り返し、ある時それを現実にしようと行動を起こす。精神的にその段階に至るまで、通常は何年もかかるのが普通だ。そしてそういった犯行方法は回を重ねる毎に秩序を失っていき、次第にめちゃめちゃになっていくことがしばしば見受けられる。
だから今までに発生した死体損壊事件を調べ、必要なら当時の警察関係者や検死局に確認する必要も出てくる可能性もあった。
そして他人に凄まじい暴力を加える者は、前段階として動物を虐待し、死に至らしめることも頻繁に見受けられる。州の獣医師協会や動物愛護のボランティア団体に、傷ついた動物が連れて来られたケースの問い合わせもしなければならないだろう。
と未来が考えつつ、モニターを埋め尽くした英単語を睨んでいると、不意にその視界を「本日、クリスマスプレセール開始」という赤と黄色のけばけばしい文字が遮った。
「あ、ちょっと!何すんの!」
気づかないうちに後ろに立った杉田から目の前に新聞の広告を広げられ、未来は思わず声を荒げた。
「うちで仕事するのはそこまでだ。未来は普段よりもずっと疲労がたまってる筈なんだから、休みの日はしっかり休まなきゃ駄目だよ」
「だけど……」
言いかけた未来の目の前で、杉田は広げたショッピングセンターの広告を盾のように構えた。
「忘れたのか?僕は今でも、君の主治医なんだ。だから、ドクターストップがかかったんだと思うように」
未来が仏頂面になっても、彼は言い聞かせようとする姿勢を緩めない。
「それに、未来だって言ってたじゃないか。捜査官は普通じゃ考えられないようなストレスを受けるから、それと上手く付き合っていかなきゃならないんだって。自分の家でも現場写真を見るなんて、とんでもないストレスになるんだぞ」
先から血だらけの凄惨な現場写真をなるべく見ないようにしている未来は、ぐうの音も出なかった。
「前にも話しただろ?非番の日に、リッチモンドまで買い物に行こうって。今日からセールが始まるみたいだから、未来の冬物のジャケットか、コートを買いに行こう」
「……レストランは予約できてないけど、いい?」
杉田が先日アウターを買ってくれるという話をしていたのと一緒に、自分が日本料理のレストランを予約しておく、と申し出たことをようやく未来は思い出した。杉田がきちんと考えていてくれてたのに、自分にはちっとも余裕がなくて何も準備していない。
流石に申し訳なく思ってはいても、つい拗ねたような口調になってしまう。
それでも杉田が笑顔で頷いてくれたので、未来の気持ちも若干軽くはなった。確かに仕事ばかりでは、本人にその自覚がなくとも息が詰まってしまう。つい仕事に没頭して寝食を忘れてしまう未来は、本来であれば一番気をつけねばならないタイプだろう。
同居人からの誘いが嬉しいものであることを行動に出そうと、彼女は早々に検索システムからログアウトし、個人用仮想デスクトップからも抜けて端末をシャットダウンさせた。
若い2人の同居人はそれから10分の後に、少しくたびれた黒のシボレーに乗り込んでいた。未来も杉田もジーンズとスニーカーにウールの暖かいトップス、コートという軽装だ。未来はメイクもせず、ポニーテールのまとめ髪にシルバーのピアスのみで、全く飾り気がない。
杉田がハンドルを握る車の外では、もう乾いた冬の風が強く吹きすさんでいる。気温は10度もないが、この風では体感温度が5度以下になっているだろう。彼らが進むアスファルトの道路には細かい砂埃が舞い、空は曇りがちでどんよりとしている。
インターステート95号線から遠くに望む森の端が風に踊るのを、未来はぼんやりと眺めた。
「そうだ。ついでに、僕の買い物にも付き合ってもらっていい?」
「そりゃもちろん。何買うの?」
久しぶりに二人が揃って迎えた休日に浮かれているらしい杉田の声が、いつになく明るい。振り返った未来の瞳に映った彼の姿は、声と同じく楽しそうだった。
「この先のファーマーズ・マーケットで、春の花の球根と種と、ガーデニング用品一式を揃えようかと思ってね。ほら、うちの周りって、芝生だけで何もないからちょっと寂しいだろ?今から庭に花壇を作るのは無理だけど、プランターに植えるんだったら次の休みまでにできるから」
ファーマーズ・マーケットは、日本で言うところの園芸店だ。
うきうきと語る杉田の心にはきっと、春に色とりどりの花を咲かせている庭先の光景が浮かんでいるに違いない。日本にいるとき、彼の趣味は華道と茶道だったが、渡米してからはどちらもやる機会と道具がなかった。せめて、自宅の庭くらいは自分好みに作り上げたいのだろう。
「どんな花を植えたいの?」
園芸全般に対してまるで疎い未来は、春に花を咲かせる植物の種類もちんぷんかんぷんだ。咲いている花は好きだが、種や球根を植えてから何をするのかも、小学校の理科の授業程度の知識しかない。
「そうだなあ……今の時期だと少し遅いかも知れないけど、一般的にはチューリップにアネモネ、スイセンとか。苗が買えるなら、パンジーとかもいいかな。この辺りは雪も多いし、雪避けを作る必要があるかも知れないけど。それから大きめのプランターと園芸用の土、肥料と……道具が何もないから、全部買わなきゃな。春にいいのが咲いたら、株分けもできるかも知れない」
「ごめん。チューリップとスイセンとパンジーはわかるんだけど、アネモネってどんな花?」
話がだんだん止まらなくなってきた杉田に、未来が遠慮がちに割り込んだ。
「日本でも普通に栽培されてるから、君も見ればわかると思うよ。切り花として一年中取り扱いがあるし、何より色んな色があるんだ。色によって花言葉も違うから、プレゼント用の花束にしたい時は気をつけなきゃならないけど」
「花言葉か。私、そういうの全然知らないからなぁ。やっぱり、あんまり良くない意味のもあるの?」
そう言えば未来の会社のオフィスで、事務担当の翔子がたまに花を活けてくれることもあった。よく手入れを施したジャスミンの鉢植えも置いてあったし、翔子も花言葉に気を使ってくれていたのだろうか。
「そりゃ、あるよ。例えばユリは、白なら『純粋』とか『純潔』って意味だけど、黒は『呪い』って意味になる。他にも、赤のシクラメンは『嫉妬』で白が『清純』って具合いなんだ」
「へえ、そうなんだ。それだと、気にする人は気にするだろうね」
運転しながら淀みない話を続ける青年医師に相づちを打ちつつ、未来が持ってきていた携帯端末を開いた。揺れの中でも構わずに文字を打ち込む未来の傍らで、杉田はそのまま内容を繋いでいく。
「春の花では、チューリップが『博愛』。パンジーは『思慮深い』で、スイセンは『うぬぼれ屋』。あくまで代表的なものだけど」
そこで穏やかにハンドルを切り、ピックアップトラックに追い越し車線を譲ってから、彼は話を続けた。
「アネモネは、全体的に切ない恋を意味するものが多いんだ。僕は好きな花なんだけどね」
「今調べてみたよ、アネモネ。可愛い花なんだね。これなら、確かに私も見たことあると思う。やっぱりこれも、色によって花言葉が違うの?」
未来は携帯端末でインターネット検索をかけ、愛らしい花束の画像表示を見て軽く小首を傾げていた。可憐な少女に似合いそうな小振りの花束はかすみ草と一緒にまとめられていて、柔らかな印象がある。
「そう。代表的なものは『儚い恋』『恋の苦しみ』とか。色でいけば白は『真心』、赤は『君を愛す』、紫は『貴方を信じて待つ』って意味があるんだ」
「へえ。確かに割と華やかに見えるのに、切ない意味が多いんだね」
杉田に答えながらも未来は外を食い入るように見つめていて、どうも話半分だ。窓の外の対向車線を、工場用ロボットを積載したローダーがかなり早いスピードで通り過ぎたのだ。
「うん。この花は稀にアドニスとも呼ばれることがあるんだ。アネモネには、ギリシャ神話にまつわる伝説があってね。愛の女神のアフロディテの……」
杉田はまだアネモネの花について熱心に語っている。
彼の話には適度に相槌を打ちつつ、未来は事件のことを考えていた。
ホワイトクロウのカウンターで意見を交わして以来気になっているのは、犯人の遺体の遺棄方法についてだった。
事件現場付近では、ロボットのものらしいタイヤ痕があった。全ての事件から発見されたわけではないが、恐らく同じロボットを使って遺体を置いたと思ってもいいだろう。
どの遺体も半ば投げ捨てられたようでいて、実はそうではない。現場捜査担当である特殊捜査チームの捜査官たちも、切断された身体の位置関係や組織の損傷の軽さから、遺体が乱雑に捨てられたものだとどうしても言えなかった。
雑に扱ったような姿勢をわざと取らせた死体は、どれもそっと置かれていたのである。力づくで引きちぎった死体をわざわざ丁寧に置くなど、明らかに矛盾を孕んだ行動だ。
加えて、そんなロボットを使って死体を置くなど、明らかに目立つ行動だ。遺棄現場はいずれも人気がない場所だとはいえ、目撃情報の一つくらいはあってもおかしくない。
犯人は、一体どうやって人目を避けたのだろうか。
「僕の話、つまらない?」
「えっ?」
杉田の寂しそうな一言に、未来は現実に引き戻された。気がついてみると、シボレーはもうリッチモンド郊外のファーマーズ・マーケット「マーガレット」の駐車場に入るところだった。
「そ、そんなことないよ。私だって花、好きだもん」
「いいよ。僕も、自分の趣味のことばっかり一方的に話しちゃって悪かったよ」
明らかな作り笑いで慌てる未来は、取り繕っていることを隠し通せる器用さなど備えていない。言葉に溜息が混ざっている杉田の沈んだ瞳を見て、未来はますます何を言えばいいかわからなくなった。
「だから、違うんだって。私、先生の話を聞いてるのは好きだし……」
「無理するなってば。僕は買い物してくるから、未来はそこの店でアイスクリームでも食べて待ってるといいよ」
車をがら空きの駐車場に止めながら、杉田は笑顔を作っている。しかし、声にはいじけた感情が滲み出ているかのようだった。車から降りた未来が戸惑っているうちに、後ろを振り返らず店の入口へ向かって歩き出していく。
「……参ったなぁ、完全に怒らせちゃったか」
彼の背中を追いかけるのもわざとらしい気がした未来は、取り残された車の横に佇んで溜息をついた。
杉田は怒りの感情を爆発させたり、相手にぶつけたりするのではなく、内側に溜め込んで思い詰めてしまうタイプだ。今のように一旦沈んでしまうと、なかなか浮上してきてくれない。
未来が話を聞いてくれなかったのは、自分が好きなことばかり一方的に押しつけてしまったせいだと、責任の所在を自らの内に求めているのだ。
確かに杉田には多少植物オタクの気があって、話し出したら止まらなくなることがよくある。しかしそれも、アニメのDVDを生沢にさえ勧めるリューに比べればかわいいものだ。
そして未来も杉田と同じく、熱中すると寝食を忘れるほどのめり込むきらいがある。その対象がFBIの仕事であり、ティアーズの事件なのだ。
が、それが精神衛生上好ましくないこともわかっている。残虐な事件にのめり込んで捜査するほど、その事件が孕む毒に心がじわじわと侵されていくことになるのだ。
杉田が未来を心配しているのは、彼女が凶悪事件の影響を受けて心にダメージを負う可能性が高いからだった。彼の暖かい心遣いを蔑ろにしたくはないし、するつもりもない。
くよくよ考えていても仕方がなかった。
未来は勢いをつけてシボレーから離れ、走り出した。




