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プロローグ

 今日も私は生きていられた。

 しかし私には、今日が一体何日で何曜日なのか、今何時なのかもよくわからない。この記録も時間があるときに書いているから、もう何日分くらい書きっぱなしでいるかもわからない。

 奴らに捕まり、ここに閉じ込められてから、そう何日も経っているわけではないのに。

 ここにはカレンダーがなく、時計もなく、日の光を感じることができる窓もない。

 あるのはただ、冷たいコンクリートに囲まれた空間とダンボールの匂い、そして埃っぽい空気の味だ。私に許されているのは、息をすることと食事をすること。それから眠ることとトイレに行くこと。

 それも奴らが許してくれたときだけだ。

 私の命の主導権は、奴らが握っている。

 今までに何人もの男女を殺してきたと、まるで昔の野蛮な英雄が語るみたいに自慢げにうそぶく奴らが。

 私には自分がいつまで生きていられるのか、皆目見当がつかない。

 生き延びるためにはどうすればいいのか?

 どうすれば、他の犠牲者のようにむごたらしく殺されなくて済むのだろうか?

 助けを待つにしても、それまでに殺されたらおしまいだ。

 何とかして彼らに取り入って、私が役に立つ人間だということをわからせなければならないだろう。料理ができるとか、そういう特技を見せたり、話したりすることで。

 こんなときに他に誰かがいて、これからのことを相談できたらどんなにいいだろう。

 自分以外の味方が一人でもいるという有難さを、今ほど痛感したことはない。

 一人でいる時間が長ければ長いほど気が狂いそうになって、誰でもいいから話をしたいという気持ちになってくる。それが奴らでも……その気になれば躊躇なく私をなぶり殺しにするだろう、奴らでもいいと思ってしまう。人間の心というのが本当に脆いのだと思わざるをえない。

 ここに閉じ込められてからは、奴ら以外の誰とも話ができていない。

 私が持っていた携帯電話は当然のことながら取り上げられているから、他人の話し声を耳にすることもなかったと思う。

 いや、壁に耳を当てれば外の雑音くらいは聞こえるのだろうか。

 と思ったが、それも無理だろう。ここは地下室なのだから。だから拷問された被害者がどんなに叫んでもそれが誰かに届くことはなかったし、奴らも安心して殺すことができたのだ。

 正直、こんなことは文字にして書き記すだけでも、悲鳴を上げて泣きたくなるぐらいだ。 

 なのにこんなものを書いているのは、私が自分を保つためだ。

 奴らが私に何をし、私が何を思ったのか。

 それを忘れないために。

 そして私がここから生きて戻ることができる時は、即ち仲間が助けに来てくれた時だ。

 私をこんな目に遭わせた奴らを裁きにかけるとき、きっとこの記録が役に立つ。

 そのためにも、私は自分のことを何一つ漏らさずに、ここに書かなければならない。

 私の身体を通り過ぎるおぞましい嵐のような出来事を、本当は思い出すだけでおかしくなりそうだ。身体も心もずきずきと激しい痛みを訴えて、私から正気を奪おうとする。

 しかし、それさえも感じられなくなってしまったとき、恐らく私は奴らと同じけだものにまで堕ちる。

 それだけは絶対、あってはならないことだ。

 私は、これ以上の犠牲者を出すことをくい止めなければならない。

 この部屋の隅に放り出されていた木箱の中に紙とペンを見つけて、ほんの少しだけ救われた気持ちになった。相談する相手が誰もいなくても、過去の自分と向き合うことができるようになるのだから。

 正気を失いかけてもこの自分が書いた記録を読み返せば、こころはまだ戻ると信じたい。

 それに私には、帰る場所があるのだから。

 ……そう言えば、奴らは確かに言っていた。

「今にお前の友達も、ここにご招待してやるよ」と。

 奴らが知っている私の友達というのは、彼女しかいない。

 奴らは一度狙いをつけた獲物は、呆れるほどに頭を使って、何があっても必ず手に入れる。

 そうなれば、願ってもいないチャンス……いや、だめだ。彼女をそんな危険に晒すような真似は断固としてできない。いくら彼女でも、うまく立ち回れる保障などどこにもないのだから。

 それに奴らのことだ。女性である彼女を捕まえたら、もっと酷い拷問にかけた挙げ句、私よりも先に殺すかも知れない。

 私が何かできることはないのか?

 私が自ら命を絶てば……それもやっぱりだめだ。私を失えば彼女が一体どうなってしまうのか、自分が一番よく知っている。

 考えがまとまらない。

 落ち着け、自分。

 そう言えば、昔こんな風にパニックに陥りかけたときは、とにかく花を眺めたり、触ることにしていたっけ。子どもの頃から大好きで、いつも側にあった花たちに、まるで心ですがりつくみたいに。

 花。

 そうだ、必死に書いていて思いついた。

 花には、形を取らないメッセージを託すことができる。

 彼女が何も知らずにここへ来たときに私の存在を知らせ、助けを待っていることを伝えられる花がある。つい最近、彼女とそんな話をした覚えがある。

 退屈しのぎに、私の趣味である園芸で奴らの部屋をちょっと飾らせてくれと言えば、多分疑われたりしない筈だ。

 でも、これは賭けだ。

 もし彼女が、私が教えたことを覚えていなかったり、気づかなかったりしたらそれまでだ。

 ……結局、私はやっぱり彼女を頼るしかないのか。

 心底情けないが、何とかするためにはそうするしかない。

 私は彼女を信じて待ち、それを伝える巧い手段をひねり出さねばならないのだ。

 誰よりも大事な、そして私が愛する君へ、運命を託す。

 どうか、どうか、気づいてくれ。


                (ある連続殺人事件の証拠品、ドイツ語のメモより抜粋)



             ※     ※     ※



 11月頭。

 同じ時期でも、東京なら冬用の分厚いコートはまだ少し早いくらいだろう。

 しかしここアメリカ合衆国北ヴァージニアでは、自宅のキッチンにいても、羽目板張りの壁を通り越して、乾いた寒気が容赦なく肌を刺してくる。長袖のパジャマの上にウールのカーディガンを羽織らなければ、震えるほどだ。

 もっとも、位置としては岩手県と同じくらいなのだから、それなりに気温が低いのは仕方がない。日本と大きく違うのは、空気に湿り気がなく昼夜の温度差がかなりあることだった。

 時刻はまだ午前5時台で、夜も明けきっていない。このフレデリックスバーグは、窃盗とレイプ犯罪が合衆国の平均発生件数を上回るやや物騒な地区だ。が、薄暗く、まだ全てがひっそりと寝静まっている早朝は、そんな印象はみじんもない。

 静寂を湛えた夜明けの空気で満たされたダイニングキッチンは、素朴な蛍光灯の照明に暖かく照らされていた。

「ふあ……」

 間が抜けた声を広い部屋に遠慮なく漏れさせて、未来は盛大なあくびをした。冷たい水で顔を洗い、ミントの歯磨きで歯を磨いても、瞼はまだ睡魔の侵略に侵され続けている。重い目をこすって、彼女はごそごそと朝食の支度を始めた。

 ミルクパンに冷蔵庫から出した低脂肪のミルクを注ぎ、ガスレンジにかける。晩のうちにボウルに切っておいたセロリやトマトも出して、白い陶器の平皿に盛りつけてから、くし形に切ったオレンジを添える。次に冷凍庫から10ピース入りのアメリカン・ワッフルの袋を出し、何枚かをつまみ上げてソーセージと一緒にガスオーブンへ放り込む。

 本当はいちいちこんな準備をしなくても、電子レンジで温めればいいだけの冷凍ブレックファスト・パックも安く売っている。どちらかと言えばそのほうが、今の安月給に見合った食事だろう。

 しかし脂肪だらけで甘いだけのブルーベリーマフィン、水分ばかりで味が抜けたミックスベジタブル、チーズを入れすぎて強い香りがするスクランブルエッグの取り合わせは、一度食べただけでもう充分だった。アメリカで低価格の食品は原料がクローンのため、心なしか味があまり良くない気もする。

 もっとも未来は、日本にいた頃は主にコンビニエンスストアで朝食を買っていたのだ。あまりアメリカの朝食に文句をつけられる立場でもないだろう。

 が、ぱりっとした海苔を巻いたおにぎり、野菜を主とした具のサンドイッチ、甘さが控え目の菓子パン、コロッケや卵をはさんだ調理パンなど、その種類は数えきれないぐらいに豊富だった。それにインスタントの味噌汁や、これも無数の種類があるお茶を合わせれば、それこそバリエーションは無限大だ。

 それに比べて、ここには歩いて行ける範囲に食の宝庫たるコンビニエンスストアもなければ、様々なお茶を売っている自動販売機もない。一番近いところにあるのは、数マイル離れたショッピンングセンターに建つ巨大倉庫よろしく、巨大なアメリカ人の腹を満たす冷凍食品を大量に売っているスーパーだけだ。

 ああ!日本の食事の、何と豊かだったことか!

 おにぎりの味を記憶の奥で確かめつつ、玄関に新聞を取りに出た未来の大袈裟な溜息が、フレデリックスバーグの寒気に冷やされて白くなる。

 ワシントン・ポストを取り、ベロアのスリッパで音を立てつつ食器や調味料をダイニングテーブルに並べている間に、ワッフルとソーセージがこんがりといい具合に焼けて、ミルクも温まっていた。

 そのホットミルクでカフェオレを作っている未来に、ドア2枚と廊下で隔てられたベッドルームから衣擦れの音が上がったのを、強化された鼓膜が教えてくれた。今起き出したらしい同居人が着替えて身支度を整え、ダイニングへ来るまでにまだ何分かかかるだろう。

 未来が新聞と一緒に持ってきていた空間投射テレビの端末をダイニングテーブルの上に置き、マルチリモコンで電源を入れる。画面の大きさを調節していると、地方局のキャスターが今日は冷え込むがいい天気であることを告げていた。

 天気予報のキャスターは、誰もがえてして早口だ。渡米してすぐは主に画面から天気や気温を調べていたが、ここ数ヶ月でこういった雪崩のような英語にもすっかり馴染んだ。あとは華氏表記の温度が瞬時に肌でどれぐらいかを感じられるようになれば、一人前と言えるだろう。

「おはよう、未来」

 未来が白木のダイニングテーブルについたところで、思ったより早く杉田が姿を現した。

 のりの効いた白いワイシャツにダークカラーのズボンと細いネクタイを合わせ、綺麗に髭も剃った姿は、昨晩深夜の帰宅だったことをあまり感じさせない。軽く整えられた前髪のすぐ下にある細いフレームの眼鏡も、きちんと汚れが拭き取られているようだった。

「おはよ、先生。朝ごはん、できてるよ」

 未来が挨拶を返してテーブルにつくよう視線で促した。しかし、彼はジャケットの袖を通してから、立ったままで真ん中の皿に盛ってあったワッフルを一枚つまんだ。

「ごめん。さっき電話があって、今日は朝一番で届く証拠品がかなりたくさんあるらしいんだ。分析が立て込んでるから、研究所まですぐに来いって」

「また?昨日も遅かったのに。せめて、カフェオレくらい飲んでいきなよ。暖まるから」

「じゃあ、タンブラーに移すから。走りながら飲むことにするよ」

 言いながら、杉田がシンクの脇に洗って置いてあった愛用の保温式タンブラーを取り上げる。

 ここ2週間くらいは杉田も未来も仕事が急に忙しくなり、深夜早朝の帰宅や出勤、徹夜も珍しくなくなりつつあった。二人ともまだ新人であることを考えれば、余計な仕事を抱え込むのも仕方がないと言えば仕方がない。

 しかし、たまに朝に顔を合わせるときはせめて、一緒の食卓で同じ食事を食べたかった。

「折角毎朝準備してくれてるのに、最近はゆっくり食べられなくてごめんね」

「ううん、いいよ。新米で忙しいのはお互い様なんだし、私も捜査で帰らないことがあるんだから」

 湯気が立つカフェオレを、お揃いのマグから銀色のサーモタンブラーに移す姿を寂しげに眺めていた未来に気づいたのか、杉田が申し訳なさそうに肩をすくめた。先に謝られてしまった未来はむやみに不機嫌な顔を見せるわけにもいかず、小首を傾げて笑って見せる。

「それにそのカフェオレ、猫舌の先生にはちょっと熱過ぎるかもね。運転しながら冷ませば、丁度いいよ」

 その仕草が却って本心を隠そうとしたことを杉田に伝えたのか、彼は眼鏡の奥の黒い瞳を優しげに細めた。

「今度の非番のときに、リッチモンドまで買い物に行こうか。そろそろ冬の服も買い足さないといけないし、好きなコートを一枚買ってあげるよ」

「ほんと?じゃあ私は美味しい日本料理のレストランでも調べて、予約しとくね」

 かりかりのワッフルにメープルシロップを少しだけかけ、かじりついている杉田が提案すると、未来の顔が柔らかくほころんだ。

「でも、安月給なんだから無理はしないでね」

「未来が頑張って食事を作ってくれてるし、それぐらいの余裕はあるから。楽しみにしてるといいよ」

「……うん。ありがと」

 パジャマ姿でセミロングの髪を一つに束ねた未来は、照れ隠しなのか視線を外してはにかんだ。

「なるべく早く帰れるように頑張るよ。今日は外部での実習もないから。クワンティコから寄り道しなければ、1時間くらいの距離だしな」

 使い込んだブリーフケースを一度フローリングの床に置き、靴を白いキャンバス地の室内履きからローファーに履き替えて、杉田はもう一度未来の方を向いた。

「うん……」

 ところが、立ち上がっても15センチほど下にある彼女の視線には落ち着きがない。短い間に杉田の顔と床、自分の手元と何度もあちこちへ飛びまくっている。かと思うと大きな瞳がまっすぐに彼の顔に向き、そのまま動きを止めた。

「どうかした?」

「あのね……」

 明らかに何か言いたそうにしてもじもじと肩先を揺らす未来を、杉田は不思議そうに眺めた。彼から見つめ返されて、未来が一瞬きゅっと唇を結び、すぐに緩めて息を吐く。

「行く前に何かすること、あるんじゃない?」

 拗ねたような口を利いてから、未来は杉田の顔をもう一度見上げた。

「……ああ。はは、わかったよ」

 何とも可愛らしい同居人のねだり方に、杉田が暖かく笑ってから彼女の方へ身をかがめた。

 未来の細い肩に手を回して、軽く目を閉じ唇を重ね合わせる。

「じゃ、行ってきます」

「うん。行ってらっしゃい」

 肩下まである茶色っぽい、張りがある彼女の髪を撫でてから、杉田が玄関へと向かった。ドアを開ける前に互いに手を振り合い、もう一度挨拶を交わす。

 未来が少しだけ耳の感度を上げると、ポーチを横切った杉田の足音が庭の芝生を踏みしめて隣のガレージに入り、彼の車である中古のシボレーに乗り込んだのがわかった。が、そこでふと聴力を通常に戻してみる。こんなふうにいつまでも未練がましく杉田の跡を追いかけていては、寂しい女になり下がってしまう気がしたのだ。

「はぁ……」

 未来が大きく吐き出した息が、がらんとしたリビングに散った。

 彼が出ていってしまうと、この白い木造のこぢんまりとした平屋がやけに広く感じられる。

 杉田の職場はクワンティコにあるFBI犯罪科学研究所で、FBIフレデリックスバーグ駐在事務所に勤務する未来よりも15マイル(約24キロ)は遠い。

 未来は車で15分くらい走れば職場だ。一方、海兵隊の敷地内にFBIアカデミーと併設されている研究所は、その3倍以上は余裕で時間がかかる。しかもFBIの関連施設では始業時刻が朝7時と、かなり早い。自分も早く朝食を済ませて身支度を整え、中古のフォードに飛び乗らなければ遅刻だ。

 今日も朝一番に出勤してオフィスのごみを捨て、デスクを拭き、様々な雑用をこなさねばならないことを考えるとげんなりしてくる。

 未来は右手で髪を梳きながら恨めしそうに、まだ暖かいワッフルが乗った皿を見つめた。

 余ってしまった一人分のサラダとソーセージ、フルーツはランチボックスに詰めてデスクに持って行くことに決めた。どうせまた、昼休みは電話番をしなければならないのだ。

 警察やFBIは、小さな田舎街では未だに縦の人間関係が厳しい男社会だ。

 駐在事務所にいる6人のエージェントで一番若く、ぴよぴよ鳴く雛鳥と同じレベルの新人で、しかもただ一人の女性で元、日本人である--そんな未来の立場は従来の新米エージェントと同じく、モップについたごみと同じであった。

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