つぶらなスダチ
4時間くらいで書いて阿波しらに出して落ちた。
友だちが転勤で、徳島に引っ越してしまった。
私にとっては何でも話せる友だちだった。HCCAP遵守のために殺虫剤を使えないバイト先にうっかりコオロギを放して増殖させてしまったことも、彼氏Aと彼氏Bの間に「のりしろ」の期間を作ってしまっていたことも、友だちは笑って聞いてくれた。いなくなったらこれから私はどうしたらいいんだろうと思って、別れ際に思わず泣いてしまったら、友だちは「大丈夫だよ」と私の手を握った。
「また会えるじゃない。夏休みとか遊びに来てよ。オンラインでまた通話しよう」
「うん……うん。せやね。また話せるやんな」
飛行機を見送ってひとりで家に帰ると、友だちはゴールデンウィークにオンライン飲み会の予定を立ててくれていた。なんていい時代になったんだろう、とその時は思った。
年度はじめの一ヶ月は忙しく、すぐにオンライン飲み会の日が来てしまった。
「どう? 新しい職場、大変?」
『平和だよー。でも、ちゃんと毎日いろんなところに取材に行ってるからね!』
友だちは全国に支局のある新聞局で働いている。この季節からは甲子園が大変らしい。むかし通りに書いた記事の切り抜きを送ってほしいと言ったら、友だちはちょっとはにかみながら、いいよ、と言ってくれた。
「滋賀でも買える徳島の名物、なんかある?」
『つぶらなスダチかなあ』
「なにそれ」
『郵便局で買えるよ』
「へえ。今度いってみようかな」
今度、は意外に早く訪れた。職場からレターパックを出す用事があったから、集荷を待たずに郵便局まで歩いていくことにしたのだ。
五月だというのに日差しは真夏のように厳しく、道路が白く輝いて見えた。郵便局の中なら涼しいかと思って中に駆け込んだが、油断すると熱中症になりそうな生ぬるさを感じた。いまどきエアコンの設定温度はどこでも厳しい。
「つぶらなスダチ、ありますか?」
「ありますよ。よければ激冷えのやつ、お出ししましょうか?」
窓口のおじさんはなぜか満面の笑顔でそんなことを言ってきた。激冷えって何? 内心たじろぎながらも頷くと、おじさんは私のうしろにも長蛇の列があるにも関わらずバックヤードに下がっていった。
どうしてそんなところまで、と思った。
おじさんはちょっと太り気味で、マスクの上からつぶらな目で私を見下ろしていた。こんな日にはいかにも冷たいものを喜んで飲みそうだ。職員用の冷蔵庫で自分用のつぶらなスダチを冷やしているのかもしれない。
どういう気持ちで受け取ったらいいのかわからないな、と思っていたらおじさんがようやく戻ってきて、缶を手渡してくれた。ありがとうございます、と言いながら缶に目を落とすと、そこには「つぶらなカボス」と書いてあった。
「あの、スダチをお願いしたような気がするんですけど」
「スダチ?」おじさんは困ったようにマスクの上から頬を掻いた。「スダチはあらへんです。モモとかミカンしかない」
「え? これって徳島の名物とちゃうんですか」
「いや、それ、大分のもんで……」
信じられない気持ちでもう一度缶を見たら、下のほうにしっかりとJA大分と書いてあった。
「あの、徳島の、スダチのジュースって……」
「いまうちにはあらへんかなあ」
つぎのオンライン飲み会でそんなことがあったことを伝えると、友だちはパソコンの画面の中で、おかしいなあ、と首を捻っていた。『うちの近所にはあるんだけどなあ』
「ほかに名物ってないの?」
『すだちブリかなあ』
「なにそれ」と私は訊ねた。
『え、スシローで食べたことない?』
「へー。食べてみたいな」
次の週末、私は国道沿いのスシローの前で呆然と立ち尽くしていた。壁に沿って貼られた巻き取り式の広告には「かぼすブリ」の文字が躍っていた。
「あの、どうかされましたか」
後ろから声を掛けられ振り向くと、郵便局のおじさんが心配そうな目でこちらを見ていた。
そのままなぜか、二人で寿司を食べることになった。梅雨だというのにおじさんは傘を差していなかったから、肩が少し濡れていた。
「すだちブリが食べられるのはくら寿司だよ」
おじさんがそう教えてくれて、私は思わず机に突っ伏しそうになった。入る前に教えてくれたらくら寿司まで歩いて行ったのに。
私はとりあえずかぼすブリを食べた。おいしかった。ハマチとブリの区別もつかないのに普通のブリとかぼすブリの区別がつくわけがなかった。すだちブリも、同じようにおいしいのだろう。それ以降はあんまり食が進まず、あんまり魚の味がしないものを求めてタコやエビ、茶碗蒸しなどをちびちびと食べた。
「おかしい話やなあ」おじさんはそんなことを言った。「かつがれとるんとちゃう」
「それがねえ、そんな妙なウソつくような子とちゃうんですよ」
「ふうん」
おじさんは、おじさんと言っても、よく見たら私の十つ上くらいだった。食べるスピードが凄まじく、皿が防塁のように積み上がっていく。くら寿司に行ったほうがいい、と思った。
それからもおじさんは、郵便局へ用事に行く度に何かをくれた。だいたいジュースか、個包装のお菓子。よく見ると、全部郵便局で売っているものだった。お義理で注文して、食べているということかもしれない。仕事でいやなことがあっても、おじさんの顔を見るとなんだかホッとした。ポケットから出したと思しきお菓子にはおじさんの体温が残っている気がした。それに、ちょっと湿っていた。
しばらく甲子園や県議会の取材が忙しいとかで、その月のオンライン飲み会は流れてしまった。その代わりに、記事の切り抜きや『つぶらなスダチ』を送る、と約束してくれた。
梅雨明けのころに郵便局に行ったら、おじさんが浮かない顔をしていた。窓口に立っても、お菓子もジュースも出てこなくて、その代わりに「この前、忘れ物しませんでしたか?」と言われた。
心当たりが全くなかった。おじさんは下から何かを取り出して、カウンターの外に出てきた。ちょっと離れたところで見せてくれたのは、ゆうパックの小包だった。
「これ、私の?」
「送り元、見てみ」
友だちの名前と電話番号は、きちんと読み取れた。問題は住所の部分だった。文字がぐにゃぐにゃしている。まるで、かき混ぜたあとのラテアートみたいだった。徳島県と書いてあるようには見えなかった。
「処分しとこか?」
どうやらおじさんは、私のことを心配しているようだったけれど、大丈夫だと言ってそれを引き取った。
帰ってから、机の上に小包を置いて眺めた。すだちの箱だった。ちょっとひしゃげていたけれど、これは最初からそうなっていたのだろう。自然に受け入れようとしたけれど、友人は一人ですだちを二キロも食べたのだろうか。
意を決してガムテープを剥がして、中身を見ると、一面の緑が目に飛び込んできた。
すだちだった。緩衝材代わりだと言わんばかりに入れられている。
籠を持ってきてすだちを移していくと、下から小さな缶ジュースが何本か出てきた。『ザ・すだち』と書いてあった。安堵すると同時に、『つぶらな』って一体どこから出てきたんだ、と思った。新聞記者なのに固有名詞を気軽に間違わないでほしいと思った。
缶の下に、新聞記事の入ったクリアファイルがあった。私は思わず笑顔になって、中から記事を取り出した。
甲子園の記事がいくつか続いた。地元の強豪校、小規模校、今年で廃校になる高校……。それから、地元の文化や風習に関する取材の記事だった。
すべてを見終えたと思ったところで、紙と紙の間から小さな記事が落ちる。拾ってみると見覚えのない記事だった。どうやら、見落としてしまっていたものらしい。
『すだち合戦 今年も香さやかに
ポールの先に差した大きなすだちブリの塊を、人々が競うように落とそうとする。ブリが外れるとともにホラ貝の音が鳴り響き、すだちが空を飛び交い始める――
徳島県(奇妙に歪んだ文字)市の大通りで人々が半日間すだちを投げ合う恒例の「すだち合戦」が、今年も開催されました。地元住民のみならず、徳島県内外から多くの人々が集まり、賑やかなイベントとなりました。周りにはイベントスペースや出店も並び、一日中楽しむことができます。
「名物になるイベントを開きたい」という当時の市長の思いから始まった、(不自然に滲んだ文字)市で始まったイベントです。……』
写真がすごかった。緑色の皮がいちめん地面を覆っている。中央には男性が一人いる。投げる瞬間のポーズを切り取られて、左手は指と指の間にすだちを挟んでいる。全身が果汁で濡れていて、何か標的を見据えているのか苛烈な表情をしていた。男性の足元には誰かが横たわっていて、その頭には砕けたヘルメットが載っている。ピントがあまり合っていないが、遠くからはすだちを連射するための銃を持っている人々が、群れを成して押し寄せてきているようだ。
構図の中央にいる男性にもう一度目を移すと、それは郵便局のおじさんだった。
『滋賀県から毎年来ているという男性(三十八)は、数年連続で「すだち撃墜王」として表彰をされています。
「毎年このイベントのために(黒塗り)市に来ています。『すだち合戦』は私の生きがいです」……』
記事の中に、鉛筆で丸が付けられている文字があった。
「徳島県」「ち」「か」「く」「づ」「な」「に」…… 徳島県に近付くな。
思わず記事を手から離すと、紙の表面に書かれた文字や写真が渦を巻いて、何も見えなくなってしまった。
玄関のチャイムが鳴った。恐る恐るモニタを覗き込むと、郵便局のおじさんが居た。
『こんばんは。開けてみましたか?』
私は何も返さなかった。警察を呼ばないと、と思った。でも、そういえば携帯電話はどこにあるんだろう。郵便局を出てから見ていない。
『そういえばこの前飲みたいって言ってたもの、入荷したんです。お渡ししようと思って』
モニターの中で見覚えのある缶が大写しになる。そこには『つぶらなスダチ』という文字と、スダチの絵が書いてある。それ以外は何もわからないけれど、確かに。