飼い鳥がしんだ
副題は『落としものさがし』です。
「おい! 桐島!」
「……なんだよ田辺」
同じクラスの田辺裕平は、夏の日差しかと見紛うほどの笑顔をオレに向ける。こういう何か面白いものを考えついた時は、オレには回避不可能な案件であり、無反応は意味を持たないと学んでいる。中学校の夏服がその白さで太陽光を弾き、いっそう田辺を眩しく見せる。
「夏休みの部活動、噂の調査にしないか」
それは疑問文の形を取ってはいるが、決定事項だと表情が物語っている。オレは肯定しかできないので、内容を聞く。ちなみに田辺は地域のサッカーチームに小学生の頃から入っており、中学校の部活は真っ黒に日焼けした奴が似合わなそうな文芸部に所属している。オレはその部活のメンバーというわけだ。
「この中学校の七不思議の調査をしよう。って言っても、3つしかないけど」
オレたちは中学校最後の夏に、半数もネタのない七不思議について調査するらしい。ちなみに田辺はサッカーチームの活動が忙しいと部長の推薦を辞退した、副部長だ。オレはそれで繰り上がった頼りない部長である。役職だけ立派なオレだが、補えればいいのだ。
この中学校の七不思議は3つしかない。三不思議なんて締まりもないし、あと4つネタが足りないけど、七不思議と呼ばれている。1つ目は屋上に通じる階段、2つ目は理科室、3つ目は校舎全体が舞台の摩訶不思議な話だ。とりあえず文芸部顧問の柳瀬先生――担当教科は理科で楽しい実験の授業が好評の先生――に話を通すのが、部長であるオレの仕事だろう。
◇
7月25日――夏休み4日目のこの日、オレを含めた文芸部のメンバーが中学校の校門に集まっていた。顧問の柳瀬先生に提出した活動計画で言うところの初日は、大人たちに聞き込みをすることになっている。朝8時で真夏の暑さは形を潜めているが、すでにクーラーの効いた部屋が恋しい。ほぼ約束の時間に集まった4人の部員は、顧問のアウディ社の白い車に乗せてもらい、徒歩では難しい距離にある邸宅を目指す。その邸宅の主は、地域の風習や逸話を個人的に収集、研究している坂木さんという方だ。そしてオレたちが通う中学校を50年前に卒業したOBでもある。我が中学校の七不思議など、友達付き合いや先輩との雑談の中で内容は聞かされるし、なんなら冗談半分に覗いたりする怖いもの知らずもいる。そこは部活動の一環ということで、生徒以外にも聞き込みをして体裁を整えようということだ。
そんな文芸部の活動に夏休みを捧げようとしてくれる部員は少ない。部長のオレが把握しているだけで、いわゆる幽霊部員というものは5名いる。個人活動――詩や小説や校内新聞を書いている――が主で、月に一度指定された本の感想を部員全員で発表するくらいだ。部員同士の結束力や協力姿勢など皆無に等しい。今回、車の座席が埋まったのは正直驚いた。その座席を埋めているのはオレ、田辺、同じく3年の間宮華那、2年の佐藤慎一朗で、助手席に座るのはもちろん女子の間宮だ。家の用事で今日来られない2年の鳥飼礼子は、卒業生でもある両親に話を聞いてくれるらしいし、1年の橋本有弥乃も次回からは参加できると連絡をもらった。他の6人――幽霊部員以外の普段は部活動に参加している後輩――は、遠くの祖父母に会いに行くやら塾の夏期講習が忙しいやらで、罪悪感などなさそうに断った。塾なんぞ受験生のオレには耳の痛い話だが、本気を入れるのは冬からだと決めている。だからオレに夏を満喫させてくれ。
少なくともオレにはいい匂いだと思わせる芳香剤が充満した冷えた車内で、オレたちは七不思議の内容のすり合わせをしていた。坂木さんの邸宅には道路が混んでいなくとも20分はかかるらしいので、市街地から離れた田園風景を車窓に映しながら話し合いを進める。まとめるとこうだ。
1つ目は何十年か前に閉鎖された屋上に通じる階段だ。その施錠された扉の前の空間や、そこから下った所にある踊り場には余った机椅子が並べられている。その踊り場の手前の階段には立ち入り禁止と書かれたプリントと、ロープがはられている。不思議な話というのは、ある条件が満たされるとそのロープや机が消え屋上に行けるというものだ。しかしその条件が生徒によってバラバラなのだ。何時に1人で訪れる、秘密の合言葉がある、謎めいた儀式をするなどだ。
2つ目の理科室は、七不思議を聞いたほとんどの生徒が検証したものだ。理科室に掲げられた黒板の向かいの壁には、実験に使う道具や機器が収められた棚が存在感を放っている。その棚の一番下の鍵付きの段には、14台の顕微鏡がしまわれている。顕微鏡が2台ずつ入る部屋が8個ある。そう、そのうちの1つには顕微鏡は入れられていない。先生は立て付けが悪いからと説明しているが、生徒の間では霊感の有無で開けられるかが決まると言われている。実際に難なく開ける奴も、休み時間ずっと奮闘して1ミリも動かせない奴もいた。
3つ目は「落とし物探し」や「探しかくれんぼ」と呼ばれている。隠れる側が宝物を隠し自分もかくれんぼのように隠れ、鬼役が人も宝物も探すというものだ。しかし細かいルール――鬼は何人だの、宝物の選び方だの、宝物に関するヒントの出し方だの――は聞いた相手によって異なる。何が可笑しいかって、周辺の中学校にもましてや小学校にも一切この遊び方がない。この中学校に入学して初めて先輩に聞かされるのだ。決して他校では行われないし、かと言ってこの遊びが廃れることもない。この中学校でのみ脈々と受け継がれる“かくれんぼ”が、七不思議最大の謎と言っていい。
車内の5人――運転手の柳瀬先生も会話に時々入った――の話は、詳細な部分を除けば概ね同じ内容だった。それが確認できたところで、車窓に大きな外壁が滑り込む。どうやら着いたようだ。和風の門扉の隣に車がつけられるが、その道路は2台分すれ違えるほど広いし車はほとんど通らない。数時間ほど駐車しても怒られないだろう。
全員が車から降り、代表して柳瀬先生が門の脇にあるドアチャイムを鳴らす。残念ながら、家中に響いているかこちら側には分からないが、しばらくすると初老の女性が駆けてきた。今日会う約束をしていた坂木さんの妻だと名乗ったその女性に連れられ、これまた純日本家屋の庭の踏石や廊下を延々と歩く。一度来ただけでは迷子になりそうだ。
南にあった門からかなり移動してたどり着いた部屋は10畳ほどある和室で、その中央には重厚な唐木座卓が鎮座している。北に配置されたこの部屋は日陰が多く昼間でも電灯が必要なようだが、涼しい風が入り過ごしやすい。大きな座卓と座布団の他に、この部屋の違い棚には壺のような置物、床の間には掛け軸と生け花が飾ってある。誰もいない薄暗い畳敷きの部屋に通されたオレたちは、座卓の周りに正座してお茶と坂木さんを待つことになった。なんでも思ったより早い来客だったので、資料の整理が終わっていないそう。しかしあまり待たせずに来るので、くつろいでいてくださいと言われた。
10分程度だろうか、襖を開けて入ってきたのはお盆を持った坂木さんの奥さんだった。コースターとガラスのコップが並べられる。中身は氷で冷やされ続ける麦茶で、中央に置かれた皿にはあられ菓子が盛られている。奥さんがせっせと手を動かしていると、再び襖が開閉される。白い襖に浮かび上がる濃紺の着流しに、白髪混じりの頭を整えた気難しそうなこの男性が、この屋敷の主人だろう。その主人が床の間に近いほう――オレたちの向かいで座卓の長辺――に座り手にあった紙束を置いたところで、初めて言葉を交える。
「文芸部顧問の柳瀬と申します。今回はこちらからの申し出を快諾してくださりありがとうございます。では私の隣にいる部長から、紹介させてください」
「文芸部部長の桐島透です。今日はよろしくお願いします」
「3年生で副部長の田辺裕平です。よろしくお願いします」
「2年生の佐藤慎一朗です。本日はよろしくお願いします」
「3年の間宮華那です。よろしくお願いします」
「丁寧にどうも。堅苦しくしないで過ごすといい。坂木董爾だ。歳はうんと離れているが、中学の先輩だと思ってなんでも聞きなさい」
失礼だが、見た目よりも優しい口調で驚いた。眉間に刻まれた皺から不機嫌そうな印象を抱いたが、話し方を聞けばその表情は柔らかく見える。坂木さんの奥さんが退室し、一同は麦茶で喉を潤しながら、まずは中学校の様子や世間話をした。
――――カランッ。
氷の姿勢の崩れる音が合図だったかのように、坂木さんは一端言葉を切り手元のプリントを差し出す。それは新聞の切り抜きや手書きメモのコピーだった。曰く、複数の新聞記事は中学校で起きた事件やそこの中学生が巻き込まれた事故がおよそ60年分、手書きのものは件の七不思議についての証言をまとめたものであると。メモについてはありがたい資料だが、新聞記事は必要なのだろうか。とりあえず読んでみなさい、と坂木さんに言われ5人で紙を回し、オレは大きい見出しが目を引く地方新聞の一面を手に取る。43年前の8月に書かれたそれの内容は、次のようなものだ。
――『中学生7名が半日行方不明に⁉︎その後無事保護』中学校の2学期の始業式が行われた8月27日は、午前中で授業が終わり、ほとんどの生徒は昼食前に下校した。午後に職員会議やPTA総会が予定されていたため、部活動も原則禁止で校舎は静まり返っていたという。そして夕方、職員室に電話が鳴り響く。息子が帰宅していない、友人宅にもいない、連絡が取れないが、学校に残っていないか、と保護者から問われた。同容の電話が他に4本、警察からも似たような確認がされた。捜索願いが出されていた7名の中学生は、翌日の午前3時に校舎内の空き教室で寄り添うように寝ているところを、警察と中学校職員によって保護された。7名とも目立った怪我もなかったが、不可解な点が多いことからこの事件の捜査は続けられている。
――『中学校で神隠し⁉︎警察の捜査は難航』先月27日に中学生7名が行方不明になった後、彼らが通う中学校で翌日無事保護される事件があった。しかしその中学生らは、行方が分からなかったおよそ12時間の記憶が曖昧で、事件の犯人や状況の特定が難航していると警察への取材で明らかになった。また発見された場所は施錠された教室内で、鍵は常に目の届く所にあったそう。そしてその教室を含め中学校の敷地内は、27日夕方に一度職員によって捜索されたが、その時は見つけられなかった。近隣住民に取材したところ、「あの中学校でかくれんぼをすると神隠しに遭うと子どもの頃に聞いた」と回答を得た。実際に過去、中学校で起こった神隠しのような事件は何件か存在する。
オレはホチキス止めされた1枚目の記事を読んだ後、夢中で2枚目に捲っていた。2つ目の記事は事件の2週間後に書かれ、1つ目のものより小さい見出しだったが「神隠し」と評するほど奇怪な出来事だったと窺える。それにかくれんぼとは、今オレたちが調べている中学校の七不思議のことだろうか。
他の資料に手を伸ばすが、最初に読んだ新聞記事より関連があるようなものはなく、しかし大体は中学生が巻き込まれた小さな事件事故の類いだった。やっと回ってきた手書きメモには、短い証言だが何十人分も綺麗に整列して書かれている。これをまとめたであろう坂木さんの几帳面さが、窺い知れるものだ。
「私が話せることは、その資料が全て物語っている。それを持ち帰ってじっくり検分するといい。ただしひとつだけ守ってほしいことがある」
オレたちが読み始めて30分は経った頃に、坂木さんは静かに声をかけた。印字された紙たちから顔を上げてそちらを見ると、眉間の皺をさらに深くし真剣な表情を浮かべている。部員を代表してオレが、はいと返事をする。
「敢えて書かなかったが、私は中学校七不思議のかくれんぼの正しい方法を知っている。いや、試していないから正解ではないかもしれんが。しかしそれは、決してやってはいけない遊びだ。君たちに守ってほしいことは、その正しい方法を見つけたとしても、それを他人に教えたり広めたり、自分たちで試したりしないことだ」
そして一拍置き、今度は苦しそうに言葉を吐き出すように告げたのだ。
だが、オレたちはその約束を破ってしまった。探偵になった気持ちで解答、真実を導き出し、年相応の好奇心で持って危険に飛び込んだ。心にはっきりと刻まれたはずの言葉は、どうしようもない引力に霞み、思い出した時には遅かった。
「――永遠に落としものが見つからずに、抜け出せなくなる」
◇
8月某日、オレたち文芸部の部員は中学校の昇降口に集合していた。夏休み真っ只中の校庭では運動部の声が高らかに響いている。午前10時の校舎内でさえこの暑さ、校庭で走り込みや練習試合らしきものをしている同年代の者たちには感服する。ここにいる6人――オレ、田辺、間宮、佐藤、鳥飼、橋本――はなるべく日陰のほうで作業を続けている。何かというと、かくれんぼの準備だ。坂木さんからもらった資料から、オレたちはこれだと思う方法を見つけ、それを実行に移そうとしている。答えが出た瞬間の感動と言ったらひとしおで、その場に立ち会った6人は満了一致でかくれんぼをやることになった。
「ちょうどいい物がなくて、新聞で作ったけど、大丈夫かな」
そう言う2年生の佐藤の手元には、折り紙のように折られた新聞紙の箱がある。今日のかくれんぼには箱状の物が欲しくて、すぐにでも始めたかったオレたちはありあいの物で済ませた。しかし、折り紙が得意だと言う佐藤の手によって作られた、一面だけ口の開いたその立方体は、封印のお札が貼られた特別な賽銭箱に見えた。
「大丈夫でしょ。紙を入れられればいい、って書いてあったじゃん」
それにこたえるのは同じく2年の鳥飼で、吊り目がちな瞳や自信に満ちた笑顔から小説に出てくる明るいヒロインの印象を抱かせる。その鳥飼の言う紙とは、3寸――これを測るのが大変難しかった――四方に切った和紙で、そこには自分の大切にしているものが墨で書かれている。今回のかくれんぼで一番重要なアイテムで、オレたちは“宝物”と呼ぶ。
新聞紙のちょっと頼りない軽さの箱に、オレたちは自らが認めた紙を入れる。書いたものが暴かれぬように4回折り畳み、さらに筆を持っていた時もお互いが内容を見せないように注意した。少し重みの増した箱を、昇降口の真ん中、靴箱同士の間に置く。その場所はすぐに生徒たちに踏み潰される哀れな位置で、その様は異物然としながら神棚の鏡餅のように当然の如く鎮座していた。オレたちの誰かが、開会式の言葉を発する。
「“昇降口で始まり昇降口で終わる。鬼さん、かくれんぼ始めましょ”」
オレはなんの捻りもなく、昇降口から一番遠い所に隠れた。今頃、鬼役の佐藤と鳥飼は子役が隠れるために用意した200秒を昇降口で数えているだろう。今は校舎内を柄にもなく走ったことと、ゲームが始まった高揚で、胸がドキドキしている。時間が経てば、その胸の高鳴りは近づく足音への恐怖と、見つけられずほっとかれるのではという不安に変わるだろう。でも今はまだ、わくわくした気持ちに包まれている。
一瞬周囲を灯した照明は消え、冷房設備なんぞ付いていない場所でひとり縮こまる。一人で狭い空間にいると、いらんことを考えそうになる。鬼役は数え終わったのか、今頃オレをちゃんと探しているのか、まさか数歩先までに迫っているのか、息を潜めろ、体を丸め動くな。
小さな窓が一枚だけのここは、日差しはあまり入らないが、校舎3階ということもあり熱が篭り始めている。オレは扉と床の隙間から足を見とめられないよう、座面に体育座りをして膝に額を押し付けている。息がしづらい。学校指定ジャージのハーフパンツは膝を隠しきれず、腿に留め置かれている。素肌同士の膝と額は、己の高めの体温をダイレクトに伝え、熱い呼吸は腕と腿で閉じられた世界で循環する。視界は暗転し使い物にならない。代わりに耳を澄ませ、上履きの擦れる音を探す。
それにしても暑い。
どれほど時間が過ぎたろう。100秒1000秒10000秒、オレの心音だけが規則的に刻む世界では1秒を数えるのも儘ならない。左腕の時計を確認したいが、身じろぎした際の衣擦れですら立てたくない。結局、石像のようにそのままでいた。両耳は、外の様子を捉えたいのに、意識すればするほど命の鼓動が音を支配する。
ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ――――――キィー。
「先輩、見つけました!」
ドキンッ――――ドッドッドッドッ――――――、早鐘が止まらない。
なんの音だ。なんの声だ、誰だ、動けない。
気が動転している、オレは何をしていた。
「ん? 先輩、動かなくても、先輩の負けですよ。立ってください」
左肩に熱が触れる。
それで思い出した、オレはかくれんぼをしていたことを。
強ばった体を解き、顔を上げる。男子トイレの照明は暗闇の住民だったオレには眩しく、目を窄める。声の主――佐藤は、なんてことない表情が一転し、驚き心配そうな顔を向ける。
「先輩、顔が真っ赤ですよ! 大丈夫ですか?」
「……ちょっと暑いだけだ」
「たしかに気温も上がってきたし。これでも急いだんですけど、トイレを全部見るのに時間かかって」
蓋を下ろした洋式便座の上から足を下ろし、今度こそ左腕の時計を見る。長針と短針が示すのは11時17分。開始から1時間が経過していた。ルールの1つに、鬼役は見つけた子役と手を繋ぎ昇降口まで連れていかなければならない、というものがあり、広い校舎内を行き来していればこのくらいの時間にもなるだろう。案の定、オレは最後の子役だった。
少々照れ臭く感じながら、右側にいる佐藤と手を繋ぎ昇降口を目指す。若干痺れたオレの脚を気遣いながら、左手を手すりに添え階段をゆっくり下りる。昇降口で部員たちと再会し、少し休憩した後再び校舎内に散り散りになった。
今度は音楽室の隣にある第四準備室に隠れた。ここもエアコンなんてないが、分厚いカーテンに閉め切られて涼しいだろう、と思ったオレが馬鹿だった。結局、多湿的な日本で風もなく空気が対流しない場所は、過ごしにくいのだ。夏はもう夜しか元気な活動ができない、かと言って警備員も帰った学校に忍び込むほどの技能もない。かくれんぼはやりたい。ならこの暑さを我慢するしかない。せめて先程よりも早く見つけてもらって、風のある所に行きたい。鬼役の田辺と橋本に期待する。
チェロ、木琴、ティンパニ、シンバル、電子オルガン、トライアングル、革袋に入った形からは分からない楽器、それらが棚に並べられ或いは壁際に寄せてある。薄暗いそこで、一人演奏会を開こうものなら、鬼役が飛んでくるだろう。今日は吹奏楽部や合唱部はいない日で、体育館に運動部はいるが校舎には先生だけだ。
個室トイレにいた時よりリラックスした気持ちで、見える面積が少ない壁に寄りかかる。内側から鍵をかければ立派な籠城作戦ができるが、それは可哀想だと思い引き戸には触れない。音楽系の部活がちゃんと掃除をしているせいか、埃っぽくなく呼吸がしやすい。床からの冷気が無防備な脹脛を撫で回し、慌てて脚を折った。
その時、駆け足が廊下で聞こえた。しかしここ準備室の前は通り過ぎたかのように音が響き、続いて戸締まりのされた扉を揺らす振動が伝わる。そして人の声と、近づく足音。ああ、今度こそ見つかるのか。おそらく隣の音楽室を先に確認したに違いない。
鍵のかかっていない引き戸から目と鼻の先――扉のガラス窓からはオレが見えない位置――で、オレは鬼役の気配を感じる。白い戸が僅かに振られる。
鬼役は去っていった。
なんで、どうして、鍵がかかったような揺れ方をしたんだ。ここに侵入した後、鍵は閉めなかった。それは確かだ。
ああ、鍵を開けたい。でもかくれんぼのルールで、オレは一歩でも移動することができない。手を伸ばしても絶対に届かない距離、今回は見つけてもらえないのか。
腕時計は11時46分を示し、また60分の1針が左に動いた。オレは一回目と同じ姿勢になり、薄暗い室内とお別れをして、暗闇と心音の世界に閉じこもった。密かな悪寒が上半身を覆い、オレはますます背中を丸めた。
「……――! ――しま! 桐島!」
世界を壊す。
荒々しい破壊に起こされるように、意識が無理矢理持ち上がる。まず全身の右側が圧迫を受けているのに気付く。理由を考えようとすると、また破壊の言葉が降り注ぐ。それと共に体を大きく揺すられる。頭がぐわんぐわんして、思考が乱される。堪らず首を固定しようと伸ばした腕で頭を守ろうとする。すると、田辺の大声がオレの鼓膜を虐める。
「桐島! ゴメンって、不貞寝しないでくれよ」
オレは体育座りをしていたはずが、あろうことか右腕を下に床に寝そべっていた。枕にしていた物も何かの備品だろう、壊れていないことを願う。瞼をゆるゆると開け、田辺を探そうとしたが、目の前にいた。オレに覆い被さっている田辺が、肉食系女子だったらこのままキスされるかという距離である。まだ耳の奥、頭がキンキンする。
「……う、るさい」
「何回呼んでも起きないからだ」
その声音は怒っているようだったが、掠れた囁き声が、生温い吐息が片耳に触れる。大声のせいで痛むオレの頭を思い遣っての話し方だろうが、絵面がヤバいだろうと関係ないことを考えた。
「離れろ」
「体、冷えてるけど大丈夫か?」
離れる気配のない田辺を押し退けるように起き上がり、問題ないと答える。確かにここは冷えているが、オレの体温が低いと感じるのは田辺自身が高体温だからだ。時刻は1時20分、だいぶ探させてしまったようだ。
「校舎内を4周しても見つからなくてさ。ダメ元で一個一個鍵を確認して、やっと開いてる教室に入れたと思ったら、お前は寝てるし」
「鍵はずっと開けてた」
「はあ? 俺が1回目に来た時は、立て付けが悪いとかじゃなくて、普通に開かなかったぞ。お前が腕も足も伸ばせば、鍵に届くだろう?」
確かに隠れると決めた位置につま先を残せば、届かないことはない。しかし何度思い出しても鍵を閉めた記憶はない。それを弁明しても、オレ以外に証人がいないので立証できない。なんとももどかしい。
もう口答えは諦めて、みんなのいる所に戻りたい。手を繋ぐために右手を差し出すが、田辺はそれを両手で包み込んだ。意味が分からないと思ったらオレの左手も引き寄せ、まるで温めるかのように揉み始める。早く戻らないとみんなに迷惑がかかるのに、何をやっているんだ。
「冷たい。あとで長袖貸すよ」
己の体温が移りやっと満足したのか、それだけを言うとオレを引っ張り上げ片手同士を握る。一歩廊下に踏み出すと、湿り気を帯びた夏の空気がオレを熱烈に歓迎する。2階にある背後の第四準備室を振り向かず、2人は無言で昇降口に到着したのだった。そこで問答無用でオレの物より2サイズ大きい長袖ジャージを着せられ、かくれんぼは再開した。
最後はオレと間宮が鬼役だ。このかくれんぼでは、参加者全員が鬼役を1回することで本物のかくれんぼ――「落としものさがし」に招待される。さすがに6回かくれんぼをするのは、この広大な中学校を舞台にキツいだろうと、鬼役2人組で3回行うことにした。
――――――パンッ、パンッ、パンッ、パンッ、パンッ。
昇降口で静かに佇んでいる箱を前に、参拝の拍手のように打ちながら200を数える。
そうしてオレは南校舎に、同学年女子の間宮は北校舎に子役を探しに行く。南校舎は特別な教室――理科室や音楽室――が少ない代わりに、1階に職員室と保健室、2階以上はクラス教室が配置されている。前2回で他の部員が隠れた場所は、施錠されていない空き教室だったり、トイレや階段の裏だったりする。まずはそういった所に足を向けよう。
ひと息に3階まで上り、いろんなものが霧散した廊下を眺める。生徒の明るかったり苦しかったり悩ましげなコエや空気が内包せず、夏休みだからと荷物は整頓されている。寂しいのかな。
隅に溜まった灰色の綿埃を視界の端に追いやり、一番東にある空き教室――階段から見て右手側――の中をガラス窓を通して見る。人影はなさそうだが、一つ一つ確認するのが早く見つけるための近道だろう。自学自習用に開放されているこの教室に今まで用はなく、今日初めて足を踏み入れると言っても過言ではない。思ったよりも軽い音を奏でながら戸はスライドして、空っぽのロッカーや教卓の影、掃除用具入れまで確認した。子どもはいなかった。
その教室を出て階段を横切り、次の目標を確認する。1年8組の教室はきちんと施錠されており、窓から覗く限り人はいないようだった。そこから西に進み、1年7組、6組、5組、4組と見ていったが、これまた戸に施錠が施されており子どもはいなかった。
1年3組の教室に差し掛かった時、ここにいると直感が告げた。引き戸ではなく廊下と教室を隔てる窓の1つに手をかけ、呆気なくガタガタと鳴きながら横に引く。ジャンプと腕力で自分の体を持ち上げて、窓枠を飛び越え教室に降り立つ。
「見つけたよ、橋本さん」
着地地点から3歩先に、壁を背に隠れていたツインテールの女子を見つける。1年生であるが学年を跨いでも可愛いと噂される子は、大きな瞳を驚きに見開いている。
「部長、す、ごく、早いですね。かくれんぼ得意なんですか?」
「そこまでやり込んでたわけじゃないけど。……行こうか」
と言ったものの、手を繋ぎながらさっきと同じように窓枠を飛び越えることは、オレには不可能なようだ。仕方ないので、窓を閉める代わりに戸の鍵を開けてそれをくぐった。恋人でもないオレが学校一可憐だと言われる女子と手を繋いでいるこの状況が部外に漏れたら、視線や言葉で滅多刺しにされるかも。そんな最悪な未来を夢見ながら、昇降口に着くと誰もいなかった。
一番乗りですね、などと言っていた橋本を置いていき、オレは南校舎2階の男子トイレに迷いなく向かう。自分でも何故か分からないが、そこに佐藤がいると確信している。オレが1回目で隠れたトイレと同じレイアウトのそれに辿り着き、真逆の立場で似た言葉を口にする。
「佐藤、見つけた」
小便器や手前の個室になど目もくれず、一番奥の掃除用具入れのドアをゆっくり開ける。そこには当然のように佐藤がおり、道具を避け身を捻りながら橋本と同じような表情を浮かべていた。
「先輩って奥から探す派なんですか?」
「ん? いや、ここにいるって分かったから」
「え? 下を覗いても、上履きで学年は分からないですよね。田辺先輩も見つけてたんですか?」
「いや、田辺は見つけてないし、ただ佐藤がいるって思っただけだよ」
「……エスパーですか?」
「ただの感だよ」
釈然としない佐藤の手を取り、トイレを出る。手ひんやりしてますね、袖ブカブカですね、あの体勢キツかったんですよ、などと勝手に喋る佐藤は昇降口までずっとそんな調子だった。長くて邪魔な袖を捲り時計を見ると、1時57分だった。オレは見つけるのが早いなと、他人事のように思った。
続いて保健室に向かおうと思ったが、同じ1階にある職員室前の廊下を堂々と歩くのは避けたい。一端2階まで上がり、反対側――保健室の隣の階段を経由して、無人に見える保健室に忍び込む。保健室の窓には薄いカーテンが引かれており、太陽光と校庭をうすぼんやりと通している。エアコンで温度調整の行き届いた空間は、いつまでもここにいたい気持ちにさせる。保健室の先生は、短い時間だけ席を立つつもりだったのだろう。職員用のテーブルには書類が残っており、ペンも転がっている。目を逸らし、2台並んだベッドの片方――ピンク色のカーテンが白い布団を隠している左側に近づく。
ナイロン製の布を僅かに捲り、中を覗くと男子生徒が2人寝ていた。正確には、布団を被っているほうは安らかな寝息を立てているが、ベッドの端で横になっている田辺はばっちり覚醒状態だった。コイツの度胸は計り知れないなと、見ているこっちがヒヤヒヤする状況で笑うなと内心で毒吐き、右手を差し出す。無言で握られたそれをクイっと引き、立ち上がらせる。スプリングが唸り、オレの体はビクッと小さく跳ねる。それを見た田辺は口元だけで笑い、静かにカーテンから出てくる。2人手を繋ぎ忍び足で出入り口へ、廊下の様子を左右確認してから飛び出す。
オレが行きにしたように2階を回って昇降口へ行く。その途中2人だけの足音が響く廊下で、ありがとうと言われた。
2時14分、昇降口に6人が集結している。田辺裕平、間宮華那、佐藤慎一朗、鳥飼礼子、橋本有弥乃、オレ――桐島透は隣人同士で手を繋ぎ、あの新聞紙で作った箱を中心に輪になる。そして唱える、本当の始まりの招き言葉を。
「“鬼さん、ここに来てくだしゃんせ。落とし物を一緒に、集めてくだしゃんせ”」
一斉の、なんてなくとも揃った台詞を吐いた後、オレたちは輪になったまま200の間目を瞑る。頭の中に拍手がこだまし、繋がっている部分にしか感覚が残っていないかのように感じる。左手には柔らかく一回り小さな橋本の手、右手には男――田辺の熱い手という対称的なものだ。200が終わっても余韻に浸りたいのか、焦ったく瞼を上げる。
頭を垂れると、箱は消えていた――――成功したのだ。皆瞠目し、次の瞬間には喜びに震えていた。
さあ、鬼が隠した――落としたオレたちの宝物を集めよう。
陰影との境目が曖昧になる校舎、止んだ蝉の合唱。「落としものさがし」のルールは一つ、招待された中学生は離れ離れになってはいけない、最後まで一致団結して宝物を探す。そうしなければ、永遠に落としものが見つからずに、抜け出せなくなる。
いつの間に解けていた6対60本の手指は、握り締められ或いはジャージを撫で或いは所在なさげに空中を切る。12本の脚はバラバラと足音を立て、まずは職員室に胴体を運ぶ。カラカラと戸が開き、6人は導かれるように大人のために誂えた部屋に入る。2時30分の職員室に無生物はあれど、大人はいない。
「……まず、みんなが書いた物を発表しよう。そのほうが探しやすいだろう?」
副部長の田辺が日に焼けた腕を広げ、そう発言する。みんなは首肯し、次々と今自分が一番大切にしている物を挙げる。
美少女の橋本は、文芸部に入った理由もとい文学に興味を持ったきっかけである、フランツ・カフカ著『変身』の文庫本。文芸部のムードメーカーである鳥飼は、小さい頃にプレゼントされたウサギのぬいぐるみ。鳥飼の幼馴染で真面目な佐藤は、飼っている文鳥。我が部のエース間宮は、コンクールで受賞したり小説投稿サイトで一定の評価を受けており、その作品を生み出すマイパソコン。田辺は、サッカーチームを卒業した先輩たちのサインが入ったサッカーボール。オレは文庫本のブックカバーだが、恥ずかしいので田辺からの誕生日プレゼントだとは言わなかった。
オレたちが探すものは、それほど大きいものではないらしいので時間がかかるかもしれない。しかも何人かに分かれて複数の教室を並行して捜索することもできない。
オレたちは早速、教室2つ分の広さがある職員室に散らばり泥棒のように物色する。エアコンの唸り声と扇風機の軋んだ首振り音、ガサガサと書類が動かされる。
オレたちはほぼ無言で作業を続ける。なんだか楽しくない。子どもの頃に両親に連れられたイベントでの、砂場から宝物を掘り出すワクワク感と同じにならない。それは手元の面白くもない書類やファイルのせいか、はたまた一等の景品がないせいか。
「なあ、間宮のパソコンって、なんかのキャラクターのシールが貼ってある?」
「……なんで、田辺が知ってるの?」
「いや、これかな、って思って」
田辺が掲げるのは、遠目で分かりづらいがシールでデコレーションされた白いノートパソコン。職員室に揃えられているのは、支給品なのか有名メーカーの黒のボディであり、違和感はある。間宮はそれを見た途端に走り寄り、半ば奪い取るように手中に収める。
「これよ! でもなんで? ……本物、なのかな」
「俺も箱に入れた紙自体を探すのかと思ったけど、こんな感じで出てくるの? え、すごくね!」
オレは田辺と違い、本物を探すゲームだと知っていた。事前の話し合いや準備の時に、そう確認したのではなかったか? しかし後輩たちの反応を見るに、オレの記憶が間違っていたことに気付く。オレ以外はあの3寸四方の和紙を必死に探していたらしい。共有していなかったのかと、その場では結論付け、次の教室に行こうと提案する。なんとなくだが、教室に2個も宝物はないと感じたからだ。
隣の保健室に赴く。全員が入った瞬間に――最後に戸をくぐった鳥飼が、あっと声を上げ、保健室はもう用済みになった。
窓辺の棚の上に少し薄汚れたミルクティー色のウサギがいた。高さが1メートルほどのそれは、保健室でも存在感を放っており、思い出も詰まっているものだと分かった。現に鳥飼は恥ずかしそうにしながらも、腕にはしっかりと慣れたようにぬいぐるみを抱いている。6分の2も宝物が集まり幸先を感じるが、どうも簡単すぎると思った。そして案の定、その悪い予感は当たったのだった。
オレが鬼役の時に走り回った南校舎、その2階は1、2年の教室と図書室が並ぶ。木を隠すなら森、と同じように橋本の文庫本も図書室にあると思い、ずっとそこに篭っている。文芸部の活動場所でもある図書室で、中学校所有の『変身』は分類整理された本棚にあったが、橋本のものは見つからない。時刻は3時56分。
――――“教えてあげようか”
風が耳元を軽く撫ぜるような、湿っぽく囁くような、拍手のように頭に響く、不思議な和音が聞こえた。一度だけ耳にしたことのあるようなその声に、返事をする術をオレは知らない。困っているオレに、ふっと笑うように吐息を漏らし、導きの言葉と冷気を残していった。
オレはその言葉の通りに、大きく分厚い地図帳が仕舞われている足元の棚から、図書室に置いてある出版社の物とは違う『変身』を見つける。それは地図帳を全部退け、背板に立てかけた本棚と同じ色のベニヤ板を抜き取ることで、姿を現した。重い地図帳を動かす音が聞こえていたのか、みんなの視線はオレに集まり、そして文庫本に注がれた。
「それ、だけど、ぶ、部長は、なんで」
「……お前はなんで、知ってたかのように探し当てたんだ?」
橋本と田辺が問いかける。疑問に思うのはもっともだ。せいぜい本と本、本と背板の間に挟まれているくらいだと、そんな板を差し込んでまで段差を消そうと細工をしていたなどと思わない。オレは迷いなく、それを見破ったんだから。
「……教えてもらったんだ」
「誰に?」
分からないと答えたオレに、訝しむ田辺、奇異なるものを見たかのような女子たち、情報が完結しないのかただ驚いている佐藤。冬の水に支配されたかの如く、重い空気がオレたちに漂う。答えは分かり切っているのかもしれない。
あなたは、誰?
オレたちは図書室がある階の教室に移動した。なぜか廊下の引き戸も窓も全て開錠されており、宝探しに集中できる。しかしオレは、漠然とこの階に宝物はもうないと思っており、それが行動に表れていた。なんとなく探している風を装うオレに、田辺は指摘する。他人のことをよく見ているな、と場違いなことを感想に抱いた。4人から少し離れ、教室の隅にしゃがみ込み小声で会話する。
「お前、さっきから変だ。……何か、知ってるのか?」
田辺は逃がさないとでも言うように、オレの肩に腕を回し右手首を掴む。そこまでホールドしなくとも逃げないのだが、目で訴えても態度は変わらない。オレは、根拠はないと前置きをして話し始める。
「……多分、残りは北校舎にある。南校舎には、もうないと思う」
「お前は部長だ。根拠はなくても、半分ずつ北校舎と南校舎にあるんじゃないか、とでも言って誘導すればいいだろう」
「……信じるのか?」
「お前のこと、疑ったことあったかよ」
「……オレの身長」
それに田辺は吹き出し、あの時は悪かったと謝る。中学生男子なら1つくらいはある、なんてことないエピソードだ。中1の時、田辺はすでに167センチ、今は178センチになり未だ伸び続けている。当時オレの身長は155.3センチで、友達になったばかりの田辺に54かと訊かれたのだ。たかが1センチされど1センチ。オレは訂正を繰り返したが、測定し証明するまで押し問答は続いた。ちなみに一昨日測った時は162.9だったが、中3になってからは163センチだと四捨五入した数字を言っている。
よし北校舎に行こうと提案した田辺にオレは頷き、先程の文言をそっくりそのまま部員に伝える。4人はそれぞれの反応を示しながらも最後は同意し、北校舎へ列を作って移動する。その道中、田辺は飽きもせずにオレの低体温を心配した。確かに、掌で感じる田辺との温度差がいつもと違うなとは思ったが、緊張してるんだろと笑っておいた。
北校舎1階放送室、まずはそこを調べた。何かあると思って探し回ったが、機材のせいで6人でもそこそこ狭い空間に宝物はなかった。
モヤモヤした引っかかりを抱えながら、同じ階にある視聴覚室や生徒会室などを、上の空で探す。そのまま美術室に入った時、真上の理科室にオレの大切なもの――ブックカバーがあると分かった。美術室を探し終わってもいない今、理科室に行きたいと言っても不審がられる。逸る気持ちが顔に出ないように探すふりをして、早々に切り上げる。
校舎2階の一番端で階段の隣にある理科室に着いた時、我が校の七不思議を思い出した。真っ先に顕微鏡を仕舞うための棚の、何も入っていない所の扉を開ける。――いや開けられなかった。クソッ、こんな時に。
そんなオレのただならぬ様子に、部員たちは一定の距離を取りながら近づく気配がする。開かない扉に手をかけて、オレの指先は白く冷たくなっていく。ひ弱な腕に力を入れても、びくともしない木の扉が憎い。
何回か引っ張って、そして苛立たしげに叩いた。
「桐島、落ち着けよ。みんな驚いてる」
「だって……!」
怒鳴り声を上げながら声の主に振り返る。八つ当たりに睨んだ先で、4対の目が慄いていた。その恐怖を孕んだ瞳が、オレをさらに助長させた。
己の不安と怯えと苛立ちをぶつけようとした時、冷ややかな眼差しと静かな声が場を制した。
「桐島、落ち着け。何をしたいんだ」
田辺のその言葉を聞き、その内容と今しがた自分が起こした事態に思い至り、顔が燃えるように熱くなった。羞恥だ。オレは文芸部の穏やかな部長だと言われていた。運動部のように大きなかけ声を出すことも、ましてや怒りで怒鳴ったこともなかった。そりゃ、こんな状況じゃなくても驚くだろう。
「……っ、……う、ご、ごめん」
呆気なく項垂れた。
床に接している棚の扉を開けるため膝を付いていたそのままの姿勢で、サイズの合っていない大きな袖で顔をできるだけ覆う。正座して床に手を付けば土下座になるが、それは不完全な格好だった。
無理だ、顔をみんなに晒せない。穴があったら入りたいとはこのことか。
「ったく、ここを開ければいいのか?」
2年ちょっとの付き合いから、これは使い物にならないと判断した田辺裕平は、友人が悪戦苦闘していた棚に近づく。必然的に騒ぎを起こした当人の隣に来ることになるが、気配を察知したのか桐島は離れた。とうとうネガティブモードと田辺が勝手に呼んでいる体育座りになった桐島は、全く会話をしない。溜め息を吐いた田辺は、硬直している仲間に努めて優しく声をかける。
「桐島はほっといて、ここを開けよう。みんな手伝ってくれるか?」
「え、いや、先輩、大丈夫ですか。びっくりしただけなんで、謝らないでくださいよ。……ちょっ、先輩?」
「しばらく、そっとしておきな。わりとデリケートな部長だからさ。でもここ、霊感ないと開けられないやつじゃない?」
間宮の言葉に、今は触れないでおこうと判断した佐藤は、霊感は関係ないですよ、と爆誕発言をした。どうも理科担当であり顧問の柳瀬先生に、棚やその中身の重さで撓み、この一箇所だけ立て付けが悪くなっていると聞いたようだ。つまり湿度や圧力により、開閉が可能かどうか決まるとも言われたようだ。思わぬ謎解き――科学的な解答に、一同はなんて場違いかと、ハイファンタジー小説で核爆弾を落とすようなものだと笑った。ただし桐島の耳にそのやりとりは入っていないので、体育座りの御仁は無反応である。
湿度調整は流石にできないので、棚に収められている実験器具をそおっとテーブルに移し、開かずの扉を攻略しようとする。精密な機器を取り出してはその扉を引き、ダメだったらまた繰り返す。そうして時間は過ぎていった。
4時58分、ようやく扉は開いた。歓声が沸き起こり、中の暗闇を確認すれば深緑色のブックカバーが確かにあった。その正体に気付いた田辺は、ニヤニヤと笑顔を浮かべながら桐島に話しかける。
「ちゃんとあったよ、緑色のブックカバー」
「……お前だけには、知られたくなかった」
ようやく発した桐島の声は、顔を覆っているせいでくぐもり、田辺だけに聞こえたとか聞こえなかったとか怪しい声量だった。
――――“一と四半刻が過ぎた。二刻が限度だ。せいぜいトオルの助言に従い、励むことだな”
俯いていたオレも全員が顔を上げ、校内放送用のスピーカーを凝視する。そのスピーカーから流れた美声はオレだけ図書室で聞いたもので、今は全員に聞こえたようだ。突然のタイムリミット宣言に、オレの名前、混乱するのは必然だった。
「一と四半刻って、2時間30分だから、あと、……1時間30分残ってる、ってことで合ってますかね?」
戦国武将や歴史物が好きな鳥飼が、すばやく計算をする。とするとゲームオーバーになるのは6時半頃である。それは余裕があるようでない。急ぎたいのはやまやまだが、間違いなければオレの助言で状況が変わる。賽の目を振るような気軽さで、他人までもの生死が決まるのか。
「……屋上、だと思う。あの七不思議の」
不安定な自信からの発言に、オレ以外は心得たと強く頷く。物語の主人公が気後れする他人からの期待の眼差しとは、こんなにも恐ろしいんだと気付いた。
オレたちは2階理科室から階段を上り、3階を過ぎて閉鎖された屋上への入り口に到着した。そこはいつも通り、折り重なる机椅子のバリケードと、立ち入り禁止のラミネートされたプリントが行く手を阻んでいる。小さい中学校の屋上に唯一行ける扉だ。ここ以外に突破口はない。しかし机と椅子の移動が1時間で終わるかどうか。
――――“助けてほしい?”
また甘い台詞が聞こえる。放送機器を通してではなく、頭に響く声でオレ以外には聞かせていない。オレは迷う。冷気が足元から這い上がり、背筋を凍えさせる。
――――“今までの対価は君の宝物で良い。さあ乞うてみよ”
オレはまだ迷う。宝物の末路は現時点で分からない。思い出との訣別であることは確信できる。手に持ったままのブックカバーを見つめる。
これでいいなら。
そう思った時、今までで一番大きな冷風の塊が、髪に胸に肌色の覗く足にぶつかる。それは周囲で沈黙を守っていた部員たちも同じで、みんな顔だけは守ろうと腕を前に出す。
次に目を見開いた時、屋上へのバージンロードは整っていた。開け放たれた扉から覗くのは薄暮、冷気を飛ばすかのように夏の熱風が頬を滑る。オレたちは弾かれたように階段を駆け上がり、屋上に飛び出る。幸いコンクリート製の床は難なく6人の体重を支えてくれた。サッカーコートの半分にも満たない灰色に、白黒のボールが置かれていた。静かに近寄った田辺は格好良いリフティングを披露することはなく、両手で丁寧に拾い上げる。
――――“終いだ。まあまあ楽しませてもらったよ”
5時17分、スピーカーを介さない肉声が天井のない空間に広がる。
終わり?
まだ佐藤のものを探していないし、導き出したタイムリミットまで猶予はあるはずだ。分からない。何が理由で終了のアナウンスがされたか、オレたちの行動を思い出しても検討がつかない。オレたち6人は互いに見合いながらも、誰も最適解は出せないようだ。ならばと、姿の見えない相手に進言する。
「……まだ、佐藤の大切なものを見つけていません。終わりに、しないでください」
――――“終いだ。続ける意味がない。六つの宝は集まった。それを放って現世に帰るが良い”
宝物は5個しか集められていない。最後に佐藤の飼い鳥を探そうと思っていた。だからオレは屋上の前で時間を気にしていたのだ。今度の声も全員に届いたようで、疑問符を浮かべる者、考え込む者はいるが、危機感を抱く者はいなかった。
――――“相違があるようだ。だが提示されたものと用意したものに誤りはない”
今度は空中に白いに紙切れが現れる。ひらりひらりと意志を持った蝶のように、オレの手に舞い落ちた。
─────―
飼,,鳥
─────―
そこには普段書道をしていないだろう下手くそな字で、簡素に「飼い鳥」と書かれていた。佐藤も確認し、自分で書いた物だと言う。宝物は全て集まったのなら何故、用意したであろうペットの文鳥は佐藤の手にないのか。
――――“鳥飼と書かれてあろう。想い人をわざわざ贄に変えるなど酔狂な者かと思ったが、まさか書き損じとは。至極愉快”
聞き捨てならない単語が飛び交う。それらの意味を咀嚼するのに時間がかかり、夜風の静かな音だけが支配する。
ようやく、ようやく理解した時、何故今まで危機感を抱いていなかったのか不思議になるくらい、激しく動揺した。「鳥飼」と読んだ理由は縦書きが指定されていながら、佐藤が英文のように書いてしまったからか。だとすると佐藤の大切な者――想い人とは、彼の隣にいる幼馴染――鳥飼礼子ということか。そして、贄とは。
――――“この遊戯は僕の住む世界で行うものだ。現世に帰すために贄を頂く。それが宝だ”
衝撃の事実を明かされたオレたち、特に佐藤と鳥飼は顔面蒼白である。贄を頂く、つまり鳥飼は一緒に帰れない、ということ。
「……鳥飼と、一緒に帰るには、……どうすれば、いいですか」
元凶に縋る、それしか道が残されていない。
佐藤は今にも涙が溢れそうな双眸を晒しながら、弁明する。曰く、鳥飼は大切な人だが自身の望んだ贄ではない、その立場をペットと交換できないだろうかと。
上品に潜めた笑い声が、線香の煙が広がるようにオレたちの耳にまとわりつく。しばらく続いた後、西に低く浮かぶ月明かりに照らされる中、白い靄が生まれる。そこから象られた結果は、柔らかそうな灰色の羽毛に覆われた丸い生き物。夜空を閉じ込めたつぶらな瞳は本物のように濡れている。寝静まった校舎を羽ばたく小さな鳥は、檻の外から解放されて自由で幸せだろうか。
――――“今の僕は気分がいい。願いを聞き届けてやろう。そして気が変わらぬうちに失せるが良い”
気分がいいとは思えない無感情な美声が引き金となり、“宝物”と呼ばれるものがオレたちの手から離れる。白のノートパソコン、ウサギのぬいぐるみ、昏い表紙の文庫本、モミの木がモチーフのブックカバー、少し汚れたサッカーボール、赤い嘴の文鳥、それらがそれぞれの持ち主の周りを踊る、踊る、ふわふわ漂い舞い踊る。
オレたちは漠然と、思い出とのお別れを覚悟した。
ノートパソコンは熱暴走を起こしたように唸り声を上げる。火花がパチパチと爆ぜて、白は赤になり融ける。
ぬいぐるみは可愛さを保つ黄金比が崩れ、内側で蟲が蠢くように膨張と収縮を繰り返す。やがて限界まで膨らませた風船のように、千切れる。
文庫本はサラサラとパラパラとページが捲れる。その勢いに負けたのか、ページだった紙が抜け落ち闇に同化していく。
ブックカバーは変わらずくるくる踊る。残像すら追えなくなると、気付いたら消えていた。
サッカーボールから黒ペンで刻まれた言葉が剥がされる。揺らめく文字は大きくなり球を黒く覆い、潰し、小指の先ほどの黒点にする。
小さな生命は羽ばたきと囀りと共に、空中に縫い留められる。ぴゅっと飛ぶ液体、ぷちゅと鳴る肉体、こきこきと軋む軟骨、絶命のコエが全身から滲み出し、舌をだらしなく垂らし事切れた。
惨状はくろい炎に焼かれ、顔を覗かせた太陽が視界を金碧珠に染め上げる。
あまりの眩しさにオレは瞼を閉じ、それでも足りず手で光を遮る。
これで帰れるのだ。日常に戻れる――――――
◇
「間宮部長! 卒業おめでとうございます」
「元部長よ。今はあなたが部長じゃない、礼子」
「文芸部から華那先輩がいなくなったら、実績なんてないに等しいんですけどね」
現在式典は終わり、生徒や家族が入り乱れる校舎や校門付近は湿っぽい明るい雰囲気に包まれている。ここは図書室、普段は私語厳禁となっているこの場所も卒業式の空気に当てられ、文芸部の記念撮影の会場になっている。文芸部からの卒業生――田辺裕平と間宮華那を真ん中に座らせ、後輩たちは中腰になったり姿勢を正して直立したりしている。
そして、柔らかい笑顔溢れる写真に仕上がった。
夏のとある一日を、夏休み中の何気ない数日の1つに数え、希望の宿った桜の蕾に笑う。
◆
その日の夕方、もちろん図書室に生者はいない。しかし2つの声で会話が交わされている。それは潜めた逢瀬、裏の取引、秘密基地の作戦会議にも聞こえる。
――――“未練がましい? 向こう側が恋しい? 悔しい? 僕が憎い? トオルがどんな気分か教えて”
――――“今挙げた全部だって、ずっと言ってる。オレの存在を消すなんて、どんな荒技だよ”
――――“消しておらぬ。こっちに引っ張っただけだ。屋上の少女は魂だけもらったが長くは保たなかった。だから今度は桐島透の存在ごと来てもらったのだ”
あの日「落としものさがし」で現世に戻ったのは、オレ――桐島透以外の5人だけで、オレは田辺たちと分かたれた時から“鬼”の側にずっといる。いや、5人だけというのは間違いかもしれない。
世界をわたる時、田辺はオレを一緒に連れて帰ろうと手を伸ばし、こちら側に薬指を落としていった。あちらで目覚めた彼らは、田辺の止血も終わり失われた左手薬指に驚き、訳も分からず慰めていた。みんな早朝の中学校で発見され、捧げた宝物は忘れた。佐藤の飼い鳥は、野良猫の噛み跡に塗れた死体に成り果てていた。
一方こちら側では意地悪な“鬼”は一度も姿を現さず、声と冷気だけで存在を示す。今も体中を弄るように、温度の微妙に違う冷気がオレの体表を這っている。
あの日からオレのいなくなった世界――中学校では、七不思議が4つに増えていた。放課後の図書室で一人でいると、本が1冊手元に差し出されるというものだ。オレは図書室に縛り付けられている。暇を持て余したオレ――おそらく寂しさから――は、自分のおすすめの本を生徒に渡している。隣の“鬼”が口出ししないのをいいことに、半年ほど続けている。
この中学校の真相、七不思議の1つ――屋上を開放する方法は、「落としものさがし」の“鬼”に頼み込むことの1つだけ。屋上が過去に閉鎖されたのは、そこでとある少女が飛び降り自殺をしたから。鍵をかけたのは学校関係者だが、机と椅子のバリケードを築き扉を封印したのは少女の意思だと言う。屍肉が火葬され魂だけになった少女は、“鬼”の力を借りて己をいじめた同級生を呪い、消えて今はいない。
「永遠に落としものが見つからずに、抜け出せなくなる」
オレはかつての友人後輩たちに、永遠にオレの存在を見つけてもらえず、“鬼”の腕の中から抜け出すことができない。
後ろから抱きしめるように、オレの背中と首を中心に冷たさが触れてくる。いつから冷気の塊が、人の形に思うようになってしまったのだろう。そしてこの感触が当たり前に、温度が失せると追いかけ欲するようになった。
――――“僕の名前を、まだ決めてくれるのか”
絶対強者の甘える声に、オレはふた月前から提案している名を伝える。いつも、それは嫌だと答えるが今回は違った。
――――“ふた月もの間変えぬのなら、受け入れねばならぬだろう。本音は雨は嫌いなのだが、トオルが呼ぶのだ。心地よい音になろう”
ほら呼んでみよ、という言葉にオレが考えた名前を零すと、背中にのしかかる空気は温度が少しだけ上がる。オレはこの生活に慣れ始めている、そして不変になることを望んでいる。“鬼”の名前を呼ぶことで、その方の隣にいることで、オレの存在意義としている。
――――“氷雨さま”
図書室に熱い息が漏れる。
蕾を付ける桜が窓から見える。
夏はもう一度、何度も廻る。
あのかくれんぼは消えてほしい、と思う。
オレの“鬼”を呼ばないでほしい。
「“鬼さん、ここに来てくだしゃんせ。落とし物を一緒に、集めてくだしゃんせ”」
オレと氷雨さまと繰り返した何十回目の夏、“鬼”が呼ばれてしまった。
(完)
ここまでありがとうございます。
文中にはいくつか矛盾を残しているので、読み返していただけると嬉しいです。
田辺が一番怪しいですよね。流れ重視で田辺の事情をかけなかったので、ここに。
田辺の祖父も過去に「かくれんぼ」に参加しようとして失敗しています。なので所々で知っているような発言もありますし、人一倍成功への意欲もありました。