「地の文! お前を追放する!」 地の文は驚愕した、え?
春になり雪が溶け、メリアワズの山は雪の帽子を脱ぎ緑の髪を見せる季節。山にあるダンジョン『トカゲの巣』は雪に閉ざされた門を開く。
探索を主にする冒険者が活動を再開し、冒険者ギルドが賑わう頃、
「地の文! お前を追放する!」
え? 今、何て言った? 地の文は驚愕した。
「だから地の文、お前はもう要らないんだって」
白銀級の冒険者、パーティリーダーの魔剣士は見下すように言った。
いや、地の文が要らないなんて、地の文が無ければ小説じゃ無いだろう?
「オープンニングからツマラナイ状況説明なんて、読者はそんなもん求めて無いんだよ」
「そうだね、出だしからおもしろく無い地の文が並んでも、目が滑ってブラウザバックレね」
げふっ! 女武闘家の心無い言葉に地の文は吐血した。じ、地の文が無ければ、何処で誰が何をして何を言ったか、読者には分からないだろうに。
「考え方が時代遅れなのよ。これからはチャットノベルの時代よ。スマホが普及した現代は手軽に読みやすい小説が求められてるの。長ったらしい地の文なんて、もう必要無いのよ」
女司祭は偉そうに知ったかぶりをして言った。
ちなみにチャットノベルとは、メッセージアプリのような見た目の横書きのテキストの読み物。スマートフォンに最適化された新しい物語の形式であり、キャラクター同士の会話が主になる。
チャットノベルが充実し作りやすい投稿サイトはNOVEL DAYSになるだろうか。
「というわけで、俺たちは時代に乗り遅れ無いように、これからはチャットノベルとして活躍する。だから地の文、お前はもう要らないんだ」
そんな、地の文の無い小説なんて、小説じゃ無い。
「地の文、その思い込みが時代遅れなんだよ。そしてお前が足を引っ張ったせいで俺たちはランキングにも入れない」
いや、それは作者がヘボいせいで、
「とにかく、俺たちはこれからはチャットノベルで活躍する。地の文は追放。新しいパーティメンバーはアイコンだ」
「まー、世の中には地の文と同じ考え方の人もまだいるし、そこで新しいパーティメンバーを探しなよ」
「懐古趣味でデジタルに弱い人ばかりでしょうけどね」
「じゃあな地の文、本は紙じゃないとダメっていうお年寄りとガンバレよ。ははははは」
こうして地の文は追放された。
納得いかん。地の文が無くて小説と言えるのか? 確かにデジタル技術が進歩し、スマホで読み物を読む人が増えた。だからと言って地の文が追放されることになるとは。
時代に必要とされなければこうして消えていくのが運命なのか? かつては人気職業だった電話交換手は、自動電話交換機の普及と共に無くなった。
地の文もまた、モールス信号のように一部のマニアにしか必要とされないものなのか? ぐぬ。
いや、地の文が優れた読ませる小説はある。
『少女の望まぬ英雄譚』(N1184EM)作者 ひふみしごろ様、のように。
『愛しのヘルガ ~地獄の島の女剣闘奴隷譚~』(N0939EU)作者 平井星人様、のように。
こういった良作がランキングに入ってこない評価システムがどうかしているのではないか?
確かに時代と共に地の文のステイタスは落ちているかも知れない。
1851年の小説『白鯨』ハーマン・メルヴィルの長編海洋小説。
これはオープンニングから実に背景描写が何ページも続く。これは時代の影響もある。
1830年の旅客鉄道の出現から、人が旅行を娯楽とする近代ツーリズムが始まる。だが、旅行は裕福な一部の人の娯楽であった。
その時代において読書とは、手軽に旅行気分を味わうためのものでもあったのだ。
異なる地域の自然やそこに住む人の文化、街並みや人の着る服装、遠い土地の空気の香り、山や海などの雄大な風景。
人の想像力を刺激し異国情緒を感じる、遠い土地へと赴いたような気分を感じるための読書。
ゆえにこの時代の小説は背景描写がじっくりと描かれる。冒険小説であれば、地の文による見知らぬ土地の風景を、風の音や花の匂いを感じるくらいに書かれることが読者に求められていたのだ。
今の若者や子供たちが『白鯨』を読もうとすると、なかなかタイトルの白鯨が出てこないのにイライラするかもしれない。
上巻ではまだ鯨がちゃんと出てこないのだから。
しかし船舶、鉄道、航空などの技術が発展し庶民でも海外旅行ができるようになると変わってくる。
なにより映像技術の格段の進歩が影響した。
異国の風景がテレビや映画で簡単に見れるようになると、小説での背景描写は短くなっていく。もはや旅行の代わりは小説から映像へと変わっていった。
地の文のひとつの役目が終わりかけていた。
更にはマンガの普及。マンガとは地の文というものは、まず無い。背景も登場人物の衣装も表情も絵で現される。マンガで読む文章とはフキダシの中のセリフとモノローグばかりだろう。
マンガを読み慣れた人は、小説を読むときもカッコの中の会話だけを読み、地の文を読み飛ばす読み方をする者もいるという。
地の文が長いと読まれないとされ、会話ばかりが増え地の文の居場所は少なくなっていく。
読み飛ばされ無いように会話の中で設定を説明する手法など開発された。しかし、これはやり過ぎれば不自然なものとなってしまう。
日常にある当たり前のことをわざわざ解説する者などいない。その世界に住んでいる人が、赤信号で足を止めなければならないか、という当然のことを何故わざわざ口にしなければならないのか。
一人称の小説が増えたのもこの影響だろう。
地の文では無い主人公の心の声は読み飛ばされにくいのだ。一人称小説の増加はデジタル技術、通信技術、映像技術、旅行に関わる技術の進歩と関わりがあると考えられる。
その中で異世界転移、異世界転生の物語が一大ジャンルとなった。
異なる世界の設定の説明に、地の文が如何に頑張っても読み飛ばされてしまう。
現代人と同じ常識と感性を持つ主人公が、心の声でまるで違う世界のことを感情豊かに語るのは、なるほど優れた手法だと認めざるを得ない。
そしてますます地の文のテリトリーは少なくなっていく。
だが会話文ばかりの小説が、良い小説と言えるのか? コントの台本のような小説は、コントに勝てないのではないのか?
技術の進歩が小説を変えていった。スマホで読みやすいチャットノベル、忙しい人のために作業しながら聞けるオーディオノベル。
何より価値基準の変化が大きいのではないか?
売れるものと良いものは違う。金で価値を換算する売れたもの勝ちの拝金主義は、その違いを区別しない。
売れたものが最も良いものとするなら、日本で最高の日本料理は赤い看板のファーストフードのハンバーガーになる。
世界一売れた食品が世界一美味しい食品ならば、ニッ〇ンのカップヌードルが世界一美味しい食品になってしまうのだ。
出版不況は続き本を売る書店は年々数を減らしていく。人口減少と景気悪化から雑誌も本も売り上げは上がらない。
書籍化された作品も売り上げの低迷から打ち切りになったりする。
最近では、作者が出版社からの書籍化の打診を断った、というのが新たなステイタスとなりつつある。
不景気になれば盛り上がるものが三つある。
麻薬、賭博、売春だ。
今の出版社が売ろうとする本もそうなりつつある。麻薬のような中毒性があるもの。運の要素で誰でも勝てる可能性がありハラハラできるもの。売春のように手軽に性的快楽や疑似恋愛が得られるもの。
お詫びチートにハーレムだ!
文学は死んだ!
だが、今こそ地の文が復活する時では無いのか?
明治時代『小説ヲ蔵スルノ四害』では、小説を読む婦女子は結核で死ぬ、小説を読む子供は早死にするか破滅する、小説を読むような人はもとから悪い病気にかかっている、と書かれた。
だが小説に関わる人達の努力が、小説は結核の病原菌では無い、小説を読んでも早死にしないと、小説のイメージアップを行った。
アニメもマンガもゲームも、もともと子供の教育に悪いとされたもの。しかし日本の芸術とは、文化とは、世間にこっぴどく叩かれてこそ発展するもの。
今の小説投稿サイトが叩かれる現状もまた、明治時代の小説と変わりはしないのではないか?
何より、
追放されたならその実力を認める優しい人に拾われて、新しいパーティとかギルドで大活躍。
その後、捨てた奴等に盛大にざまあするのがお約束というもの。
えー、こほん。
わたくし地の文は、わたくしと共に歩んでくれる作者を募集しております。
いまだ未熟な地の文ではございますが、あなたの物語の魅力を演出し、あなたの物語の個性を花開かせるように、鋭意努力する所存であります。
そして会話文ばっかりで中身スッカスカで、読み終わったあとに心にも記憶にも残らない、そんな小説に思いっきりざまあしてやろうではありませんか!
自分に投げた、特大ブーメラン