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海怪  作者: 五十鈴 りく
❖ 海怪
9/70

海怪 ―捌―

 翌日。

 朝からずっと、甚吉は寝不足と空腹で鬱々としたまま、柳橋の欄干にもたれかかっていた。昼にもなると屋台の天麩羅の匂いが香ばしい。

 天麩羅を買って食い、油で汚れた手を欄干になすりつけて去っていく人々をぼんやりと眺めるのみである。皆、そんな甚吉を横目に顔をしかめて過ぎ去るばかりで、誰も声などかけてはこなかった。


 おれはこの江戸にちっとも必要とされていない駄目な子供なんだと、甚吉はこのまま溶けて大川に流れていきたいような心持ちなった。じんわりと涙を浮かべていると、そんな甚吉に寅蔵座の長八の声が飛んだ。


「おい、甚ッ」


 尻っ端折りで軽やかに駆けつけたかと思うと、長八は甚吉の頭を叩いた。


「おめえってヤツはよぅ。まったく」


 長八の目は呆れていたけれど、甚吉に情を残してくれているのがわかった。その親しんだ顔を前に、弱りきった甚吉は涙が零れそうになる。それをぐっと堪えながら言った。


「おれ、盗ってやせん」

「そういうことは頭に言え。んなことより帰るぞ」


 ぐす、と甚吉が鼻を鳴らすと、また長八に小突かれた。痛くはない。


「あの海怪、あれからなんも食わねぇ。おめぇがそばにいねぇと飯を食わねぇって、真砂太夫がおめぇの居場所を教えてくれたけどな。ありゃどういうわけだ」


 そう、マル公が案を出してくれたのだ。もう一度甚吉が寅蔵座に戻るための策だ。


 マル公は気を許した甚吉がいなければ物を食わないと真砂太夫に話し、甚吉の居場所を教え、マル公が飯を食わずに弱ったら使いを出してくれと頼んだのである。


 寅蔵座と関りのない真砂太夫に頼んだのは、太夫が寅蔵に対し毅然と接することができる人物であることと、甚吉を少なくとも信用してくれているからだ。

 マル公は飯を食わずにしばらく堪えてやると言った。だから甚吉も食わずに待った。


 甚吉は長八に向けてうなずいた。


「長八兄さん、おれ、少しだけ寄り道してから戻りやす。すぐだから先に帰ってておくんなせえ」

「急げよ。海怪は稼ぎ頭だからな。なんかあったら大変てぇへんだからな」

「へい」


 長八が走り去る背中を見送りながら、甚吉は橋のそばの屋台でぼそりとつぶやく。


「――天麩羅二串くれ」

「あいよッ」



     ●



 一串はその場でハフハフと熱いまま頬張った。海老の身がコリっとしていて衣の食べ応えも十分にあり、空っぽの胃の腑に染み入る美味さであった。マル公の分は手持ちの手ぬぐいにくるみ先を急ぐ。げっぷり、息が油臭かった。


「ただいま戻りやした」


 勢いよく頭を下げた甚吉に、寅蔵は軽く目を向けただけであった。そんなことよりも元気なく生け簀を漂っているマル公にハラハラとした目を向けている。


「本当になんとかできるんだろうな」

「へい」


 甚吉は盥の中からイワシを手づかみすると、水面を叩くようにしてマル公を呼ぶ。


「ほら、餌だ。たんと食え」


 その途端、マル公はヲヲッとひと際大きく鳴き、水音を立てて甚吉のもとへ泳いできた。そうして、嬉しそうにその手からイワシをひったくってほぼ丸飲みするようにむさぼる。寅蔵たちはそんな様子をぽかんと眺めていた。甚吉は皆の呆気にとられた顔に、どこか誇らしいような気持ちがした。


「食った。さっきまで見向きもしなかったくせに」

「甚吉にだけよっぽど懐いてるんだなぁ」

「コイツの世話はずっと甚吉がやってたきんだもんな。俺たちにわからねぇ絆もあるんだろうよ」


 なんて、口々に言う。マル公はそんな台詞を鼻で笑っていそうだれど。

 寅蔵は苦々しい面持ちで甚吉に告げるしかなかった。


「仕方ねぇな。あの若旦那も気が済んだのか、お前を許してやれって言ってきたことだ、もう一回うちに戻ってもいいぞ」

「へい、ありがとうごぜぇやすッ」


 顔を輝かせて頭を下げた甚吉に、一座のあたたかな笑みが向いた。

 濡れ衣は災難ではあったけれど、最後に甚吉はこの場所へ戻ることができたのだ。何も恨むことなくこれからも生きていける。

 それだけで十分だった。じんわりと胸が熱くなる。――熱いのは手ぬぐいで包んだ天麩羅が懐に入っているせいでもあった。


 甚吉はおずおずと言った。


「あの、コイツ、ちょっと今は気が立ってるみてぇなんで少しだけおれと二人にしてもらいてぇんですが」


 マル公の扱いは甚吉が一番よくわかっていると知れた後なのだ、誰も異存はないようだった。


「ああ、しっかり食わせろよ」


 寅蔵にも念を押された。甚吉は頭を下げて出て行く皆を見送る。そうしたら、生け簀のマル公が甚吉のいるすぐそばにぺし、とヒレをついた。


「カーッ、ひもじいったらねぇなぁ。オイラにここまでさせやがってコン畜生」


 自分が言い出したことだけれど、思った以上に腹が減るのはつらかったのだろう。甚吉は申し訳ない気持ちになって懐の天麩羅を取り出した。手ぬぐいをはらりと解く。


「ごめんな、マル先生。これ、お礼の天麩羅だ」


 手ぬぐいが程よく油を吸い、いい具合になった海老の天麩羅。串にささったそれを甚吉は串を引き抜いてマル公に差し出す。美味そうな匂いがぷんとした。マル公の目は――星空のごとく輝いていた。


「こ、これが天麩羅。やっと、やっとだ――」


 かぷり。


 イワシを食ったのと同じようにほぼ丸飲みである。マル公は喜びのためか震えていた。

 あんなに食いたがっていた天麩羅だ。さぞや感激しているのだろうと甚吉も嬉しくなった。

 けれど、マル公の第一声は――


「あっちぃわ――ッ」


 とのことである。

 生魚しか食ってこなかったマル公が口の中に熱のあるものを入れたのは初めてのことであった。天麩羅は冷めたらもったりとして食えたものではない。熱いうちに食うべきだと思ったのだが、裏目に出てしまったようだ。バシャバシャと水の中を踊り狂っている。


「あああ――」


 悪気はもちろんなかった。甚吉はそんなマル公を生け簀のそばで見守ることしかできない。

 海の生き物が天麩羅なんか食べたがるのがそもそもの間違いなのではないかと少しだけ思ったけれど、恩ある相手にとてもそんなことは言えない。


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