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海怪  作者: 五十鈴 りく
❖ 海怪
7/70

海怪 ―陸―

 あの、冨美という娘が甚吉を盗人に仕立て上げたとマル公は言う。


「そんなッ。おれはあの娘の恨みを買うようなことはしてねぇ。顔を合わせたのだってさっきが初めてで――」


 青ざめたままの甚吉の言葉を、マル公は水飛沫と共に突っぱねた。


「このスカタンが。誰でもよかったって言ってるじゃねぇか。あの娘はな、あの櫛が兄ィが愛しい女に買ってやったモンだからあんなマネしたのよぅ」

「どういうことだい」

「フン。あの娘、兄ィをそりゃあ潤んだ目で見上げてやがっただろ。大好きな兄ィがあの女にゾッコンなのが面白くねぇのさ」


 きよという娘は美しかった。太一郎が大切に思うのも自然なことだろう。それが冨美は気に食わないと言う。


「でも、それにどうしておれが巻き込まれたんだ」

「あの櫛は太一郎からの贈り物だ。それをうっかりでも落とすようなおきよに腹が立ったんだろうよ。で、その櫛を拾った時に嫌なことを考えやがったんだ」


 まるで冨美の心を覗いたかのように語る。まったくもって奇妙だというのに、甚吉はマル公の言葉の先を待った。


「太一郎の前では淑やか振ってるが、おきよは気のあれぇ娘だ。お冨美はちいせぇけど女のカンでそいつに気づいてるんだな。おきよを見る目がそりゃあ冷てぇからな。だから、おきよが盗人のお前に向かって怒り狂うのをお冨美は期待しやがったんだ」


 そんな理由で甚吉を盗人呼ばわりしたのか。兄たちの仲を裂くためなら、甚吉の人生がどうなろうと構いはしないと。銭のある家の子なら、こんな暮らし向きの小僧一人、道端の石ころ程度の価値もないのか。

 怒りなのかなんなのか、よくわからないままに震えが指先にまで伝わる。

 けどな、とマル公は言った。


「おきよは気性は荒ぇかもしれねぇが、まあ莫迦じゃあねぇ。あっちも女のカンで気づいたのよ。この妹は自分を目の敵にしてるってな。だからあの場でギャアギャア騒がなかった。気づいてねぇのはあの若旦那だけよ。ヒトを見る目がこれっぽっちも備わっちゃいねぇなぁ。あれで商人あきんどが勤まんのか。おめでてぇおつむりよな」


 ケケケ、とマル公は言いたいことを言って笑っていた。あんなに可愛かったマル公はどこへ行ったのだろう――

 いや、もともとこうだったのだ。人々が可愛い生き物だと浮かれている間も、マル公はこう人を小莫迦にした目で見ていただけである。

 しかし、海の生き物がこんなことを考えているなんて誰が思うだろうか。


「犯人があの子だとして、本当のことなんて語ってくれるわけがねぇ。これじゃあ、おれはやっぱり濡れ衣を被せられたまま出ていくしかねぇんだな」


 しょんぼりとした甚吉に、マル公はハァンと嫌な声を上げた。


「オイコラ、オイラがここまで言ってやってるのに、自分でちっとは考えようって気がねぇのかてめぇはよぅ」


 怖い。凄まれた。


「おれの頭じゃ無理だ」


 学のない甚吉には無理だ。そう思ったけれど、果たしてマル公に学はあるのか。――きっとない。


「言い訳すんじゃねぇぞコラ」


 そう言われてしまったが、何も言い返せそうもない。

 考えろ。他の誰でもない自分のためだ。

 甚吉がうんうん唸っていると、マル公は呆れたようにつぶやいた。


「てめぇにこれ以上無くすもんなんてねぇだろうがよ。当たって砕けてきやがれ」


 ひどい。

 ひどいけれど、本当にそうなのだ。甚吉には後がない。

 それなら、当たって砕けるしかないのだ。あの三人がどこの誰だかわからないのだから、見失ったらもう終わりだ。今ならまだ茶屋にいるかもしれない。

 甚吉は覚悟を決めてこぶしを握った。すると、それを認めたのかマル公が笑った気がした。


「ま、後はてめぇ次第だがな、ここへ戻れるようにひとつだけ力を貸してやるぜ。ただしそれはてめぇがちゃんとやることやったらの話だかんな」


 ぼにょぼにょぼにょ。


 マル公は、口は悪いけれどもしかすると世話役の甚吉のことを少しくらいは気に入ってくれているのかもしれない。内緒話の後、ほんの少しそんなことを思った。ただ――


「天麩羅買ってこいよ。じゃなかったらこの話はナシだかんな」


 本気で天麩羅が食べたいだけなのか。

 正直なところ、そっちが本命のような気もするけれど、それでも助けてくれるのならいいかと思うしかない。


「わかったよ――」


 手ぶらで戻ったら怖いな、とそんなことを考えながら甚吉は苦笑した。


「じゃあ、行ってくるよ。ありがとう、マル先生」

「おお、しくじるんじゃねぇぞ」


 そんな声に見送られ、甚吉は小屋の外へ駆け出した。戻るつもりの甚吉であるけれど、他の者たちは挨拶ひとつなしで出ていった恩知らずと思うだろうか。

いや、今は余計なことを考えている場合ではない。マル公の教え通りに動くしかない。


 甚吉は新兵衛座の小屋を訊ねる。こちらと大した違いのない葦簀掛けである。ただ、水芸のからくりを盗み見ると思われたのか、一座の男衆にひどく嫌な顔をされた。


「てめぇ、寅蔵んとこの坊主じゃねぇか」

「へ、へい。あの、さっき真砂太夫に助けてもらって、その、お礼をひと言言わしてもらいてぇんです」


 へこへこと頭を下げた。甚吉は頭を下げることになんのためらいもない。赤子にだって下げられる。

 湯屋でこすり過ぎたのか肌の赤い男衆は首筋をバリバリと掻きながら鼻息を吹き出した。


「真砂太夫――おまさなら裏手だろうよ。ほれ、こっちには入るな」


 仕草は荒いけれど、存外親切であった。


「ありがとうごぜぇやす」


 もう一度頭を下げて甚吉は小屋の裏へと回った。きょろきょろと辺りを見回すと、木のそばに太刀を立てかけて扇子を振るう真砂太夫がいた。その扇子からも水が迸る仕組みなのだろうか。などと考えている場合ではない。甚吉は急いで真砂太夫のもとへと駆け寄った。真砂太夫はすぐに甚吉に気づいて手を止めた。

 甚吉は慌てて頭を下げる。


「さっきはありがとうごぜぇやした。おかげで助かりやした」

「いや、ね、あんたみたいに素直な子が罪人なんてあんまりだから口を挟ませてもらったのさ」


 春風のようにさりげない微笑である。


「あの、おれは本当にやっちゃいやせん」

「そうかい。あんたがそう言うのならそうなんだろうね。それならなおさら、間に合ってよかったよ」


 あっさりと、それはあっさりと信じてくれた。

 美しいばかりでなく、銭のあるなしや身分で人の性根を見誤らない。そうした目が、真砂太夫の芸にも表れているのかもしれない。甚吉は言いようもなく嬉しかった。


 けれど、喜びに浸っているいとまはないのだ。甚吉はマル公の入れ知恵の通りに真砂太夫を頼るしかなかった。

 マル公の描いた筋書き通りに話し終えた後、真砂太夫は小さくうなずいてくれた。


「それくらいならお安い御用さ。あんた、大したもんだね」

「え、や――」


 大したものなのは甚吉ではなくマル公の方だろう。しかし、そんなこと言えないのである。

 フフ、と軽やかで甘い笑声が甚吉の耳朶をくすぐる。


「自信を持ちなよ。きっといいように風が吹くさ」


 そう、思いたい。そうなるように今が踏ん張り時なのだ。


「へい」


 もう一度大きく腰を折って頭を下げると、甚吉は茶屋に向けて走り出した。


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