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海怪  作者: 五十鈴 りく
❖ 海怪
6/70

海怪 ―伍―

 甚吉は涙に濡れた顔を上げた。

 しかし、目の前にはマル公しかいなかった。つぶらな眼を甚吉に向け、軽く首を傾げている。甚吉は悲しみのあまり頭がおかしくなったのかもしれない。そんなふうに思ってしまった。

 その時、マル公が髭を揺らしてクツクツと笑ったのだった。


「オイオイ、そのおつむりは飾りか。やってもねぇ咎で追い出されて悔しかねぇのかよぅ」


 その笑みは、愛くるしいとは言えない薄昏うすぐらいものであった。つぶらな眼を半眼にしてマル公は言い募る。


「いつまでも呆けてるんじゃねぇぞコラ。いい加減にしろってぇの」


 ヒレで水をかけられた。甚吉は避けることもできずに頭を濡らした。

 認めたくない。認めたくないけれど、この子供のような声はマル公から発せられている。しかも、甲高い声に反してひどく口が悪い。


「ったくよぅ、てめぇ、昔からこうなんだろ? 人外の声も聞こえてたんだろぅよう」

「――っ」


 そう、なのだ。誰もいないところから声が聞こえる。そういうことが度々あった。けれど、あまりそれを深く考えないようにしてきたのだ。人でないならなんの声だと考えるのも恐ろしかった。要するに、認めなかったのだ。それなのに、今この時になってはっきりと聞こえてしまうのだ。


「マ、マル公、お前――」


 やっとの思いで口を開いた甚吉に、マル公は更に水を跳ね上げた。ビシャビシャになった甚吉はもう気が遠くなりそうだった。けれど、マル公がそれを許してくれない。


「マルってぇ名はまあ許してやる。けどなぁ、安っぽく呼ぶんじゃねぇよ」


 怖い。凄まれた。可愛い顔をしてまるで荒くれだ。


「マ、マル先生」


 偉い人は先生だと、浅学ながらに甚吉が呼ぶと、マル公はそれで納得してくれたらしい。フン、と鼻息が聞こえた。


「まあいいだろ。おい、甚、てめぇ、それでどうすんだ。素直に出ていくのか?」

「そ、そりゃあ、もう置いてもらえねぇから」


 するとマル公はカーッと叫んだ。


「なっさけねぇなぁ。てめぇ見てっとイライラすんぞ」


 毎日世話をした恩はどこへ行ったのだろう。そんなことを少し思った。

 マル公は甚吉の心中などお構いなしに、ヒレを生け簀の外の板敷にぺし、とつく。


「身の証を立てようって気概はねぇのかよ」

「そ、そんなの、どうにもならねぇさ」


 腹ばいになっている甚吉の頬をマル公のヒレがひっぱたく。ある意味、寅蔵の一撃よりも目が覚めた。


「やる気のねぇヤツに知恵なんぞ貸さねぇぞコラ」

「へ?」

「てめぇが自分を盗人に仕立てようとしたヤツにひと泡吹かせようって気がねぇのなら、知恵を貸さねぇって言ってんだ」

「知恵って、マルこ――先生には誰が仕組んだことなのかわかってるのかい?」


 甚吉が思わず身を起こすと、マル公はスイーっと生け簀をひと泳ぎして戻ってきた。


「モチあたぼうよ」

「そ、それなら教えてくだせえッ」


 そう懇願した甚吉に、マル公はにやりと笑った。笑った、気がしたのだ。


「いいだろ。けどな、タダってわけにはいかねぇな」


 まさかの袖の下を要求された。あのツルツルのヒレに袖なんてないくせに。これじゃあ平左親分と変わりない。そう思ったことを見透かされたようだった。


「オイコラ、たかだか二人扶持同心の岡っ引き風情とオイラを一緒にしやがるんじゃねぇぞ」

「じゃ、じゃあ、何をすれば――」


 びくびくしながら訊ねると、マル公はフン、と言って口から水を飛ばした。


「ほら、アレだ。オイラは()()が食ってみたい」

「え――?」

天麩羅てんぷらってヤツだ。どいつもこいつもうめぇうめぇ言いやがって畜生め。気になって仕方ねぇじゃねぇか」


 まさかの天麩羅。あれも魚だから食べられなくはないのかもしれないけれど。屋台ならひと串四文。甚吉にだって買えないものではない。


「わかった。買ってくるから助けてくれ」


 すると、マル公はにんまりと――笑った気がした。


「優しいオイラは後払いツケで許してやるぜ。今日のところはそのアジ寄越せ。腐るじゃねぇか」


 そういえば、マル公の餌を客がやる前に騒動になった。途中で放り出した盥の中にはアジがまだ少し残っている。


「あ、ああ」


 甚吉はアジを一匹ずつマル公に向けて放った。マル公はそれらを器用に口で受け止める。それを食い終わると、マル公はゲップリ変な音を立ててから言った。


「この生け簀からはいろんなヒトが見えやがる。次から次へと押し寄せてくるからな、ヒトの観察をするにゃぁ持ってこいだ」

「マル先生はそこでヒトの観察をしているのか?」


 思わず顔が引きつった。見料を払って海のばけものを見物しているつもりが、逆にそのばけものから観察されているとは誰も思わないだろう。


「退屈しのぎにな。熱海くんだりから江戸まで、いろんなヤツがいたな。ああ、ショウグンってヤツにも会ったが、まあ別にタダのヒトだな」


 公方様になんてことを言うのだろう。甚吉は開いた口が塞がらなかった。

 マル公はクククと笑う。


「オイラを間抜け面で眺めていやがるヤツらを眺めるのは、こっちとしても面白くてよ。まあ、オイラがこんなにも利口だなんて誰も思っちゃいねぇからな。どいつもこいつも気ィ抜いてやがる」


 愛想を振り撒いて可愛く鳴いていたかと思えば、腹の中ではこんなことを思っている。とんでもない生き物だ。甚吉の方が気が遠くなりそうだった。

 けれど、ようやくそこで我に返った。


「それで、その、どうしておれは濡れ衣を着せられたんだ」


 すると、マル公は首をゆらゆら揺らしながら言った。


「別にてめぇじゃなくてもよかったんだろ」

「な――ッ」

「てめぇは両手が塞がってて隙だらけだったかんな。それだけのこった」

「そんな――」


 そんな程度のことで自分は何もかもを失おうとしているのか。あまりに理不尽だ。

 誰かに対して怒りというようなものを感じたことはあまりなかったけれど、今はそれが沸々と沸いてくるのであった。


「一体誰がこんなことをしたんだ?」


 震える声でやっとそれだけを問うと、マル公はハン、と鼻で笑って言った。


「あのちんまい娘っ子しかいねぇだろうが」


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