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海怪  作者: 五十鈴 りく
❖ 東両国

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東両国 ―拾―

 その翌日も、拾吉は新兵衛座にいた。まだ何も思い出さぬらしい。

 しかし、真砂太夫と楽しげに話していて、居心地はよさそうに見える。このまま思い出せぬとしても、拾吉は案外仕合(しあわ)せなのではないだろうか。


 甚吉が葦簀(よしず)の陰で虚しく焼きもちを焼いていると、いつの間にやら背後に穂武良(ほむら)がいた。


「おぬし、何をしておるのじゃ?」


 思わず、ギャッと悲鳴を上げたが、幸いなことに誰にも気づかれなかった。この狐は誰の目にも映らない。甚吉が一人でおかしな動きをしているに過ぎない。


「あ、いや、その、この間穂武良様に助けて頂いたお人が、実は自分の名も思い出せなくなっておりやして。さんざっぱら殴られたせいじゃねぇかと」


 疚しさは横へ置き、甚吉は事情を語った。

 穂武良は上を向いていた白い鼻面をうなずくようにして一度下げた。


「ほう。それは難儀な」


 穂武良はそう言ったかと思うと、そのまま姿を消した。一体何をしに来たのだろう。

 そう思ったが、甚吉が再び拾吉を見遣ると、消えたと思っていた狐が拾吉のすぐ後ろにいたのだ。


 あ、と甚吉は小さく声を漏らす。

 穂武良がフサフサの尻尾を拾吉の足首に当てたのだ。その途端、拾吉はもんどりうって派手に倒れた。穂武良は拾吉の頭の方に回り込み、前足をにゅっと突き出すとその額を――踏んだ。


 ただ踏んづけたのではない。手を当てたと言った方がいいのかもしれない。

 転んで目を回した拾吉を真砂太夫が覗き込んで声をかけている。もちろん真砂太夫には穂武良の姿は見えていない。

 甚吉も拾吉に駆け寄った。


「ひ、拾吉さんッ」


 呼びかけると、拾吉はハッと目を覚ました。


「こ、ここは一体――」

「ここ? ここは西両国広小路さ。もしかして、何か思い出したのかい?」

「思い出す?」


 真砂太夫に、拾吉は呆然と顔を向けた。真砂太夫はうなずく。


「あんた、ここ数日、自分のことを全部忘れて過ごしてたんだよ」

「数日ッ」


 それを聞くやいなや、拾吉は飛び起きた。そして、一も二もなく駆け出した。そのまま、一度も振り返ることなく去ってしまったのだ。


 何やら、とても急いでいた。火急の用があったことを思い出したような――。


「おや、本当の名も告げずに行っちまったよ」


 真砂太夫は呆れた様子だった。

 けれど、その中に一抹の寂しさも含まれていたように思う。そんな真砂太夫を見ていると、甚吉も何か言わねばという気になってしまった。


「あ、あの、拾吉さんはどこぞの料理人なんじゃありやせんか? 評判の店を探したら、もしかするとまた会えるかも」

「そうだねぇ」


 苦笑する顔が、真砂太夫にしては珍しく思えた。

 その背中を見送ると、甚吉の隣で穂武良が首を傾げている。ずっとそこにいたのだ。


「うん? なんだ、湿っぽい顔をしおって」


 拾吉にも本当の暮らしがある。

 思い出したのなら家に帰るし、ここにいる理由もない。

 それはそうなのだが、あまりにあっさりと去ったものだから、関わった者たちの心には穴が空いたままだ。


 とはいえ、もう考えていても仕方がない。

 甚吉はため息をついた。


「袖振り合うも他生の縁って、今回のはなんの縁だったんでしょう? 呆気ねぇもんです」

「おぬしの縁はヒトよりも人外に結びついておるのではないか?」


 ぐうとも言えない。

 けれど、マル公や穂武良との縁もまた、甚吉にとっては大事な縁である。

 ハハ、と軽く笑った。


「穂武良様、マル先生に会っていっておくんなさい。ちょいと最近色々とあって」

「色々とな?」

「へい。鬱憤が溜まってるかと」


 身から出た錆と言えなくはないが、銭を失って美味いものは食えず、料理人らしき男からは食材を見る物騒な目を向けられ、このところのマル公は散々である。


「鬱憤なぁ」


 穂武良はほぅ、とひとつ息をついた。


「今日はお染のところに行こうかと思っておったが、まあ明日でもよいか」


 縁側で猫のフリをして昼寝しようとしていた狐を捕まえ、マル公は口角泡――の代わりに水飛沫を上げながら愚痴を零した。


「なんでぇなんでぇ、やっと(けぇ)ったのかよ。ったく、おめぇら、物騒なモン拾ってくんじゃねぇよ」

「はて、物騒とは? 穏やかな男に見えたがな」


 甚吉が穂武良に事情をボソボソと耳打ちする。大きな耳なので耳打ちせずともよかったかもしれないが。

 ピコンと立った狐耳で話を聞き終えると、穂武良はクク、と笑った。

 クク、と上品に笑っていたのは最初だけで、我慢しきれなくなったのか、そのうちにヒィヒィいって笑ったものだから、マル公もご立腹である。


「笑い事じゃねぇッ、このトンチキがぁッ」


 実際に包丁で下ろされ、鍋で煮られたわけではないから、まあ笑い事でいいかと甚吉も一緒になって笑っておいた。

 

 さて、そうして去った拾吉ではあるけれど――後日、西両国広小路を訪れたのである。


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