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海怪  作者: 五十鈴 りく
❖ 東両国

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東両国 ―参―

 マル公と甚吉の特訓は続いた。

 甚吉が箸で四文銭をつかもうとすると、マル公がヒレで水の流れを作り出して妨害する。これはマル公が言うには、水に攫われないように銭をつかんで耐えられたら、きっと油の中の小判をつかむ時も滑らず、箸先に力を込められるはず――だそうだ。

 本当だろうか。


 口の悪いマル公のしごきに耐え、甚吉がマル公に認められたのは、練習を始めてから四日後のことであった。

 決して甚吉の腕が上がったとは思わない。甚吉は、小判をつまみ出せる気がしない。水の中の四文銭でさえ、たった一度しかつかめなかったのだ。

 それでもマル公が甚吉を東両国に送り出したのは、きっと早く美味いものが食べたくなったからに違いない。


 しかし、そう首尾よく行くとは限らないのだ。下手を打ってマル公に叱られるだけの気はするのだけれど、行かなければそれはそれで男気を見せろと言って叱られるのだ。どちらにしろ怒られる。そして、甚吉は怒られ慣れている。

 そう考えたらいつものことかと気が楽になった。


 日頃から影の薄い甚吉は、少しくらい抜け出したところで見つからないのだと、近頃気づいた。便利ではあるものの、少し悲しくもある。


 甚吉は、見世物小屋が一番落ち着く昼頃に両国橋を渡った。今まで、わざわざ橋を渡って東両国へ足を向けたことはあまりなかったかもしれない。甚吉の世間は狭いのだ。

 一番人気(ひとけ)がないとはいっても、多いことは多い。人にぶつからぬように気をつけつつ、甚吉は急いだ。賑やかな太鼓の音が青い空に響き渡る。


 野天のてん芸人たちの周りには人垣ができており、それでも隙間から少しだけ見ることができた。独楽回しや居合抜きに感嘆のため息を漏らしつつ、甚吉は東両国広小路をうろついた。

 あまり遅くなってはいけないと思うけれど、マル公が言う出し物はどこにあるのだろうか。詳しい場所まではマル公も知らないのだろう。大道講釈の声に背を押されながらさらに歩くと、わいわいと人が集まる一角があった。


 甚吉はその人垣から中を覗こうと近づく。他の見世物などより人垣に隙間もなく、白熱した気が立ち込めていた。ああ、とかおお、とか、浮き沈みのある声を人垣が立てている。

 なんとかして入り込むと、それこそが鍋の小判であった。


 マル公が言った通り、鍋の中は油で満たされ、その底に小判が五枚ほど沈んでいる。真鍮の火箸でそれをつかもうとする若い男がいたけれど、つまむのがやっとであり、小判は油から頭を覗かせただけですぐにまた中へと潜ってしまう。小判の美しい黄金色を甚吉が目にする機会などそうそうなく、目が眩みそうであった。


「残念ッ。さ、次はどなたで?」


 若い男から火箸を受け取った胡散臭い男が香具師やしだろうか。髷も曲がっているし、木綿の襟も擦り切れて金回りがよさそうには見えない。


「次は俺だッ」


 張りきった声に甚吉はハッとした。うかうかしていたら小判はすくい出されてお終い、というオチがつくかもしれない。当たって砕ける前に終わってしまっては、マル公の失望が止まらない。あの可愛らしい顔で冷たい目を向けられるのは耐えられない。


「つ、次はおれが――」


 震える声を上げた甚吉を、香具師は値踏みしている。上から下までじっと見られ、それから香具師は言った。


「木戸銭は十二文だ」


 甚吉が持っているのは、丁度十二文。つまり、一度きりということだ。


「へ、へい」


 袂から四文銭三枚を取り出し、手渡す。それで香具師は納得したらしい。薄い笑みを浮かべてうなずいた。


「ああ、確かに。じゃあ次はお前さんだ」


 つるん、ポチャン。


 そんな音がして、威勢の良かった男客の嘆きが聞こえてきた。苛立たしげに、甚吉に火箸を突き出す。甚吉が怒られているわけではないのだが、気の小さい甚吉はビクビクと怯えながら火箸を受け取った。


 鉄鍋の中には薄茶色の油。そして、底に折り重なっている小判。文字の他に扇のような模様も刻まれている。小判にはこんな文字や模様が入っているのか、と甚吉は初めて見た代物をつぶさに観察した。

 甚吉は、心の臓が口から飛び出すのではないかというほどの緊張に見舞われた。火箸を持つ手が尋常ではなく震える。


 ああ、己は今、どうやってここに立っているのだろう。どうやって息をしているのだろう。

 それすらよくわからなくなるほどに頭が真っ白になっていた。冷や汗が噴き出す。朦朧としていた甚吉に、香具師がボソリと声をかけてくる。


「後ろがつかえてるんだ、早くしてくんな」

「す、すいやせんッ」


 慌てて火鉢を油の中に突っ込んだ。軽くかき混ぜ、そして、一番上に来た小判に箸をかけた。細長い小判のどこに力を入れれば最も滑りにくいのか――そんなことはやはりわからなかった。

 これといった技もなく、不器用な甚吉だ。人外の声を聞けるという妙なことができる、それだけが取り柄と言っていいのかはわからないけれど、それ以外は人並み以下である。


 それから、親の顔も知らず生きてきた。恵まれているとは言えない方だろう。そんな甚吉なのだから、たまにはいいことくらい起こったっていいのではないかと思えた。

 この小判があれば、マル公に美味いものをたくさん食べさせてやれる。一枚でいいからほしい、と願った。


 箸先にグッと力を込め、甚吉は小判を油の中からつまみ上げた。

 そして――

 

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