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海怪  作者: 五十鈴 りく
❖ 海怪
5/70

海怪 ―肆―

 甚吉は寅蔵、平左、太一郎に囲まれ、顔を蒼白に染め上げていた。平左の下っ引きが野次馬たちを追い払い、生け簀の前にいるのは男四人ばかりとなった。ガタガタと震えて膝をついた甚吉に、三人の厳しいばかりの目が降り注ぐ。


「この小僧が象牙の櫛を猫糞ねこばばしようとしたんですよ」


 太一郎が櫛を手に、親に言いつける子供のような顔をした。寅蔵はあぁ、と甚吉に尖り声を浴びせた。


「ちいせぇ頃から世話をしてやって、恩を仇で返すのかおめぇはよぅッ」


 甚吉の胸倉を金棒のような太い腕で締め上げる。その力に、甚吉の薄い浴衣がミシ、と小さく破れる音が耳に残る。


「ち、ちが――」


 首が締まり、いっそう声が出ない。ただ、涙だけがツと甚吉の頬を伝う。毎日ひたすら真面目に働いて生きてきたというのに、その結果がこれなのか。やってもいない罪を着せられたことよりも、やっていないと寅蔵に信じてもらえないことが何よりつらかった。甚吉がしてきたことを寅蔵は少しも認めてはくれていないのだと。

 フン、と鼻息も荒く寅蔵は甚吉を突き飛ばした。それが決別の合図であった。


「親分さん、こんな恩知らず、とっととお縄にしてくだせぇ。入れ墨でもタタキでもあっしの知ったこっちゃありやせん」


 ひどい仕打ちだ。甚吉は呆然としてしまったけれど、寅蔵に見捨てられた時、甚吉はもう生きられる術を失ったのだ。寅蔵の他に誰が自分を庇ってくれるというのか。希望は潰えた。そう、思った。

 けれど、救いの手は差し伸べられたのだ。


「おや、寅蔵親方ともあろうお人が、ずいぶん薄情なこと」


 ゾクリ、と身を震わせるほどに婀娜あだな声だった。声の美しさと違わぬその姿、葦簀よしずの向こうから現れた女に男たちは思わず見とれた。

 それは真砂太夫だった。軽く着崩した着物の裾を引きずって歩く姿は美しく、先ほどのおきよもかすんでしまうほどだ。甚吉には真砂太夫に後光が差し、弁天様のように思われた。


「この坊や、毎日懸命に働いていたじゃありませんか。そんな仕打ちはあんまりですよ」

「そ、そんなこと言ったってなぁ」


 寅蔵でさえ、上手く舌が回らない。真砂太夫はフフ、と艶やかに笑った。


「魔が差すってこともござんしょう。一時の過ち、今までの働きに免じて許しちゃやれないもんでしょうかねぇ」


 真砂太夫は、甚吉がやっていないとは言わない。けれど、やっていたとしても許してやれと言うのだ。


「若旦那、櫛は戻ったんでしょう。それでよござんせんか」


 大輪の花のごとき微笑みに、太一郎は喉を鳴らした。


「それは、まあ――」


 けれど、平左だけはかぶりを荒っぽく振った。


「やいやい、この十手の前で盗人を見逃せたぁずいぶんじゃねぇか」


 その声に、甚吉は首をすくめた。それでも真砂太夫は怯まない。クスリと笑って寅蔵に目配せする。寅蔵は何が言いたいのかすぐに察した。本当に嫌そうな面持ちで、けれど思案の末の損得勘定で動いたのだ。

 懐から何かを取り出すと、平左の手に落とした。座り込んでいる甚吉には銭の音がしっかりと聞こえた。袖の下が平左の勢いを削ぐ。


「まあ、小僧のしたこった。あんまりぎゃあぎゃあ騒ぐのも野暮ってもんだな」


 あまりに鮮やかな手の返しように思われるけれど、もともとこの袖の下が目当てであるのだ。同心も御用聞きもそうして懐を肥やしている。それは何も今に始まったことではない。


「じゃあな、これからは真っ当に生きろよ」


 などともっともらしい捨て台詞を残し、平左は気忙しく去った。真砂太夫は小さく息をつく。もう大丈夫だと判じたのか、真砂太夫も寅蔵ににこりと笑って背を向けた。


「やっぱり寅蔵親方は粋なお人ですねぇ。ああ、よかったよかった」


 太一郎はすでに甚吉に関心を失っているのか、咎めもせずに真砂太夫の背を見つめていた。そして、ハッと我に返ってこもの外へと出ていった。


 取り残されたのは甚吉と寅蔵である。寅蔵は人目がなくなった途端に手の甲で甚吉の頬を張り飛ばした。小柄な甚吉は吹き飛んで生け簀に首を突っ込みそうになる。

 口の中に血の味が広がった。もちろん痛いけれど、心の傷の方がよほど深い。

 ずっと静かにしていたマル公がヲォ、と小さく鳴いた。


「この莫迦がッ。罪人にならなかっただけ儲けもんだと思ってとっとと出ていきやがれ」


 胴間声が頭上から響き、そうしてドスドスと地響きをさせながら寅蔵は去った。今日の稼ぎがろくに入らず、その上余計な銭まで飛んでいったのだ。怒りは深い。


 寅蔵が言うように、罪人にならなかっただけ幸いなのだ。やっていないけれど、やっていない罪で島に送られる人だっている。世の中とはそうしたものなのだ。甚吉は救われた。まだマシなのだ。


 それはわかるけれど、それでも悲しくないはずがない。

 懸命に働いた挙句、居場所を失ったのだから。

 何が悪かったのかもわからない。櫛なんて盗っていない。

 それなのに――


 生け簀に顔を向けたまま、甚吉は涙を流した。声を殺して、しょっぱい水を生け簀に落とす。マル公はそんな湿っぽい塩気は要らないと思うだろうか。

 マル公ともこれでお別れかと思うと、甚吉は余計に泣けてくるのだった。


「ごめんなぁ、マル公、もうお前の世話をしてやれねぇんだ」


 そう語りかけると、パシャンと水が跳ねる音がした。そうして――


「ハハン。追い出されてどうするってんだ。行き場もねぇくせに。大川(隅田川)に身投げでもすんのかぁ」


 甚吉が耳を疑った言葉は、甚吉の目の前から発せられたのだった。


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