判じ絵 ―捌―
「おお、待っておったよ」
「へ、へぇ」
にこやかにそんなことを言われた。
この老爺、特に怪しいところはない。上等の着物を着て、髷も綺麗に結っている。裕福な家の隠居だろう。ただ、その隠居が甚吉に用があるとは思えなかったのだ。
しかし、隠居は嬉々として言った。
「あの本を読んだのだな」
「あの、って、判候――でございやすか」
マル公がそう言っていた。だから言ってみただけなのだが、隠居はさらに嬉しそうに拳を握った。
「おお、そうだ、それだ。読んでみたのなら、どう感じたのか率直に教えておくれ」
教えて欲しいと言われても困る。甚吉はこんな難しい本など読めない。読んだのはそう、そこで泳いでいる海怪である。
しかし、そんなことは言えない。だから甚吉は嫌な汗を掻きながら言った。
「へ、へい。空とか梅とか若侍の見た景色が綺麗でやした」
マル公が確かそんなことを言っていたはずだ。隠居は納得したようだった。ふむふむ、とうなずく。
「おお、そこに目をつけるとは、なかなかの通人よ。それで?」
それでと来た。マル公は生け簀から円らな眼でじぃっと甚吉たちの方を見ている。
「お、面白かったと思いやす」
そうとしか言えなかった。
すると、その老爺はやっと前のめりになるわけを教えてくれた。
「ふむ、そうかね。それはありがたいことだ。それは私が書いたものでね」
「へ――」
「正月に恵方へ詣でた時にその話が思い浮かび、それで三が日家に籠って書き上げた。それで恵比寿初詣と」
まさかの恵比寿初詣がこんなところにいるとは。しかも、何度も来ている。
あんぐりと口を開けた甚吉に、初詣は童子のように目を輝かせて言った。
「その話の中に判じ絵が出てくるだろう? 姫の居場所を解くための手がかりになるのだが、こう本になって流布してから気になり始めたのだよ。ふと判じ絵が落ちていて、それを解く者がどれくらいいるのだろうかと」
「あ、ああ――」
落ちている判じ絵。ここに落ちていた判じ絵は――
「それで、あちこちに私が描いた判じ絵を撒いてみた。その成果が出たのかどうか、まだ聞き込みはしていないのだが。おぬし、ここにも判じ絵を落としておいたのだが、知らないかね?」
「ま、まんじゅうのっ?」
甚吉は袂から折り畳んだ二枚の判じ絵を取り出す。そう言われてみると、判じ絵の左下に落款がある。その字は『詣』――
「おお、二枚も持っておるのか」
初詣は嬉しそうに、今にも小躍りしそうに見えた。甚吉の方がなんとも言えない。
「まんじゅうは解けたようだな」
そう問われ、甚吉は思わず答えた。
「へい。まんじゅうで。これはどうして巽屋さんのなんですかい?」
初詣は甚吉の手から判じ絵を奪い、それから二枚目を見遣った。
「ここへ来る時に通りかかる饅頭屋が巽屋だからだ。着物の柄にまで気づいたのもえらい。それで、この二枚目は?」
「水からくり――で」
マル公はそんなやり取りをじぃっと見つめている。目が怖い。いや、怖いというよりももどかしいのかもしれない。甚吉よりもマル公の方が初詣と実のある話ができるはずなのだ。
そんなマル公の視線には気づかず、初詣は嬉々として言った。
「おお、正解だ。おぬし、なかなかやりおるな」
やりおるのはマル公であって、甚吉ではない。しかし、そのところは上手く言えない。はあ、と曖昧な声を上げる甚吉に、初詣は大きくうなずいてみせた。
「おぬしのおかげで自信がついた。うむ、人は謎が落ちておれば解かずにはおれないとな。よしよし、これで心置きなく次の作に取りかかれる」
「そ、それはよござんした」
すると、初詣は顎を摩りながら急にマル公を振り返った。マル公は急に振り返られると思っていなかったらしく、少々素の顔であった。慌てて猫かぶり顔に整え直したように思う。
「ヲォ」
獣らしく鳴いて首を傾げる。甚吉にはとぼけているようにしか見えないけれど。
初詣はそんなマル公を眺めつつ、ぽつりと言った。
「あれの目を見ているとな、どういうわけだか落ち着くよ。だから、戯作の続きに詰まるとこうして眺めに来るのだ。あれは人が思う以上に聡い生き物なのだろうな」
「へ、へい」
よくご存じで――とは言いづらいけれど、初詣は戯作者だから、この海怪が実はべらんめえでよく喋り、無類の食いしん坊であると言っても喜びそうではある。
初詣は楽しげに甚吉を見遣った。
「――ところでおぬし、この生き物の名を知っているかね?」
「へ? 海怪の?」
「それは名を知らぬ者がそう呼んでいるに過ぎぬ。源平の時代、奥州藤原氏の献上品の中にはこれの皮があったという。『和名類聚抄』という書物にある『阿佐良之』――それがこの海怪の名だな」
「ア、アザラシ――」
なんとも妙な名に思える。ちらりとマル公を見遣ると、なんだよ、なんか文句あんのかコラという目である。
アザラシ。
ウミノバケモノもどうかと思うので、どっちもどっちかと甚吉は納得した。




