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海怪  作者: 五十鈴 りく
❖ 海怪
4/70

海怪 ―参―

 真砂太夫に魅入っていた甚吉は、なんとか叱られることもなく今日も朝の段取りを済ませることができた。


「マル公、気持ちいいかい?」


 生け簀の濁った水を捨て、新たな海水を入れ直したのだ。ただ、すべてを海水で満たすには足らず、江戸上水が混ざったのは致し方ない。薄味の水にマル公は少しばかり不満だろうか。いや、そんなことは気にせず気持ちよさそうに泳いでいるふうに見えた。


「ヲヲー」


 歌うような声は上機嫌のあかしと思う。髭もピンと立っている。

 甚吉は軽くうなずきながら笑った。



 そうして、時告げの鐘が鳴り、両国には人が次々と押し寄せる。表を見ずとも人の立てる音、立てかけた葦簀を突き抜けて感じられる熱気でそれがわかる。

 本日も大入りだ。


 各々の見世の呼び込みの声がぶつかり合い、長八の口上が寅蔵座に客を誘う。そして、瞬く間に押すな抜かすなと騒ぎ立てながら、客がマル公の生け簀の前の板敷を埋め尽くす。やれ奇怪だの、やれケッタイだの、好き放題に囃し立てるも、マル公はどこ吹く風である。見事に生け簀を泳ぎ、時に顔を出しては客に愛想を振りまく。

 そんな中、甚吉はいつものごとくアジを入れた盥を抱えた。


「あい、すいやせん、通しておくんなせえ」


 人混みを掻き分け、生け簀の正面まで進んだ。さあ、と声を張り上げようとした途端、不意に甚吉の袖が乱暴に引かれた。驚いて盥を持つ手が滑るところだった。それでも零したアジは一尾だけ。つるんと滑ったアジは上手いこと生け簀に落ち、マル公は喜んでそれを追った。


 けれどその時、甚吉にはアジ一尾にかまけていられない大惨事が降りかかったのである。


「泥棒ッ」

「え――?」


 甚吉の袖を引っ張っているのは、十一、二歳の髪を桃割れに結った女の子であった。着ている単も上等の、裕福な商家の娘だと見て取れる。女の子はつぶらな眼をキッとつり上げ、甚吉の汚れた袂をゴソゴソと探り出した。


 泥棒、と女の子は言った。そんなはずはない。甚吉は何も盗んだことなどない。とんだ言いがかりだ。

 この時の甚吉は、その疑いはすぐに晴れると信じていた。

 なのに、甚吉の袂からは乳白色の美しい象牙の櫛が出てきたのである。女の子の小さな手がその櫛を握りしめている。


「人がいっぱいで押されたおきよさんの頭から櫛が落ちた時、この人が拾って袂に入れたのをあたし、見たんだから」


 象牙の櫛とは高直こうじきなもの。けれど、どんなに貧しくとも甚吉は人様のものに手などつけない。そこに入っていたというのなら、誰かが入れたのだ。入れたのは甚吉ではない。


「そ、そんな――」


 知恵のない甚吉は、この窮地を言い逃れる術もなく、愕然と立ち尽くした。傾いた盥からアジが次々に零れ、生け簀に落ちる。マル公はお構いなしに食べていた。

 見物客たちがざわついた。マル公ではなく、甚吉に客の目が向く。

 ひそひそと声が聞こえた。


「泥棒だってさ」

「ああ、いかにも金に困ってそうだなぁ」

「いやぁねぇ。あたしの巾着が無事でよかったわ」


 違う、やってない。けれど、誰がそれを信じてくれるのか。

 女の子の後ろにいた色白の若旦那が、いきり立つ女の子から櫛を受け取ると甚吉を睨みつける。


「その櫛は私がおきよに買ったものだ」


 ()()というのは、その若旦那のそばにいる女だろう。同じような商家の出の娘と見える。富士額の面立ちはすっきりと整い、十分に美しい。十七、八だろうか。ほんのりと紅い目元に色香がある。

 きよは無言で太一郎の手元の櫛を眺めていた。それを女の子がもの言いたげに見上げている。きよはふぅ、とひとつ息をついた。


「太一郎さんから頂いた大事な品ですのに、落としてしまうなんて――」


 よよよ、と袂で目を隠すきよに、太一郎という若旦那はかぶりを振った。


「おきよ、お前は何も悪くない。具合が悪そうだね、お冨美とみ、おきよを茶屋で休ませてやっておくれ。私は少しばかり話をつけていくから」


 その言葉に、冨美という女の子はくしゃりと顔を歪めた。それを言った兄の目がいつもよりもつり上がっていたせいだろう。


「お冨美ちゃん、お願いね」


 そう言って、きよは冨美の袖を引いた。冨美は太一郎を気にしつつ、渋々といった様子で割れた人垣の外へと消えた。太一郎は嘆息すると切れ長の目をキッと甚吉に向けた。その時、荒っぽい声が遠巻きの喧騒を押し退けて見世物小屋に割って入る。


「どいたどいたぁ。盗人ぬすっとってぇのはどこのどいつだ」


 乱暴なその声は、四十ばかりの男の声だった。現れた顔は四角く、小さな目に広がった鼻、威張った顔立ちをしている。尻っ端折り、腰には磨き抜かれた銀の十手が光る。この男は同心の手下てか、御用聞きの親分なのだ。

 時折この界隈に来るけれど、甚吉は目を向けてもらった覚えすらない。この男、平左へいざ親分という。


「この小僧です。早くお縄にしてくださりませ」


 太一郎は吐き捨てるように言った。甚吉は弱々しく首を振る。違う、と恐怖のあまり声が出なかった。しょっ引かれてしまえば、責め苦に口を割るのは目に見えている。やっていないと突き通せば突き通すほどに苦しみは伸びていく。身の潔白など証もなく立つはずがない。


「一体何があったんですかい。うちのが盗人たぁどういうことで?」


 寅蔵がひょこりと顔を出した。強面であるけれど、甚吉を見捨てるような情のないお人ではないはずだ。甚吉は一縷の望みを祈るように託した。

 けれど、うつつは残酷なものなのである。


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