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海怪  作者: 五十鈴 りく
❖ 稲荷

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34/70

稲荷 後日譚

 甚吉はその夕刻、お礼参りに稲荷社を訪れた。

 しかし、神使の白狐は現れなかった。それが少し寂しい。


 世話にもなったから、直接礼を言いたかったけれど、仕方がない。

 社を前に両手を合わせ、甚吉は稲荷神と狐に感謝の念を伝え、僅かながらの賽銭を入れた。粂太にもらったまんじゅうも、ひとつはマル公にあげて、もうひとつをここに供えた。


 その時、背後で聞き覚えのある声がする。


「しらたまぁ」


 ハッとして振り向くと、やはりそこにいたのは白玉好きな女の子であった。また白玉売りを探しているようだ。

 しかし、稲荷社にまで探しに来るのがすごい。マル公並みの食い意地だ。

 供は前回よりも幾分か若い奉公人であった。年恰好からして手代だろう。


「お嬢様、そろそろお戻りになりませんと」

「いやッ。しらたまが見つかるまで帰らないッ」

「そんなぁ。ただでさえ萬助さんが所払いになって店の中はゴタゴタしているんですよ」


 萬助――

 奉公人は確かにそう言った。まったくいない名でもないが、所払いになったとは、何かの罪が問われたのだ。あの番頭である気がする。

 一度気になると、二人の会話に聞き耳を立ててしまう。


「萬助のこととしらたまは関係ないでしょう? しらたまが野良犬に苛められていたらどうするのよぅ」


 と、女の子がべそをかき始めたから、奉公人は焦るばかりであった。

 まさかとは思うけれど、『しらたま』というのはもしや――

 ふと近くいた甚吉に気づき、奉公人は商人あきんどらしい笑みを浮かべて言った。


「ああ、そこの坊や、この辺りで白猫を見なかったかい?」


 やはり、か。


「とっても綺麗な猫よ」


 と、女の子はべそべそ言った。

 なんだかそれがとても可哀想に見えた。だから、甚吉はつい言ってしまった。


「もし見つけたら捕まえておきやす。ええと、どこにお届けすればよろしいんで?」

「元町にある廻船問屋の伊勢屋だ。大店だからすぐにわかるよ。ちゃんとお礼はするから頼んだよ」


 その礼とやらに目が眩んだわけではない。大好きな相手に会えないのは悲しい、その気持ちがわかるからだ。甚吉だってマル公に会えなくなったら寂しいから。

 でも、と甚吉は告げる。


「猫は自由な生き物でございやす。閉じ込めたり繋いだり、首に紐や鈴をつけたり、そういうことを嫌がりやす。もし、猫がお嬢様のもとへ現れたら、それをよく思い出してやってくだせぇ。そうすればきっと、お嬢様のおうちの縁側に猫は喜んでやってきやす」


 みすぼらしい子供にすぎない甚吉の言葉も、その女の子は真剣に聞いてくれた。そうして力いっぱいうなずく。


「わかったわ。そうよね、わたしもそんなことされたら嫌だもの。教えてくれてありがとう、おにいちゃん」


 なんとも素直な子だ。いい子だな、と甚吉は微笑ましく思った。


「おれは甚吉っていいやす」

「わたしはおそめよ。甚吉にいちゃん」

「お染お嬢様、じゃあまた――」


 なんとも晴れやかな気持ちで稲荷社を後にした。

 けれど、()()を忘れてはならない。



「オヤジさん、稲荷寿司ふた切れおくれ」

「あいよッ」


 甚吉は屋台で、今度こそ稲荷寿司を買うことができたのだった。色々と大変だったから、今はマル公が喜ぶ顔が見たかった。それだけを考えて、急いで戻った。


「マル先生、稲荷寿司買ってきたよ」


 すると、マル公は生け簀の中をバシャンバシャン急いで泳いできた。甚吉が稲荷寿司の包みを解くと、マル公の口からよだれが零れ落ちそうになり、それを必死で抑えて唾を飲み込んだようだった。そうして、マル公は薦の天井に向かって吠える。


「オイコラ、コンコンチキッ。さっさと出てきやがれッ」

「え?」


 甚吉もマル公と同じく天を仰いだ。すると、ふわふわと白い筆のような尻尾が現れたのだ。そこから一回転。稲荷の使いである白狐が現れた。


「しらたまッ」


 思わずそう呼びかけた甚吉に、白狐は牙を剥いた。


「その名を呼ぶでないッ。ワタシは『穂武良ほむら』というれっきとした名があるのだぞよッ」


 狐――ホムラは、染の名づけた名前は気に入ってくれなかったらしい。ホムラより、シラタマの方が似合っていると思ったけれど、そんなことを言ったら絶対に怒るから言わない。


「ホムラなぁ。ま、いいだろ」


 変な名だなぁオイ、とか言って笑うかと思ったマル公はあっさりとしたものだった。それを意外に思った甚吉だったけれど、マル公なりに考えていたことがあったようだ。


「おい、アレだ、その――こいつのこと、助けてくれてあんがとよ。この稲荷寿司はまあ、オイラと甚からの礼だ。まあ、食ってきな」


 マル公がそんなことを言ったのだ。甚吉はあんぐりと口を開けてしまった。

 あのマル公が、食い意地の張ったマル公が、食い物を前にして飛びつかず、差し出したのだ。そんなことが起こるとは――甚吉は夢にも思わなかった。


 その考えがすべて顔に出ていたのか、マル公は甚吉にイラッとした様子を見せた。


「オイコラ、おめぇはオイラのことをなんだと思ってやがるッ。オイラは受けた恩に筋は通す。舐めてもらっちゃ困らぁ」


 なるほど、散々な口を利いていたくせに頼ったのだから、少なくとも感謝は示すと、そういうことらしい。あんなに食べたそうにしていたのに。


 それを我慢して差し出したことで、マル公の気持ちが甚吉にも伝わった。

 口は悪いけれど、義理堅いのだ。


「そう、お照さんもすっかりよくなったみてぇで、ありがとうございやす」


 甚吉もホムラに頭を下げた。ホムラはよきに計らえと言わんばかりに鼻先を天に向けていたけれど、ちらりと稲荷寿司を見て喉を鳴らした。


「殊勝な心掛けよの。では――」


 ぱくり。

 稲荷寿司をひと切れ。美味しそうに食い始めた。やはり、好物なのだろう。猫の間に油揚げはあたらなかったかもしれない。

 甚吉にもっと銭があればマル公にまた買ってやりたいのだけれど、しばらくは難しい。また銭が貯まるまで待ってもらうしかない。


 そんなことをぼんやりと考えている間、ホムラはふた切れ目に口をつけることをしなかった。


「おお、そういえば、あの萬助だが、まああの小火ぼやは酔っぱらってふらついた挙句、提灯を薦にぶつけてしまったということでまとめておいた。江戸所払いで済んだのは僥倖だ。稲荷神様の御慈悲なるところだが」


 それを聞いて少しだけほっとした。萬助は好きではないけれど、処刑されて胸が空くこともない。


「そいつぁよかったです。それと、伊勢屋のお染お嬢様のところにもたまには遊びに行ってやってくだせぇ。もう首に紐をつけたりしねぇって言ってやしたから」


 すると、ホムラはふぅぅむ、と唸った。


「あの縁側はよいから、気が向いたらまた行くかもしれぬ」


 甚吉は染が喜ぶだろうと心のうちで安堵した。そして――


 さっきから口数が少ないと思ったら、マル公は口をギュギュッと結んで小刻みに震えていた。まさかとは思うけれど――そんなに食べたいのか、稲荷寿司が。


 何か、可哀想になるほど我慢していた。けれど、どうやらマル公自身は無意識のようだ。

 それに気づいたのは甚吉だけではなかった。ホムラも、これは非常に食べづらい状況である。それでも食べるかと思ったが、断念した。


「――こ、この稲荷寿司、美味かったがワタシには少ぅし大きいようだ。ひとつで十分だ。ではなッ」


 と、言い捨てるとその場で一転。姿を消した。

 なんだかんだと言いつつ、案外優しい稲荷神の使いであった。また稲荷社へ行けば会えるだろう。その時は今日の分の稲荷寿司を供えようと思う。


 甚吉はクスリと笑ってマル公に言った。


「マル先生、ホムラ様はひとつでいいんだって。食べなよ」


 すると、マル公は素直にうんと言わなかった。


「これはホムラにやった礼だ。オイラとおめぇの二人分の礼だッ」


 変なところにこだわる。甚吉はそこでいいことを考えついた。

 マル公が見守る中、残った稲荷を半分に千切る。そうして、その半分を差し出した。


「感謝はちゃんと伝わったよ。これはマル先生とおれと半分こでどうだい?」


 これならマル公の罪悪感も薄らぐだろうと思えたのだ。甚吉が一緒ならと納得してくれたらいい。


「へッ。そんなに言うんじゃ仕方ねぇな」


 渋々。

 嬉しそうに半分の稲荷寿司を食った。甚吉もその半分を食う。

 甘酸っぱい酢飯にキクラゲの歯ごたえがよく、美味かった。マル公も気に入った様子だった。


「酢飯ってヤツはすげぇな。米が化けやがるなッ。酢が勝ちすぎても甘ったるくても美味くねぇ。この塩梅が絶妙よな。表も裏もしっかり味のついた揚げの中にそいつを詰めるたぁ、組み合わせたヤツぁすげぇよな」


 嬉しそうである。

 ひと切れの半分では腹の足しにはならないけれど、マル公はどんな味なのかということを知りたいのだ。だからひと口でも食えて満足なようだ。


「そうかい。よかったなぁ」


 嬉々と稲荷寿司を語るマル公のそばで、甚吉はこうして一緒に過ごせる時を仕合せに感じた。



     【稲荷】完。


 『稲荷』にお付き合い頂きありがとうございました!

 シロ+タマ=シラタマ(笑)

 二つの名前で悩んだお嬢様のネーミングでした。

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