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海怪  作者: 五十鈴 りく
❖ 稲荷

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31/70

稲荷 ―捌―

 その晩、甚吉は照の様子を見に行った。

 何せ甚吉の願いが届くまで、まだまだ時がかかりそうなのである。照の不調がそのせいで長引いてしまうのかと思うと、申し訳ない気持ちになったのだ。


 甚吉が小声で断ってから小屋のこもをぺらりとめくると、照は茣蓙ござの上に横になっていた。薄暗い中、顔色まではわからないけれど、眠っているのなら起こすまでもない。そっとしておこうかと思った甚吉に、照はどうやら起きていたらしくか細い声を上げた。


「甚吉」

「あ、お照さん、起こしちまったかい?」


 しょんぼりと薦の陰から言うと、照は体を起こさないままでつぶやいた。


「大丈夫だよ。少しずつよくなってるから。あんたもあんまり気にしないでいいからね」

「うん――」


 そうは言うけれど、祈願の甲斐がない状況なのだ。医者に診てもらうでもなく、神仏が力を貸してくれるでもない現状では照自身の体が頑張るよりない。

 照は甚吉が気にするから強がるのだろうか。

 それでも、照は柔らかな声音で言った。


「甚吉、あんたが心配してくれたことが本当は嬉しかったよ。ありがとう」


 何も力になれていない甚吉なのに、照はありがとうと言ってくれる。


「そんなこと――」


 ぽつりとつぶやいて、甚吉は自分の胸を押さえた。ギュッと締めつけられるように心の臓が疼いたのだ。


 ありがとう、と言ってもらえた。その言葉がほしかったわけではないけれど、甚吉の心配が迷惑ではないのだと、それを知れただけで甚吉は嬉しかった。

 じわりと目に涙が浮かぶ。


 やっぱり、照のために何かがしたい。力になりたい。

 今の甚吉にできるのは、あの猫狐が本来の姿に戻る手伝いをすることくらいだろう。


 考えようによっては、そうしたらあの萬助という番頭も悪だくみができなくなるはずだ。肝心の猫がいないのだから。



 甚吉は照のところから引くと、もう一度だけマル公に相談してから寝ようと思った。マル公は安眠妨害だと怒るだろうか。


 蒸し暑く息苦しさを感じるような日中とは違い、少し涼しい風も吹く晩、ふと、あるはずのないところに灯りがある。


「へ?」


 思わず甚吉が首を向けると、そこには屋号入りの提灯を手にした萬助がいた。灯りに下から照らされた顔は、それはもう幽霊のように恐ろしかった。


「ヒッ」


 大きな悲鳴は出なかった。むしろ、声が出ない。怨念の塊のような男が甚吉ににじり寄る。


 何故ここがわかったのだろう。

 甚吉は全力で駆け抜けた。追いつかれた感じはなかったというのに。

 すると、萬助はフッと笑った。


「紙入れをスった子供が逃げたから、見失う前に逃げた方角を見たいと言って近くの茶屋の二階に上ったのだ。高みからはお前が消えた方角が見えた」


 腐っても大店の番頭。嫌な知恵が働く。


「あの後、猫はお嬢様のところへ戻ってこなかった。早く、あの猫を捕まえろ。そうしたら、お前にも褒美をやる。もし断ろうものならば――」


 萬助の下駄がジリジリと前に進む。甚吉は逃げなければという思いと、逃げたらどうなるのかという思いとの板挟みになった。背後の小屋にはマル公がいる。マル公に悪戯されたらどうしようかと考えると動けないのだ。


「あ、あ、あの、あの――ッ」


 時間稼ぎに何か言わなければと思うけれど、何も言葉が浮かんでこない。

 むしろ今大声を出せば仲間たちが起きてきて助けてくれるだろうか。しかし、萬助の悪だくみは猫狐が教えてくれただけで、これといった証拠もない。仲間が起きてきたところでとぼければそれで済む。


 この場をどう逃れたらいいのだ。

 甚吉が全身から汗を噴いていると、萬助の後ろに白い毛並みがぼんやりと浮かんだ。

 そこに、いる。


「しつこい男よな」


 そんなことを呆れた様子でつぶやくから、つい甚吉はそちらに目を向けてしまった。萬助は甚吉の目線の先を蛇のような目で素早く辿った。猫狐はさらに素早く隠れたけれど、どうやら近くにはまだいるようだ。


「さて、どうしたものやら――」


 猫狐の声がする。姿は見えない。


「おぬしがさっさとこの紐を切っておれば、このようなまどろっこしい事態にはならなかったというのに」


 今、そういう小言を言っている場合なのか。


「おい、どうなんだ? 猫を連れてこれるのか?」


 と、萬助は甚吉の方へまた踏み込む。萬助に猫の声は聞こえないから、甚吉が黙り込んでいるようにしか見えないのだ。痺れを切らしたような声であった。

 甚吉は何かを言わないとと考え、そうしてやっとのことで言った。


「おおおおお、おれより飼い主のお嬢様に懐いていなさるはずッ。猫ならそのうちお嬢様のもとに帰りやすッ」


 不自然な点はないはず。自分でもよく言えたと褒めてやりたいくらいだ。

 けれど、萬助は納得しなかった。薄暗い目を陰気に向けている。


「お嬢様にはそれほど懐いてはおらん」


 萬助は、案外猫の気持ちをよくわかっているようだ。そこが皮肉である。

 だから戻ってこない可能性を考えて探すのだ。しかし、お嬢様のために猫を探しているわけでもなんでもないのが厄介である。


 そこで甚吉はふと思いついた。――よし、それでいこう、と自分の考えを自分で褒めた。


「どうしてそんなに躍起になって猫を探すんで? まるでお前様がお嬢様以上に猫に用があるみてぇですよ」


 思いきって言ってやった。

 甚吉は萬助の悪事を知っている。萬助が悪事を見通され、疚しくなって逃げるのではないかと思ったのだ。

 ――ところが。


「この愚か者がッ。要らぬことを口走る出ないッ」


 と、猫狐が叱責する声が飛んだ。

 なんだろう、と思った。しかし、次の瞬間に萬助の顔色が変わったことに気づいたのである。


「お前のような小物が余計なことを考えるべきではない。協力せぬばかりかぐだぐだと――少しばかり懲らしめてやろうか」


 それは冷たい声であった。

 萬助がうろたえた甚吉に手を伸ばす。甚吉は恐ろしさに動けなかった。


 襟をつかまれ、継のあった部分がビッと音を立てて破れた。殴られる、と甚吉が覚悟を決めた時、振りかぶられた手が甚吉にめり込む前に白い塊が萬助の手に爪を立てて噛みついた。それは、猫狐である。

 フーッと毛を逆立て、爪と牙とを萬助に突き立てる。


「うわッ」


 萬助は驚いて提灯を持つ手を振るった。けれど、それでも猫狐は離れなかった。こうしていると、どこからどう見ても猫である――と、今はそんなことはいい。

 余計なことを考えているうちに、萬助が振るった提灯が手から離れ、薦掛けの小屋にぶつかった。それはそれは、燃えやすい。


 甚吉とて、この江戸に住む以上、火事なんぞ珍しくはない。けれど、こうも間近で自分の居場所が燃えたのは初めてのことである。あまりのことに呆然としてしまった。

 けれど、すぐにハッと気づいた。


「マ、マル公ッ」


 そう、この薦掛けの裏にはマル公の生け簀がある。甚吉は慌ててその中へと駆け込んだ。


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