海怪 ―弐―
朝の支度が整えば、いよいよ見世物小屋の始まりである。しかし、江戸両国は見世物がひしめき合う。皆が声をからして客を呼び込む中、寅蔵座はマル公のおかげでこのところ大盛況であった。
長蛇の列は切れるところがなく、日が暮れ出してようやく見世仕舞いだ。ショバ代だのなんだの、甚吉にはわからない銭の出入りがあるのだろうけれど、儲けは上々ではないだろうか。
お一人様二十四文の見料。決して安くはないけれど、それだけマル公は珍しく、他所では尾張まで行かねば見られないのだ。
じゃらんじゃらんと銭の音が鳴り、人の足音、話し声が両国を賑やかす。甚吉は魚のたっぷり入った盥を抱えてマル公のもとへと急いだ。
今日も大成功に終わる、何の心配も要らない。甚吉はそう信じていた。
マル公の生け簀の前の板敷は見料を払った見物客でいっぱいだった。押すな押すなと大賑わいだ。生け簀の前に横棒をかけてあるから、大人なら落ちたりはしないけれど、こまい子供なら落ちかねない。そこは親が気をつけてほしいものだ。
しかし、もし落ちたとしても、マル公が子供に悪さをすることはないだろう。マル公は人懐っこく優しい生き物なのだ。
人垣ができ、甚吉からはマル公の姿はまるで見えない。けれど、マル公の立てる水音が嬌声に混ざって聞こえるのだった。
「うわぁ、ツルツル。頭が坊主だよ、おっかぁ」
「ほんとだねぇ。尾びれは魚みたいだけど魚みたいな頭じゃないねぇ」
キャッキャと楽し気にはしゃぐ芥子坊主と母親のそばを甚吉は盥を持ってすり抜ける。
「ちょいとすいやせん、通しておくんなせえ。あい、すいやせん」
客に気を遣いつつ、壁伝いになんとか前に進む。盥をひっくり返しても、客の着物を汚してもいけない。甚吉は必至でマル公のもとへと急いだ。あと一歩というところで甚吉は振り返って声を張り上げた。
「さあさ、餌の時間でございッ。珍しい海のばけもの、手ずから餌を食べやすッ。ほぅら、この通り」
盥の中から一匹のアジをつかみ取り、甚吉はマル公に向けて手を伸ばした。マル公は大喜びで水飛沫を上げながら近づき、甚吉の手を噛まないように行儀よく、アジを頭からつるりと飲み込んだ。客たちから、おお、とどよめきが起こる。
この瞬間が甚吉にとっても何より誇らしい時であった。甚吉が偉くなったわけでも、敬われているわけでもない。けれど、取るに足らない小僧の自分に、いかにもなお大尽や可愛い娘までもが目を向けてくれるのだ。ほんの少し、胸の奥がこそばゆいような、そんな気になる。
「さあさ、餌をやってみたいお客様は前に出ておくんなせえ」
甚吉がそう声を張ると、子供たちは大喜びで叫んでいた。
「あたしもやりたい」
「おれもッ」
けれど、親たちは渋った顔をする。
「手を食いちぎられたら大変だ。やめときな」
「やだ。やりたいよぅ」
マル公は賢いからそんなことはしない。けれど、小さな子供にはさせられないという親は多い。
それはわかるのだけれど、マル公が早く餌をほしがってそわそわしている。
「おお、じゃあ俺がやってやろうじゃねえか」
月代までよく日に焼けた出職らしき若い男が袖を腕まくりしながら前に出た。目当ての娘に良いところでも見せたいのだろうか。
「あい、どうぞ」
甚吉の持つ盥から男らしく勢い任せにアジをつかみ取り、それをマル公に向けて差し出す。マル公は嬉しそうにパシャンと水を跳ねた。
「うわっぷ」
男はちょっとばかり腰が引け、手ずからというよりも半ばアジを放るようにしてマル公に与えた。クスクスと小さく忍び笑いが起こるけれど、男は魚臭い手で鼻の下をこすった。
「へん。大したことねぇだろ」
その男の連れは桃割れの似合う愛らしい娘だった。格子縞の着物の袖を上げ、白魚のような白い手でにこやかに魚をつかみ取った。そうして、それをマル公に差し出す。マル公は嬉しそうにヲォと鳴いてアジを受け取った。
アジをむさぼるマル公を、娘はニコニコと笑んで眺めている。
「おひげがチクチクしていたわ。あのまん丸っこいおめめが可愛いわねぇ」
「お、おうよ」
こういう時、女子の方が肝が据わっていたりする。甚吉はそんな客たちの様子も微笑ましく眺めていた。
数人が無事に餌をやると、皆安心しきって次々に押し寄せる。マル公は矢継ぎ早に差し出されるアジを忙しそうに食べ尽くした。
これがマル公と出会ってからの甚吉の仕事である。
●
そうして、その日も同じ朝が訪れ、同じ行いを繰り返す。
甚吉はマル公の餌となる魚を抱えて小屋へ戻るところだった。
ただ、その日ひとつだけ違ったことといえば、小屋のそばで新兵衛座の真砂太夫に出会ったことだろうか。
真砂太夫はこの両国で寅蔵座に次ぐ人気の一座の水芸人である。新兵衛は寅蔵とは真逆で細面の、どこかの大店の旦那のような人相に見えた。実際、大声で芸人を叱りつけているようなところは見たことがない。
新兵衛座の目玉、新兵衛の娘である真砂太夫は十七歳の娘盛り。新兵衛譲りの色白肌に華やかな目鼻立ち。
特に水からくりの芸が達者で、外で稽古する姿をちらりと遠くから垣間見ただけの甚吉も心底感嘆した。マル公のような生き物を物珍しがって見料を払って見に来る人々の気持ちはわかるけれど、人が、同じ人をあれほど飽きもせずに眺めていられるのはすごいことだと甚吉は思うのだ。
姿かたちの美しさだけではない、真砂太夫の華と腕に、非才な身である甚吉は憧れるばかりだった。
そんな真砂太夫に出会ったというのもおこがましい、本当に姿を垣間見ただけのことである。華やかな奴島田に髪を結い上げ、紋入りの裃に青海波の単衣。水芸が得意な真砂太夫だからか、自身が清冽な水の化身のようだ。
他の誰かが真似てもこうはいかない。そうしたナリも、真砂太夫がする限りでは美しかった。本番に勘が鈍らぬよう、衣装を着こんで芸を行っているのだろう。そうしたところにも矜持が窺い知れる。
水を噴く太刀がまがい物などではないことを紙を切って見せるのだ。はらりとふたつに分かれた紙が蝶の翅ように見えた。
ほんの僅かだけ甚吉は足を止めた。僅かと言いつつも、しばし魅入っていたのかもしれない。ふと、真砂太夫がこちらに流し目をくれたような気がして、甚吉は慌てて駆け出した。芸人が鍛錬を見られることをよしとはしないのはわかっている。甚吉に技を盗む気など毛頭ないが、真砂太夫がどう受け取るかはまた別なのだ。
朝の忙しい時を浪費してはいけない。支度をしっかりと整えることが甚吉の仕事であり、ささやかながらに自分の役目と誇れることなのだから。