稲荷 ―陸―
その夕刻、すっかり仕事を終えた甚吉はいつものごとく見世物小屋を抜け出して稲荷社へと向かった。
道中、すれ違った人は何人かいた。その中で少しだけ気になったのは、十歳くらいの赤い着物を着た女の子だった。かなり上等の華やかな着物を着つつも、今にも泣き出しそうな顔をしているのだ。
女の子が涙を堪えるたび、挿した花簪が夕日にキラリと光る。
「しらたま――」
白玉売りがいないと嘆いているのか。よほど食べたかったらしい。
確かに、こう暑くては冷や水や白玉は美味いだろう。
人形のように可愛らしい顔立ちながらに、食い意地はマル公並みのようだ。
「お嬢様、わたくし共も探しておきます。どうかもうお戻りください」
奉公人らしき男が女の子を宥めている。しかし、日も暮れかかったこの時分に白玉売りなんぞ見つかるだろうか。明日ならば簡単に見つかるだろうに。
――この女の子のことをマル公に話すのはやめておこう。マル公が白玉に興味を持って食べたがると困る。きっと、喉に詰めるから。
この時刻の稲荷社はまったくの無人ではなかった。参拝に来たらしき人が二人ほどいた。
一人は腰の曲がった老人、もう一人は店者だろうか。手を合わせる背中しか見えないけれど、縞木綿のお仕着せを着ている。奉公人はどの店も似たような格好だ。
甚吉はその二人が拝み終わるのを待ち、それから恐る恐る社に近づいた。
手を合わせて、とりあえず祈った。この稲荷社に神使はおらず、祈りが届きにくいことを承知で祈ったのだ。戻ってきているといいなと思いつつ。
しかし、これといって反応がない。あの猫狐は現れなかった。
すっかり拗ねてしまったか、女の子が解放してくれないかのどちらかだろう。
この辺りの大店といっても、どの店を指すのかがわからない。縁側を覗いて回ったりしたら、それこそ怪しい小僧だと、御用聞きの親分を呼ばれてしまいそうだ。マル公が下手に関わるなと言うのもわからなくはない。
――ここよりも小さくてもいい。違う稲荷社へ寄ってから帰ろうかと甚吉はきびすを返した。
その時、後ろにあの猫狐がいた。なんとかして抜け出してきた――といったふうには見えない。櫛でとかしてもらったのか、毛並みは整い艶が増していた。
やはり、いい暮らしをさせてもらえるようだ。少しだけ心配したのだが、要らぬ心配であった。
そう思った甚吉に、猫狐は言った。
「小僧、そなたがモタモタしておるから、ワタシが未だにもとの姿に戻れぬのだぞよ」
ひどい言い草である。そもそもは縁側でうたた寝した自分が悪いのだろうに。
甚吉の微妙な顔つきに、猫狐は尻尾を忙しなく動かしながら言った。
「もうよい。よいから、これを外してたもれ」
と、首を反らせた。マル公は放っておけと言うだろうけれど、そうするといつまでもつきまとわれそうだから、いい加減にほどいてやりたい。
「わかりやした。その代わり、お照さんが早くよくなるようにお稲荷様に伝えておくんなせぇ」
「うむ。心得ておる」
猫狐は大きくうなずく。甚吉は軽く嘆息すると、鳥居のそばの猫狐のもとまで行き、膝をついた。
猫狐の首に巻かれた緋縮緬は首の後ろで蝶結びになっており、その部分が解けないように縫い留められているとのことだ。けれど、甚吉の力でも引っ張れば糸くらい千切れる。
甚吉はその縮緬の紐を左右にぐっと引っ張った。けれどその時――
「そこで何をしている?」
先ほど参拝していた店者がいた。年は四十路手前くらいか。目の細い、肌の荒れた男だった。背はそれほど高くはないが、がっちりとした体格であった。
何と言われてどう答えたらいいのだろう。人助けならぬ稲荷神の使い助けと答えたら、人を馬鹿にしているとか言って怒られそうだ。
さあ、どう答えるべきか。
可愛い猫だったから撫でていたと言うのがいいかもしれない。
甚吉の考えがまとまるまでが長かった。やっと言える言葉を探し当てたというのに、その店者は怒鳴った。
「答えられないとは、疚しい証だ。その猫はうちのお嬢様の猫だ。悪戯しようなんてとんでもない小僧だな」
そうなのか。この男が件の大店の奉公人だったとは――
猫狐はチッと軽く舌打ちしていた。が、そんなことをこの奉公人が気づくはずもない。
仕方がない、ここはいったん引こう。甚吉はそう決めた。
「悪戯するつもりはありやせんでした。ただちょっと撫でてやろうとしただけで――」
甚吉は猫狐の体を抱き上げ、奉公人の方へ突き出す。
「ややッ、これ、この紐を解けと言うにッ」
猫狐は甚吉の方へ苦情を漏らしたが、多分この声は奉公人の男には聞こえていない。奉公人は嫌な目つきをして猫狐を受け取ろうとした。けれどその時、猫狐がシャーッと怒って奉公人の手を引っ掻いた。
そんなにお嬢様のところへ連れて行かれたくないのか。しかし、この奉公人はとばっちりである。
あああ、と甚吉がうろたえても、奉公人は顔をしかめただけだった。傷は浅いのかもしれない。
猫狐は一度甚吉の後ろに隠れたけれど、また差し出されるのがわかったのか、さっさと逃げた。猫にしてはぎこちない尻尾の動きを見送りつつ、甚吉は気まずさを覚えながらそこにいた。
けれど、奉公人にギロリと睨まれ、このままではいけないと冷や汗をかいた。
「お、おれはこの辺で――」
ペコペコと頭を下げ、奉公人の横をすり抜けようとしたところ、ぼそりと低い声で言われた。
「お前には随分と懐いていたな」
そんなことはない。そうではないのだ。
この奉公人はお嬢様のために猫を連れて帰れなかったことを悔しく思うのだろうか。
甚吉は聞こえなかったことにしてやり過ごした。しかし、帰り道にふと、今日もまた稲荷神への願いが届かずに終わってしまったことに気づいて愕然とするのだった。
しかし、そう簡単に今日は終わらなかったのである。




