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海怪  作者: 五十鈴 りく
❖ 稲荷

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25/70

稲荷 ―弐―

 誰もいない。

 しかし、声はした。

 甚吉は辺りをきょろきょろと見回してみる。――いや、本当はなんとなく気づいていたのだ。こうしたことは初めてではない。

 そう、人の姿はなくとも声がするという状況は稀にある。


 ただ、あまり認めたくはないのだ。だから、気づかない振りを決め込みたくなる。

 甚吉の後ろには確かに誰もいなかった。けれど、それは無人・・という意味でしかない。


 土の上にちょこんと行儀よく座るのは、雪のように白い猫である。毛並みに艶があり、上品ではあるものの、気位の高そうな顔にも見える。首に結んだ緋縮緬ひちりめんが洒落ていた。その猫は体に沿わせて巻きつけていた尻尾をぱしん、と土に叩きつける。


「そこな小僧、そなた、ワタシの声が聞こえておるな?」


 猫が口元を動かしている。やはり、喋っているのはこの猫だ。尻尾は割れていないから、長く生きた猫が化けるという猫又ではないのだろう。

 それでも、普通の猫ではない。甚吉はその場で固まってしまった。


 ここは絶対に認めてはいけない。こうした時、今までも聞こえなかったことにしてきたではないか。――唯一の例外を除いて。


 よし、帰ろう。仕事がある。

 甚吉は右手と右足をそろえて歩き出した。しかし、猫のそばを通り過ぎないと帰れない。聞こえない聞こえない、と心で唱えながら甚吉は猫の隣をすり抜ける。


「これ、そなたワタシをあやかしの類と思うておるだろう? そうではない。そうではないのだ。ワタシは神の使いであるぞよ」

「――」


 自分でなら何とでも言える。甚吉だってそれでいいなら、将軍様のご落胤とか言っても許される。それを信じる人間がいなければ何の意味もない。

 こんなところで騙されていたら、帰ってからどやされるだけだ。おめぇのおつむりは学ぶってことをしねぇ怠けもんよな、とか言われるのがオチだ。


 聞こえない振りを突き通す甚吉に、猫は再び地面に尻尾を叩きつけて怒った。


「ワタシはこの稲荷社の祭神、宇迦之御魂神うかのみたまのかみ様の神使しんしなるぞよッ」

「――」


 やはり、この猫はあやかしだろう。しかし、稲荷神の使いといえば狐である。少なくとも猫ではない。

 この猫はそんな子供でも知っているようなことを知らないらしい。そんな嘘ではいくら物知らずの甚吉だって騙されない。


 スタスタと歩き去っていく甚吉の背に、白猫は叫んだ。


「これッ、ワタシの話をちゃんと聞かぬのなら、稲荷神様への取り次ぎなどしてやらぬわ。そなたの願いは叶わぬままよ」


 ――本当だろうか。本当に願いが叶わぬのだろうか。

 照の苦しさが一日でも早く和らぐことを祈る甚吉にとって、その言葉が重たくのしかかる。振り向きかけて、いやいやとかぶりを振った。


 危うく騙されるところだった。これはもう、早く帰って相談するしかない。

 頭は回るが、めっぽう口の悪い、あのマル公に――



     ●



 マル公は、見世物小屋『寅蔵座』の稼ぎ頭で、甚吉はその世話役である。正式な名前を知る者に出会ったことはない。その通り名は『海怪うみのばけもの』。そう呼ばれる海の生き物である。


 つまり、妖しい猫から逃げ帰ったものの、甚吉が頼みとするマル公もまたどっこいどっこいの存在ではあった。


 その名の通り、いろんなところがまん丸い。まん丸い碁石のようなまなこ、坊主のようにまん丸い頭、樽のようにまん丸い腹。食いしん坊で口が悪く、見料を払って自分を見に来た客を逆に観察するような生き物なのだが、甚吉の危機を救ってくれたりと、今ではすっかり相棒である。


 甚吉は小屋に戻ってすぐ、マル公のいる生け簀のところに駆け込もうとした。けれど、その前に、いつもの棒手振ぼてふりを待たせてしまっていることに気づいた。


 魚河岸うおがしでマル公の餌となる魚を仕入れてくれている棒手振だ。気風のよさはあるけれど、なんせ気が短い。いや、江戸っ子はそんなものだ。

 棒手振はイライラと尻っ端折りをした素足で地面を踏み鳴らしている。


「うわぁ、すいやせんッ」


 ちょっとでも待たせようものならばこうなる。それがわかっているから、いつも気をつけていたのに、あの猫のせいだ。


「オイコラ、俺を待たせるたぁいい度胸じゃねぇかこのすっとこどっこいッ」


 口角泡を飛ばし、ひと息で怒鳴られた。身をすくめた甚吉に、棒手振は巻き舌で何を言っているのか聞き取れない勢いで怒鳴り散らし、そうして魚を押しつけると、あばよと言って去った。――気は済んだらしい。


 と思ったら、少し行った先でぶつかった男と大喧嘩していたが、そんなものは日常茶飯事。気にしたら負けである。首を突っ込んではいけない。江戸っ子は喧嘩っ早いのだ。


 甚吉は朝からぐったりとして肩を落としつつ、魚の入った盥を生け簀の裏側にある木箱へとしまった。見世が始まるまでいつもここに入れておく。


 それからやっと、マル公の愛くるしい顔を拝むことができた。甚吉の足音に気づいたのだろう。生け簀の中でバシャリと身をひるがえし、大きな尾ビレでひと掻き。あっという間に甚吉のもとへとやってきた。


 なんとも可愛い、甚吉によく懐いてくれている海怪――ではない。

 ツルツルの頭を水面からにゅっと出す。まるで日の出のようだ。しかしその目は半眼になり、前ヒレをてん、と生け簀の縁に突く。


「遅かったじゃねぇか。おめぇは寝坊させてもらえるような身分でもなんでもねぇかんな、寝坊じゃねぇだろ。あれか。あの水芸人のねぇちゃんに見とれてボサッとしてやがったのか? ったくよぅ、色ボケやがってよぅ」

「ち、違うッ」


 真砂太夫にボサッと見とれていることもあるけれど、今日ばかりは違う。

 マル公はほほぅ、と言った後、生け簀の縁をイライラと小刻みに叩く。これはもう先ほどの棒手振と同じだ。だから熱海あたみから来たはずなのに、どうしてそう江戸っ子気質なのだろう。

 いや、今はそんなことにこだわっている場合ではない。


「なんだぁ、ちげぇのか。じゃあどこで油売って――」


 マル公がそう毒づきかけて言葉を切った。んん、と何か唸っている。

 そうしたら、珍しいことにマル公の髭が三味線の弦のようにビビビッと震えた。


「オイコラ、甚」

「へ?」

「このスカタンッ。変なモンつけてきやがったなァ」


 変なモン。

 甚吉は息を止めて振り返った。そこには静かに座すほっそりとした影があった。白猫が、にぃっと笑った気がした。


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