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海怪  作者: 五十鈴 りく
❖ 稲荷

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24/70

稲荷 ―壱―

 天保九年の夏――

 それは昼とは違った、眩く白い光が辺りを染め始めた早暁。


 江戸の両国にて、見世物小屋で働く小僧の甚吉は、納豆売りの声も聞こえない、長屋の住人も寝静まっているような明け方に見世物小屋を抜け出していた。


 甚吉の目的はただひとつ。稲荷社に参ることであった。

 つまりは困った時の神頼みである。

 甚吉には世話をしなければいけない相手もいることだから、伊勢参りにまでは行けない身ではあるけれど、このお江戸の町は少し歩けばすぐ稲荷のやしろへ行きつく。甚吉は一番近い稲荷社へと走ったのだ。


 学のない甚吉には神頼みといっても、手っ取り早く頼れる神が稲荷神の他に思い浮かばなかった。眠たい目を擦りつつ、仕事に差しさわりのない早朝に稲荷社へやってきた。


 それほど遠くはない。江戸には町内にひとつは稲荷があるのだから、当然両国にもある。商売繁盛にもご利益があるとされているのだ。


 ところどころが剥げて木の色が見える朱の鳥居。

 石段を上ると、その先に稲荷のやしろが鎮座する。綺麗に掃き清められ行き届いた様子から、稲荷神に対する信仰を感じた。


 雀が遊ぶ中、反った屋根をした社の手前に立つ。辺りには木が植えられ、茂みに囲まれる形であった。

 呼吸を整えながら甚吉は、昨日の夕餉の米を握り飯にしておいたものを社に供えて柏手を打った。


 甚吉は小遣いなどもらえる身分ではない。食わしてもらっている、それが小遣いのようなものだ。甚吉の持つ小銭は、小屋の掃除をしているとたまに落ちている拾い物。よほどの大金でもない限りは見つけた者が懐に入れる。


 ただ、そうした銭に賽銭としての効力があるのかが不安で、甚吉は昨日の夕餉の飯を我慢して残したのだ。これは甚吉に与えられた甚吉のものであるのだから。


 そんな甚吉の切な願いとは――

 まず、昨日の朝に遡る。



 前日からあまり調子がよくなさそうだと思っていた飯炊きのてるが暑気にやられて寝ついてしまったのだ。しかし、見世物小屋が始まると、茣蓙ござを広げて寝ている場所もなく、物置になっている葦簀よしず囲いの中に体を折って休んでいるしかない。


 朝からぐったりとして飯を炊くこともできなかった照。芸人の奈津なつたち他の女手が代わって朝餉の支度をしてくれた。他の面々は飯が食えたらそれでよかったらしく、具合の悪い照を気遣ったのは女子衆だけであった。


 けれど、甚吉はどうにも照の様子が気になった。照は甚吉から見て母親のような年なのだ。母を知らない甚吉には、毎日飯を炊いてくれる照が母のようにも感じられるのだ。

 照の方は甚吉だけに飯を炊いているわけではないのだと、たいして気に留めてもいないだろうけれど。


 甚吉は、水加減のせいか少し柔らかい飯の朝餉を掻っ込むと、皆の邪魔にならないように自ら葦簀の囲いの中へ移った照のところへ向かった。


「お照さん、大丈夫かい?」


 甚吉が葦簀の裏から声をかけると、照の弱々しい声がした。


「甚吉かい。あんたにも仕事があるだろ? あたしに構ってる暇があったら自分の仕事をおし」


 返ってきた声のか細さに、甚吉はどうにも不安になった。


「お照さん、ごめんよ」


 そう断って、甚吉は囲いの中へと入った。丸めた茣蓙にもたれかかっていた照は痩せた首を持ち上げて甚吉を見た。


「こんなのは少し休んでいたらすぐに治るから。あんたも気にしないどくれ」


 年を経て甚吉が大きくなったせいか、照が以前よりもひと回り縮んで見えた。小柄な照よりも、すでに甚吉の方が上背があるのだ。


「うん――。でも、何かおれにできることがあったら言っておくれよ」


 ただの小僧が偉そうに何を言うのかとわらわれても仕方がない。それでも、甚吉なりに普段から世話になってきた照に何かができたらいいと思うのだった。

 すると、照は嬉しそうにするどころか、眉間に皺を刻んでしまった。


「あんた、なんでそういうことを言うんだい?」

「え?」

「だって、あんたが盗人ぬすっと呼ばわりされて追い出されかかった時、あたしはなんにもしてやらなかった。庇って一緒に追い出されるのが怖かったのさ。そんなあたしを、あんたはなんで気にかけるのさ?」


 正面からそれを言われて初めて、甚吉は照があの時のことを気にしていたのだと知った。

 本当に、今の今まで甚吉の方がそれに気づいていなかったのだ。


 甚吉を庇ってくれた人など、この寅蔵座とらぞうざには誰もいなかった。庇ってくれたのは隣の新兵衛座しんべえざ真砂太夫まさごだゆうただ一人である。


 照のことも誰のことも恨んではいない。甚吉には『強い味方』がいたのだ。そのおかげでこうして寅蔵座に戻ることもできたのだし、あの出来事を根に持ってなどいない。


「そんな済んだこと、いつまでも気にしちゃいねぇ。お照さんには毎日飯を炊いてもらって世話になってると思ってる。だから、早く元気になってもらいてぇだけなんだ」


 甚吉は正直な気持ちを包み隠さず口にした。体が弱っている時ほど心は疑い深くなるものなのかもしれない。照はぐっと口を一文字に結んだ。


 あまり喋らせては疲れるかと、甚吉はその場を離れた。そうして、翌朝、こうして稲荷参りに来たのである。

 願うのは、照が元気になるように――それだけである。


 目をつむって手を合わせ、しっかりと祈願する。

 そうしていると、甚吉の背中に声がかかった。


「熱心に祈って感心な小僧よな。そなたの願いはきっと聞き入れられるであろう」


 落ち着いた、それでいて耳がむずがゆくなるような響きの声である。若いのか年なのかもわかりづらい。


 ハッとして甚吉が振り返っても、そこには誰もいなかった――


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