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海怪  作者: 五十鈴 りく
❖ 饅頭

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20/70

饅頭 ―玖―

 甚吉が笹屋でのことを相談できる相手はやはりマル公しかいないのであった。

 戻って早々、すでに薄暗い小屋の中、板敷で膝を抱えながらぼんやりとつぶやく。


「なあ、マル先生、巽屋の汚名を晴らすには、やっぱり犯人をあげなくちゃいけねぇのかな」


 はあ、とため息をつくと、マル公が立てる水音がした。


「そりゃ、その方が手っ取り早ぇな」

「そうかもしれねぇけど、できることなら笹屋の名前は出したくねぇよ。あの店、次におかしな噂が出た日にゃ潰れちまうよ」

「潰れりゃいいじゃねぇか」


 ケロリとマル公は言うから恐ろしい。目が点のまんじゅうのことは内緒にしているというのに。


「この世は因果応報だ。痛んだまんじゅうを客に売りつけるような店は潰れるだろうよ。親子路頭に迷うとしてもだ。オイ、甚、下手な情けも大概にしな」


 マル公の言葉が正しいのか。人を陥れるようなことをしたのなら、それが自分に返ったとして、誰を恨むことも許されない。

 嘉助は何も悪くないのだから、嘉助が苦しむ方が道理に合わないのだ。

 わかってはいるのだけれど、遣る瀬無い。


 すると、暗がりの中でマル公が呆れたような声を上げた。


「湿っぽいツラしてんじゃねぇぞ。おめぇが笹屋を庇って、その小僧が味を締めたらどうしやがる。悪さのツケを払わねぇことが幸いだと思ってんのか、おめぇはよぅ」


 痛い思いをせずに済んでしまっては、あの子供が懲りることはないとマル公は言うのか。一度痛い目を見て、そこで学べと。

 けれど、その()()から笹屋は立ち直れる気がしないのだ。


「そうかもしれねぇけど、あの店が潰れたらおれ――」


 あの子のやり方はよくなかったけれど、ただの悪戯とも違うのだ。甚吉は双方を知ってしまったばかりによけいに苦しくて仕方がなかった。


「おれ、明日になったら嘉助さんにもう一度会ってくるよ。それから考える」


 そんなことをつぶやいた甚吉に、マル公のため息が聞こえた。



     ●



 翌朝、甚吉はいつもの棒手振から魚を仕入れる前に少しの時を見計らって小屋を抜け出した。夏の早朝、白い光が道端を染める中を甚吉は急いだ。


 そうして、あの場所に巽屋の屋台はあった。嘉助はまめまめしく店を開く段取りをしている。屋台の台の上にまんじゅうの並んだ木の番重ばんじゅうを載せ、それを少し離れた場所から眺めている。その目つきはまるで我が子を見守る親のように優しかった。


 嘉助はあの噂が立った後も変わらない。それは自分の仕事に恥じ入るところがないと思うからなのではないだろうか。だから、自分のするべきことをするだけだと腹をくくっているふうに思われた。


 そんな時、甚吉は嘉助に声をかける前に、天水桶の陰から嘉助を覗き見ている子供を見つけた。それは、あの笹屋の子供である。

 甚吉は体が冷えていくのを感じた。手が震える。


 またか――

 また、やるつもりなのか。マル公が言うように、罰せられなければ懲りないのか。


 子供とはいえ、してはならないことくらい、もうわかる年だ。浅はかな考えはあっても、思い留まることもできるだろうに。

 そう思って悲しくなる。


 けれどその時、甚吉はハッとした。何故、またやると自分は決めつけたのか。

 自分のしたことを後悔して詫びに来たと考えられはしないだろうか。

 何故、信じてやれないのだ。またやると決めつけるのだ。


 あの子を信じたいと願う甚吉が、都合よく考えているだけで、事実はどちらなのかわからない。それでも、できることならば信じたい。


 甚吉は意を決して子供の方へと歩み寄った。子供は嘉助を見るのに忙しく、横から近づいた甚吉のことなどまるで気に留めていなかった。


「おはよう」

「ひぃッ」


 朝の挨拶ひとつで飛び上がられたのは初めてだ。甚吉は苦笑しながら言った。


「笹屋の子だね。昨日会っただろ? おれは甚吉ってんだ。名はなんてぇんだい?」

「く、粂太くめた


 粂太はそれは怯えながら甚吉を見上げた。甚吉はその手をすかさず取る。


「粂太は巽屋のまんじゅうを食ったことはねぇんだろ? 大丈夫、針なんて入ってねぇから一緒に食おう」


 粂太の口からもごもごと聞き取れない声が漏れる。顔が剃った頭と変わりないほどに青くなっていた。

 甚吉の手を振り払うべきか迷っているのだろうけれど、粂太の手に力がグッとこもった時、嘉助が甚吉たちを見つけたのだ。


「あ、甚吉じゃねぇか。朝からどうした?」


 朗らかな声に、甚吉は振り返って笑った。


「嘉助さん、この間のまんじゅう美味かったから買いにきやした。ふたつおくんなせぇ」


 特に世辞を言ったつもりはない。あのマル公が気に入ったくらいなのだ。本当に嘉助のまんじゅうは美味い。

 けれど、その単純なひと言の誉め言葉さえ、嘉助にはなじみの薄いものであったのかもしれない。なんとも嬉しそうに頭を掻いた。


「美味かったか。そいつは嬉しいねぇ。ほら、見てみな。甚吉のおかげで海怪まんじゅうの出来がよくなっただろ? ふたつくらい、まけとくぜ」


 マル公に似せたまんじゅうは、生意気具合が上がってなんともそっくりだった。そっくりと言うとマル公はまた怒るかもしれないけれど。

 それにしても、なんとも気のよい商人あきんどである。甚吉の方が苦笑してしまった。


「嘉助さん、まけてばっかりいちゃおまんまの食い上げじゃねぇですか」

「おお、言うじゃねぇか」


 などと言っては陽気に笑っている。もしや針入り饅頭の噂は当人の耳には入っていないのだろうか。

 手を繋ぐような形になっている粂太がかすかに震えているのが伝わる。けれど甚吉はあえて目を向けなかった。すると、嘉助の方が粂太に声をかけたのだった。


「おめぇさん、このところよく通りかかる顔だな。どうだい? おめぇさんの目から見て、このまんじゅうは可愛くできてるかい?」


 よく通りかかると。嘉助は粂太のことを見ていないふうでちゃんと見ていたのだ。そのことに、粂太の肝は冷えたようだ。震えが一段と大きくなる。

 甚吉はその手を強く握った。助け船など出せない。


 謝るのか、とぼけるのか。それをただ見届けようと思った。下手な情けが当人のためになるのかよく考えろとマル公が教えてくれたから――

 すると、粂太はぽろぽろと涙を零し、赤い頬をさらに赤くして啜り泣いた。

 理由わけを知らぬ嘉助は驚くばかりである。


「おおぅ、どうした? 俺はなんか変なことでも訊いちまったのか?」


 そう首を傾げて甚吉を見遣る。甚吉は何とも言えず曖昧な笑みを浮かべた。そうして、粂太の背をそっと撫で、それからひとつ、ぽんと叩いた。


「いけねぇことをしたって思うなら、まず言うことはなんだ?」


 粂太はなんとかして込み上げるものを押し留めると、顔をくしゃくしゃに歪めてつぶやいた。


「ご、ごめんなさ、い――」

「そうだな。よくできたな」


 小さな、雀の声よりも儚い言葉。けれど、それでも口に出した時にその言葉はちゃんと効力を持つ。


「ごめんって、俺にか?」


 嘉助はただ瞬いて自分を指さす。粂太は何度も泣きながら首を縦に振り続けた。

 いくら嘉助でも、自分の大事な暖簾に傷をつけられたとあっては怒るだろう。けれど、叱られればいい。このまま、自分のしたことを胸に抱えて生きるよりは、過ちを悔いてほしいと思うから。


 粂太は涙ながらに、自分の家のまんじゅうを食って具合が悪くなったと吹聴していた客がいたことを語った。その客は直接笹屋に怒鳴り込んだだけでは気が治まらず、どこへ行っても笹屋の悪評を撒いていたようだ。

 事実、笹屋のまんじゅうは――昔に比べて質が落ちた。粂太も本当はそれをわかっていた。


 けれど、すぐそばに大三木屋という繁盛店ができ、小さな笹屋では太刀打ちできない日々が続き、菓子職人の父がやる気を失ってしまった。店が傾いてきたことを認めたくなかった。子供らしい浅はかさで目を塞いだ。

 撒き散らかされた悪評さえ消えればなんとかなるのではないかと、次第にそう思うようになったのだという。


「――なるほどな」


 静かにそう、嘉助はつぶやいた。その声からは感情が読み取れない。

 粂太が語った内容は、嘉助にとってとばっちり以外の何物でもない。子供が語るから憐れに見えるだけだと言われてしまえば何も言えない。

 甚吉はどうすべきか迷いながらただそこにいた。

 嘉助はそうして言った。


「それで、おめぇさんの店に客は増えたかい?」


 ぶんぶん、と粂太は無言でかぶりを振る。


「だろうな」


 と、嘉助は嘆息した。


「まんじゅうをもし誰かが食っちまった時のことを考えたことはあるか?」


 粂太は、また目に涙の粒を浮かべてかぶりを振った。


「まあ、それがわかってりゃ、こんなことしなかっただろうが」


 ぽつりと零した嘉助の表情は硬かった。それは怒りからではあるのだろう。けれど、その怒りは自分のためのものではなく、まんじゅうを買い求めてくれた客の分であった。少なくとも甚吉にはそう受け取れたのだ。


「俺もおめぇさんのところも、人様の口に入る食いもんをこさえる職人で菓子屋だ。どんな理由わけがあっても、人様を大事にできねぇようじゃ、菓子屋の風上にも置けねぇ。二度とこんなことはするんじゃあねぇぞ」


 声を荒らげることなく、嘉助は静かにそう言いきった。

 地味にまんじゅうを売る、本当にささやかな商いではあるけれど、それでも嘉助なりの矜持は持ち合わせている。それは甚吉も同じである。

 小さな仕事ではあるけれど、自分にしかできないこともある。そう思って懸命に打ち込んでいるのだから。


 粂太は嗚咽を漏らしながら、こくりこくりと首を縦に振った。

 そんな粂太の手に、嘉助はマル公の顔をした蕎麦まんじゅうをひとつ、そっと握らせた。驚いて顔を上げた粂太の頭をぽん、と軽く叩いて嘉助は笑うと、それから何事もなかったかのように店の支度を再開した。


 これで水に流すと言うのだろうか。

 嘉助はそのつもりなのかもしれない。子供のしたことだと、ことを荒立てないつもりか。


 けれどそれでは嘉助のこの巽屋はどうなるのだろう――

 甚吉はもう何も言えず、まんじゅうも買わぬまま粂太を見送りながら見世物小屋へ戻った。


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