エピソード8 1996年 運命の年「RENT」
私がNYに移住した1996年。
この年には、私にとって、運命的な出会いが重なった年だった。
まず、移住して3ヶ月。
この時期が一番寂しくて、ホームシックになったりして、ふんばりどころって言われている。
私も、例にもれず、かなり重度のホームシックにかかった。
日本、東京、日本の友達が恋しかったし、
私はまだNYに「居場所」を見つけられてなかった。
特に、一緒に過す友人も無く、予定の無い、晴れた土曜日。
私はブロードウェイに沿って、ミッドタウンを歩いていた。
ミッドタウンとは、マンハッタンの真ん中のあたり。
30丁目〜60丁目くらいのことを言う。
よく、みんながニュースや映画の中で見る
タイムズスクウェアーや、劇場街があるところだ。
ミッドタウンは、一年を通して観光客と、そうでない人で、
ひたすらごったがえしている。
特にブロードウェイ沿いはひどいので、私は人をさけて、9番街を下(南)に向かって歩いていた。
目的も無く、行くあてもないけども、一人でアパートにこもっているには
天気が良すぎて、気晴らしがしたかった。
42ストリートのあたりまで歩くと、あるミュージカルの看板が目に付いた。
「RENT」。
ミュージカル「RENT」。
ちょうど、昼の公演が始まるところだったので、適当に1枚チケットを買って入った。
なんか「社会派ミュージカル」、賛否両論。とかいう記事を、以前どこかで読んだ気がする。
「どうせ、あんまり話、わかんないんだろうな〜」
と始まる前から消極的な姿勢で幕が開くのを待った。
「RENT」は衝撃的だった。
私が今住んでいる、NYの町、NYの若者、が、ひとつのアパートに雑居している様が描かれていた。
映画監督を目指すもの。
俳優を目指すもの。
ロックミュージシャンを目指すもの。
レズビアンのカップル。
ゲイのカップル。
そいつらの日常が「生き生きと」と描かれていた。
でも、「生き生き」だけじゃなく、その「挫折」と「苦悩」と「問題」も多く描かれていた。
そして、自分の娘や息子をNYに送りだした、母親たち」が入れ替わり、立ち代り、子供たちに留守番電話を残す。
「元気にしてるの?電話ちょうだい。ママより」
「ちゃんと食べてる? ママより」
「彼女とはまだ続いてるの?今度一緒に食事がしたいわ。ママより」
ああ、どこの世界も「ママ」は一緒だね。
そして、NYに何かを求めてやってきた、私たちは同じだね。
そして、今はまだ電話に出られない。弱音を吐いてしまうから。
みんな、故郷に帰りたい気持ちを押し殺して、「何か」をつかもうとしているね。
って、思った。
このミュージカルを見終わったとき、「この町でもう少しがんばろう!」とうい決意が
私の中に、みなぎっていた。
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あとで、知ったことだが、この「RENT」の作者。
ジョナサン・ラーソンは、このミュージカルに10年近い年月を捧げていた。
1996年、オフブロードウェイで初上演。
上演と同時に「社会現象」を巻き起こし、空前の話題作となった。
にもかかわらず、彼は、その年、35歳の若さで急死するという悲劇に見舞われた。
私がNYに移住した、4月には、この「RENT」は、ブロードウェイの大劇場で上演され
たのに、彼がその事実を知ることは無かったのだ。
その後、「RENT」は多数のトニー賞や、ピュリツアー賞を受賞したが、その事実も
彼は知らずに、この世を去ってしまった。
この、作者自身の「ブロードウェイを目指した若者のサクセスストーリーと急死の悲劇」と
「RENT」の世界自体が重なって、話題性はさらに増し、人々に多くの感動や、感銘、感慨とパワーを与えたのだ。
私は、その日から、何かあると、家で「RENT」のCDを聴いて、大声で熱唱してふんばり、
また、くじけそうになったら、劇場に足を運んで、何度も何度も「RENT」を見て、
励まされて、NYでの生活に踏みとどまったのだ。
私がNYに移住した年、1996年4月。
「RENT」がブロードウェイの大劇場で上演開始した年、1996年4月。