8.読者への挑戦
(前提が正しければ必然的に結論は導かれるであろう)
『犯人探し』という謎解きに主眼を置く本格ミステリー。読者と作者との間で、フェアプレー精神に乗っ取った息詰まる頭脳対決が展開されるわけであるが、ところでミステリーにおけるフェアプレー性とはいったい何なのだろう?
例えば、『読者への挑戦』の以前に書かれた文章中に、こっそりと隠されたありとあらゆる手掛かりを一つも見過ごすことなく、それらを論理的に繋いでいけば、唯一無二の犯人が導き出せる構造になっていた時、そしてその時に限り、その小説はフェアプレー精神に乗っ取った正当なミステリーであると評価されるのではないかと思いつつも、いや、果たして本当にそうだろうか、という疑問も同時に湧いてしまう。
というのも、私が危惧するのは、事件解明のためのすべての手掛かりが読者へ提供されている、といくら作者が主張したところで、それは作者自身の主観によるものであり、それを持ってフェアかアンフェアかは結論づけられないのではという疑念だ。
それならば、フェアプレー性とは何を持って評価されるのであろうか?
私は、クリスティ、クイーン、カーが大好きで、何冊も彼らの小説を読んできたが、読み終わった後に心地よい満足感に浸れたミステリーに共通するものは、読み手である私が読み終わった直後に、手掛かりが全部提供されていたなあ、と納得していることだった。つまり、ミステリーのフェアプレー性を判断するものは、読者それぞれの主観ではなかろうか、と私は考える。
今回の小説は、私としては本格ミステリーのつもりで執筆しており、唯一無二の犯人を暴き出す手がかりは、文中に十分に提供されていると思っている。しかも、今回は短編小説であるが故、手掛かりを隠す場所がわずかしかなく、読者に極めて有利な状況が展開されているのも事実である。でも、これらはあくまでも私の単なる主観に過ぎない。
そんな中、当小説を書くに当たって私は、如月恭助のメモ――全34項目のうち、34番目の文章をあえて読者から隠すという試みをやってみた。もちろん、これを見せれば、読者はさらに事件解決へと大きく前進することになろうが、この34番目の文章を見せなくても、犯行を究明するために必要な情報は、それ以外の場所に、十二分に供給されていることを、私は確信している。
では、私が34番目の文章を隠したことはアンフェアなのだろうか? それを判断するのは、もちろん読者であるあなた自身にゆだねられている。提供可能な手がかりを全部見せないのはやはりアンフェアだと、あっさり片付けられてしまうのか、そんな易しいヒントなど提供の必要もなしと、賢明なる読者が私に共感してくれるのか、作者としては実に悩ましくもあり、気になるところでもある。
とにもかくにも、ここで、『読者への挑戦』と称して、質問を一つ提起させていただこう。
竜ヶ水隼人に毒を飲ませた真犯人は、佐伯宗太郎、枕崎真幸、影待千穂、赤瀬清武、青井岳直見、如月恭助の六名の中のいったい誰なのであろうか?
賢明なる読者諸君ならば、論理的推論の帰結として、この先の最終章で解き明かされる正解を導き出せるはずだ。と同時に、多くの読者が真相に到達されることこそ、作者の本望でもある。
iris Gabe
以後は解決編となります。さあ、正解はもうお分かりでしょうか?