7.リーマン問題
(ゼータ関数のすべての非自明零点は一直線上に並んでいる)
「とにかくあの日は大変でした。竜ヶ水が救急車で運び出されたのが夕方四時前だったのに、駆け付けた警察官が取り調べを始めたので、結局、私たち六人が解放されたのは八時過ぎでしたからね」
影待千穂は、事件当日の苦々しい体験を思い出しつつ、プイと口をとがらせた。
「警察が取り調べている最中に如月君のお父さんもやって来たみたいだね。なんと愛知県警千種署の警部殿だそうだよ」
「はい。口数の少ない穏やかな紳士でした。息子とは正反対の性格の持ち主でしたよ」
「そして僕たちはひとりひとり順番に個室に招かれて尋問を受け、その間、現場となった共同談話室は立ち入り禁止とされて、コーヒーすら飲むことも許されなかったからね。室内では複数の警官が、指紋だとかあれやこれや、せわしく調べていたよな」
「指紋ごときで何か事件の解明ができるのでしょうか?」
「さあね、カップ麺の容器は発泡スチロールだし、割り箸は杉でできているから、いずれにせよ、指が血とか手垢などでよほど汚れていない限り、はっきりとした指紋は残らないだろうね。とどのつまりは、あんまり期待は持てないんじゃないかな?
指紋が残るとしたら、包装ラップやカップ麺の中の調味料袋、ビニールのレジ袋なんかだろうけど、いずれにしても決め手となる手掛かりにはなりそうもないな」
「そうですよね。如月君なんか、速報会の最中にも暇を持て余して机上のカップ麺の容器をちょこちょこといじっていましたよ。ごみ箱の中の包装ラップの切れ端を調べても、どうせ枕崎先輩と赤瀬君の指紋が出てくるだけでしょうし、たとえそれ以外の人の指紋が出たところで、それが事件の決め手になるような気はたしかにしませんね」
「それ以外に警察が調べられることといったら、僕たち個々の証言くらいなもんだ。まあ、そのくらいのことで事件が解決されるものなら、ぜひ警察のお手並み拝見と行きたかったところだけどねえ」
佐伯教授が皮肉たっぷりにいい放った言葉を聞いて、影待千穂が思わしげに語り始めた。
「速報会の日は木曜日でしたけど、その後、研究室は何もなかったかのごとくゆったりと週末を迎えました。警察も事件の日を除くと一人も姿を現わしませんでしたし、学生たちも事件の話題はあえて避けていたので、まるで何も事件が起こっていなかったかのように時が経っていきました。
でも、翌週の火曜日の事でした。如月君がふっと研究室に顔を出したのです。彼は私を見つけると嬉しそうに近づいてきました。そして、二人切りで重要な話がしたい、と馴れ馴れしく持ちかけて来たので、私は一瞬戸惑いましたけど、結局は彼の要求に従いました。
ところが、二人切りになってから、如月君が私にこっそりと告げた話は実に驚愕すべきものでした――。
彼はいいました。事件はもう解決している、と……。
だから自分は黙って舞台から引き下がるつもりだったけど、ある人に依頼されて、今日はおねえさんに会いにやって来た。これからおねえさんにだけ事件の真相を伝えるから、しっかり聴いているように、と……」
佐伯教授が興味深げに椅子から身体をのり出してきた。
「ふむ、そうかい。それで、彼がいったことは?」
影待千穂は、軽く教授に一瞥をくれると、整った形状のなまめかしい唇が徐々に開いていった。
「順を追って説明していこう――、そう切り出してから、如月君が説明を始めました。そういえば、説明といっしょに事件の要点をまとめたメモを、彼からもらいましたよ。
まずはそれから見てみましょうか?」
そういって、影待千穂はバックの中からクリアファイルにしまい込んだ何枚かのA4用紙を取り出した。そこにはパソコンで打たれた文章がびっしり並んでいた。
多元数理学研究科佐伯研究室で起こった毒物混入事件の覚書き
(by K.K.)
1. 去る十月二十二日水曜日、午後四時頃、枕崎真幸(D2)が大学構内の生協にてカップ麺を六個購入して、佐伯研究室の共同談話室の机上に、それらカップ麺を二つのレジ袋に入れ分けた状態で放置する。その後、彼は翌日の報告会の資料整理のため、同階にある自室へと戻る。
2. 同日午後五時少し前。青井岳直見(P4)が佐伯宗太郎教授の部屋を訪れる。彼女は同日午前中に行われた佐伯教授による数論講義に関して二、三の質問をして、その回答に満足すると、そのまま帰っていった。その際、共同談話室の中は覗いていない、と青井岳は証言した。
3. 同日午後六時、影待千穂(D1)が通りすがりに共同談話室の中を覗いた。机の上に二つのレジ袋が置かれていたのをはっきりと目撃している。なお、本人の証言によれば、それは無意識に覚えていた、とのこと。
4. 同日午後七時十五分前、佐伯教授が通りすがりに共同談話室を覗き込む。生協食堂で夕食を共にする学生がいるようなら声をかけるつもりだったそうだが、残念ながら室内には誰もいなかった。その時、机上に何か置いてあったかどうかは、特に注意を払わなかったのでよく覚えていない、とあいまいな証言した。
5. 同日午後八時二十分頃、枕崎真幸と竜ヶ水隼人(D1)が共同談話室へやってきた。その時、室内には誰もいなかったらしい。二人は車に乗って覚王山駅近くのとある定食屋へ行き、そこで晩飯を共にしてから戻ってきたところであった。
6. 同日午後九時頃、赤瀬清武(M1)が共同談話室に姿を見せる。その時、枕崎と竜ヶ水の二人は長椅子に座って話をしていた。赤瀬は二人には目も暮れず、お茶をいれるためにお湯をやかんで沸かしていたが、ふと卓上のカップ麺の入った袋を見つけたので、中身を取り出して、六個のカップ麺の包装ラップをすべて剥がしてしまった。本人の話によると、研究室内にはきちんとゴミ箱へ包装ラップを捨てない者がいるから、前もってごみを出さないように処分をしておいた、とのことだった。長椅子に座っていた二人はおどろいて顔を見合わせたが、赤瀬はそれを完全に無視して、その後、沸かせた急須のお茶を自分のマグカップに注いでから、そのまま無言で部屋から立ち去った。その数分後、竜ヶ水と枕崎の二人も共同談話室からそれぞれの自室へと引き下がった。
7. 赤瀬清武に、包装ラップを剥がした時にレジ袋の中に割り箸が入っていたかどうかを訊ねてみたが(この割り箸のあるなしは、翌日の枕崎と竜ヶ水との間で起こった口論の原因となるので、重要事項であるかもしれない)、赤瀬の返答は、自分は包装ラップを剥がすことだけに集中していたので、割り箸には特に注意を払わなかった。そして記憶の限りでは、二つのレジ袋のいずれにも割り箸が入っていることには気づかなかった。ただ、袋の奥底に割り箸が入っていた可能性は完全には否定できないから、結論の断言ができない、とのことだった。
8. 同日午後九時三十分、赤瀬は、研究室を出て帰宅した、と証言する。これに関して、他に目撃証言はなし。
9. 同日午後十時頃、竜ヶ水が帰宅をしたのを、枕崎が確認している。帰りがけに竜ヶ水は枕崎の部屋を覗いており、その時、二人は顔を合わせている。
10. 同日午後十一時頃、枕崎は、帰宅をした、と証言する。帰りがけに共同談話室の中に誰もいないことを確認してから、消灯をして、A館から外へ出た。この時、研究室のメンバーは誰も残っていなかったはずだ、と枕崎は断言した。
11. 佐伯研究室があるA館は、午後九時過ぎから翌朝の午前七時過ぎまで安全装置が作動して、入口が自動施錠される。ただし、ICパスカードを所持している者は、それを利用して夜間でもA館に出入りすることはできるが、使用履歴が記録されて残る。(A館の中から外へ出る時には、ICカードは使用しないので、外へ出る時の記録は、カードの使用履歴としては残らないが、A館のすべての出口に設置された防犯カメラの映像に通行人が映されることで、映像記録が残る。この防犯カメラは24時間作動し続けており、常にその瞬間の時刻が映像に記録されている。)ちなみに、十月二十二日から二十三日の夜間午後九時から翌朝七時半までのA館の出入りに関する使用履歴は、全部で二十九件が記録されていた(内訳は、館外へ出る映像記録が二十二件、館内に入るICカードの使用履歴が七件であった)。そのうちの大半を占める二十件が、二十二日の午後十一時までの使用記録であり、この中に、赤瀬と竜ヶ水がA館から外に出た九時二十七分と九時五十二分の映像記録も含まれていた。また、枕崎がA館を出た記録が十一時十三分に残されていて、それより後の時刻で、何者かによるA館の館内から外へ出るのみの使用記録は一つも残されていなかった。さらに、それ以降の深夜の時間帯になると、午後一時前後と午後四時前後に、二人の人物が、A館へ入り、いずれも短時間で館外へ出るという、合わせて四件の使用履歴が記録されていたが、この二名は、佐伯研究室のメンバーとは全く無関係の人物であり、さらに、これらの四件の使用履歴を裏付ける証言も、両名の口から直接確認が取られた。また、安全装置に記録された残りの四件のパスカード使用履歴は、二十三日の午前六時以降のもので、この中に赤瀬がA館の中に入る七時二十一分の記録も含まれているが、他の早朝の三件の履歴は佐伯研究室のメンバーによるものではなく、やはりいずれも本人たちからの確認が取れている。なお、同夜間の安全装置作動時における、佐伯教授と影待千穂の使用履歴は残されていなかった。青井岳直見と如月恭助はパスカードを持っていないので、その時間帯におけるA館への侵入は不可能である。
12. 翌十月二十三日木曜日、早朝七時半頃、赤瀬が共同談話室へやってきて、本人の証言によれば、そのまま九時半頃まで大半を共同談話室で過ごしたとのこと。時々、トイレに行ったり自室へ物を取りに行ったりと、たびたび共同談話室を抜け出すこともあったが、いずれの場合も十分以内で共同談話室へ再度戻っている。
13. 机上の六個のカップ麺であるが、赤瀬が来た早朝七時半には、昨晩に自らの手で包装ラップを剥がして放置したのと全く同じ配置で、机上に置かれていたように思えた、と赤瀬は証言する。ただ、それらがバラバラに机上に散乱しているのが、あらためて気になったので、六個のカップ麺を二枚のレジ袋の中へ三個ずつに分けて入れて、さらに邪魔にならないように机上の隅の方へレジ袋をよけておいた。割り箸のことは、やはり注意していなかったので断言はできないが、レジ袋の中には入っていなかったように思う、とも赤瀬は証言した。
14. 同日午前八時五十分頃、青井岳直見(P4)が共同談話室に姿を見せる。その時に共同談話室には赤瀬がいた。青井岳は、一時間目の講義が連絡もなしに突如休講となってしまい、二時間目まで時間があるから顔を出した、と赤瀬に事情を説明した。その後、青井岳は長椅子に座ってカバンから雑誌を取り出してそれを読み始めた。赤瀬はしばらく共同談話室にいたが、九時半頃に自室へ戻った。その後は速報会まで共同談話室へは行っていない、と赤瀬は証言した。
15. 青井岳は、赤瀬がいなくなった後も共同談話室に一人で残り、十時半頃に共同談話室から出た。その後は速報会まで共同談話室には行っていないと青井岳は証言した。なお、青井岳がいる間、机上には二つのレジ袋が置きっぱなしにされていた。この時、彼女はレジ袋の中身までは確認していない。
16. 同日午前十時過ぎ、佐伯教授が研究室へやって来る。彼は自室に入る前に共同談話室を覗いたそうだが、青井岳が一人だけでいたので声をかけた。青井岳も笑顔であいさつを返したらしい。この件についても両者の証言は一致している。教授はそのまま自室へ行き、速報会が始まるまで共同談話室には行かなかった、と証言する。
17. 同日午前十一時頃、影待千穂(D1)が共同談話室に顔を出したけど、誰もいなかったので、そのまま立ち去った。以後、速報会が始まるまで彼女は共同談話室へは行っていない、と証言する。
18. 同日午前十一時頃、枕崎が共同談話室へやって来る。しかし、その時、共同談話室には誰もいなかった(おそらく影待が覗いた時刻のわずかに後の出来事であったと推測される)。そのまま、共同談話室に残り、速報会のための資料に目を通していた。机上のレジ袋には特に気を付けなかったけど、あったような気はする、とあいまいな証言を枕崎はした。
19. 同日午後十二時半頃、枕崎の証言によれば、竜ヶ水が共同談話室へやってきた。彼は目を覚ましたのが十時過ぎで、来る途中にあるハンバーガーショップで朝食(昼食?)を食べてから、ここへやって来た、と証言したらしい。その後、枕崎は、竜ヶ水を一人共同談話室に残して、生協へ昼飯を食べに行った。時刻は午後一時ちょっと前であった。
20. 影待の証言によれば、同日午後一時十五分、彼女が速報会のために共同談話室に行くと、竜ヶ水が長椅子に座っていた。その時、二人は何も会話は交わさなかった。間もなく、赤瀬が姿を見せ、続けて、佐伯教授、如月、青井岳、枕崎の順に速報会の参加者が続々と集まってきた。
21. 銘々が勝手にしばらく雑談をした後、速報会が開始された。同日午後一時四十分頃のことである。
22. 如月恭助が机上のレジ袋に気づき、中身は何なのかと問いかけながら、六個のカップ麺をレジ袋から取り出して机の上へ並べた。後になってからの証言だが、この時レジ袋の中にはカップ麺はあったけど、割り箸はなかった、と如月ははっきりと断言した。さらに、このカップ麺が速報会の途中にみんなで食べる予定であることを、如月はこの時初めて知った。
23. 同日午後三時半、速報会の休憩時間となる。机上に置かれた六個のカップ麺の内訳は、『きつねうどん』、『天ぷらそば』、『カレーうどん』、『担担麺』、『醤油ラーメン』、それに加えて、事件の核心となる『ソース焼きそば』であった。
24. 複数人の証言を総合すると、六個のカップ麺は以下のように速報会の参加者へ分配された。まず、竜ヶ水が『カレーうどん』を真っ先に取り、枕崎が『醤油ラーメン』、青井岳が『きつねうどん』と『天ぷらそば』の二つを取った。彼女は、そのうちの一つの『きつねうどん』を赤瀬に手渡し、もう一つの『天ぷらそば』は自分のものとした。その後で、佐伯教授が『担担麺』を選び、最後まで残った『ソース焼きそば』を影待が手にした。
25. この直後、竜ヶ水と枕崎の間で割り箸がなかったことを理由に口論が起こり、あげくの果てに、枕崎が『カレーうどん』を竜ヶ水から取り上げてしまう。その後、枕崎は自分が持っていた『醤油ラーメン』を竜ヶ水に手渡した。しかし、竜ヶ水は受け取った『醤油ラーメン』が気に入らないので、影待の『ソース焼きそば』と強引に取り換えた。かくして、枕崎が『カレーうどん』、影待が『醤油ラーメン』、そして被害者となった竜ヶ水が『ソース焼きそば』を手にすることとなる。
26. 佐伯教授が自室から七本の割り箸と『とんこつラーメン』のカップ麺を持ってくる。教授は割り箸をその場にいる人に分け与えて、さらに、『とんこつラーメン』を如月に手渡した。
27. 青井岳が、竜ヶ水、赤瀬、如月、自分、の順番でそれぞれのカップ麺の容器の中へポットのお湯を注いだ。ポットの中のお湯は四人分でなくなってしまった。
28. やかんで沸かしたお湯を、影待が、教授、枕崎、影待、の三人分のカップ麺に順番に注いでいった。さらに、その後で、如月がやかんの残り湯を自分のカップ麺に注ぎ足した。
29. 『ソース焼きそば』を食べ終えた直後に、竜ヶ水が椅子から崩れ落ちる。口元から異様な泡を吹いていて、明らかに様子がおかしかった。赤瀬が、まっ先に駆け寄って、竜ヶ水を抱き起した。ちょっとの間をおいて、如月と枕崎が駆け寄った。そのすぐ傍で、錯乱気味の青井岳を、影待が抱きしめて落ち着かせようとなだめていた。
30. その後、急きょ呼び出された救急車で竜ヶ水は運ばれていった。時刻は午後四時であった。
31. 同日午後五時十五分、警察が駆けつけて調査をはじめた。
32. 同日午後八時十五分、警察の取り調べが終了して、佐伯教授と枕崎、影待、赤瀬、青井岳、如月の六人は解放される。皆がそれぞれ疲れ切っていて、無言で帰宅の途に着いた
33. 後日の、警察化学分析班の報告によれば、竜ヶ水が食べていた『ソース焼きそば』の容器内の残留物は、容器の壁にくっついた青のりとソースと油玉、ドライフリーズキャベツの欠片が数個、短い麺の切れ端が二本、だけであった。しかるに、竜ヶ水は『ソース焼きそば』を食べ終えたところで、苦しみ出して倒れ込んだと推測される。さらに、その残留物からごく微量のアルカロイド系毒物の成分が検出された。一方で、他の六つのカップ麺の残留物の中からは、毒物らしき成分は一切検出されず。
千穂から渡されたメモに、佐伯教授はじっと目を通していたが、やがてゆっくりと顔を挙げた。
「たったこれだけの情報から、事件は解決したといえるのかい?」
「はい。実は、教授にお渡ししたメモは、全部で七枚あるうちの六枚です。最後の一枚はこちらにあります。そして、この一枚のメモには、最後の項目となる34番の文章が書かれています。その文章を見ても、私はすぐには真相に気づけませんでしたけど、如月君の説明を聞いてから、しっかりと理解しました。教授にお渡ししたメモに残された1番から33番までの文章と、さらにこの34番の文章を考慮すると、今回の犯行が実行できた人物は、私たち容疑者六人(佐伯、枕崎、影待、赤瀬、青井岳、如月)の中でただ一人しかいないことが判明してしまうのです!」