5.フェルマー最終定理
(かつて解決までに三百六十年を要した難問があった)
「後日の警察の捜査によって、竜ヶ水先輩が食べた『焼きそば』の容器の残留物からごく微量のアルカロイド系毒物が検出されたそうです。
元をたどれば、警察は如月君が呼んだのでしたよね。連絡する時に、身内がいるから研究室に取って悪いようにはしないと、意味不明な理由付けをしていましたけど」
そういって、影待千穂はふっと間をおいてから、天井に視線を逸らした。
「それはさておき、あの時、銘々はどのような行動を取っていたのでしょう。机上のカップ麺は、『焼きそば』、『カレーラーメン』、『担担麺』、『天ぷらそば』、『きつねうどん』、それに、こだわり麺の『醤油ラーメン』の六つでした。その場にいたのは七人――、私と教授、枕崎先輩に竜ヶ水先輩、赤瀬君と青井岳さん、そして、如月君です。
思い出してください。休憩時間にまっ先に机に駆け寄ってカップ麺を選んだのが、誰あろう、当の被害者たる竜ヶ水先輩でした。まあ、七人の性格を考慮すれば、いちばんでしゃばるのは彼ですから、当然予想されるべき行動でもありましたけど。
しかも、この時、竜ヶ水先輩が選んだのは、『カレーラーメン』だったのです。これも、たしかに、想定の範囲内の行動ですね。
その後、残った五つのカップ麺を見ながら教授がどれがいいかなと考え込んだので、他の学生たちは少し遠慮をしましたけど、それを見かねた教授が、赤瀬君に好きなものを取りなさいといいました。すると、枕崎先輩が横からすっと手を出して、『醤油ラーメン』を取りました。続いて、青井岳さんがカップ麺の山に近づいて『天ぷらそば』を選び、そのまま彼女は『きつねうどん』を、これでいいよね、といって赤瀬君に手渡しました。赤瀬君は、青井岳さんの行動には絶対に文句をいいませんから、黙ってそれを受け取りました。
その後で教授が、残った二つとなった『担担麺』と『焼きそば』のカップ麺をちらりと見て、『担担麺』を持っていきました。おそらく、教授は私が辛いものが苦手であることを配慮してくれたんだと思います。こうして、私は最後に残った『焼きそば』を取ることになったのです。
教授が如月君に一瞥をくれて、せっかく来てくれたお客さんにもおやつを差し上げなきゃな、といった時、竜ヶ水先輩が突然大きな声を張り上げます。それは、カップ麺が入れてあったレジ袋の中に割り箸が入っていなかった、という文句でした。たしかに、二つあったレジ袋のいずれにも箸は入っていませんでした。それに対して、枕崎先輩がいいわけをします。でもそれは、たしか買った時にレジで入れてもらったような気がする、というあいまいでちょっと自信なさげな返事でした。待っていましたとばかりに、竜ヶ水先輩の攻撃の矛先が枕崎先輩へと向けられます。まあ、そのくらいなら事は丸く収まっていたと思いますが、竜ヶ水先輩は、つい調子に乗ってしまい、枕崎先輩っていつもこうなんだよな、とみんなに聞こえんばかりの大声で、横に立っていた部外者である如月君に耳打ちをしてしまったから、さあ大変――、あの温厚な枕崎先輩が、ついに切れてしまいました。
あっという間に二人の間で口論が起こってしまい、みんなが困っていると、教授がさっとご自分の部屋に戻られて、割り箸とカップ麺を持ってきてくれました。教授はその場にいた一人一人に割り箸を手渡され、さらに如月君には持ってきたカップ麺を与えました。その時に如月君が受け取ったのは、たしか『とんこつラーメン』でしたよね」
「そうだったね。僕がいつも愛好している典型的カップ型容器に入った『とんこつラーメン』だよ」
それを聞いた千穂は、口に右手を添えてくすくすと笑い出した。
「実は教授はカップ麺のひそかな愛好家だそうですね。だから教授のお部屋にはたくさんの未使用の割り箸があったわけです。本当に助かりましたわ」
「君も知っているように、僕はエコ派なんでね。レジで割り箸をもらっても、なるべく自前の『マイ箸』を使うことにしている。だから、自然に未使用の割り箸が部屋にたまってしまうんだ。さばくのにちょうどいい機会だったよ。
それに、あの二人の口論なんて僕らの研究室では日常茶飯事だからね。いちいちかまってなんかいられないさ」
「枕崎先輩と竜ヶ水先輩の口論は、教授がお箸を持ってきてくれたことで、一旦は収まりましましたけど、枕崎先輩が、竜ヶ水先輩が選んだ『カレーラーメン』を、これは元々自分が食べるつもりで買ってきたものでお前にくれてやるつもりはない、と一言告げて、取り上げてしまいました。単なる子供じみた嫌がらせに過ぎませんが、枕崎先輩にしてみれば、精一杯の仕返しだったのでしょう。先輩風を吹かされて、竜ヶ水先輩も一瞬戸惑っていましたが、それならばと、傍にいた私が手にしている『焼きそば』のカップ麺を奪い取ると、女の子にこの量は多すぎるだろうから取り換えてやるよ、とかなんとか恩着せがましい言葉を唱えて、枕崎先輩から回されたこだわり麺の『醤油ラーメン』を、代わりに私に押しつけました」
「相変わらず無頼な男だな。竜ヶ水君は……」
「そうですね。まあ、いつもの事ですから、別に気にしてはいませんよ。むしろ、どちらかといえば『焼きそば』よりも『醤油ラーメン』の方がありがたかったくらいですから。だから、私は黙って竜ヶ水先輩のわがままに従いました。
かくして、事件の鍵を握る七つのカップ麺が、その場にいた七名の男女に分配されたわけです。
問題の『焼きそば』は竜ヶ水先輩に、『醤油ラーメン』が私に、『担担麺』が教授に、『カレーラーメン』が枕崎先輩に、『きつねうどん』が赤瀬君に、『天ぷらそば』が青井岳さんに、そして、教授が持ってきた『とんこつラーメン』が如月君の手に渡りました。
その後、各自はカップ麺の調理を始めます。
ポットの一番近くに座っていた青井岳さんが気を利かせて、竜ヶ水先輩と赤瀬君、それから如月君のカップ麺に、ポットの中の九十度に湧いたお湯をつぎつぎと注いでくれました。さらに青井岳さん自身のカップ麺にもお湯を注ぎ終えると、ちょうどそこでポットのお湯が切れてしまいました。仕方なく、私と教授、それに枕崎先輩はやかんで急きょお湯を沸かして、そのお湯を使いました。ポットのお湯では、さすがに七人分は持ちませんでしたね。でも、如月君が後になって、自分は薄めのスープが好きなのにポットのお湯がなくなっちゃったと、私たちが沸かしたやかんにわずかに残っていたお湯を、自分のカップ麺に注ぎ足して、嬉しそうに引き下がっていきました」
「竜ヶ水君が使ったポットのお湯は、同時に赤瀬君と青井岳君、如月君も使用したわけだ。ということは、結論として、ポットのお湯の中に毒物が仕込まれた可能性も否定されるね」
「おっしゃる通りです。だからこそ、ますます分からなくなりました。犯人はどうやって毒を仕込んだ『焼きそば』のカップ麺を竜ヶ水先輩に食べさせることに成功したのでしょう?
えっ、私ですか? たしかに、最後に焼きそばを竜ヶ水先輩に手渡したのは私ということになりますけど、あの合間を見計らって毒を容器の中に仕込むなんて芸当、もちろん出来っこありませんよ。
もっとも、仕込めたところで、それを竜ヶ水先輩が後になって私から取り上げてしまうなんて、予想できるわけがないじゃないですか。そんなことなら、前日の深夜に忍び込んで毒を仕込む方がよっぽど簡単です。
それに、繰り返しますけど、私なら『焼きそば』は毒を仕込むカップ麺に選びませんね。理由は先ほど申し上げた通りです。容器内に毒を仕込めても、調理の際にほとんどが流されてしまうのは目に見えているからです」
「つまり、未知なる犯人は、深夜に共同談話室に忍び込むと、わざわざ毒殺目的には一番効率が悪そうな『焼きそば』を選んで毒物を仕込み、さらには、当日に超人的な力を持って、ものの見事に竜ヶ水君に毒を仕込んだ『焼きそば』を手渡して食べさせることに成功したことになる。全く謎だらけだな……」
「ところで、犯行を犯す時には必ず動機があります。犯人の動機はなんだと思いますか?」
「ふん。正直なところ、ここだけの話、竜ヶ水君を嫌っている人物はそこらじゅうにいるよ。
君も含めてね――。
彼は、あまり人間的にできた人物とはいえなかったしね」
ばつが悪そうにしながらも、影待千穂がいい返してきた。
「だからといって、ことは殺人ですよ。それなりの理由があるはずです!」
「でも、犯人は最初から殺すつもりで犯行に及んだのだろうか? 致死量に達しない毒物を仕込んで、竜ヶ水君を懲らしめるだけの目的だったかもしれないぞ」
「懲らしめるですって? これはどう考えても殺意があった犯行です。それに、教授はさっき、私に竜ヶ水先輩を殺す動機があると失礼なことをおっしゃいましたけど、この際はっきりいわせてもらいます。私には彼に対する恨みはあっても、それと殺意とは別物です」
「君の主張はよく分かるよ。そして、犯人が逮捕後に殺意はなかったと証言することと、君が今いった主張は、全く同じ次元であるということもね」
「相変わらず手厳しいですね。まあ、この議論はこの辺りで止めておきましょう。
結局のところ、竜ヶ水先輩が自殺願望を持っていて、自ら仕込んだ毒入りの『焼きそば』を私から取り上げて食べた、なんておかしな説明以外、計画的に竜ヶ水先輩に『焼きそば』を手渡す手段は、陳腐な私の脳みそでは思いつきませんね」
「竜ヶ水君の自殺説だって、わざわざみんながいる場所を選んで服毒自殺するなんて、それ自体が異様な世界だよ」
「まあ、そうです。それにしても、いよいよ困りましたね。いったい犯人はどういう手段を取ったのでしょう?」
「他におかしな行動をとった人物はいなかったのかい?」
「いたら教えてくださいよ。現場にはあなたもいらしたのですから」
「うーん、そうだなあ。調理する前のカップ麺の中に毒を盛るというのは、自然な発想だけど、同時に固定観念に縛られているともいえる気がする。調理後に毒を盛る方法なんて考えられないのかね。
例えばさ、みんなが使う胡椒の瓶の中に毒を仕込んでおくとか? 炭疽菌なんか入れておけば、殺人も可能かもしれないね」
千穂が呆れ顔で首を横に振った。
「炭疽菌を使えば、無差別に他の人も殺してしまうでしょうし、なにより、犯人自身の命も危なくなりますよ。
いずれにせよ、調味料に劇薬を仕込んだとしても、問題点はまだいくらもあります。どうやって被害者にだけにその毒入り調味料を使わせて、毒を飲ませられますか? それに、首尾よくそれに成功したとしても、その後で、調味料の瓶の中に毒物の証拠が残ってしまいますよね」
「その辺は心配ないよ。目的の人物だけに胡椒を使わせたら、みんなの隙を見て、別な瓶とすり替えてしまうのさ。ポケットに別の瓶をしのばせておけば可能だろう? 小さな調味料の瓶ならすり替えることは容易だ。まさか、汁入りのかさばるカップ麺容器ごとをすり替えて、ポケットにしまうわけにはいかないけどね」
教授は自らの冗談に含み笑いをした。
「いいえ、無理ですね。まず、『焼きそば』に胡椒は使わないと思われます。それに、そんな瓶はなかったと思いますよ。ああ、七味唐辛子の瓶はありました。でも、それは蕎麦やうどんのためであって、『焼きそば』には合いませんよね。たしか、赤瀬君が七味唐辛子の瓶を手にして、それを青井岳さんに手渡そうとしましたけど、青井岳さんが、いらない、とあっさり断ったのを覚えています。その時、七味唐辛子の瓶を卓上へ返す赤瀬君のさびしそうな表情がとても印象的でしたね。たしか、竜ヶ水先輩は調味料を使わなかったと思います」
「ならば、『焼きそば』カップ麺に内挿された粉末ソースの袋の中に何らかの方法で毒を仕込んで、その袋だけをすり替えるとか……」
「本末転倒もはなはだしいですね。それならば、容器の中に毒を直接仕込む当初の可能性の方がよっぽど単純明快ですよ」
「しかし、容器の中の毒だと、お湯を捨てた時に流されてしまうことを君は憂いていたじゃないか。粉末ソースに毒を仕込んでおけば、その心配は解消されるよ」
「でも、依然として同じ困難にぶち当たります。犯人はどうやって竜ヶ水先輩が『焼きそば』を食べることを予知できたのでしょうか?
それに、『焼きそば』の粉末ソースが入ったビニール袋の中に毒を仕込むなんて、そもそも出来っこありませんわ。外から仕込むためには、カップの蓋を開けてから、さらに袋を破かなければいけないのですよ。仮にそれが出来たとしても、粉末ソースという少量の袋に仕込んだ毒で人が殺せると思いますか?」
「青酸カリなら、なんとかなるんじゃないかな?」
「駄目ですね。警察の捜査結果によれば、竜ヶ水先輩が飲まされた毒はアルカロイド系の毒物でした。つまり有機物です。人工の無機物であるシアン化合物系の毒物とははっきり区別ができると思いますけど」
「となると、フグ毒とも違うわけだな。でも、トリカブト毒だってアルカロイド系だろう? 致死量だけなら、トリカブト毒はシアン化合物と変わらないと聞いたことがあるぞ」
「そうですか……。アルカロイド系の毒物と一言でいっても種類によってはごく微量で人が殺せるものもあるということですね。これは勉強不足でした」
アルカロイド系毒物の中にわずかな分量で人を死に至らしめるものがあることを知らされた影待千穂は、いくぶん混乱したようだが、すぐに自信に満ちた彼女本来の目つきを取り戻した。
「なるほどね。常に行きつく袋小路はいつも同じ場所だということか……。
『焼きそば』のカップ麺に致死量の毒を仕込むだけなら、誰にでもできたかもしれないが、それを狙った特定の相手に食べさせるとなると、何らかの工夫が必要だ。さらには、なぜ犯人は、仕込んだ毒が効力を発揮できなくなる憂いのある『焼きそば』を、満を持して選んだのか?
ふむ、さっぱり分からんな……」
佐伯教授は投げやり口調でぼそっとつぶやいた。
「あの、今ふと思い付いたことですが……。でもそんなこと、とてもあり得ませんね」
「なんだい? いってみろよ」
「はい、もっともそんな作り話のようなトリックがあれば、ということですけども、数あるアルカロイド系の有機化合物の中に未知の化合物Aがあったとしますね。その化合物Aは、単独で人に飲ませても無害だけど、別の化学物質Bといっしょに組み合わせて飲ませると、猛毒となって人を殺すことができる。もしもそんな都合のいい毒物があれば、話は劇的に変わってきますよ。
犯人は六つのカップ麺の内で、『焼きそば』以外にも、いくつかのカップ麺の中に化合物Aを仕込んでおきます。そうすれば、竜ヶ水先輩に化合物Aを仕込んだカップ麺を手渡せる確率が大きく増えますよね。そして、何らかの手段で、竜ヶ水先輩が選んだ『焼きそば』のカップ麺に、化学物質Bを添加することに成功して、さらに、別の化合物Aを仕込んだカップ麺の中には化学物質Bを投与しなかった。その結果、竜ヶ水先輩だけに服毒症状を引き起こさせた、というわけです。馬鹿げているように思いますけど、こんな可能性ってあり得ませんかね?
ええと、よく分かりませんか? ちょっと舌足らずでしたね。じゃあ、具体的に考えてみましょう。
本来なら殺そうとしている人が一人ですから、六つのカップ麺の中で毒が仕込めるカップ麺も一つだけとなります。間違って関係のない人を殺すわけにはいきませんからね。そして、そのカップ麺を目的の人物に手渡せる可能性は、特に策略もない場合には、6分の1という極めて低い可能性になってしまいます。
ところが、化合物Aと化学物質Bが存在すれば、六つのカップ麺のうちの三つに化合物Aを仕込んでおくことができます。こうなれば目的の人物に化合物Aが仕込まれたカップ麺を手渡せる可能性は6分の3、すなわち確率50%です。その後で、化合物Aを仕込んだ三つのカップ麺のうち、殺す目的の人物のカップ麺だけに、何らかの手段で、化学物質Bを投与すれば、目的の人物だけを殺すことができます」
「ふふふっ、面白いアイディアだね。組み合わせて初めて効力を発揮する毒物か。だけど、そんな都合のいい毒物が本当にあるのかな。僕は専門家じゃないから、さすがにそこまでの知識はないからねえ」
「そうですよね。まるで漫画じみた戯言でした。今のことは忘れてください」
そういうと、影待千穂は陶器人形まがいの愛らしい頬をポッと赤らめた。
「こうなると、残された手掛かりは犯行動機くらいしかありませんね――。
でもその前に、教授は気づかれていましたか? 青井岳さんが竜ヶ水先輩にぞっこんであることを……」
教授が驚いたように目を丸くした。
「えっ、そいつは初耳だな。青井岳君と竜ヶ水君だと年が少し離れ過ぎていないかい?」
「離れているといっても、せいぜい三つか四つくらいです。全然問題にはなりませんよ。ただ、今いった事実はぜひ覚えていてくださいね。これからの議論で重要な鍵を握ってきますから……」