第五話 謎と場所 -1-
以前と鳴り続ける携帯電話。真野が受話ボタンを押して出るまで鳴らし続ける気なのだろうか。言うまでもないが、留守電設定などという高度な設定を真野がしている訳も無く、相手が諦めるまで鳴り続けてしまう。まぁ後は、充電が切れるまでという長期戦もあるにはあるが、それまで鳴り続ける携帯電話を目前にして堪えられるだけの精神力が真野にあればの話だ。
知らない番号が画面に表示されているのをじっと見詰めながら、受話ボタンを押すべきか否かで迷う。
(コイツ……いつまで鳴らし続けるつもりなんだよ。いい加減出ないんだから諦めろよ)
心の中で若干苛立ち始めるのだった。その感情は携帯を持つ手にも異変を齎したのだった。じわ~っと滲む汗が掌を滑り易くしていった。力強く持っていた手が滑っていった瞬間。受話ボタンに指が当たって押してしまう。
「あっ!」
そんな声を咄嗟に出したが、時既に遅しである。今まで鳴らし続けられていた相手と電話が繋がってしまったのだ。
恐々ながらも携帯電話を耳へと持っていき、向こうの様子を伺う。向こう側からは何も聞こえてこなかった。そこで真野が勇気を出して言った。
「もしもし真野ですけど……」
「…………」
やっぱり反応が無かった。ほっと胸を撫で下ろした真野は、電話を耳から離し、切ろうとしたのだった。
「ああっ! ちょっと待って頂けませんか!」
離した電話から微かに聞こえたその声に再び耳へと近付ける。
「あの……どちら様でしょうか?」
「すみません。私、本屋という者ですけど、真野くんの携帯で宜しかったでしょうか?」
「はい……真野ですけど」
「おぉ! 真野くんですか! 元気にしてますかね?」
「あ……はぁ……えっどちら様ですか?」
「いや、だから本屋ですよ。木曜に来てくれた幻逝膏文堂の本屋です」
「幻逝膏文堂!! も、もしかして俺が持っている本が置いてあった所ですか?」
「そうですそうです! んっ? 何か変ですね……真野くん私の事ちゃんと覚えて頂けてますよね?」
「いやぁ……それが何だか記憶がちょっと無いみたいで……」
「う~ん。もしかして真っ白な本を読んでしまった感じでしょうか? ふと目覚めたら本が自分の近くにあって、自分がどうしてたのか分からなくなってしまっている状態ですかね?」
「ど、どうしてその事を? ひょっとして何か知っているんですか?」
「勿論知っていますとも。真野くんがどうしてこんな事になってしまったのかという事も、そのせいで今どんな状況に陥ってしまっているのかという事も全て知っていますよ」
「なら教えて貰えませんか? あと、こうなってしまった事と今朝見た夢に何か関係があるんですか? 夢で起こった出来事が現実でも起こってしまっているんですよ! それに昨日の金曜に俺自身はどうなってしまっていたんですか?」
目の前に突如として現れた全てを知っているという本屋に少し焦り気味に質問を投げ掛けてしまう。
「う~ん。特に教える事に問題は無いですが、電話で教えるにはちょっと大変かもですね。なので、今からお店の方に来て頂いても宜しいでしょうか?」
「はい、大丈夫です!」
「なら、お待ちしていますので気を付けていらして下さい」
「有難う御座います。それで場所は何処になるんでしょうか?」
「はい? 場所と申しますと?」
「あの~場所が分からないと行けないんですけど」
「はははぁ~面白い事を仰いますね! 場所が分からないなんてこれは不意打ち過ぎて呆気に取られてしまいましたよ」
「いやいや別に面白い事を言った訳じゃないですよ。そこの店がある場所を教えて下さいって言ってるだけじゃないですか。場所が分からないのに行ける筈無いじゃないですか」
「でも真野くんは、一度私のお店に来ているんですよ。場所が分かるとか分からないとかそういう以前に自然と足の赴くままに来店されたんです。なら、今回も同じ様に気の向くままに、足の進む方向へと歩いて来られては如何ですか?」
「ちょっと言ってる意味が分かりませんよ。店に来いって言ったのはあなたの方なのに、どうして場所を教えずに勝手に見付けて来いみたいな事を言ってるんですか? 少し失礼じゃないんですか? 一応俺はお客なんですよ?」
「う~ん? どうしてこんなにも親切にお店への行き方を教えてあげてるのに失礼なのでしょうか? 真野くんしか此処までの行き方を知らないんですよ? 自分自身しか知らない考えなのですから、私が知っている訳が無いじゃないですか。それに真野くんはお客様ではないですよ。どちらがどちらに質問をしているのかよく考えなくてはならないですよ。別に私は良いんですよ。真野くんがお店に来ようが来るまいが関係無いのですから。そこのところをよく考えてお店に来て下さい。それでは失礼します」
「えっ! ちょっと待って下さいよ! もしもし! もしも~し!」
一方的に話を終わらせようとする男性に対して真野は焦る様にそう呼び掛けたが、既に電話は切られてしまった後だった。
全く理解出来ない会話の連続にまるで馬鹿にでもされたような気分になった真野は、ベットに向かって携帯を投げた。柔らかい布団の奥へとめり込んでいく。普通こういう時は、壁や窓の外に向かって投げ捨ててしまうものだが、流石に壊れてしまってはいけないという思いが瞬時に浮かんだ為、衝撃が皆無に等しい布団への投擲となった。
部屋の中央にただ立っている状態のまま治まる事のない苛立ちを噛み締める。しかし、『幻逝膏文堂』という場所が思っていた通り本屋だという事は判明した。ただそこに行くまでの道が分からないという、またしても問題が一つ解けた瞬間に次の問題が目の前を塞いでしまった様な状態であった。
(自分自身しか知らない考えってどう意味だよ。ただ店までの行き方を聞いただけなのに、どうしてそんな的外れな答えが返って来るんだよ! 何が親切に道を教えてあげてるだ! そんなんだから誰一人客が来なくて、今にも潰れそうなボロボロの店なんじゃないのか! って、あれ……何で俺、あいつの店がボロボロだって知ってるんだよ。行った事も無ければ見た事も無い筈じゃないか…………行った事あるのか? いや、でもあいつと話した事なんて一度も無い……けど、あいつは俺の事を知った感じで話してたな。ところで何で俺の番号知ってたんだろう? あぁ! 聞くの忘れてた。めっちゃ怪しい奴だったから知られてるって分かったら急に不安になってきた)
自分自身は全く知らない相手だが、相手は自分の事を知っているような感じで話してくる事が実はとても恐ろしいと思えてしまうのだった。今後の生活の中であいつから何かされてしまうんじゃないかと不安が頭を過ぎる。今の状況でも既に不思議過ぎて考えが纏まらない状態なのに更なる出来事が起こってしまうのでは無いかと思えたのだった。
ただ黙々と口を閉ざして色んな事を考えていた真野は、急に壁に掛けていた上着を取ると部屋を飛び出して行く。階段を駆け下りると玄関へと向かって一直線に進み、靴につま先だけを突っ込むとそのままドアを開けて出て行ってしまった。
その様子を後ろ姿として見ていた母親は何も言葉を掛ける事も出来ないくらい一瞬の事の様に思えた。
真野は、行き先も向かう方向も分からないまま兎に角走って行く。この道の先に何があるのかすら予想も出来なかったが、何もせず部屋に篭っているよりかは断然マシだとそう思えたのだった。
木曜と思っていた昨日が金曜だった事とか、見ていた夢と河原が教えてくれた昨日の出来事が同じだった事とか、見覚えの無い本の上に顔を被せて眠っていた事とか、全部疑問だらけで仕方が無いと感じていた。とはいえ、未だに自分にそんな不可思議な出来事が起こってしまったなんて信じられなかったし、意味不明で訳の分からない事しか言ってなかった幻逝膏文堂のあいつが言っていた言葉が信用するに値するかは分からなかったが、今出来る事と言えば、こうしてあいつの言葉を信じて店に辿り着く他無いだろうと思えたのだった。知らない場所に思うがまま、足の赴くまま行くという事がどれ程馬鹿げた事かは考えなくても分かる。だが、不思議と思えるものがあるとするならば、それを紐解く術は常識に捉われてはいけないという事だろう。