第四話 闇と記憶 -4-
自分自身への恥じらいから言葉を言う事が出来なくなった真野の心情を悟ったのか河原が言う。
「ごめんね真野くん……私がちゃんと解読出来てればこんな事にならずに済んだし、真野くんも機嫌を損なわなくて良かったのにね……」
「別に河原のせいじゃないから謝らなくて良いよ。ただ単に俺のミスなんだから……っで、俺のアドレスを何処で知ったの?」
「えっ! 何処で知ったのって……だって昨日真野くんが教えてくれたんだよ。だから私のも教えたよね? 真野くんの携帯に私の番号とアドレスが入っているのは昨日交換したからだよ。憶えてないの?」
(確かに言われてみればメールが届いた時も差出人の名前がちゃんと河原のフルネームで入っていた。ずっと苗字しか知らなかったのにちゃんと名前まで入っていた。これは教えて貰ったという証拠には充分過ぎるじゃないか)
「お、俺が河原と直接交換したのか?」
「そうだよ。学校の下駄箱で交換したんだよ」
(学校の下駄箱!?)
「河原、お前……昨日の金曜に学校で俺と会ったんだよな? 何か可笑しな事は無かったか?」
「別に普通だったと思うよ。けど昨日の出来事があったから、今こうして話が出来る様になれた事を思えば、可笑しな事までとはいかないにしても、いつもとは違っていた事にはなるのかな?」
「出来事……学校で何があったんだよ?」
「えっ、何って……ホームルームの事だよ! 真野くんが私の事を助けてくれたじゃない」
(そういえばさっきのメールにもそんな事が書かれていたよな。俺は河原に感謝されるような事をしたんだろうか?)
疑問に感じる真野。しかし薄々気付き始めていたのだった。河原が話している内容と同じシチュエーションの場面に心当たりがあった。けど、まさかそんな事ある訳が無いと自分自身の考えを否定し続けていた。
口が急に重たくなってしまったような感覚に陥ってしまう。頭の中にある質問を投げ掛ける事で認めたくない現実を受け入れないといけなくなるかも知れないからだ。ただの思い過ごしてあって欲しい、そんな事が実際問題起きる筈が無いのだからと心の中で願いつつ、口を開く。
「ホームルームで……何についての話をしたんだ?」
「さっきから真野くん、少し変だよ? 昨日のホームルームって言ったら卒業前にみんなで何か一緒に出来る事をして最後の思い出作りをしようっていう話だったじゃない」
思わず携帯電話が手から滑り、床に向かって垂直に落下していく。頭の中は、無限に広がる真っ白い闇で覆われたような感覚になってしまった。つい先程、本を下にして眠っていた時に見ていた夢の通りだった。
「真野くん? 突然凄く大きな音がしたけど、何かあったの? ねぇ真野くん?」
床に上向きになった携帯電話の向こうから河原が心配そうに呼び掛けていた。放心状態になりながらも真野は、ゆっくりと拾って耳に当てた。心の中にある不安感がみるみるうちに膨らんでいくのが分かった。それは次第に胸を圧迫する程の苦しみへと変わっていく。一気に最悪な気分になってしまった真野は、呆然とした口調で呟く。
「……まさかそのホームルームで決まった事がクリスマスパーティーじゃないよな?」
「もう~本当に変だよ? 私がクリスマスパーティーをしたいって言ったら、みんなから反対されたじゃない。そこに真野くんが賛成だって言って私の事を庇ってくれたんじゃないの。もしかしてわざと忘れたフリして照れ隠ししてるのかな? 別にそんなに恥ずかしがらなくても凄く格好良かったんだからね! 今までの真野くんの印象が一気に変わったって感じだったよ。それに……」
「もう止めてくれ! 別にわざと忘れたフリなんてしてる訳じゃねぇよ! 照れるも何もそんな事したなんて自分自身じゃ分かってねぇんだから! それにもしかしたらそれは俺じゃない可能性だってある訳だし、現実に起こった出来事だなんて思ってなかった訳だし……」
何がどうなっているのか全く理解する事が出来なかった真野は、つい感情のままに電話の向こうに居る河原を怒鳴りつけてしまった。
真野の態度が急変してしまった事が自分の言葉のせいだと感じた河原は声を詰まらせながら謝罪した。
「ご、ごめんね……真野くん。私そんなつもりで言ったんじゃないんだよ。別にからかった訳じゃないんだよ。でも、昨日話す様になったばかりなのに、少し慣れ慣れし過ぎたかな? ごめんね……普通に話してるからって私は真野くんの友達じゃないもんね。ただのクラスメイトなのに出過ぎた事を言ってしまって本当にごめんなさい」
「あ……そういう訳じゃ……」
「でも、せめてクリスマスパーティーの実行委員だけは辞めるなんて言わずに一緒にやってくれたら嬉しいです。それじゃごめんね。また学校でね」
寂しそうな声でそう言うと電話は切れた。感情が爆発してしまったとは言え、真野は酷い事を言ってしまったと後悔が胸を締め付けた。
携帯電話を床に静かに置くと、頭を抱える様な体勢になり、自分自身を戒めた。
(やっぱり俺は誰とも話さない方が良かったんだ。今まで通り口を閉ざしていれば自分自身が傷付く事も無かったし、相手を……河原の事をこんなにも悲しませる事も無かったのに……どうして言葉を交わしてしまったんだろう……)
過ちを犯してしまった事を悔やむ真野だったが、不可抗力だった事も確かなのだ。何故なら実際にこんな状況になってしまった河原と最初に言葉を交わしたのは夢の中だったのだから。自分の意識がある中で夢を見るというのはあるかも知れないが、流石に自由自在に出来る訳では無い。潜在的に考えている事が夢となって脳内に映し出されている訳なのだ。人間がコントロール出来るとしてもほんの一部に過ぎない事になる。だが、しかし真野の頭の中で見ていた夢が現実に起こっていた事だとすると、どういう解釈になってしまうのだろうか? 超常現象でも此処までの事態には発展しないだろう。何故なら丸一日の出来事が全て夢で見ていた事になる訳なのだから。無心状態で人間の身体が動き回る事など有り得るのだろうか?
真野は、全身の力が抜けた様に無気力状態になっていた。そのまま顔を上げ、立ち上がると机の前にあった椅子に腰を掛けた。
学校のクラスメイトの誰もが人に無関心で、自分の事さえ良ければ他人がどうなろうと関係無い。勝手我儘な思想集団と言えるだろう。勿論、中には河原の様な普通の生徒も居るが、どちらかと言うと河原みたいなのが稀であろう。ならば、真野はどうなのかと言えばきっと勝手我儘な思想集団の中でも一番自己中心的だと言えるだろう。他の者は、自己中と言えども多少也とも他人とのコミュニケーションはある。それが『おはよう』『じゃあ』などと端的な言葉だとしても言葉に変わりは無いのだから。しかし真野は、自分の殻に閉じ篭り一切の他人を寄せ付けはしなかった。それが簡単な挨拶だとしても拒絶し続けていた。ふいに目が合うという事すらも絶対に無い様に真野は、誰とも目が合う事の無い黒板の一点だけを見続けていた。これ程、人に対して興味を持つ事すらなかった真野が河原と電話で話したりなど奇跡に近かった。こうなってしまったのも、そもそもあの夢でありながら現実であるという現象が起きてしまったからなのである。
何も考える事が出来なくなった真野がふいに机の上に手を乗せる。いつもなら腕に冷たい木の感触が伝わってくる筈だが、実際に伝わってきたのは開かれた本の感触。すると真野は、疑問に思う。
(そう言えばどうして俺は、本の上に顔を乗せたまま眠ってしまっていたんだろう? これも記憶が無い間にしてしまった事なのだろうか? それにしても一体何の本なんだろうか? 全く読む事が出来ないぞ……)
数枚捲ってみるが、びっしりと書き込まれた文字だけであった。勿論机の上に置かれている状況から真野自身の私物と思ってしまうかも知れないが、一切真野は見覚えが無かった。っと言うより本自体をあまり好んで読まないのだ。寧ろ文字ばかりの本など頭が痛くなってしまい兼ねないのだ。先程から文字という風に決め付けた言い方をしているが、正直文字と言ってしまって良いものなのかも分からなかった。英語、フランス語、中国語、ギリシャ語、何れも当てはまる文字とは言い難かった。勿論日本語とは程遠いイメージである。何が書かれているかも分からない本の上に頭を乗せていたなんて一体どういう状況であると説明出来るだろうか。出来る訳が無いのである。当の本人すらも理解出来ない状況なのだから。奇妙を通り越して不気味過ぎると言ってしまう他無いだろう。
ゆっくりと捲っていた真野だったが、次第に捲るスピードが上がっていく。何かしらの手掛かりを探そうとしているのだ。
(見覚えの無い本が此処にあるという事はきっと俺が何処かから持って来たんだ。なら、何処にあったかのヒントだけでも見付かれば、どうしてこんな事になったのか原因を突き止める事が出来る筈だ)
ひたすら手を動かし右から左へと半円を描く様にページを移動させていく。しかし、どれだけ捲ろうとも読めない文字だけが敷き詰められている。そして最後のページを捲り終わった時、やっと読む事の出来る文字を発見する――
『幻逝膏文堂』
最終ページに小さく印字されているその文字は正直な所、何という読みなのか疑問を憶えざるを得なかったというべきであろうか。こういう組み合わせの漢字がこの世に存在するのかと疑問さえ感じてしまいそうであった。
しかし、真野はどうしてなのかこの文字に見覚えがあった。理由は分からない。何時何処で見たかと聞かれれば分からないという言葉でしか返す事が出来ないだろう。
手掛かりを探そうとしていたが、既に壁にぶち当たってしまった。最終ページには、これだけしか書かれていなかった。手に入れる事が出来た情報は、『幻逝膏文堂』という店なのか分からない名前と真野自身に見覚えがあるという事だけだった。
本をパタンと閉じ、大きく息を吐いた。これだけではどうしようも出来ない事は火を見るよりも明らかである。
椅子から立ち上がるとベットに倒れ込む。結局は分かる事は何も無かったのだった。うつ伏せの体をゴロンと返し、仰向けになると頭の下で手を組んだ。
(ただの俺の勘違いなのだろうか……昨日の金曜もごく普通に過ごしてたのに突然記憶が無くなってしまっただけ……本当にそれだけなのか? 今までこんな毎日に疑問を感じた事なんて無かったのになぁ~……一度病院に行って脳内を診て貰った方が良さそうだな)
自分の中で納得がいった訳ではなかったが、記憶障害と片付けてしまうしかなかった。これ以上思い悩んだとしても何一つ解決するどころが、ズルズルと泥沼に引き摺り込まれてしまうと考えたからだ。別に可笑しな事なんて最初から無かったのだと思い込むしか解決方法が見付からなかったのだ。
今の今まで悩んでいた事を悩まない様にした事で真野の気分は楽になった。嫌な事からは逃げるに限る。そう心で思うのだった。しかし、何の前触れも無く携帯が鳴り始める。無論、河原しか知らない番号だから河原が掛けてきたんだと当たり前の様に思った真野は、携帯電話まで行くと画面を開くが、一瞬躊躇してしまう。河原の名前が表示されていなかったのだ。いや、表示はされていたという方が正しいだろう。ただ、名前の代わりに番号だった。つまり真野の携帯に登録されていない番号から掛かってきたのだ。勿論番号を知り合っているのは河原だけなのだから、登録されているのは河原の番号のみという事になる。それと同じ様に真野の番号を知っているのは河原一人しか居ないという事にもなるのだ。それじゃ今、携帯に掛けてきている相手は一体何処の誰なのだ。まさか河原が先程の真野が放った感情剥き出しの言葉によって傷付き、落ち込み、憎しみを抱いて誰かれ構わず番号を公に公開してしまったという暴挙に及んだ訳では無いだろう。それならこの電話の相手は誰なのだろうか?