第二十一話 雪と現実 -5-
「本屋さんの言う通りですよ。あの女の子がこの路地に入って行くのを見掛け、気になってしまい同じ様に路地に入って行ったら、此処に辿り着いてしまったんです」
「う~んうん。やっぱり心を奪われてしまったのですね!」
「いえ! それは違いますから。そういう意味で気になった訳じゃないですから」
「まぁそういう事にしておいてあげますよ。ところでずっと気になっていたんですけど、真野くんって心に深い傷を持っていらっしゃいますね。一体どうされたんです? しかもその傷のせいで自分自身の本心を言えないようになっているじゃないですか」
急に何を言われたのか理解出来なかった。いや、理解は出来たが、分かろうとしなかったと言うべきであろうか。心の奥に出来た傷が癒える事は無いにしろ、出来るだけ考えないようにと、出来るだけ思い出さないようにとしていたのだったが、本屋の言葉によって傷の上を再び抉られたような感覚に陥ってしまった。
「何なんですか……何を言ってるんですか……あなたに……あなたに関係無い事じゃないですか。止めて下さい……これ以上何も言わないで下さい……折角思い出さないようにする事が出来る様になったんです……」
「確かに真野くんにとってはデリケートな部分だとは思うんですが、それによって自分自身が壊れ始めているように感じますよ」
「何を知ったような事を言ってるんですか? 俺の何を知っていると言うんですか?」
「う~ん。別に何も知らないですよ。ですが、人が無理に傷を押さえ込もうとしている事は不思議と分かってしまうんです。真野くんはとっても幸せな人生を送っていらっしゃいますね」
「何が幸せなんですか? 幸せなんて何処にも無いですよ! 俺が居る事でみんなに迷惑が掛かってしまっているんです。俺がみんなを不幸にしているんですよ。人なんて関わらない方が自分の身の為なんです。俺に関わらない方がみんなの為なんです。両親も俺が殺したようなものですよ。あんな雪が降っている日に出掛けたいなんて言わなければ……昔両親と三人で行った山の上にあるイルミネーションを観に行きたいだなんて言わなかったらあんな事にはならなかったのに……」
「自分で自分の事を責めるのは良くないですよ。両親に関しての事は私には何も言う事は出来ませんし、言う権利も無いと思います。しかし、いつまでも自分の殻に閉じ篭って今居る大切な人達すらもその悲しみに巻き込んでしまって良いとは思いません。きっとそれは両親も望んでる事では無いでしょうかね。今すべき事は傷に対して罪悪感を持つ事じゃなく、傷がある事を認める事じゃないでしょうか。真野くん自身がそれを乗り越える勇気があると言うなら私は真野くんに一つの提案をさせて頂きたいです」
そう言うと真野の前にしゃがみ込んで同じ目線になると再び話を続けた。
「その提案と言うのはこの本を読むという簡単な事なんですが、本が大嫌いな真野くんにとっては凄く苦痛の事になるかも知れませんね。ですが、本当の言葉を言う事が出来ない、つまり真野くんの中から文字が無くなってしまっているという事です。本には色々な表現が詰まっていて、感情すらもそこにはあるのですよ。一文字一文字その目で確認していく事によって真野くんの中に文字が作られていくのです。それは真野くん自身が失ってしまったものを補ってくれる筈です。特別な本。真野くんが失ってしまったものが一冊の本として形になったのですよ。これを真野くんが今の自分を乗り越える糧にして頂きたいと思っています」
手に持った真っ白な本を目の前に差し出した本屋だった。しかし膝に手を置いて前屈みになって震えている真野。立っているのがやっとの状態であった。すると差し出していた本を引っ込めると、真野の顔辺りに一枚のメモを差し出してきた。しかし、顔を伏せたまま反応を見せずに居ると、本屋は制服の胸ポケットにそのメモを折り畳んで入れたのだった。
「すぐに決断は難しいと思われますから、よく考えた末に答えを出してみて下さい。きっと私は真野くんの力になって差し上げたいと思っています。因みにあそこで本を読んでいる彼女も抱えているものは違えど、真野くんと同じような立場に居るんです。でも、彼女は自分を変えようと必死に頑張ってくれています。だから私も微力ながら力をお貸ししているのです。この世に変えられないものなどありませんよ。必要なのは変えたいと思う気持ちと踏み出す勇気です。次にお会い出来る時を心よりお待ちしております」
軽く肩に手を置くと真野の前から去って行き、建物の中に入って行った。辛うじて立っていた真野だったが、膝を地面に付けてしまうのだった。暫くその状態のままであったが、本屋がふと窓から外を見た時に真野の姿は無くなっていたのだった。
「真野くんどうですか? 最初に此処に来た時の事は思い出されましたか?」
瞼に覆い被せていた手を退かしながら本屋が言った。ずっと忘れていたと言うよりも、失っていた記憶が蘇ってきた真野はあの時のように震えていた。
「こんな事があったんですね……ずっと自分の心の傷を触れてしまわない様にワザと失ってしまったものとしていたんですね。でも、どうして本屋さんはあの時、あんな細かい事まで知っていたんですか?」
「何度も言いますが、私はあくまでもその人その人を見ている訳ですから、実際には何も知らないも同然なのです。ですが、困った人、傷付いた人、そして真野くんみたいに自分自身を壊そうとしている人には、やはりそれなりのシグナルが出ているんですよ。私はそのシグナルを感じ取っているだけに過ぎないんです。何も知らない、何も分からない、けど、気付いてあげられる事が出来るんです。人間なんて本当は傷付き易くて脆い生き物だって誰かも歌っていませんでしたかね。事実そうだと思いますよ。だから人は必ず助け合って生きていかないといけないんです。私はお節介なりに自分に出来る事をやろうとしているだけですが、それで真野くんみたいな人を救えるなら本望なんですよ」
記憶を失っていたにしろ、今までずっと本屋の事を怪しい人物としか捉える事が出来ていなかった。それは記憶を失う前にしても同じ様な事が言えてしまうのだが、こうして本心を知る事が出来、または失った部分の記憶を蘇らせた事で本屋自身がどんな気持ちで真野や同じ様な境遇の人に接してきたのかを知る事が出来たのだった。
「本屋さん……俺、何か勘違いしてた自分が恥ずかしく思えます。記憶が蘇る前に最初に会った印象は最悪でしたから。今日だって初めは強い言葉を投げられて正直、人の事を苛めるのが趣味なのかなって思った部分もありました。だけど違っていたんですね。とても良い人だったんですね」
変な思い込みをしてしまっていた自分の事を恥ずかしく感じながら、思った事を本屋に伝えていく真野だった。しかし、そんな言葉を言われているにも関わらず本屋は険しい表情をしていた。
「それはまだ分かりませんよ真野くん。私は会った時からずっと言っているように罪を償うのが当たり前だという意見は変わっていませんよ。此処までは真野くんが幻逝膏文堂に来るまで、そして私と出会った時の記憶を蘇らせて貰いました。しかし、本当の目的はこんな事じゃないですよね? どうして真野くんが夢として見た事が『幻実世界』で起こってしまったのか? 白い本が真野くんの手元にあったのかでしたよね? さぁ続きの記憶を蘇らせてみて下さい」
「この続きですか……えっと……俺は来た路地を戻って行き、家に向かって帰りました」
「本当に帰ったんですか?」
「……帰って行ってたんですが、やっぱり途中で気になり胸ポケットに入っていたメモを広げて見たんです。『いつでも気になった時、連絡して下さい』と本屋さんがメッセージと電話番号を書いてくれてました。だから俺はすぐ電話したんです。だけど、もう帰ってしまったのか本屋さんは出ませんでした」
「それで諦めて帰ったんですか?」
「いえ……帰らずに幻逝膏文堂に引き返したんです。そうしたら既に電気は消えており、中には本屋さんの姿も見当たりませんでした。でも、一応呼んでみたんですけど、やっぱり返事は返って来なくて……」
「それでやっと諦める事が出来たのですか?」
「諦めたんです……諦めて帰ろうとしたんですけど、ふいに手がドアに触れた瞬間、開いたんですドアが……だから……だから……」
「勝手に中に入った?」
「……はい。ドアが開いたのを良い事に中に入って行きました。そして――」
「そして探した。私が持っていた本を」
「別にそんなつもりは無かったんです。ただどんなものなのかという興味で」
「今はそんな事はどうでも良いんです。記憶を蘇らせていく事に集中して下さい」
「中に入ったものの凄く薄暗くて何が何処にあるのかさえ分からずに奥へ奥へと入って行ったんです。そうしたら奥の本棚に置いてあったんです。何冊かの白い本が……きっとどれでも一緒だと思った俺は一番左側にあった本を手に取り鞄の中に入れて持って帰ったんです」
「そして家に帰った真野くんは、机に座って本を読み始めたという訳ですね」
「はい……」
「因みにその本が一体何だったのか分かりますか?」
「それは……未だにどういったものなのかは分からないままです。でもきっと俺が見てはいけない本だったんだと思います」
「確かにそれは真野くんが読むべき本ではありませんでした。同じ本のように見えても中身やその意味は全く違ったものだったのです。真野くんが本来見るべき本は言葉の力を受ける為のものだったのです。しかし、間違って持って行ってしまった本に込められていたものは、願いを叶える力が込められていた本だったのです。しかも同じ本を違う人間が読むと力に対しての混乱が生じてしまうのです。その生じてしまった混乱によって一体どうなるか真野くんには分かりますか?」
「今回の事を考えると同じ『幻実世界』を見る事によって片方の叶えたい願いに引き込まれてしまうような気がするんですが……」
「まぁ、強ち間違いでは無いですが、今回起こってしまった事を例に挙げるならば、真野くんは記憶を一時的に失ってしまっていましたね。これはゆっくり考えて思い出す事が出来れば何の問題も無いかも知れません。しかし、片方がそんな小さな障害で済んだとすればもう片方には――」
「本屋さん! それくらいで真野くんの事を許してあげて下さい!!」
それまでずっと口を閉ざしていた河原が突然何を思ったのか、急に立ち上がり大声で本屋の言葉を止めた。話し声が途切れてしまった幻逝膏文堂の中には静寂な時が流れた。きっと咄嗟に出てしまった声だったのであろう。気まずそうに俯くとゆっくりと椅子に腰を下ろして言った。




