第十九話 雪と現実 -3-
厳しい眼差しをずっと向けていた本屋は、ふいに河原の表情を伺った。すると河原はこの状況に相応しく無い程の無邪気な笑顔を見せて言った。
「本屋さん有難う御座います。でも、私はもう大丈夫ですから、これ以上真野くんの事を責めないであげて下さい。元はと言えば私が真野くんに此処に来るのを見付かってしまった事から始まってしまったんですから、原因の一部は私のせいでもあります。だから今は真野くんの事を助けてあげて下さい。お願いします!」
「良いんですか? それじゃ河原さんが……」
「私なら大丈夫です。本当の現実では無かったにしても、私が経験した事は紛れも無い事実なんですから。それに……憧れていた事も出来ましたし、気になっていた事もちゃんと解決出来ましたから」
「そうですか。河原さんがそう仰るなら私は何も言う事は出来ませんからね……」
一体何の話をしているのか全く理解出来ずにいる真野は困惑の表情を浮かべながら恐る恐る質問をした。
「あの……どういう事なんですか? 俺にも分かるように説明して貰えませんか?」
すると再び真野の方に顔を向けた本屋の表情はいつもの優しい顔に戻っていたのだった。
「う~ん。真野くんは気にしないで大丈夫ですよ。此方側の話なので。あと、真野くんの事を少し苛め過ぎてしまったみたいですね。それは申し訳ありませんでした。今の真野くんには一体何の事なのか分かる筈が無いのについつい言い過ぎてしまいました。それではまずは、一番真野くん自身が知りたがっている記憶の失われた部分を思い出して頂くとしましょう」
「いえいえ……全て俺の責任なので責められてしまっても仕方無い事だと思っていますから。記憶の失われた部分って金曜の事ですよね?」
「う~ん。正確に言えば木曜の学校終わりの放課後からとなるでしょうね。真野くんが初めて此処、幻逝膏文堂を訪れて来た時からの記憶です」
「木曜から俺の記憶は失われてたんですか? でも、ちゃんと授業や家に帰った記憶はちゃんとあるんですよ」
「それは所謂作られている記憶に過ぎないんですよ。先程から記憶が失われてるという表現をしてますが、実際には失った部分を補修するように別の記憶が作られていたんですよ。真野くん自身に都合の良いようにね」
「僕の都合の良いようにですか……」
「そんな顔をしなくても大丈夫ですよ。今のは別に責めて言った訳じゃないんですから。人間誰しも都合の悪い記憶というのは忘れてしまいたいものなんですからね。だから、自分から見て良い解釈に置き換えられて記憶されていくものなのです。これは普通に行われる事なので真野くんが特別悪いなんて思わないですよ」
「はぁ……そういうものなんですか?」
「うんうん。そういうものです。だけどですねぇ、失われた記憶、つまり言っている通り忘れたい程、自分にとって疾しい記憶って事になりますから、それを思い出してしまうという事は真野くんにとって凄く都合の悪い事になってしまうのです。それでも大丈夫でしょうか?」
「都合の悪い記憶……ですか? でも、本当に起こった事実を知る為には避けられない事ですから俺は大丈夫です」
「なら良かったです。とは言え、嫌でも思い出して貰わないと困る事ですからね。正直なところ、今の質問に対しての真野くんの答えは決まっていたという訳です」
ついさっきのような緊迫した空気からは脱したとはいえ、未だに本屋からの言葉に棘があるように感じてしまう。
「じゃあ真野くん。木曜の学校終わりから記憶を辿っていきましょう。目を閉じてゆっくりと思い出してみて下さい」
言われるがまま、真野は目を閉じた。すると伸びてきた手によって覆い被されると真っ暗闇となってしまう。
普段と変わる事無く、何時も通りの時間にホームルームが終わると教室から生徒達が次々に帰って行く。口々に話し声が聞こえてくるのだった。
「マジ面倒臭いよ! クラス全員で何かイベントをしようだなんて馬鹿げているにも程があるよね!」
「明日の放課後までに考えておかないといけないなんて、どっちかというより考えたくないって感じ」
「っていうか絶対冬休みとかにやらされるよねぇ~」
「もう既に予定なんて埋まってるに決まってんじゃん!」
夢の中で行われていたホームルームの議題は前日から決まっていた事だったらしい。クラス全員に何がしたいかを考えておくようにと教師は言い伝えるとホームルームを終えたのだった。
教室の中に居た生徒の大半は帰宅の途についていたが、未だに真野は教室の机に座り、ただじっと一点を見詰めていた。
(最後にみんなでか……誰もそんな事を喜んで盛り上げようなんて考えている奴が居る訳無いのに……本当に学校って無駄な事をさせるのが好きだよな……)
誰の姿も見当たらなくなってから、やっと真野は鞄を持ち立ち上がった。そして教室を後にした。
どうして誰も居なくなった頃合を見計らっていたのかと言うと、すぐに教室を出て行ってしまえば他の生徒達と同じように帰る羽目になってしまうからであった。一斉に帰宅の途につく生徒達が作り出す人混みを避ける為だったのだ。
階段を下りて下駄箱まで向かって行くと、予想通り帰宅する者は帰宅した後であり、部活をしている者はそれぞれの場所に行ってしまった後だった。つまり嵐が過ぎ、静寂となっていたのだった。誰も居ない事で少し安心すると靴に履き替え、学校を後にした。
通い慣れた道をただただ歩いて帰っていた真野だったが、ふいに俯かせていた顔を上げると空を見た。
(段々寒くなってきたし、今年も雪が降ってしまうのかな? 雪は嫌いだ……全てが真っ白に染まってしまっているのを見ると思い出したくない事を無理矢理にでも思い出してしまう……)
頭の中に浮かんだ嫌な事をかき消すかの様に頭を左右に振ると、顔を再び下げていく。顔と一緒に視線も一緒に下げていくと、正面に向けたところで急に止めたのだった。
真っ直ぐ延びた道の所々にある細い路地に誰か入って行ったように見えたのだ。しかし、その路地と言うのは人が好んで通るような綺麗な道では無かった。太陽の光さえ遮ってしまう高く聳えた塀によって薄暗く、不気味な雰囲気が漂う。そんな道なのだ。
常識から考えて誰もそんな道を通りたいとは思わないし、路地の向こう側に用事があったとするなら、態々遠回りをして行く方がまともな考えと言えるだろう。
当たり前の様に誰も通る筈が無いとする真野は、自分の見間違いであったと思うのだった。それでも見間違いで無かったとするならば、飼い主に愛想尽かされてしまった野良犬か自由気ままに歩き回っている猫だったのだろうと考えた。
何にしても真野の自宅はこの道の先にある訳で、自然とその路地の前を通り掛らないといけなかった。何本もある路地の横を通る度に横目で見た。やはり人が歩けるような場所では無い事は明らかであった。そして問題の路地の前を通る。
予想通りの薄暗く不気味な雰囲気は漂っていたが、これまで見てきた路地の中では割と綺麗な方に属しただろう。しかも、道幅も人一人なら通られるくらいであった。
(まさかな……でも、服を着ていたようにも見えたような……路地に消えていく瞬間ヒラッとしたようにも見えたような……ヒラッて事はスカートなのか? じゃあ女の子って事になるのか? 男の俺でも通るのに躊躇ってしまいそうなのに、よりにもよって女の子が入って行ったりするのだろうか? まさかそんな事……ある訳無いよな……)
疑問しか浮かんで来なかった。自分が見たものは一体何だったのかさえ分からなくなってしまっていた。




