第十七話 雪と現実 -1-
一階へと向かう階段を一歩一歩ゆっくりと下りて行き、愛実と同じく母親も起こさないように静かに玄関のドアを開けて外に出て行く。
既に場所は分かっている事もあり、落ち着いた足取りで幻逝膏文堂に向かう。吐息は白く宙を舞い、大きく広がっては消えていった。まだ秋の気配を若干残していた季節もすっかり冬へと移り変わった事が分かった。
上着のポケットに手を突っ込み、体を縮めながらどうにか寒さを堪えていた真野だったが、目の前に現れた自動販売機を見付けると急に早足になってしまう。そして財布を取り出し、お金を入れてボタンを押す。静まり返った街にガタンという缶が落ちる音が響き渡った。缶を取り出す為に自動販売機に付いているカバーを押し上げると中から出てきたのはミルクティーであった。空気との温度差があった為に素手で持つ事が熱かったのか袖を伸ばした左手で缶を持つと右手でタブを起こして開けると一口ゴクリと飲む。
(う~あったけぇ~。これだけ寒いと何か温かい物でも飲みながらじゃないと無理だな。それに起きてからすぐに家を出たから、何も飲まず食わずじゃ話も集中して聞けないと思うしな。それにもしかしてまた自慢のコーヒーが出て来るんじゃねぇのかな? 昨日は一口も飲まずに帰ってしまったけど、普通汗を掻いてる人間に出す物じゃねぇよな。それに正直、俺ってコーヒーが苦手なんだよなぁ……今日も出されたらなんて断れば良いんだろう? また走って汗を掻いておいた方が良いのか? いや、これだけ寒いのに走って体を温めてしまったら、冷えた時に確実に風邪をひいてしまうぞ。まぁ、適当に誤魔化してしまえば良いだけの話か。もし、それでもダメだったら河原に助けて貰えば良いかぁ)
真野がコーヒー飲めないという豆知識にもならない事実が判明した頃には幻逝膏文堂へと続く路地前までやって来ていた。
(此処に来るのも二回目か……しかも連日で来る羽目になるなんて。でも、実質的には三回目になるんだよなぁ~。俺自身は覚えて無いけど、本当に初めて来た時も含めたらそうなるんだよな。しかし、何でこんな場所に来ようと思ったんだろう? 本に興味が全く無い俺が態々来ないといけないような理由があったとしか思えない。全ては本屋さんが知っていて教えてくれるから別にこんな所に立ち止まって考える必要なんて無いんだろうけど……ちょっと緊張するな……そういえばさっき河原に助けて貰えば良いかなんて考えていたけど、ぶっちゃけ河原はこの事について関係無いんだから一緒に話を聞く必要は無いんだよな。昨日はたまたまバイトをしていたから居たっていうだけだもん。第一、早朝のこんな時間から居る筈が無い)
昨日と同じ様に河原も一緒に居てくれると何処かで思っていたところがあった。しかし、良く考えてみるとこの問題には河原は無関係だという事に気付いてしまった真野は何処かしら寂しさを滲ませたのであった。
路地へと足を踏み入れると、奥へ奥へと進んで行く。相変わらず薄暗い雰囲気が漂っていて不気味さを感じてしまう。きっと衛生面にしてもあまり良いとは言えないであろう。
若干昨日よりも長く感じてしまった路地を間も無く抜けるというところで真野はふと思った。
(今、冷静に考えてみたんだけど、早く自分に起こった出来事の話を聞きたいという事ばかり考えてしまっていて、こんな早朝に来てしまったけど店が開いている訳が無いよな。それに本屋さんが此処に住んでいるとは限らないし……無駄足になってしまったかな?)
そんな思いから、少しばかり踏み出す足に気弱さを感じてしまったが、何とか路地から出た真野の目の前には昨日と同じ様に本屋が店の前に立って待っていたのだった。
「これはこれは真野くん。待っていましたよ。それにしても寒いですねぇ~。一体何が起こってしまったというんですか? もう少し真野くんの到着が遅れてしまっていたなら、私の体は凍ってしまい、永久保存状態になってしまうところでしたよ」
「いや……何で外で待ってるんですか? それに寒いのは当たり前じゃないですか。カレンダーを見れば一目瞭然に分かるくらい冬真っ只中ですよ。確かに昨日まで肌寒い程度でしたけど、それは昼間の話であって、早朝ともなれば薄っすらと氷がバケツの水の表面に張ってしまうんですから。そんな薄着じゃ寒いですよ! あと、こんな日本の片隅では凍死はあっても凍ってしまって保存状態になる事は有り得ないですからね!」
そう言われてしまった本屋の格好は、素肌にワイシャツ一枚の格好であった。しかも、胸のボタン必要以上に開けている『胸開け』の状態であった。
「う~ん。部屋に居た時のままの格好で出てきてしまったのが不味かったようですね。しかし、そうなってしまったのも一刻も早く会いたかったからですよ。真野くんと同じ様にです。今って冬だったのですか? だからやけに寒いと思っていましたよ。私の勝手な勘違いだと思い込んでしまっていたので、事実を知る事が出来て良かったです。そうれはそうと……日本では私の体は永久保存されないのですか……ガッカリデスヨ」
「季節観念が無いってどうかと思いますよ……寒い事を勘違いだと思えるなんて、どれだけ自分の意思が弱いんですか? 殻に閉じ篭っている状態と同じですよ。早く出て来て下さい! 殻を破って世界へ飛び出して来て下さい! あと、何でいきなり海外目線からの意見なんですか? 片言になってるし!?」
言葉の投げ掛け合い状態になっていた二人だったが、急に本屋が口を閉じた。そして相変わらずの笑った顔をして真野の事をじっと見詰めていた。
真野は、先程の遣り取りの中で敢えて触れなかった言葉について質問をした。
「本屋さんは、俺がこの時間に来る事を知っていたんですか? 一刻も早く話を聞きたいと思い、此処に来る事を把握していたのですか?」
「う~ん。此処へは来てくれるだろうとは思っていましたが、こんな早朝に来るなんて事は知りませんでしたよ。ただ、たまたま私が今日この時間に幻逝膏文堂に来ていて、たまたま真野くんが来る様な気がして外に出ていたというだけの話ですよ。偶然なんて日常には有り触れているんですから特に驚く事じゃありませんよ。まぁ、もう一つのたまたまがあるようですがね」
「そんな簡単な言葉なんかで説明出来ちゃう事なんですかね? 確かに偶然ってあったりしますけど、こんなにも沢山の事が重なるなんて事有り得るんですかね?」
「人なんてそんなものですよ。街で行き交っている人にしても、全く違う場所で生まれ、全く違う場所で育ったのに無数とある道の中でも一つの道を選んですれ違ってしまう。これもたまたまがたまたま重なって出来た偶然と言えるんじゃないでしょうか。真野くんはちょっと考え過ぎなところがありますね。もっと肩の力を抜いて楽に生きていった方が良いですよ」
「まぁ、言われてみればそういう風にも考えられなくも無いですけど……あまりにも安易に考え過ぎのような……ところで、もう一つのたまたまって一体何の事なんですか?」
「兎に角、店の中に入ってから話をしませんか? こんな所で立ち話をしていると体の感覚が無くなってしまいそうです。しかも、元々立ち話をしに来た訳では無いんでしょ? さぁ、どうぞ中へ」
家を出てから時間が経ち、少しは日の光も強くなってきているとはいえ、そんな簡単に気温が上がる訳も無いのだ。正直、寒さで足が震えてしまっている状態であった真野にとってその言葉は願っても無い程有難かった
店のドアに手を掛けて開くと、体を横にして中へと入るように促してくれるままに真野は店へと足を踏み入れた。するとそこには既に椅子に座って待っている河原の姿があったのだ。
「おはよう真野くん!」
そこに居るのがまるで当たり前の事の様に笑顔で答える河原。学校の教室に登校して来た真野に対して声を掛けるかのようにとても自然だった。




