第十五話 光と過去 -3-
閉めたドアの前からベットに向かって歩き出そうとした真野はふいに違和感を覚えた。
(そういえばドアを閉めてから妹が自分の部屋に戻って行ったような音が聞こえてこなかったような……ただ単に俺が考え事をしていたから聞き逃してしまっただけなのだろうか? いや、そんな周りの音が聞こえないくらいに深く考え事をしていた訳じゃない。なら、ちゃんと妹は自分の部屋に戻って行ったのだろうか?)
ベットに向かって踏み出そうとしていた足を元に戻すと、再びドアノブを掴んでゆっくりと回し始めるのだった。そして恐る恐るドアを開くと真野は、安心した。
(やっぱり居なくなってた。って事は俺がただ聞き逃しただけだったんだな。良かったぁ! これで心置きなく眠れるぜ)
無事に妹が居なくなっていた事に胸を撫で下ろし、ドアを閉めようとした時だった。ドア横の壁に背を凭れ掛からせて座っている妹が居た。
「お前っこんな所で何やってんだよ! どうして自分の部屋に戻ろうとしないんだよ? 幾ら家の中だって言っても廊下に居たら風邪ひいてしまうぞ!」
小さく座っていた妹は見上げるように真野を見てきた。その表情は、とても不安を感じているようだった。うっすらと涙も浮かべながら妹は小さく呟く様に言った。
「お兄……ちゃん。ごめんね」
「どうしたんだよ? 一体何があったんだ? 別に謝られるような事をされた覚えは無いぞ」
「私……邪魔だよね? お兄ちゃんに迷惑ばかり掛けちゃうから嫌われても仕方無いんだけど……それでも私はお兄ちゃんが大好きだよ」
さっぱり状況が飲み込めない真野は、困惑の表情を浮かべてしまう。だが、その場にしゃがみ込んだ真野は、妹の頭へと手を差し伸べると撫で始める。
「邪魔なんて思ったりしないよ。それに迷惑だなんて思ったりもしてない。さっきなかなか部屋に戻ろうとしなかったのは、これを言おうとしていたからなのか? 別に自分自身をそんな風に思って胸を苦しめなくても良いだぞ」
「うん……だけど……お兄ちゃんは優しいから自分の気持ちを我慢していると思う。本当は私の事を嫌っていても、そうじゃないって言ってると思う……」
「嫌いだなんて……思っていないよ。きっとこの気持ちの中に嫌いなんて無いんだ。寧ろ大好きで溢れているくらいだよ」
「本当に?」
「本当だよ! 最初からお前を……愛実の事を大好きだったんだ。それは俺がこの家に来た時から変わらずに持ち続けていた本当の気持ちだったんだな。愛実の言う通り、俺は我慢していたのかも知れない。人の気持ちに触れる事についての我慢を……」
愛実の頭を撫でていた手を止めると、真野は表面上ではなく心から笑顔を浮かべると
「久し振りに一緒に寝るか?」
その言葉を待っていたかのように愛実も笑顔を溢して大きく頷いて答える。
「うん! 一緒に寝たい!」
「じゃあ、自分の部屋から枕を持って来いよ」
「分かった。ちょっと待ってて!」
壁に凭れ掛からせていた体を起こし、立ち上がると愛実は自分の部屋に入って行った。そして、間も無く部屋から出てきた愛実の手には枕と小さなパンダのぬいぐるみがあった。真野はそのぬいぐるみに見覚えがあった。
「持って来たよ! 一緒に寝よ寝よ!」
「あぁ! じゃあ中に入って良いぞ」
真野はそう言うとドアノブを持ったまま体を横すると、愛実は走るようにしてベットの上に飛び乗った。
持っていたドアノブを引いてドアを閉めると真野もベットに向かう。
「お兄ちゃんは右側だから愛実は左側で寝るんだぞ」
「えぇ、私右側が良い」
「そ、そっか? じゃあ右側で寝るならお兄ちゃんは左側で寝るよ」
「えぇ、それなら私は左側が良い」
「…………一体どうしたいんだよ?」
「えへへっごめんなさい。じゃあ左側で寝るね」
とても嬉しそうな表情を浮かべていた。こんな他愛も無い会話を兄と出来る事を幸せに感じていたのだった。
今まで何も気付いていない様に愛実は振舞っていたが、兄の態度を一番敏感に感じていたに違い無い。ふいに投げ掛けられる言葉の中にある自分に対する感情を読み取っていたのだった。幼いなりに気付いていたのだ。自分の事を嫌っている事に――だからこそ兄に好かれよとするあまり執拗以上の行動と取ってしまっていたのだ。
ベットの中に入ると、真野は部屋の電気を消した。いつも一人で寝ている時には感じる事は無かったが、誰かが隣に居てくれる事がこんなにも温かく安心出来るものなんだと感じたのだった。確かに一人で自由に寝られるスペースは無いとしても、この窮屈さが逆に良く感じてしまう。
さっきまで眠っていた真野は、すっかり目が冴えてしまっていた。真っ暗な天井を見上げながら、明日の事を考えていた。
(自分の為とはいえ、明日もう一度幻逝膏文堂に行くべきなのだろうか? 別に俺自身に何か異変が起きている訳じゃないし、今のままで充分良いと思ってる。考えてみれば俺の人生、得に何事も無く平穏無事に過ごしてきたけど、逆に言えば何一つ思い出らしい思い出も無いのも事実なんだよな……まぁ、それは自分自身が誰とも関係を持とうとしなかったし、一人で過ごすようにしてきたからなんだとは思うんだけど……でも、たった二日間なのに不思議な事が起こり、それによって人と交流する事なんて無かった俺が誰かとメールや電話で話す様になったり、知らないおっさんに意味不明な事を言われたりして……結局未だに意味は分からずじまいなんだけどな。これはこれで良いのかもって思えている訳だから、無理して明日行く必要なんて無いんじゃないのかな……)
意外と今の状況も悪くないと感じてしまう真野だった。何が切っ掛けで変わってしまったのかは未だに分からないままだったが、それは別に知らなくても差し障り無いんじゃないかと思うのだった。
明かりを消したばかりの時には気付かなかったが、カーテンの隙間から優しい光が入って来ていた。それは微かではあったが、部屋の中が分かるくらいの明るさだった。この辺りには街灯が無い為、その明かりが何によって齎されたものなのかは大体検討がついてしまう。
――今夜は満月であった。




